季節の中のアスカとシンジ   作:しゅとるむ

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Pfirsichfest

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

「葛城司令からの特別召集。ネルフに顔出せってさ」

「ミサトさんから? 用件は?」

 

 アスカがスマホの画面を見せた。シンジは自分の方にも、同じ連絡が入っているのにすぐ気付く。

 

「わかんない。至急って訳でも無さそうだけど、でもあんまりいい予感しないわね」

 

 サードインパクトが起こり、碇ゲンドウが亡くなった後のネルフを率いているのが、アスカとシンジの同居人にして保護者の葛城ミサトだ。

 

 ミサトはネルフ司令の地位に昇って以来、シンジにもアスカにも冷淡で、まるで人が変わったかのようだった。それに応じるようにアスカもまた突き放したような態度をミサトに返すことが増えている。葛城司令などという他人行儀な呼び方もそれだった。

 

 アスカ曰く、ミサトが今進んでいるのは「権道、覇道、修羅の道」だそうだ。あらゆる個人的犠牲を顧みず、人類全体を守る。今のミサトにとってはアスカやシンジもまた状況に応じて、犠牲とし得る駒なのかも知れなかった。

 

 だからアスカはミサトに会う事自体、なんとなく気が重い。朝は二人が起き出すよりも早く出て、夜は二人が寝静まった頃に帰ってくる、そんなミサトの毎日のスケジュールが、アスカやシンジを避ける為のものではないかとアスカは疑っていたが、それが今ではお互いにとって助かるようにも感じていたのだ。

 

「ミサトさんに会うの、アスカはしんどいの?」

「へぇ、分かるんだ」

「うん。人の気持ちが分からない──それでアスカや皆を傷付けてきた僕だけど、人に会うのがしんどいって気持ちや表情はよく分かるんだ。僕はいつもそんな感じだったから」

「と言っても、ミサトのことが苦手だったわけでもないでしょ」

「うん。ミサトさんとアスカ、それに綾波にはそんな苦手意識を感じた事はないよ。不思議だけど」

「それって、要するにその三人があんたにとっては家族、だったのよね」

 

 と言われて、シンジははたと納得が行った。

 

「そうか。ミサトさんと綾波は母さんみたいなもので。だから苦手に感じなかったのかな」

「そして、あたしはお父さん?」

「ちょっとアスカ」

 

 アスカが茶化そうとするので、シンジは思わず突っ込んだ。それから真顔になって。

 

「加持さんには遠慮なく話せたから、父親を感じてたのかも知れない。本当の父さんには……」

 

 シンジは口を噤む。碇ゲンドウとはけっきょく何だったのだろう。実の息子を拒み続け、妻のみを求める姿から、シンジは何を学べば良かったのだろう。

 

「まあ、本当の家族ってそんなものかも知れないわよ。血のつながりがあったって、心が通わないのなら……」

 

 アスカだって父や義母とは未だに隔意がある。表面上、波風を立てないように取り繕ってはいるが、生前の実母を裏切っていた今の両親にはわだかまりがあるのだ。シンジの気持ちは痛いほど分かる。自分とシンジが置かれた境遇が余りにも近いから、傷をなめ合うようにして二人は惹かれ合ってきたのだから。

 

「で、話戻すと、あたしもあんたにとって家族だとして、どんな役割なのかな?」

 

 アスカがからかうような調子でシンジを弄る。

 

「アスカは──」

 

 シンジはそこで周囲を窺うようにして、声を細めた。

 

「やっぱり……お嫁さん、かな」

「……ばか」

 

 シンジもアスカも頬を紅潮させて見つめ合う。それは単なる比定ではなく、かなり確実な未来予想図なのだ。

 

「彼女からお嫁さんになるまでには、まだまだ色んな事をしなくちゃいけないのよ」

「うん」

「花嫁修行はシンジに手伝って欲しい」

「ああ、料理とか……うん、教えるよ」

「それもだけど、それだけじゃない。二人でないと出来ないこと、あるでしょ」

 

