「シンジ、そろそろ行くわよ」
「行くって、どこに」
放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。
「あんたばか?エヴァのハーモニクステストでしょう、今日は」
「あ、そうだったっけ」
シンジはスマホのスケジューラーを見て、予定を確認した。確かにエヴァの試験の予定が、ネルフの担当者の手で入れられている。アスカがその確認行動を見咎めた。
「……あんた、自分の彼女の言うことが信用出来ないの?」
「か、彼女って……」
「彼女でしょうが。実際、この前みんなの前で堂々と宣言したものね」
シンジはまだ馴れないのだが、二十日ほど前のアスカの誕生日の日、想いを伝え合い、あの赤い浜辺に至るサードインパクト絡みの恨みつらみを一応は乗り越えて、二人は彼氏彼女になったのだった。
もちろん、乗り越えた事柄の重さは二人の中では一生残る。二人ともそれを忘れることはないだろう。だが、アスカとシンジはそれでも一緒に居続ける事を選んだのだ。
その翌朝、アスカはホームルーム前に、無理やりシンジを引っ張って、一緒に教壇の上に上がると、高らかに宣言した。
「Guten Morgen、皆の衆、今日はみんなに知って貰いたい事があるのよ。ほらみんな、こいつ……碇シンジくんに注目ぅ~」
「あ、あの、アスカ……」
何事かと、ざわめくクラスメートたちを前にアスカは、腕を絡められて顔を真っ赤にしているシンジに注目を集める。
「……シンジのこと、みんな冴えない根暗なボンクラ男子だと思ってるだろうけど、昨日からこいつあたしの彼氏になったから。だからサードインパクトの件で色々と遺恨もあるだろうけど、今後はこいつへの悪口はあたしへの悪口と同じ。よく覚えておいて」
そう宣言するアスカの顔はいつの間にかシンジ以上に紅潮していた。耳の先まで真っ赤になっている。
「あと男子たち、あたしへのラブレターも禁止! こいつが焼き餅妬くからね」
どよめき騒然とし、女子は突然降って湧いた恋バナに黄色い歓声を上げる。そんなクラスメートを前に、アスカがふんぞり返って教壇を下りると、シンジはむしろ冷静になって、腕を絡められたままアスカの耳元で囁いた。
「アスカでもやっぱり恥ずかしがるんだ、こういうの」
「……当たり前よ。平然としてたら、あんたへの気持ちなんてそんな程度のものだったのかって事になる。だから、あんたはあたしの赤面に感謝すべきなのよ!」
熱の引かない顔で柳眉を逆立てアスカが言うのは殆ど照れ隠しだというのは、シンジにもよく分かっていた。
「うん、そうだね……ありがとう、アスカ」
赤面に感謝しろというのはアスカらしいムチャな口振りだったけれど、シンジはそれになぜだか安心していた。
アスカはこうでなくっちゃ。
なぜかそんな風に、シンジには思えるのだ。
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「だって、こないだもアスカはそう言ったけど、本当はエヴァの試験なんかなかったじゃないか……」
アスカの誕生日のあの日のやりとりを色々と思い出しながら、シンジは言った。確か、あの日はネルフに行くと言って連れ出され、実際には赤い海のあの浜辺に連れて行かれたのだった。
「あれはあたしがあんたの彼女になる前の話。でも今はもう違う。あたしは彼氏になったシンジには嘘をつかないよ」
「か、彼氏とか彼女とか、さっきから声が大きいよ、アスカ……」
目許を紅く染めたシンジがボソボソと呟く。確かにアスカとシンジのやりとりは周囲のクラスメイトたちから注目を集めていた。普段なら早々に撤退を始める放課後の教室に、妙に多くの生徒が残っているのはそのせいだろう。
学校で一番の美少女に、そこそこ整った顔立ちで密かに女子ファンがいなくもない少年。エヴァパイロットとかサードインパクトにまつわる劇的な前歴もあって、この高校で一番注目を集める二人の色恋沙汰だけに、周囲はまるで物語の主人公とヒロインを見守るような関心を注いでいた。一つにはサードインパクトでは物的な被害が大きい代わりに、比較的、人的被害は軽微だったということもあるだろう。
