「お兄ちゃんとお姉ちゃんは恋人同士なの?」
二人の童女を伴いながら帰路に就いたアスカとシンジの二人に、マリは道々、訊ねた。まだジオフロントにあるネルフの構内だ。
「そ、それは……」
「……ふん」
「ねぇねぇ、教えてよー」
質問に露骨に動揺するシンジと違い、アスカはそっけなく、別に照れるでもない。しばらく幼女を無視して無言だったが、マリがしつこく質問を続けるので、シンジの顔を見て、顎をしゃくった。
「あんたから答えなさいよ、シンジ」
「ぼ、僕から……?」
「こういうの、男が仕切るべきよ」
アスカが鼻を鳴らして指図した。
「……仕切ろと言われて仕切るのって、仕切ってる事になるのかな」
「勿論、ならないわよ。なるわけないじゃないの」
「えっと……」
アスカの発言に矛盾を感じて、シンジは戸惑う。アスカは少し苛立ちながらも、このカンの鈍い少年に教え諭すように補足した。
「……それでも外に対しては男が仕切ってるように見せるのが当然でしょ。内では女が仕切る。だけど外に対しては男を立てる。こんなの世界中、どこでもそうだよ。それで上手く行くんだ」
「そうなのかな……」
シンジとしてはやや不得要領ながらも、しかし、アスカがシンジを内、それ以外を外と考えてくれているのは嬉しい。それは二人の未来予想図を象徴するようにも思えるからだ。
「いいからあたしの言うとおりにしなさい」
「はい……」
嬶天下そのものにアスカは宣言して、その迫力にシンジは思わず肯いた。もしかしたら、やっぱり二人の未来においてもこんな風な力関係になってしまうのだろうか。しかし、それは別にいいと思った。別に尻に敷かれたい訳じゃない。男としての反撥心だって当然にある。シンジはこれまでもアスカの言いなりになってきた訳ではなかった。それなりに反抗し、言い返しもしてきた。でも、アスカと二人でいつまでも居られるのなら、それは大きな問題ではないのだ。
シンジはすっと大きく息を吸い込んでから、どこか宣言するように言った。
「その……僕とアスカは付き合ってるよ。だから恋人だと思う」
「やっぱりそうなのね!」
ネルフアメリカ支部からやって来たというマリという幼女は目を輝かせる。やっぱり日本の子より大人びているのかな、とシンジは頭の片隅で考えている。大抵の場合、女子は男子よりませているものだ。とはいえ、ふつうなら五、六歳程度ではそこまで男女の事など分からないし、気にもしないのではないか。このマリという女の子には年齢不相応に、どこか普通ではない超然とした所がある……
「……そうしたら、二人はケッコンするの?」
そうポツリと呟いたのは、それまで黙ってトボトボと先頭を歩いていた綾波レイ№シスだった。
シンジは思わず、この小さな綾波レイの言葉に絶句する。彼女はシンジの母親と同じ遺伝子を持つはずだが、それを意識すると、シンジはその質問に率直には答え難いものを感じてしまうのだ。まるで、実家に結婚相手を連れてきて、母親と対面した時のような緊張感で──
「う、それは──。アスカ、なんとか言ってよ……」
アスカは顎を上げて、白い首を見せた。
「結婚の意味もろくに分からない癖に……ガキたちがませたことばかり言ってるわね」
とはいえ、アスカもまだやっと十六歳の少女に過ぎないのだが。それでも、アスカはその結婚という事象を夢みたいな遠い未来のものではなく、ごく近くに迫っている現実のものとして捉えている。
「分からないから聞いてる。ネルフで見せられたニュースでお付き合いをした後、ケッコンするというのは知った。ケッコンって何をするの?」
純粋に未知の事柄についてシスは訊ねている。クローンであるシスには親がいない。だから、家族を作るための結婚というシステムも理解できていないのだろうか。
「な、何をって。……そりゃ、一緒に暮らすのよ」
一緒に暮らして、何をするのだろうか。言葉に出しながら、アスカは続けて声に出さずに自問自答する。結婚したら、毎日シンジとご飯を一緒に食べて、家事を一緒にして、毎晩のようにいっぱいお喋りをして、お風呂に一緒に入って、寝るときも一緒。とにかく、何をするのも一緒で──あれやこれやという大人の関係まで──
アスカは自然に顔が熱くなるのを感じた。
「シスやマリもこれからお姉ちゃんたちと一緒に住む。ケッコンと同じか?」
「そ、それは違う。ふつうは結婚ってのは、男と女が二人だけですることよ」
むろん、世の中には色々な形態の婚姻があるだろうが、アスカは一番プレーンな解釈を示した。
「男の子と女の子で? どうして?」
シスは首を捻っている。マリはませているから何となく理解しているようだが、シスはそれよりも──年齢相応に幼く、まだ恋を知らないからだろう。
「ふつう男は女を、女は男を好きになる──どうしてそうなるのか、理由なんて分からない。神様にでも聞いてよ。でもあたしはシンジが好きなんだ。だからいつまでも一緒にいる。一緒にいたいと思うんだ」
それはアスカにとって誓いであり、願いである。一度きりの人生なのに、これまで何度となく、いや何千回と繰り返してきた、尊い願いのようにさえ感じられる。──いったい、それは、何故なのだろうか?