 シンジがぽかんとしていると、アスカは艶めいた表情になって耳元で囁いた。

 

「わかるでしょ、エッチな花嫁修行とかも必要なんだから」

「う、それは……」

 

 ──まだ早い、焦らず一歩ずつといつも言ってるのはアスカじゃないか。確かに僕とアスカの間には高校生の間に初体験を済ませるという約束がある。でも、まだ二人ともなかなかそこまでは踏み込めない気がするのだ。

 

 口元をアヒルみたいに緩めて、座ったシンジを面白そうに見下ろすアスカに、シンジは平素から抱いてる気持ちを吐露する。

 

「僕、からかわれたんだね。アスカのイジワル……」

 

 アスカは不平顔に膨らませられたシンジの頬を白く長い指でツンツンとつつく。

 

「ふふ。あたしは一生バカシンジにイジワルするんだ。だって、あんたが可愛くて仕方がないんだから」

「もう……僕は男なのに」

 

 そんな風に二人がやり取りを交わし、共に日々を過ごすだけで、アスカとシンジは過去の痛みを癒やす事が出来る。償いもあがないもそこには不要だった。お互いの優しさ以外に何も要らなかった。

 

「……さてと。ミサトのお小言も御免蒙りたいから、そろそろネルフに行きますか」

 

 アスカが気合いを入れ直すようにポンポンとスカートをはたき、シンジのカバンを机の横から取る。

 

「うん、それにしてもミサトさん本当に何だろうね」

「用事があるなら家で言ってくれれば、わざわざ非番の日にまでネルフに行かなくて済むのにね」

 

 アスカはシンジに向かって、やれやれと肩を竦めてみせる。シンジも席から立ち上がって、アスカからカバンを受け取ると、彼女に肩を並べた。

 

「アスカ、碇クン、さよならぁ。また明日」

 

 教室を出ようとすると、複数の女子にそんな風に声を掛けられる。アスカは手を上げると表情を瞬時に緩めてにこやかにそれに応じ、シンジも曖昧に頷いてさよならと女子たちに微笑を返す。それに対して何故か黄色い声が上がった。

 

「なんか、セットで呼ばれるとまだ緊張する」

「そろそろ完全にカップル認定されたからね。シンジもこれまで頑張って恥ずかしさに堪えた。えらいえらい」

 

 アスカはそう言って、廊下に出るなりシンジの頭を撫でてやる。最近シンジの背が伸びてきたから、二人が立っている時は、出逢った頃のように額にデコピンをしたりするのも少し大変なのだ。まして頭を撫でてやる時は、アスカは踵を上げ、背伸びをしなくてはならない。

 

 もともと、カップル扱いされるのは恥でも何でもないし、堂々とできないシンジにアスカは最初は多少イライラとさせられたのだった。しかし今ではシンジのそういう自信の無さも含めて、愛すべき個性なのだと思っている。

 

「あの、頭撫でられるのとかちょっと恥ずかしいよ……人目に付くかも知れないし」

「もう付き合い始めてから、三か月なんだからいい加減そのぐらい馴れなさいって」

「それはそうなんだけど」

「シンジはあたしよりも、女の子みたいよねぇ。ま、そこが可愛いんだけど」

 

 そんな風にアスカはため息をついて。

 

 シンジの性格や外見がやや中性的なのは、元々アスカが持っていた男性の理想像とは少し違うのかも知れない。アスカは元々は大人の包容力で完全に自分を引っ張ってくれそうな男性、加持リョウジに憧れていた。

 しかし今は、異性についてよく知らないままに一方的に抱いていた理想よりも、初めて一番近くに触れた異性を見ながら、そこから本当に好きな異性のカタチが修正されていくのがむしろ正しい在り方なのだという気がしている。

 