「あんたは他人の視線を気にしすぎ。どうせ他人なんて一時の関係で、今は仲が良かったり、そこでの関係や立場が重大事に思えても、いずれ時の経過で否応なく関わり合いがなくなる。それを寂しくないとは言わないよ、でもそれはしょうがないんだよ。……だけど、あんたとあたしの関係はそうじゃない」
そこでようやく声を低めて、アスカはシンジの耳に口を寄せて囁く。
「あんたとあたしはまだキス止まりだけど、いずれは少しずつステップアップしていく。絆を深めていく。他人ではなくなっていくのよ。嬉しいでしょ?」
「うん……そりゃ嬉しいよ……でも」
「でも?」
アスカはかたちの良い細い眉を顰めて、シンジの言葉を待つ。
「……でも、少しだけ怖い」
「あのねぇ、あんたは乙女か!……行き着く所まで行ったとしても、あんたに何か痛みでもあるの?行為の結果として、お腹が膨らんだりするのかな?ん?」
アスカは言いながら、シンジのシャツの上から、椅子と机の僅かな隙間に収まっているペタンコの腹をペシペシと叩く。
「ご、ごめん。そういう物理的な話じゃなくて、メンタル的な話だったんだけど……でも確かにアスカは余計に不安だよね。メンタルに加えて、女の子は身体の事があるんだから」
「そうだよ。怖いなんてシンジじゃなくてあたしの台詞だよ……だって女の子はひとたび男の子とそういうことをしたら、きっと物理的にも色々痛いし、キズモノになってしまうんだ。今時そんなの、気にしなくてもっていう子もいるけれど、あたしは気にする。あたしは古風な女なんだ。だから、そうなったらシンジに絶対に貰ってもらわないと困る」
男と較べて、少しだけ女の子は
「……僕、そこまでは考えてなかった」
「だったら、よく考えて。時間はまだたっぷりあるんだから」
そういうことをじっくり考える時間が、思春期であるに違いない。大人になったらもうそんな事を考えている時間はないのだから。
◆
ネルフへと向かう街路の木々はすっかり葉を落として見るからに寒々しい。
ピーコートを着たアスカは、ダッフルコートの中で冬の寒さに身をこごめるシンジが自分から少し離れて歩いていて、よそよそしいのにすぐ気が付いた。
「さっきの教室でのやり取り……ちょっとクスリが効き過ぎた?あたしはシンジにあたしとのこと、将来のこと、真剣に考えてほしいと思ってるだけだよ。シンジに避けられたいと思ってる訳じゃない」
「うん、それはそうなんだろうけど……」
「だったら、手ぐらい繋ごうとか、そういう積極性は見せてもいいんじゃない?男なんだから」
「……うん、でも」
シンジは毛糸の紫色の手袋をした自分の手を立ち止まって見つめていた。アスカの首を絞めた手がその手袋の下にはある。
「手、繋ごうよ」
アスカが再び促した。シンジの考えている事が何か伝わったのだろうか、溜め息を付きながら、続ける。
「過去よりも明日だよ。あたしの名前はアスカ、明日の香りでアスカだ。亡くなったママが子供の頃に、そういう意味だって教えてくれた。だから迷っても前を向いて歩けって言われてる気がしてる」
「明日香か。ホントにいい名前だよね……」
「ありがと」
シンジはアスカにそっと近付いた。手袋をしたままの片手を差し出す、おそるおそる……。赤い手袋をしたアスカは何も言わずにそっとその手を握った。
しばらく、二人並んで手を繋いだまま無言で歩いていた。アスカはまるで明日の予定を相談するかのように、気負いのない声で言った。
「あのさ、シンジ。初体験……高校のうちにしようよ」
「アスカ……」
「焦らなくてもいい、だけどあたしはシンジと二人で関係をステップアップしていきたい。一歩ずつ、でも着実に、昨日や今日と違う明日に進まなくちゃ。ね?」
シンジの顔は少し未知の事象に対する怯えの色を映す。それを見て、アスカも片眉を上げる。
「怖い?あたしとそういう事をするのが」
「……そうだね。やっぱり少し怖い。アスカより怖がってたら、また怒られるだろうけど」
