季節の中のアスカとシンジ   作:しゅとるむ

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Valentinstag

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

「あんたばか? ヒカリと待ち合わせだって言ってたでしょう、今日は」

「あ、そうだったね……」

 

 確かに一昨日の夜、そんな事を言われていた。

 

 それで二人連れ立って下校し、街に出ると、店先にチラホラと明るい色の装飾が表れている。

 

 ──二月十四日、愛と平和のバレンタイン

 

 そんな惹句が二人の目を惹いた。今日はバレンタインの四日前、二月十日金曜日だ。

 

「しかし、この国の連中って、つくづく脳天気よねえ。……何が愛と平和よ」

「でもあれって平和って言ってるのは、やっぱりバレンタイン休戦臨時条約の事があるからなんでしょ?」

 

 大質量隕石の落下と公式には欺瞞されているセカンドインパクトが起こったのが二〇〇〇年の九月十三日、南極大陸のマーカム山の大爆発による津波と氷の溶解、急激な海面上昇で北半球諸国が大きく被害を蒙る中、二日後の九月十五日、インドとパキスタンの国境での難民同士の衝突を皮切りに、世界各地で軍事衝突が始まった。

 

 それがようやく収束したのが、翌二〇〇一年の二月十四日。シンジが生まれる四か月前、アスカが生まれる十か月前になるが、バレンタイン休戦臨時条約が結ばれ、世界的紛争は一段落したのだった。この辺りの歴史は、現在の世界の状況に直結する話だけに、シンジたちも中学の授業で細かく教わっている。

 

「勿論そんなのは分かってるわよ。でも、あのセカンドインパクト後の紛争でどれだけの人間が死んだと思ってるんだか。日本だって、東京に新型爆弾を落とされて五十万人も死んだんでしょ? よくもまあバレンタインとか浮かれてられるわよね」

「でも亡くなったのは戦争中だし、バレンタイン条約で平和を取り戻したんだから。お祭り気分も、少しは分かるよ……」

「ふん。そういう理屈なら、サードインパクトだって、一連のシト関係の騒動の終戦記念日みたいなものじゃない。なんだって、あんたがいつまでもいつまでも責められるんだか」

 

 そうか。シンジはようやくアスカの反応に納得した。アスカはシンジの為に、世の「不公平」にプリプリしてくれているのだ。

 

「ありがとう、僕のために……怒ってくれて」

「あんただけの問題じゃないのよ、だって、将来的にはあんたの妻や子供の問題にもなるんだから」

「……それは」

 

 確かにそうだけど。

 シンジはそこまでには考えが至らなかった。想像するのさえ、まだ難しい。でも、アスカはシンジより先を見通して色々考えているようだった。

 

「だから、あたしには切実かつリアルな問題よ。この国の人間が忘れっぽくて、した事もされた事も割とすぐに忘れてしまうのは知っている。それは本当は良くないのだとしても、この際、美質かも知れない……いずれはあたしたちにとっての救いになるのかも知れない」

 

 アスカがそう言ったので、シンジは応じるように呟いた。

 

「忘れて欲しい訳じゃないんだ。みんなにはちゃんと覚えていて欲しい。僕のした事、しなかった事。もちろんアスカにも。僕はそこから逃げたい訳じゃないんだ」

「……少し、大人になったみたいね」

 

 LCLに一時溶け込み、そして帰還した人類には少しだけど、しかし確実に他者への思いやりが芽生えていた。犯罪や国際紛争が目に見えて減っていた。セカンドインパクトの後のような大戦争はサードインパクト後には起こっていない。だが、そのお互いを束の間、融合の中で知り得て、巨視的な和解を知った人類の環から世界で唯一排除されているのがサードインパクトでLCLに溶け込まなかったシンジとアスカだった。世界の人々がコミュニケーション能力においては新人類へと進化している中で、そこから取り残された旧人類が二人だった。

 

 だから、アスカはシンジの心を昔ながらのやり方で察するしかない。世界の人々も、サードインパクトでシンジが果たした受動的な役割を知りながら、そこに至ったシンジの内面を好奇心と幾ばくかの不信で見守るしかない。世界の誰もシンジの内面は知らないのだから、少しばかりの優しさが世界に満ちるようになっても、世界にとって碇シンジ──このサードインパクトのトリガーになった少年は依然として謎だった。