 季節は春、暦は三月に入ったばかりだ。アスカの誕生日に付き合い始めたから、二人の恋人としての期間は覚えやすい。

 廊下を進みながら、二人は自然な感じで手を繋いだ。

 

「こうして学校でも手を繋げるようになったんだしね、少しは自信、持つものよ」

「うん……」

 

 シンジにも分かっているのだ。アスカが示してくれる混じり気のない好意に照れているばかりでは駄目なのだ、と。ちゃんとリードすべきはリードして、対等な関係を作って行かなくては。そう決意はしているのだが。なかなか実践は思った通りには捗らない。

 

「でも……うちの学校が、男女交際に五月蠅くなくて良かったよ」

「高校生にもなって、男女交際禁止とか言ってる方が有り得ないでしょ。日本のガッコーの大半は遅れているのよ」

 

 まだシンジとの間ではキス止まりなのに、アスカは何故か意気軒昂だった。

 

「子供のうちは性的に抑圧しておいて、いきなり大人になったらくっつけと言われても出来るかっつーの。それで少子化とか騒いだってしょうがないでしょ」

「まあそうかも知れないけど」

 

 と言われても、シンジもまだ子供の作り方とかは漠然としか分からない。アレコレ考えると、昼日中には示しては行けないような反応を示してしまいそうな恐れもある。

 

「シンジ。今ちょっとえっちな事を考えてたんでしょ」

「いや、そんな事は……」

「何となく雰囲気や表情で分かるのよ。隠しても無駄よ」

「ゴメン」

「焦らなくても、いずれ必ずあたしと出来るから」

「う、うん……」

「だから今はガマン」

「そだね……」

 

 今はまだ、この手と手を繋いで伝わる温もりだけで十分だ。それだけだって、サードインパクト前の二人には決して届かないものだったのだから。だから今はその指先から伝わる幸せを噛みしめたい。

 

 

 学校を出ていつもの通り、商店街経由で駅に向かう。通り過ぎる幾つもの店の前にはピンクの花びらが装飾されたディスプレイが目に付いた。

 

「あれは桜の花びら?」

「いや、あれは桃だよ。もうすぐ雛祭りだから」

「ヒナマツリ……?」

「桃の節句と言って、女の子のお祭りだよ。ほら、あんな風に雛人形ってのを飾るんだよ」

 

 アスカと手を繋いだままのシンジが、空いている方の手で近くにあった日本人形店のショーウィンドウを指差した。段飾りの美しい雛人形が飾られている。去年はサードインパクト直後だったから、とてもそれどころではなかった。だから今、アスカが季節の中で味わう日本の風景は初めてのものばかりだ。

 

「うわ。段々に……綺麗な人形がいっぱい……七段もある」

「うん、階段みたいでしょ」

「何の人形なの?」

「えっと……確か、日本の宮廷を模したもの、だったかな。たぶん女性が幸せな結婚をして、豊かに楽しく暮らせますように、みたいな願いがあるんだと思う」

「ああ、日本にはまだKaiserとKaiserinが居るんだったわね。ふーん、意外と日本人もロマンティックなのね」

 

 アスカは感心したように言った。アスカの故国ドイツではKaiserとかは百年近く前に居なくなっていて、歴史上の存在という感じだ。だから、彼女は自分のルーツの一つでもあるこの国に少しミステリアスな印象を抱く。

 

「アスカもそういうの、憧れる?」

「うーん、まあ。Prinzessinとかは子供の頃、少し憧れたかな」

「プリンツェシン?」

「英語で言うと、プリンセス。分かるでしょ、お姫様よ……!」

 

 頬を染めて、照れくさそうにアスカはそっぽを向く。

 

「そうか。女の子はみんなそういうの好きだよね。どうしてなのかな」

「まあ、綺麗なドレスやティアラとかが身に付けられるからね。華やかでしょ? それと……」

「それと?」

 