アスカを己のマスターベーションの対象にしていたのに、いざとなるとシンジはアスカと向き合うのが不安だった。
だって、それがアスカとの関係を決定的に変えてしまう確信がある。キスをしたり、手を繋いだりするのとは違う。
シンジがかつて誰とも結んだことのない、二人だけで閉じた、重い関係の行く末をシンジはまだ上手く想像出来ない。
「ま、男もしんどいわよね。大して強くもない癖に、強がって生きていかなくちゃ行けないんだから。責任だって重い。だけど、女はそういう男の生き方をちゃんと見てる。少なくともあたしのようにいい女はね。……だから、せいぜい頑張りなさいよ」
突き放すようなアスカの態度はだがしかし、シンジに自ら一歩踏み出す事を求めている。そうであるに違いなかった。
◆
エヴァ模擬体内に収められたエントリープラグの中で、シンジとアスカは映像通信で会話していた。プラグ内に満たされたLCLの中に完全に浸かりながら、苦もなく会話出来ている。
ハーモニクステストの間は特に何もする事がない場合が多く、二人は会話で時間を潰すしかない。そういう意味では慣れっこになっている時間ではあった。人との会話が基本的には苦手なシンジだが、アスカとの会話は苦痛ではなかった。厳密にはシンジが苦手なのは人との会話ではなく、むしろ会話が途切れる空白の沈黙で、お互いに話題を探して、それが見当たらなかった場合の気まずさなどが特に苦しいのだ。
だが、シンジのどんな言葉にも、当意即妙の反応を返してくるアスカは、空白の沈黙を殆ど作らない。たまに沈黙を返す場合もあからさまに不機嫌な態度だったりして、彼女が無言でも必ず何らかの返事をしてくれている事が分かるのだ。だからアスカは一緒に話をしていて楽しい異性だった。クラスメイトの男子たちが、アスカを気位が高く、話しかけるハードルも高そうな相手だと思うのは完全な誤解だとシンジは思っている。みんな、アスカと友達になればきっと楽しいのに……と思うのだ。でも、そうなったらシンジは自分が焼き餅を妬くに違いないとも自覚していた。
「はぁ、今日もハーモニクステストかぁ。データ収集の為とはいえ、ここ一週間ずっとこれじゃない。退屈なのよね、あんたもいい加減飽きてきたでしょ?」
「そうだね……」
エヴァに纏わる日々のテストや訓練は、もちろん巨大な汎用人型兵器などと無縁に生きる人々にとっては非日常であるのだが、シンジたちにとってはどちらかと言えば日常側に属する。その退屈と緊張感の弛緩は、これまでは、都度、使徒の襲来という非日常の極北的な事象によって打ち破られてきた。だが、シンジにはそれがもはや到来しないのではないかという平凡な予測と期待があった。命を賭けた戦いが二度と訪れないのならそれは無論のこと歓迎すべきだと思う。しかしもしその予測が正しいのならば、僕とアスカはこの先、どうすればいいのだろう。そして、どうなっていくのだろう。
「ねぇアスカ。僕たち、いつまでエヴァに乗り続けなくちゃいけないんだろう。もう補完計画は発動しないし、使徒だってもう出現しないんじゃないのかな?」
「さあね。でも、治に居て乱を忘れず、汝平和を欲さば戦への備えをせよ……昔から洋の東西を問わず、くどいほど言われてる事じゃない。いくら使徒がいなくなったって、これだけの巨大武装組織をいきなり解体して、力の真空状態を作り出す訳にはいかないわよ」
ネルフ本部への戦自による侵攻という先の本部決戦は言うに及ばず、米国や欧州、中国といった各国のネルフ支部も本部と一枚岩ではない。極端な話、エヴァを巡っての争乱だってこの先、巻き起こる恐れが無いわけではなかった。まさに人間の敵は人間というわけだ。
「エヴァは十四歳でないと乗れないと最初は思っていた。でも、なんだか関係ないみたいだよね」
と、シンジは小首を傾げた。シンジもアスカももう十六歳なのだ。すると、アスカはぶんぶんと首を横に振った。
「それは適性年齢だから、一応関係はあるのよ。あたしたちが年を重ねるとどんどんエヴァとのシンクロ率が下がっていく。今、マヤがシンクロナイザーっていう補正装置を開発してるらしいし、十代の間はなんとか乗れるらしいけどね」