 

 そして、それはアスカにとっても同じだ。だけど、アスカもシンジもお互いの気持ちと内面を察し、おずおずとだが、近付こうとすることは出来る。

 

「大人に成れているとは思わないけど、アスカの為に少しずつでもそうなりたい。アスカにもう哀しい想いはさせたくないんだ」

「うん……」

 

 それで二人はどちらからともなく、手を繋いだ。手袋を重ねて、それでも伝わってくるお互いの手の冷たさを実感する。

 

「ごめん、もっと手を早く繋げば良かった。そしたら、アスカの手を温めてあげられた」

「それ、サードインパクト前の事を考えながら、ずっとあたしが思ってたことなんだよ。……もっと手を早く繋げば良かった。もっと手を早く繋ぎたかった、って」

 

 アスカの言ってる意味は、シンジの言葉よりも、もっと抽象的で広い意味だった。アスカはそれから微笑んだ。

 

「でも今は手を繋げるようになって……良かった」

 

 もうすぐヒカリと待ち合わせのショッピングモールだ。でも、二人はもう手を離そうとはしなかった。

 

 

 アスカとシンジが手を繋いで現れたので、ヒカリは目を丸くした。

 

 しかし、その次の瞬間には彼女は顔を綻ばせた。

 

「アスカ、久しぶり! 碇くんも。二人とも元気そうだね。そして……おめでとう!」

 

 高校生になった洞木ヒカリは少しだけ大人びて、しかし相変わらずの快活な笑みを見せた。おとなしさが目立つ少女だが、しかしそれだけではない。芯のしっかりした堅実なものをその心中に持っている少女なのだ。

 

「ヒカリも元気そうね!」

 

 女子二人はお互いの健康を寿いで、それからやはりヒカリの視線は、アスカとシンジのしっかりと繋がれた手に引き寄せられる。

 

「……本当に良かった。たぶん、あなたたちを知ってる人はみんなそう思えるわよ」

 

 ヒカリはしみじみと呟く。

 

「ありがとう、委員長。いや、洞木さん……」

「うん。今の学校では副委員長なんだ。委員長は誰だと思う?」

「さあ……」

 

 見当もつかないやとシンジが早々に降参すると、ヒカリはアスカと顔を見合わせて笑った。どうやらアスカには既知の事実らしかった。

 

「鈴原トウジ。それがヒカリのクラスの委員長の名前よ」

 

 ニヤニヤと笑いながら、アスカはシンジに教えてくれた。

 

「トウジが……それは驚いたな。でもそんなに違和感ないね」

「うん、鈴原は面倒見いいし、人と人との間に入って、調整したりするのが案外好きみたい。最初は誰も立候補者がいなくて、見かねた私が手を上げようとしたら、それを察して、名乗り出てくれたの」

「それは、すごくトウジらしいね……」

 

 一本気で、義侠心に富んでいて、女の子が困っている時には黙って見過ごせない。それが鈴原トウジだと、シンジは知っていた。

 

「だから、私も悪いと思って副委員長になったの……」

「とかなんとか言っちゃって、本当は委員長である鈴原と一緒に居られるからなんでしょ?」

 

 アスカが混ぜっ返すと、ヒカリも満更ではないという表情で頷く。

 

「でも、最初はやむにやまれずでも、私と一緒に仕事をするうちに、自分に案外向いているって分かったみたいでね。今は結構張り切ってる」

 

 そうか……みんな昔とは少しずつ変わっているんだ。でもその変わりようは好ましい変わり方で。シンジにはそれが嬉しかった。

 

 それから、三人は目的の店に向かってゆっくり歩き始める。

 

「それにしても、碇くんとアスカが明城に行くなんて思わなかった。てっきり、あたしたちと同じで、地元の仙石原に行くのかと思ってたから」

「それは……僕が……誰も僕のことを知らない高校に行きたがったからなんだ。まあ、すぐに僕とサードインパクトの事は高校に知れ渡っちゃったから意味は無かったんだけどね。……逃げようと思っても、自分がしたことからは逃れられないんだとよく分かった」