 シンジが小首を傾げると、アスカは俯いて、小声で囁くように言った。

 

「王子様と結婚できるから……」

「なるほど……」

 

 シンジは微笑した。アスカも可愛いところあるなぁ、と。──いや、基本的には全部が可愛いんだけど。僕の彼女はね。

 

「なるほどじゃないっての。今はあんたが……あたしの王子様なんだからね……」

 

 アスカの言葉に虚を突かれて、シンジは絶句する。

 

「あ、あの、その……」

 

 アスカは耳まで赤くして、もじもじと、しかし、ぎゅっとシンジと結んだ手の指先に力を入れる。

 

「あんたとはまだ結ばれる為の事は何もしてない。でも、あたしは心で絆を感じてる。シンジはあたしの王子様だ」

「えっと」

 

 シンジは頬を掻いて、照れを誤魔化した。

 

「あの、アスカの王子様として相応しくなれるように頑張るね」

「別に頑張らなくてもいい」

「でも」

「シンジはシンジのままでいい。焦らなくてもいい。あたしたちはお互いにあんまり多くを求めない方がいいのよ。だってお互いが必要な存在だって事はもうハッキリしているんだから。それ以上はあんまり望み過ぎず、少しずつ進めばいいんだ」

 

 相手に多くを求め過ぎれば、けっきょくはサードインパクト前の愛憎劇の二の舞になる。アスカはそんなのはイヤだった。アスカは、子供の頃から望んで来た愛情が得られた試しがない。今ようやくシンジという運命の伴侶と巡り会い、結ばれようとしているが、アスカは欲張って、全てをぶち壊すのが怖いと思い始めている。

 

「あたしたちは互いに脆い。ひ弱な葦なんだ」

 

 確かそう表現したのは、パスカルだ。「人間は自然の中で最も弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」と有名な句に続くのだが、ひ弱な葦というフレーズは考える葦と較べると、あまり人口に膾炙していないかも知れない。葦を弱いものの比喩とする表現自体は聖書に何回も出てくるが、それを人間の喩えに使ったのはパスカルの独創だろう。最も卑小だが最も偉大──弱くて、だけど内面は底知れなくて、それ故に愛すべき存在──その人間観に、アスカは深く共感する。

 

「葦だから相手にもたれかかれば倒れてしまう。そうやって共倒れになるぐらいなら、まず独りで立つことを覚えなくちゃ」

「でも……」

 

 シンジは複雑な顔をした。アスカの言葉を聞くと、まるで自分が男として頼られていない気がしてしまう。頼って欲しい気持ち、頼られるほど自分が男らしく成長出来ていないという事実への不安や焦り。だから、シンジの顔はつい曇ってしまう。

 

「そんな顔しないの。シンジが頼りないと言ってるんじゃないんだから。あたしだって、シンジに頼りたい、甘えたい時はあるよ。いよいよ我慢できない時は遠慮なく甘えるから」

「うん……」

 

 アスカが歩道に立ち止まって、手を放し、シンジの背中に頭をもたせかけた。

 

「アスカ……」

「あたしがシンジに求めるのは、早く一緒になろうという、ただそれだけ……」

 

 しかし、お互いが遠慮なく甘えられるようになる為には、アスカが言うように、まずはそれぞれが自分の足で立てるようにならなければならない。お互いを傷付けてしまったり、相手を自分の重荷で倒れさせてしまわないように。

 

 だから、アスカとシンジは一歩ずつ、ゆっくりと前に進むしかない。

 

 

 ネルフ本部に着くなり、まっすぐ向かったミサトの広々とした司令室──室内の調度は部屋の持ち主が碇ゲンドウだった時と全く変わらない──で、二人は唖然とした。

 

 いきなり、子供用の白いキャミソールに身を包んだ幼女が二人、頭には羽根飾りを模した画用紙の被り物を被って、シンジとアスカの周りを取り囲んだからだ。二人とも、同じくらいの背丈で、五、六歳児といったところだろう。