技術開発部で故赤木リツコ博士の衣鉢を継いだ伊吹マヤ曰く、シンクロナイザーはダミープラグの並列意識ポンピング技術の応用ということで、それ以上の詳しい説明を聞いたわけではないが、アスカには何となくその動作原理が理解できた。要するにダミープラグの技術を応用し、操縦者の意識をコピーして並列化して走らせれば、その中で最もエヴァとのシンクロに適した意識を随時、選ぶことが出来る。
つまり、サイコロを振って6が出る確率は六分の一に過ぎないが、複数のサイコロを振って、その中から最適な結果を拾うようにすれば、飛躍的にシンクロ率は安定する、大ざっぱにはそういう事だろう。
「でも、その後はどうするんだろう……」
シンジもアスカもいずれは十代を超えて、大人になっていく。永遠に少年少女ではいられるはずもなかった。
「噂では、綾波タイプのクローンの四体目以降を製造するっていう話らしいわよ。あたしはマヤから聞いたんだけど、あんたのお父さんの代わりに司令に繰り上がったミサトが決めたみたい。コードネームでカトル、サンク、シスだったかな。三体は作るって話らしいから、そうしたらあたしたちもようやくお役御免かもね」
「綾波をまた?……それも三人も」
「しかも一人はロリらしい」
「えっ」
アスカは悪戯っぽい顔で、シンジの反応を探る。想像通りに当惑している顔に、それ以外の感情が含まれていないと感じ取って、アスカは安心する。シンジのやつが、マザコンの上にロリコンだったら、目も当てられないもの……。
「成長途上で培養漕から取り出して、あえて他の綾波レイとシンクロ率のピークを迎える時期をずらすんだってさ。ほんっとえげつないこと考えるわよね、ミサトは……人類の明るい未来の為には、児童虐待なんて構ってられないというわけよね」
本部決戦時に、エヴァ搭乗前の碇シンジを銃撃から庇って重傷を負ったミサトだったが、生死の境をさ迷った末に一命を取り留めた。碇ゲンドウが死に、冬月コウゾウが隠退した今、ナンバー3だった葛城ミサトはネルフの司令に成りおおせていた。
「ミサトさん、家にいるときも笑わなくなった」
「権道、覇道、修羅の道を歩むと決めたとき、ミサトはもう昔のミサトではなくなったのかもね……」
この会話がモニターされており、司令のミサトにもしっかり聞かれているだろうと知りながら、アスカはあえてそう話している。アスカは今のミサトの事が好きではない。しかし以前のミサトに対してはそうでもなかった。
「でもさ、綾波レイが復活したら、シンジはまた会えるのが嬉しい?あんたのお母さんなんだもんね」
「……あ、綾波は母さんとは違うよ。綾波が僕を産んだんじゃないんだし……でも、もう以前とは同じような気持ちでは向き合えないと思う。今の気持ちは、親戚の女の子みたいな感じだよ」
アスカの挑発性豊かな質問に、シンジは首を振った。それで嫉妬混じりの気持ちが醒めたのか、アスカもぽつりと呟いた。
「あたしはクローンでも何でもいいから、ママにまた会いたいな」
「アスカ……」
それは偽り無いアスカの本音の一つだったが、シンジにも何と返して良いのか分からないほど、寂しげな本音だった。とはいえ、アスカも湿っぽい話をしたいわけではない。涙混じりのLCLなど、口にしたくもないのだ。だから、アスカは気分を変え、冗談めかして、シンジにifの質問をする。
「ねぇシンジ。もしも綾波レイみたいにあたしもクローンだったらどうする?それか、あたしを元にして、クローンが作られたりしたらさ……あんたはどんな風に思うんだろう?」
シンジはちょっと考え込んでいたが、やがて微笑んで言った。
「クローンとかはどうでもいいな、人間に違いはないんだから。綾波レイは僕に大切なことを教えてくれた人だ。絶対に何かの部品とかじゃない……でも、アスカはアスカだけだよ。僕にとってアスカは、今話してる惣流・アスカ・ラングレーだけだ。代わりなんて居ないし、誰にも代われないよ。もしそんな子たちがいたとしても、その子たちはアスカとはやっぱり違う子だと思う。……きっとその子たちもいい子で、可愛いとは思うけど」