「そう……」

「それに僕は最近まで、アスカが僕と同じ学校に通ってるのは、ネルフの警備上の都合とかなのかと思ってた」

「……んな訳ないでしょ。あたしはもう大学を出てるんだから、わざわざ遠くの明城になんぞ通う意味はなかったのよ……あんたが通わない限りはね」

「そうだね。アスカは僕の事が心配で同じ高校にしてくれたんだ。僕はいつも人の優しさとか気持ちに鈍感なんだ……」

 

 アスカとシンジはずっと手を繋いだままで、三人横に並んで歩く訳にも行かず、ヒカリは後ろからついて行く形だ。二人の固く握られた手を後ろから見ていると、ヒカリには様々な思いが去来する。

 

「アスカから碇くんとの事、聞いていたけど、本当は実際に会ってみるまで不安だったの」

 

 そのヒカリの言葉にシンジは少し俯いて、地面を見つめる。

 

「サードインパクトで、僕は世界の皆に償い切れない程の迷惑を掛けた……洞木さんがそう思うのも無理ないと思う」

 

 人的被害こそ最小限だったが、インフラの破壊や経済的損失が、多くの人の運命に影響を及ぼしたのは間違いない。そんな事態を引き押した男が親友と付き合い始めた……それが不安にならない方がおかしいだろう。シンジはそう思った。しかし、ヒカリは首を横に振る。

 

「サードインパクトの事は関係ないの。そんなに大きな話は私には分からないもの。私が気になっていたのはもっとそれより前の様子」

「サードインパクトより前?」

 

 シンジが訊ね返すと、ヒカリはこくりと頭を上下に振った。

 

「アスカがエヴァンゲリオンの事で落ち込んでしまって私の家に入り浸って、テレビゲームとかに逃げ込んでる時、碇くんがどうして迎えに来てくれないんだろう、って私はずっと思ってた」

「……ごめん」

 

 確かにあの時、外泊を続けていたアスカの不在とそれによる空白に、シンジは何も出来なかった。

 

「アスカと碇くんが最初は仲良くしてたのを見てたから。だから……愉しい時だけ、女の子を気にかける男の子たちって何なんだろうと不信感さえ持ってしまったの」

 

 ヒカリの見るところ、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの恋愛はずっと純愛で、だからアスカにラブレターを寄越した無数の男子たちのように、シンジの中で、彼女の容姿や身体への欲望が先行しているとは思わなかった。だけど、いくら純愛でも愉しい時だけ近づいて、苦しんでる時や哀しんでいる時には避けるのなら、あまりにもそれは身勝手ではないだろうか?

 

「……ま、あの時のあたしとシンジは、自分のことで手一杯だったのよ」

 

 ヒカリの非難からシンジを庇うようにアスカは言った。

 

「あたしたちは、やっぱり只の中坊で、お互いに届く手の長さが足りなかった。だから、あたしたちの想いは叶わない初恋として終わってもおかしくはなかった。でも、あたしはそれが惜しいと思ったの。この後、どんな恋をしてもここまで思い詰める事はないと思った。だって、世界中の人間を巻き込んだような初恋なんだもの」

 

 アスカは自分の加持に対しての想いは、初恋とは少し違うものだったと今では理解していた。アスカの理想の男性像を勝手に当てはめて、加持に投影して、年上の男性に恋が出来る自分はもう大人なんだと思い込もうとしていた。飛び級で大学を卒業した自分は、メンタル面でも大人なんだと、そう信じる為の擬似恋愛だったのだと思う。

 

 しかしシンジへの想いは違う。シンジの駄目な所、情けない所、全てを知って、それでもシンジがいいと思った。一生、シンジと言い合いをしていたいと思った。楽しくて、煩わしくて、苦しくて、切なくて。でもシンジとなら、負の感情も含めて、応酬と交流自体が心の空虚を満たしてくれるようで、たとえ傷付け合ったとしても、そんな風にずっと、やり合って行きたかった。

 