 

群狼(ウルフパック)は獲物を見つけた!」

「……シスも見つけた!」

「白人の女だっ! 捕まえろ、酋長への貢ぎ物にするのだっ」

「ちょ、ちょっと!」

「アワワワワワワ!」

「アワワワワワワ!」

 

 幼女たちは自分の口に手を当てて叩きながら、可愛らしい雄叫びを上げる。そして、シンジとアスカの周りを回り始めた。どうやらこの二人の幼女は、昔の西部劇風にアメリカの原住民ごっこをしているようだった。

 

「あ、あんたたち、何なのよ……」

「アワワワワワワ!」

「アワワワワワワ!」

 

 やがて二人の幼女はぐるぐる回るのを止めて、アスカとシンジの周りにまとわりつき、彼女たちにとっての獲物を矯めつ眇めつし始めた。

 

「男の子の方はクンクン……わんこクンみたいだ!忠犬の匂いがする!」

「わんこクン!? わんこならシスも飼ってる! ワンワン!!」

「あの、キミたちは……」

 

 そこに、バイザーでその目を隠した軍服姿の葛城ミサトが執務机を離れて、近付いてきた。

 

「ミサトさん……この子たちは一体……」

 

 予想もしていなかった状況に当惑を隠せないアスカとシンジにミサトは感情を欠片も込めない声で、事実だけを淡々と伝える。

 

「あなたたちの同僚です。エヴァパイロットとしての」

「パイロット!? だって、まだ子供じゃないのよッ」

 

 ミサトはその抗議に取り合わない。事務的に伝達事項を伝えるだけだ。幼女の一人、まず栗色のお下げ髪の方──の肩に手をやって、その名前と素性を紹介した。

 

「この子はマリ。米国支部から本日付で転籍になった。USエヴァビースト/ウルフパックのパイロットよ」

 

 名前はマリと紹介されたきりで、名字も何も伝えられない。麻里なのかMaryなのかもよく分からない。

 

 シンジがよくよく見ると、少女の頭部には猫の耳のようなものが生えていて、はじめはエヴァパイロット用のヘッドセットかと思えたが、シンジの視線に反応するようにピクリと動いたのだ。だとすれば、それは生身の耳なのか?まさか──

 

「にゃあ~」

 

 緊張を破るようにマリが猫のように鳴いた。

 

 後で伊吹マヤから受けた説明では、USエヴァビースト/ウルフパックは米国ネルフが開発した四足歩行型のエヴァンゲリオンだという。しかしこの時にはミサトからは何の補足説明もなかった。

 

 幼女の耳のようなものについての説明もミサトからは一切ない。しかしよく見ると、人間の耳の位置にも普通の耳があるから、単純に耳というわけでもなさそうだった。

 

 マリと呼ばれる少女はそんな風に観察するシンジを意に介さず、今度は注意をアスカへと向けた。物語の中の酋長に捧げる白人女ではなく、今度はアスカ自身への関心のようだった。

 

「ねぇあなたがアスカちゃんなの!?」

 

 マリはいきなり甲高い声で尋ねる。アスカは気圧されるように肯いた。

 

「う、そ、そうだけど?」

「ステキステキ! アスカちゃんはステキ!」

「は、はぁ?」

 

 またも、ぐるぐるアスカの周りを回り始める幼女に、アスカは面食らう。

 

「あ、アスカの何がステキなの?」

 

 シンジが思わずそう尋ねると、マリは軽蔑するような顔をして、尋ね返した。

 

「アスカちゃんはステキじゃないって言うつもり?」

「い、いや、そういう意味じゃないよっ!」

「……」

 

 確かに受け取りようによっては「アスカの何がステキ?」とは彼氏にあるまじき酷い言い草だ。アスカは醒めた表情でシンジを見た。

 