「ばか……」
シンジの回答はアスカにとって満点だった。クローンをどこまでも人間として扱う。だけれどもクローンでは決してオリジナルである本人の代わりにはなれない。それぞれがどこまでも別人なのだ。そういうまともな人間として当たり前の感覚が、シンジにはあって、その父、碇ゲンドウにはなかった。そしてそれこそが──その人間的感覚の相違ないし欠如こそが、全ての世界的悲劇の原因だったのだ。だから、親子というのも不思議なものだ。これもまた遺伝子の半分を受け継ぎながら、明らかに別人、他者なのだから。
それから程なくして、ハーモニクステストは終わった。作戦室から強化ガラス越しに模擬体を見下ろす冷たい視線は、ネルフ司令葛城ミサトのものだったが、もちろん、シンジとアスカにはその視線に気付く由もなかった。
◆
ネルフから帰るとき、アスカは行きとは違う街中を通って帰ろうと言い出した。夕方の街の通りはすっかりクリスマスムードだった。帰路で出会う商店街の木々は、今度は葉を落とした寒そうな街路樹ではなく、プラスチック製の常緑樹だった。
青々とした作り物のもみの木に、白い綿で出来た溶けない雪で飾り付けられたツリーは、サードインパクトによる地軸再転倒で四季が戻ってきた日本では特に若者の間で、ちょっとしたブームになっていた。何しろセカンドインパクト後の世代は、一昨年まで常夏のクリスマスしか知らなかったのだ。だから、柄物の流行の意匠がホワイトクリスマス柄だったりする、どこかチグハグなブームまで起こっている。
「そっか、明日はWeihnachtenだものね」
「ヴァイナハテン?それってクリスマスの事?」
今日は十二月二十四日。だからシンジにもすぐに思い当たった。
「そう、ドイツ語ではそう言うの。Frohe Weihnachtenでメリークリスマスよ」
「フローエ ヴァイナハテンか……なんだか難しいね」
「まあ、慣れよ慣れ」
「でも、アスカと出逢わなかったら、こんな単語一生知らなかったかも知れないや」
「人と人の出逢いは、世界を広げるのよね。だからサードインパクトの後、世界が元に戻ってあたしは良かった。シンジもそうでしょ?」
「……うん」
店頭などに飾られているツリーはセカンドインパクト前から倉庫にでもしまい込んでいたのかと思われるような古いものがチラホラ目に付く。きっと常夏の世界には似合わないクリスマスツリーを、しかし、いつかは季節が戻ってくる事を切なくも信じて大切にしまい込んできたのだろう。二十億人もの人々が亡くなったとされるセカンドインパクトだ。きっと古びたツリーを捨てられなかった理由の多くは、そのツリーに笑顔を見せた、今はもう帰らない愛しい人たちの思い出が染み付いているからなのかも知れなかった。
しかし、それら古びたツリーが目立つのも今冬ぐらいまでの現象かも知れない。復興景気が本格化し、来年の今頃は成長意欲旺盛な商魂逞しい人々によって新品のツリーが盛んに売りに出され、やがては毎年のように繰り返されるある意味では平凡な年中行事に変わっていくのだろう。セカンドインパクトの傷跡や記憶が世代交代もあって既に風化しつつあるように、サードインパクトだって、いずれ確実にそうなっていく。
「コートを初めて買ってはしゃいだり、ホワイトクリスマスに感激したり、……でもそんなのも今だけの事だわ」
「うん……」
「中学生がキスに大騒ぎしたり、高校生が初体験を焦ったりも同じ。その時、騒いでも後から振り返ったら、そんな事で……という思い出になるわよ、きっと」
セカンドインパクトの結果、地軸の傾きのなくなった世界で、シンジとアスカは出逢って最初の数ヶ月を過ごした。日本ではずっと夏で、アスカが来日したのは9月だったから、そんなに違和感もなかったけれど、今はサードインパクトを経て地軸の傾きは戻り、ようやく冬らしい冬になっている。だからアスカはあのシンジと共に過ごした僅かな常夏の季節が、今では何となく夢の中の出来事のようにも感じられていた。