「サードが起こって、しばらくアスカとの連絡も途絶えてたの。でも去年の夏頃に連絡がようやくついて。真っ先に訊ねたのが、碇くんとのこと」

「僕とのこと……?」

「うん、だって。私も恋をしていたから。だから男の子が信じられるものだっていう、確証が欲しかった。勝手な話だけど、アスカと碇くんに男女の理想を投影していた。二人が上手く行くのなら、自分の恋も上手く行く、碇くんがちゃんとしてくれるのなら、私の好きな人もきっと私に誠実に向き合ってくれる、って」

「……それで、あたしとシンジのことをしょっちゅう聞いてきたのね」

 

 ようやくヒカリの行動に得心が言ったとばかりにアスカがヒカリの方に振り返って頷いた。

 

「ごめんね、アスカ。でも二人は本当にお似合いのカップルだと思ったから。二人ともお人形さんみたいに可愛らしくて、アスカの気持ちも見え見えだった。しかも同じ家に住んで、一緒に戦ったりしているのよ? だからこの二人が結ばれないなら、おかしいとさえ思っていた。それなのに二人は段々とギクシャクし出すし、サードインパクトみたいなことがあってからは音信さえ不通になって、気が気でなかったの」

「こぉんなのと、お似合いと言われてもあたしとしては素直に喜べないんですけど!」

 

 アスカはそう言いながら、シンジと繋いだ手をぎゅっと握る。

 

「ほらアスカ。そういうの、照れ隠しでも止めないとダメだよ。碇くんがどう反応していいか戸惑ってる」

 

 熱っぽく握る手の暖かさと、一見冷淡な突き放すような言葉。確かに、シンジはアスカのどちらを信じれば良いのか。

 

 しかし、シンジはけっきょく若干のぎこちなさを残しつつ微笑んだ。

 

「こぉんなのと言われないように頑張る……」

 

 シンジもアスカと繋いだ手を離しはしなかった。

 

「……ごめん」

 

 アスカはヒカリに対してなのか、シンジに対してなのか、不分明な謝り方をした。

 

「でも、十二月のアスカの誕生日に連絡したら、アスカから、ポツリと返事が返ってきた」

 

 ──シンジとのこと、上手く行った。

 

 たった、それだけのメッセージだ。

 

「私、その返事に思わず泣けちゃったんだ。アスカが想いを叶えられて、全てが上手く行って、何もかもが報われる気がした。この世の全ての物が色付いて、輝いて、そんな風に価値があるように思えたの」

 

 大袈裟な──とはアスカもシンジも思わない。だって二人にとっても、想いを叶えた後は、ずっとそんな心持ちがしたのだから。そんな筈もないのに、世界が二人の為だけに存在しているような気分だった。自分が生まれてきた全ての理由が、今この時、相手と一緒に存在する為だと思えてきた。そんな気持ちをヒカリも共有してくれていたことは本当に嬉しい。

 

「だから、自分の恋も前に進めてみよう、そんな気になったの。アスカに相談したら、碇くんなら適任だって言うから」

「……やっぱりチョコレート、トウジにあげるんだ?」

 

 相談というのはチョコレート作りのことだ。だから残念ながら、この場にトウジも呼んで旧交を温めることが出来なかった。

 

「うん、鈴原が甘いもの好きかは分からないけど──」

「嫌いじゃないと思うよ。チョコアイスとか一緒によく食べていたし」

 

 シンジの答えに、ヒカリはほっと安堵の顔を見せる。

 

「甘いものが嫌いでも、ヒカリからなら喜んで受け取るわよ。こういうものは心なんだから」

 

 アスカもそう、援護射撃を送る。

 

「そうだと嬉しいな」

 

 ヒカリの笑顔が何だか眩しい。それを向けられるであろう鈴原トウジの事を考えて、シンジも嬉しくなった。

 

「チョコレート自体は、業務用スーパーで買うのがいいと思うんだ。ドイツ製やベルギー製のチョコが安く買えると思う。食べ物だから、高校生の予算でもそこは妥協しない方がいいと思うんだ」

「ありがとう、碇くん」

「少し大目に買った方がいいかな。ミスしても、リカバーしやすいし、余ったら自分や家族で食べたりすればいいから」

「うん」

 

 シンジが日頃、行きつけている業務用スーパーに案内し、後は買い物中、シンジの独壇場だった。

 スーパーを周りながら、ヒカリの質問に答えていく。

 