「ま、何がステキなのか分からないぐらいの女よ、所詮あたしはね。フンッ」

「ち、違うって! 誤解を招く言い方をしちゃったけどッ」

 

 そんな他愛のない痴話に気を取られていたから、アスカとシンジの視線が、もう一人の幼女にようやく向かうまでに随分と時間がかかった。

 

 そして、二人とも視線が向いた途端にそれは釘付けになった。ショートのシャギーカットにした青髪の幼女。シンジもアスカも、その髪色や髪型、顔立ちに強烈な既視感があった。

 

「あんたは……この子は……まさか」

 

 アスカの猜疑心に満ちた確認に、ミサトは静かに応じた。隠す事、後ろめたい事など、そこには何もないとでもいうような平静な態度だった。

 

「綾波レイ№シス。綾波タイプの六体めに当たる。彼女にはまた、零号機に乗ってもらうわ」

「ろ、六人めって、本当なんですか……」

 

 アスカから既に噂として聞いていても、シンジにはショックだった。あの綾波のクローン、それもシンジが自分の母親、碇ユイのクローンなのだと知ってから初めてまみえる新しい複製体なのだから。

 シンジは無意識にミサトの台詞を微修正して、六人めと呟いていた。どうしても、六体めなどと呼ぶ気にはなれない。彼女は、綾波レイは──、疑いなく人間なのだ。

 それにしても、六人めとはどういうことだろうか。シンジの知っている最後に会った綾波は三人めだったと聞いている。その疑問に応じるようにアスカは訊ねる。

 

「四人め、五人めはどうしたのよ? コードネーム、カトルとサンクってのがいるはずでしょ」

「その二人はまだ培養漕の中よ。この子は早く目覚めさせたかったから、先に出した」

 

 幼女のまま取り出せば、シンクロ率のピークである肉体年齢十四歳までの時間が稼げる。そうやってカトルとサンクと呼ばれる個体とあえてそのピークをずらす。それがミサトの検討している方針だと噂にも聞いていた。まさにその既定方針の通りにしたわけだ。

 

「そう。もう、なりふり構ってられないってワケ? でも、ミサトはその子がシンジにとってどんな存在なのか知ってるでしょ! それでもそういう事をするわけなのッ」

 

 しかし、批判しつつもアスカの合理的精神はそのミサトの判断を正しいと告げている。一方、アスカの人間的な感情はミサトの冷たさに納得しきれない。特に、綾波レイはシンジの母親を素体とするだけに、シンジの心を傷つけかねないのが、アスカにはつらかった。だから、シンジが現実にいきなり直面して傷付かないように、あえて先回りして情報を与えてはいたのだが、それでも今この場でのシンジは黙りこくっている。現実として目の当たりにしたショックは事前の情報程度では軽減しきれていないのだ。

 

「……シンジ君、私を憎んでくれて構いません。でも私たちはあなたのお母さんの遺伝子でさえも利用して生き延びなくてはならない。人類全体の運命に関わる大義を前に、それが許されない非道だとは思いません。だから、謝罪はできません」

「そうしないと、僕らも含めて人類全てが滅ぶからですか……」

「その通りです」

 

 ミサトはシンジの保護者なのに、奇妙に敬語を使い続けた。それがこの場であえて距離感を保つための敬語なのだとアスカにも分かった。

 

「はん。そんな調子ならあたしたちが死んだ時に備えて、あたしやシンジのクローンだって準備しかねないわね」

「……」

 

 奇妙な沈黙が、だだっ広い司令室の間に漂う。

 

「……まさか。本当に?」

 

 アスカがおぞましいものでも見るようにミサトを見た。

 

「そういう計画があったのは事実よ。アスカやシンジ君のクローン化は当然、検討に上がっていた」

 

 間髪入れず、アスカがぱんとミサトの頬を張った。

 

「ふざけんじゃないわよッ……!」

「……」

 