「みんな、思い出になるのかな」
「うん。……だって考えても見なさいよ。あたしたちの親もそのまた親も、みんな何とか異性の相手を見つけてヤることヤったから、あたしたちが今ここに存在している。あたしたちはまだ子供だから、異性とのこと、すごく高い壁があるように感じて不安でいっぱいだけど、大人になって振り返ってみたら、何であんな事で焦ったり、憎しみあったり、悩んだりしたのか、きっと分からないぐらい当たり前の事になってしまうんだと思う。キスも……その先にする事も、何もかも。あたしたちにとっての恋や愛の一大イベントが──悩んで苦しんで一歩ずつおずおずと進んだ事が、大人にとってはありふれた日常に変わる。キスもセックスもきっと未来のあたしたちにとっては、当たり前に毎日のようにする事になるんだ」
だからといって、そのありふれた日常がつまらなくなるわけではないだろう。毎日ご飯を食べられるのが幸せなら、きっと欲しいものが毎日のように傍にある日常もまた幸せであるに違いない。
だけど、今この瞬間の感覚や感性は今だけのものだ。大人になったら永遠に喪われてしまう瑞々しい喜びと哀しみ。アスカは今この時だけに感じられる若々しい気持ちでそういう事に向き合いたい。
「セ……。女の子がその言葉を言うの、初めて聞いた」
シンジは驚きながらもなぜか感動したように呟いて、赤面した。それもまた、世界を知るという事なのだろう。綺麗事だけでない世界の有りようだ。
「女子だって、女子同士の間では普通にセックスと言うわよ。もちろん、経験したことのある女子はまだ少数派。でも、いずれはあたしもその子たちもみんな大人になっていく。男の子たちのこと、みんな気になってるんだ。……あたしもシンジの事をずっと気にしている」
そして、アスカはちょうど差しかかった狭い脇に入る路地を指差した。
「今夜は聖夜だ。この国ではなぜか男と女がつがう晩になっているみたいよね?」
アスカは挑発するようにシンジを見て口の端を吊り上げる。彼女が指差した路地の先にいくつもあるのは、そういう目的の為のホテルだ。宿泊だけでなく休憩という料金表示のあるプレートが淫靡で生々しい。
「アスカ……」
「ふふん、まあお子ちゃまのシンジには、そこまで求めないわよ。じっくりゆっくりやって行けばいい……」
鼻で笑って、シンジの意気地の無さに安心するようにアスカはきびすを返そうとする。
初体験は高校のうちに、シンジにそうは言ってみたものの、それはあくまでもこの三年間のうちのいつかにということだ。もちろん、それは今日ではなかった。
「……っ」
しかし、アスカは自分の身体が腕を組んだシンジに引きずられ、勝手に路地の奥に進んでいるのに気付いた。
「シ、シンジ……」
「アスカはいつもいつも、僕のことを子供扱いする。でも僕だって男なんだよ」
「ちょ、ちょっと。目が恐いんだけど」
「挑発したのは、アスカだろ!」
シンジが大きな声で怒鳴り、アスカはビクッとする。その顔に明確な怯えがあった。
「こ、こんなのは、イヤだ……イヤだよ、シンジ」
そのアスカの拒否の言葉と、その言葉に湿った響きが明確に交じっているのを聞き取って、ようやくシンジも正気に戻った。アスカは泣きそうになっている。慌てて、腕をほどいた。
「ご、ごめん……」
「女の子は割れ物だから、大切に扱って欲しいって言ったじゃないか!あたしはこんなに綺麗で、大人になったら美人になるの確定なんだから、ちゃんと我が儘を聞いて、褒めて、優しくして、頭を撫でて、ずっと一生、お姫様みたいに扱ってくれなくちゃイヤだよ、シンジ!」
蒼い瞳を潤ませて、アスカはシンジに叫ぶように言った。
「……あたしが女を武器にして一方的な主張してシンジを振り回しているの、もちろん分かってるよ。でも、あたしは女だから、やっぱり女扱いされたいんだ!それじゃ男は損してると思うかも知れないし、不公平だとか自分勝手だと腹も立つかも知れないけど、でもいつか、あたしはあたしを全部シンジにあげるんだよ!だから、そうしてくれたっていいじゃないか。お姫様扱いしてくれるのは、王子様の役目なんだよ!」