「湯煎のやり方が心配で」

「温度が大事かな。風味が飛んじゃうから高温を避けて、50度から55度で……ってこういうのは調べればすぐ分かるけどね」

「微妙な温度だね。どうやってその温度のお湯にすればいいのかな」

「大抵の電気ポットに哺乳瓶のマークが付いてると思うんだけど、それがミルク用の温度で60度か70度の設定になってる。湯量にも依るけど、60度なら五分放置して冷ませば55度に、70度ならさらに十分って所かな。あっ、ちゃんとキッチン用の温度計で計ってね」

「うわ、そういう実用的なアドバイス、助かる」

 

 さらにヒカリの質問は続く。

 

「型はどうしたらいいのかな?」

「今なら百円均一のお店でも色々買えるよ。でもオリジナリティに拘るなら、自分で作ってみてもいいかな」

「自分で? 何だか難しそうだわ」

「そうでもないよ。牛乳パックを切って、それにアルミホイルを巻く。ハートの形に曲げて、底はセロテープで貼り付けて……」

「ああ、なるほど。アイデアね! それなら出来そうだわ」

「うん、頑張って」

「鈴原、喜んでくれるといいな……」

 

 そんな風に、シンジがヒカリの相手ばかりしているものだから、アスカは段々退屈してくるし、面白くもない。

 

 ショッピングカートを片手で押して、もう片方の手でアスカと手を繋いだままのシンジは、突然左足の踵に与えられた痛みに悲鳴を上げる。

 

「……っ痛てっ! な、何するんだよ、アスカっ!」

「べっつにぃ」

 

 学生靴のつま先をトントンとしながら知らんぷりをするアスカに、シンジが抗議をする様子を見て、ヒカリは苦笑した。

 

「アスカの彼氏さんを借りっぱなしでごめんね。怒った?」

「……別にそんなんじゃないけど」

「私もしばらく独りでチョコを見比べたいの。アスカと碇くんは少し休んでてくれるかな?」

 

 気を遣ってくれたヒカリに促され、二人はカートをヒカリに預けて、同じフロアの休憩スペースのベンチに腰掛けた。買い物に付き合わされた雰囲気のカップルの片割れやら親やらが数人ベンチで所在なげに休んでいた。アスカとシンジもその端っこに腰掛けた。

 

「……ごめん、痛かった?」

「いや、もう痛みなら引いたよ」

「何故か、自分でも怒りが押さえられなかった。緑色の目をした怪物は厄介ね」

 

 緑色の目をした怪物──green-eyed monsterとは、嫉妬のことだ。シェイクスピアが「オセロー」の中で使っている。確かに嫉妬は厄介だ。何せ、オセローはデズデモーナをそれで殺してしまうのだから……と、そこまで連想してアスカはぎょっとする。有色人種で異教徒のオセローが、愛する白人の──白皙の肌に金髪も麗しい──まるでアスカ自身のような──最愛の妻デズデモーナを、「正直者イアーゴー」の策略により、事実無根の不貞の疑いで殺めてしまう。その人種や、殺害の手段──そう、「絞殺」が、アスカに無意識のうちにオセロー夫妻に、シンジと自分を重ね合わさせてしまったのか、とギクリとさせたのだった。

 

 それはきっと少し考え過ぎだったのだけれど、しかし愛する者の信頼が崩れた時に訪れる悲劇の予感にアスカの背筋は少しだけ寒くなる。シンジにはそんな比喩の意味やアスカの広げた連想は勿論、分からなかったけど、根源となったアスカの怒りの意味は正しく理解していた。

 

「アスカが僕にヤキモチ妬いてくれるなんて、初めてかな。新鮮で……痛かったけど、嬉しかったよ」

 

 アスカは嫉妬の怖さを改めて自覚しつつ、自分の過去の行動を振り返る。

 

「……そうでもないわよ。あんたの見てない所で、あたしは結構あんたの事で嫉妬していた。例えば、綾波レイに対しても」

「綾波に?」

「うん。あんたが綾波レイの事ばかり見ている気がしたから。だけど、あの子は、あんたのお母さんの……そしてあんな境遇だなんて知っていたら……。あたし、あの子に随分と酷い事をしてしまった」