 ミサトはアスカの手のひらを避けようともしなかった。張られた頬に、手を当てたりする事もなく、衝撃で僅かばかりに傾けられた顔をゆっくりとアスカの方に戻した。

 

「……ごめんなさい、アスカ。その計画はペーパープラン段階で打ち切られた。でもあなたたちの類い希なエヴァのシンクロ・操縦能力が私たちに悪魔の囁きを聞かせた。いつかまた、私たちはその囁きを聞くかも知れないけど、今は白紙に戻っている」

「悪魔の囁きを振り切ったって、その代わりにこんなガキたちをパイロットにするんでしょっ! 外道に変わりはしないわよっ。ミサト、あんたおかしいのよ! 昔のミサトとは全然違うじゃないのっ」

 

 アスカの難詰には何処か悔しさが滲み出てしまう。別に元々ミサトとすごく仲が良かったわけではない。シンジなどには分からないだろうが、女同士だからお互いの嫌な所も目に付くし、アスカはミサトのだらしなくてがさつな所が嫌いだった。万年床の私室など、女としてあり得ないとさえ思う。彼女の豪放磊落な態度が全てわざとらしい作り物の仮面だともアスカは思っていて、それがアスカを苛つかせる。まるで自分そっくりだと──。

 

 アスカとミサトは間に加持やシンジといった異性の存在を挟んで、微妙な緊張関係を維持してきた。だから最初からミサトには何も期待してはいなかったし、それだけに、幻滅などは無いはずだ。それなのに、この悔しさは何なのだろう。

 

「確かにこの子たちは本来は保護されて然るべき児童よ」

 

 アスカの打擲で朱色に染まった頬をそのままに、ミサトは言った。

 

「でもあなたたちだって、まだ子供なのよ。あなたたちに対して行っている事と、この子たちに対して行う事との間に倫理的な違いは存在しない」

 

 ミサトはそう言ってみるものの、アスカの怒りはアスカ自身の境遇や任務に向けられているのではないと承知している。クローンとして弄ばれる、命の尊厳や自分より幼い存在にアスカの想いは向けられている。己やシンジのクローン化プランへの嫌悪感は当然だとして、それを除いては自分自身の危険や苦しみは度外視しているアスカの怒りは、それだけに純粋で真っ直ぐだった。だから、そこに隠された無言の前置きである「あたしの事はさておき」というアスカの高潔さがミサトの倫理的退路を塞ぐ。

 

 ──まだ子供のアスカが「自分の事はさておき」と、まず、自分より更に子供であるこの子たちの為に怒っているのだ。

 

 これではどちらが大人なのか分からないとミサトは心中、自嘲する。だが、ミサトには今行っている以外の方法が思い付けない。必要ならば外道な選択を進んで行う事が、世界と人類に対して果たすべきネルフ司令としての役割であり責務なのだと信じている。サードインパクトを防げなかった自分には──、加持もリツコも遂に守れなかった自分にはそういう生き方しかもう残されてはいない──

 

「……ね、お兄ちゃんとあっちで遊ぼうよ。西部劇ごっこをしてたんでしょ?」

 

 その時、沈黙を破るように二人の幼女に対してそう言ったのは、シンジだった。

 

 シンジはアスカとミサトのやり取りにずっと口を挟もうとはしなかった。しかし、ただ呆然として聞いている訳ではなかった。ミサトに対するアスカの表情がみるみる険しくなるのを見て、途中から慌てて、子供たちを部屋の反対側へと連れて行こうと決意する。話が理解できるかどうかはともかく、子供たちにクローンにまつわるミサトからの説明や、それに対するアスカの非難をもうこれ以上、聞かせる訳にはいかなかった。

 

「いいの!? お兄ちゃんは何役をやってくれる?」

 

 応じたのは、マリの方だった。きっとミサトとアスカの話がよく理解できず、退屈していたのだろう、シンジの提案に表情が明るくなった。

 

「え、よく分からないけど、何でもいいよ」

「騎兵隊はダメよ。部族を攻撃する悪い連中だから」

 

 あれ? とシンジは首を捻る。西部劇の知識は殆どなかったが、騎兵隊は乱暴なインディアンから、人々を守る正義の味方ではなかったっけ?