「アスカ……」
シンジは先ほど腕から放したアスカの手を、もう一度今度はそっと羽毛を掴むように、指の先で握った。
「ごめん、アスカのこと、ちゃんと割れ物として扱う。傷つけるような事はしない。さっきは頭に血が上っちゃったんだ……本当にごめん」
それで、アスカも落ち着きを取り戻す。さっきまでのシンジはアスカの知らないシンジだった。知りたくもないシンジだった。でも、今ここにいて謝ってくれているシンジはいつものアスカのよく知っているシンジだった。その事にアスカは安心する。
「……ううん、あたしもシンジのことを散々に煽ったり、先に進めと言ったりしてたのに。でもね、シンジに前に進んで欲しいけど、強引なのはイヤなの。あくまでも二人で一緒に前に進みたいの。よく相談しながら、ね。こういう気持ち、分かるかな。勢いじゃイヤなんだ。こんなのあたしがシンジに求めてる男らしさじゃないよ。そんなのじゃ、結ばれたって却って不安になる」
「……分かるよ、僕がバカだった。またアスカに酷いことをしてしまうかも知れなかった」
シンジは自分の不甲斐なさと弱さに俯き、ほぞを噛んだ。
「でも煽ったのはあたしだから。ホテルが恐いなら、まだそんな気持ちにはなれないのなら、あんな事を言わなければ良かった。あたしはまだまだ子供で、きっといつだってシンジに甘えてるんだ。……ほんと面倒くさい女でしょ、あたし」
「面倒くさいかも知れないけど、でもそこが可愛いよ。アスカを大切にしたい。今日みたいな事はもうしない。アスカは僕の宝物だから毎日愛でて、磨いて、声を掛けて、割れ物のように大事にする」
「シンジ……それじゃあたし、陶磁器だよ」
アスカは呆れて苦笑した。しかし、シンジはあくまでも真剣で、アスカへの言葉をまるで誓いに変えて捧げるように空を見上げた。
いつの間にか日が落ちて、夜空に一番星が輝いている。西の夜空に輝くその明るい星をアスカも見上げて、感心するように言った。
「あれはきっと、ベツレヘムの星ね」
「ベツレヘム?」
「イエス様がお生まれになった場所。東方の三賢者が西の空に輝く見慣れない明るい星を見つけて、救世主の誕生を知ったの。クリスマスツリーのてっぺんにある星はそれを模したものなのよ」
アスカはシンジに手を差し出した。
「あたしたちもあの星を見上げながら、帰ろう。まだここに来るのは早すぎた。でもあたしを欲しがってくれてありがとう、シンジ。シンジはやっぱり男だったんだね」
「うん……僕は男だよ」
シンジはアスカの手を握った。白く柔らかい手と、淡黄色のそれなりに固さを感じさせる手が繋がり、結ばれる。手の色や柔らかさのように、男と女は何から何まで違う。きっとそんなにも余りにも違うから、愛おしいのだ。
「シンジが男だってこと、いつか、あたしはそれをちゃんと知る事になる。あたしはそのいつかを楽しみにしているから、シンジももう少しだけ待っててね」
「わかった……僕はちゃんと待つ。アスカの事を守りながら待つから」
「うんありがとう、シンジ」
路地を離れて、アスカとシンジは再び家路を辿り始める。いまだ葛城ミサトを保護者として住む三人の家、コンフォート17に向かって。
シンジは思った。──日付が変わったら、すぐにアスカに「フローエ ヴァイナハテン」と言おう。僕のドイツ語の発音はどこまでも拙くて、それでも、そんな拙さの中に宿る僕の気持ちを伝えたかった。アスカといつまでも一緒にいられて、一つ屋根の下で暮らせて、そんな環境だから、日付が変わったらすぐにでも記念日のお祝いの言葉を投げかけられる。ずっとずっとアスカとそんな関係で居られる事の方が、今すぐに男と女の関係になろうとしてすべてを壊してしまうより、遥かに大切なんだ、その事がようやく分かったのだ、と。
そして、きっと、アスカはシンジの言葉に、綺麗な声と発音でこう応えてくれることだろう。
──Frohe Weihnachten!