 

 綾波レイの正体も分からず、シンジとの距離感の近さも気に入らず、手を上げたり、暴言を吐いた事をアスカは今更ながらに後ろめたく思う。そのレイが無事ならば、今からでも謝罪するところだが、サードインパクトで彼女の存在はなくなってしまった。

 

「でも、それは僕の事で妬いてくれたから、なんでしょう?」

「それはそうなんだけど……」

「だったら嬉しいよ。それに、嫁と姑は折り合いが悪いのが普通でしょ」

「嫁……」

「そうだよ。アスカは僕のところにお嫁さんに来てくれるんでしょ?」

「うん」

 

 アスカはシンジの言葉に微かに頬を染め、素直に肯いた。

 

 好きな人の所に、嫁ぐ。

 

 それはアスカも人並みに憧れる、女子としての平凡な夢だった。

 

「そうだよ……あたしはいずれ、あんたに嫁ぐ。シンジのお嫁さんになるんだ」

 

 昔のエリート志向の自分だったら、そんな言葉にどう思うだろう。碇シンジはエヴァのエースパイロットとはいえ、ごく平凡な男の子だ。顔も頭も悪くはないと思うが、むしろアスカはその平凡さに惹かれている気がする。ありふれた優しさ。ありふれた居心地の良さ。そこには、気張らなくていい、自然体の気安さが溢れている。

 

 シンジも頷いた。

 

「だったら僕は……きっと母さんみたいな存在だった綾波……母親ではなく、お嫁さんの側に立つよ。いつだって、お嫁さんの味方になる。だから綾波の事はもう気にしなくていい。アスカの罪は僕が全部引き受けるから」

「シンジ……」

 

 アスカが肩に背負ってきた重荷を肩代わりするとシンジが言うと、アスカには先ほどのオセローの悲劇と自分たちの境遇を重ね合わせた妄想が急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。確かにシンジは一度はあの赤い海の浜辺であたしの首を絞めた。でも、デズデモーナが如何に哀願しようと、その首を絞める手をオセローが緩めなかったのと違って、シンジは言葉一つ、アスカが頬に当てた掌一つでその手を緩めたのだから。

 

「本当は……母さんのことも、アスカのお母さんの事も、綾波のことも、アスカのことも、みんな父さんが悪いんだ。でも、僕だってそれを見過ごした。子供だから何も出来ないと手をつかねていた。──本当は生きている間に僕が父さんを殴ってやるべきだった。母さんはもう居ないんだ、大人になれよ、と殴ってやれば良かったんだ」

 

 でももうその父は居ない。シンジにはやり場のない怒りと哀しみが堆積している。

 

 父さん、どうして僕が大人になるまで、生きていてくれなかったんだ。

 

 僕は父さんに言いたい文句や不満が沢山あったんだよ──

 

 殴ってやりたかったし、話もしたかったんだよ……

 

 目を瞑って過去を悔やむシンジの横顔をアスカは気遣わしげに見つめている。

 

 

 買い物を済ませ、シンジお手製のレシピを書いたメモも手渡されたヒカリは、それで安心したような顔で帰って行った。

 

 土日を挟んで、ヒカリのお手製チョコレートは無事完成したという報告がアスカ経由でシンジの耳にも入った。

 

 二月十四日の朝を迎え、後は、ヒカリが首尾良く渡せるか、いやむしろ心配なのは、トウジがそれにどう反応するかだな、とシンジは思案顔で、自分同様に朴念仁の色が濃い旧友を気遣って見せる。

 

 いずれその結果も、アスカを通して知ることが出来るだろう。

 

 登校する為の身支度を整えながら、シンジがテーブルの上を見ると、ミサトからの素っ気ないメモが目に入った。

 

「仕事なので、先に行きます。戸締まりをよろしくお願いします」

 

 それだけの内容だ。しかも丁寧語で書かれていて、隔意を感じさせる文体だった。サードインパクト後、父ゲンドウが座っていたネルフ司令の座を襲った葛城ミサトは、人が変わったようにシンジたちに冷淡で、アスカが以前に言ったとおり、まるで同居人二人との接触を努めて避けているかのようだった。