 

 すると、シンジの怪訝な顔に気付いたのか、ケモミミ幼女、マリはニヤリと笑って、急に大人びた口調でこう言うのだ。

 

「──天使の名前を持つ敵が攻めてくる世界で、旧来の善を善、旧来の悪を悪だと無邪気に規定できるの?」

「えっ?」

 

 シンジにはよく分からない話だ。幼女の口から突然飛び出した警句めいた発言に、二の句を継げずに戸惑っていると、幼い彼女はあっさり告げた。

 

「うん、そうだね……お兄ちゃんには、リンゴ・キッド役をやらせてあげる」

「あの……り、林檎って?」

「『駅馬車』の主人公だよ。他にも色んな映画に出てるね。ある時は善玉、ある時は悪漢……神と悪魔の間にあって、そのどちらでもないヒト。だから、お兄ちゃんと同じだ。お兄ちゃんはヒトの代表なんだからね」

 

 全てを俯瞰して見通すような幼女の台詞。シンジは息を飲み込む。この獣の耳を持つ、マリという彼女は一体何者なのか──。

 

 

「シスにマリか……今日はこの子たちとの顔合わせに呼び出されたってワケ?」

「いや、それだけではない」

 

 ミサトはそこで初めて、冷たい仮面の下から鉄面皮とは違う表情を覗かせた。

 

「……二人の入る宿舎の手配が手違いで遅れてしまった。一週間ほど、この子たちを私の家で預かります。今日も私は遅くなるから二人で連れて帰って、食事とお風呂はお願いするわ」

 

 ミサトはそう言って、端末を操作した。

 

 アスカのスマホが反応し、ミサトから送金された万円単位の金額を確認する。

 

「……ベビーシッターになった積もりはないんだけど」

「それはバイト代ではなく、食費その他の必要経費です。余ったらちゃんと返しなさい」

 

 ミサトがそう言ったので、シンジはあれっと思った。その感覚はアスカも同様だったようだ。冷たい口調は変わらずとも、そこには昔と変わらないミサトの片鱗が窺えた。お金を無造作に与えて、それで何とかさせようとしているのなら、二人はガッカリしていただろう。それで、ミサトはもう完全に変わってしまったのだと諦めていたかも知れない。しかし、ミサトの言いようはそうではなかった。

 

「ミサトさん……」

「ミサト……」

 

 そこにしんみりとした空気が漂い始める前に、二人の幼女が姦しく割って入る。

 

「ベビーシッター? マリはbabyではない!」

「シスもbabyではない!」

「あー、ハイハイ。ったく、面倒な話ねぇ」

 

 騒ぐ幼女たちを適当にあしらいながら、アスカは不満を隠さない。でも、先ほどのミサトの反応に、少しだけ明るい気持ちが自分の心の中に生まれたのを感じていた。

 

「あの、部屋はどうするんですか?」

 

 シンジはアスカとは違い、ミサトの被保護者として彼女の指示に逆らう積もりは全くない。けれど、どこに寝せたらいいのかなど、具体的な問題はむしろ細かく気になってしまう。

 

「シスとマリは私の部屋に寝せておいて。アスカも当面はそちらで寝てくれると助かる。私はアスカの部屋を使わせてもらう」

「あたしも、あの汚部屋に……?」

 

 アスカが露骨にいやな顔をした。

 

「片付けは少ししてあります。本日の要件は以上」

 

 そう言って、ミサトは半ば強引に話を打ち切った。冷たい表情の仮面は元通りに覆われていた。




(後編に続く)
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