 

「ミサトさん……」

 

 そのシンジの背中に、いつものピーコートを着込んで、赤いマフラーをして、登校準備を整えたアスカが言った。

 

「シンジ、これ……」

 

 そう言って差し出された綺麗にラッピングされた赤いハート型に、シンジの玄関に向かいかけていた足も止まる。アスカはシンジから少し顔を背け、気恥ずかしげにソレを差し出していた。

 

 危うく出掛かる「僕に?」という不要な確認をすんでの所で呑み込み──そんな事をすればアスカの癇に触わることは確実だ──シンジはアスカの方にきちんと向き直り、両手で大切そうに受け取った。

 

「……アスカも用意してくれてたの?」

 

 そんな用意の気配は欠片も感じなかっただけにシンジは虚を突かれた思いだった。でも、アスカと自分は恋人同士になったのだ。むしろ期待しないのがおかしかった。シンジは無意識のうちに、貰えない最悪の可能性を考えて、あえて期待をしないようにしていたのかも知れないな……と思う。

 

「手作りとかじゃないけど。それなりに高級な奴よ。……でも、ヒカリみたいに手作りで頑張るべきだったかな」

「いや、嬉しいよっ」

「色々考えたんだ。失敗したらどうしよう、って。シンジとは恋人として初めてのバレンタインだし。最初で失敗したら格好が付かないじゃない? どうせシンジの方が上手く作れるんだと思ったら、余計に心理的ハードルが上がってしまって」

「そんなこと……」

「でも、ヒカリの買い物に付き合って、こういう事で失敗を恐れるってのは少し違うのかなと思った」

「失敗してもいい、頑張ったんだからってこと?」

 

 努力やそこに込めた想いそのものに価値があるとするならば、多少の失敗があっても、男子はそのチョコを有り難く頂く事だろう。シンジだってもちろん、そうするつもりだ。

 

「いや、ちょっと違うかな。あの子、失敗する事なんて、ちっとも考えてもいないようだった」

「……うん、確かにそうかも知れない」

「ただ相手の喜ぶ顔だけを想像して、そのために前に進もうとしていた。そこには体裁も、見栄も、失敗したら格好が付かないとかの不安もなさそうだった」

 

 ヒカリは自分の事ではなく、トウジの事だけを考えていた。彼が一番喜ぶものを作ってあげたい、と。だったら、失敗したら恥ずかしいとか、これはアスカ特有の心配だろうが──相手より作るのが下手くそだったらどうしようなんて考える心の隙間はない。

 

「そんなヒカリを見て、あたしもまだまだ勉強だなって思ったわけ。あたしは飛び級で大学を出て、他人とは違うエリートだからって思い上がってた。でも、好きになった女の子も男の子も普通の子だった。そういう人たちから学ぶ事は何もないなんて大間違いだった。あたしはテープを早送りして、音楽を聴いた気になっていただけだったの」

「……アスカが誰にも言われる前にそれに気付けるから、僕はアスカが好きなんだ」

「これからはシンジと一緒に、あのS-DATで──早送りをせずに音楽を聴きたい」

「うん、ありがとう。僕もずっとそうしていたい」

 

 早速、今日の通学電車の中で、イヤホンを片耳ずつ分け合って、アスカと一緒に音楽を聞こうかな。シンジはそんな風に思った。

 

「……そのチョコ、本命だからね」

「うん」

 

 アスカは言わずもがなの事を言った。しかし、それはシンジには、ちゃんと言って欲しい言葉だった。聞かされて嬉しい言葉だった。

 

「本当の本気でシンジが本命」

「ありがとう」

「だから手作り出来なかった事は悔しい」

 

 アスカは本当に悔しそうに唇を噛む。

 

「来年は手作りで作ってみせる。シンジに勝ちたいとかじゃなくて、シンジをもっと喜ばせたいから」

 

 そこにあるのは混じりっ気なしのシンジに対するアスカの想いだ。

 

 シンジはその気持ちが嬉しくて。──だからニッコリ微笑むのだった。

 

「来年が楽しみだよ、アスカ」

 

 アスカももちろん、その言葉に満面の笑みを返してくれる。

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