「──女のうちの最も美しい者よ、あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあるか。あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあって、そのように、わたしたちに誓い、願うのか」
マリが大人びた顔をして歌うように突然呟いた。アスカは一瞬、息を呑み、それからその詩の出典をすぐ理解する。
「
旧約聖書の一編だ。男女の恋を歌う詩編で、なぜ聖書に収められているのか少し違和感もあるから、神学的には神と人、神と民族との契約を結婚になぞらえたもの、あるいは神の子と教会との関係になぞらえたものなどと解釈されるようだ。しかし、本当にそうなのだろうか? アスカはそれを初めて聞かされたとき、様々な若い男女の当たり前の恋の詩だと思った。ある民族が、その基層となるアイデンティティを初めて確立する時、恋を歌うのは自然ではなかろうか。以前、ミサトが休日によく読んでいた万葉集の相聞歌のように、それは祖父と祖母の──父と母の──夫と妻の──人間の基本的関係を寿ぐものなのだから。
アスカにとって、聖書は母であるキョウコにドイツ語のみならず、日本語でも繰り返し読み聞かせられ、暗唱しているので、口や体が覚えている。アスカはマリに続いて、十節以降を
「──わが愛する者は白く輝き、かつ赤く、万人に抜きんで、その頭は純金の様に、その髪の毛はうねっていて、烏のように黒い。その目は泉のほとりの鳩の様に、乳で洗われて、良く落ち着いている」
アスカはシンジの黒髪に手を伸ばす。──烏か鳩に似ているかしら?
それから、穏やかで猛らない焦げ茶色の瞳を見る。シンジは突然の展開に不思議そうにしているが、あたしの言葉に込められた気持ちは理解してくれているようだ──とアスカは思う。
「でも──ほかの人の愛する者と較べたってしょうがない。あたしはシンジが万人に抜きんでて、他にまさるから好きな訳じゃない」
シンジは顔はまあ可愛いが──そう言ってやるとシンジは嫌がるのだが、男の子に対する可愛いは別に女の子の可愛さと必ずしもイコールではない。やっぱりどこか違うものなのだ──ごく普通の男の子だ。料理は得意で家事もそつなくこなすが、プロ級の腕前という訳ではない。天賦の才能という訳でもなく、他人の家に預けられて厄介になるという肩身の狭い生育環境が、彼にそれを強いてきただけ、それだけの事だ。
エヴァンゲリオンの操縦に関してはもちろん、他に較べるものとていない──「無敵のシンジさま」だったが、それは当時はアスカの反撥心を誘っただけだった。それだけの力があるのに、アスカの命を救ってくれた事もあれば、救おうとさえしなかった事もある。今に至っても、良くも悪くも只の高校生男子で、でもそれでいいのだとアスカは思っている。冷静に考えれば自分だって、意地っ張りでひねくれ者で素直さに欠けていて傲慢で我が儘で利己的でお天気屋で──性格的な欠陥は、枚挙に暇がない。それでも、シンジはああやって告白してくれたのだから、たしょうの可愛げは感じてくれているのだろう。
だから、他の男と比較しての優秀さとか、そんなものがシンジに拘り続けてきた本質的な理由ではなくて、アスカにも高望みする積もりはなく、むしろシンジの弱さが──自分と同質のものだから──惹かれたのだ。お互いの痛みを理解して、優しくしたいし、優しくされたいのだ。
加持リョウジのような大人の男に包容され、そうした大きな父性に満たされる、そんな事を夢見た時期もあったが、それではけっきょくは何の成長も望めないだろう。お互い、父や母のような大人の男女に甘えさせてもらうのでは意味がない。同じ歩幅で、同じ目線で足らざるを補い合いながら、ふたり歩いて行ける相手でなくては──そういう対等な異性でなければ──シンジとでなければ──と思うのは、多分に後付けの理由なのだけど、でも人を好きになるのに明確な理由はないのだから、恋愛感情を分析的に腑分けすれば、どうしても理では情を説明し尽くせない部分が残ってしまうのだ。
アスカは気持ちを確かめるように、シンジの横に並んで手を繋ぐ。
「ア、アスカ」
シンジにとって差し伸べられたアスカの指先はひんやりと冷たい。男女の体温差がそう感じさせるのだろうか。
「一緒に歩こ」
「う、うん」
二人して一行の一番前に出た。シンジは少し顔を赤らめて俯いている。あたしを意識しているのね、とアスカは少し優越感を感じた。付き合い始める前とは違う。──シンジはあたしを女としてどんどん強く意識するようになっている。二人はまだ十六歳だが、結婚を前提として交際している。一生を共にするための現在は助走期間なのだと思っている。
後ろを歩くシスはまだ疑問を感じているのか、シンジの背中をじっと見つめている。マリは鼻歌交じりに言った。
「アスカちゃんは綺麗なだけでなく、賢いのね──やっぱりステキ」
「……あんたみたいな餓鬼が、旧約を覚えてる方が凄いじゃないの」
アスカ自身も、既に飛び級で大学を卒業している天才児だ。だから、その異能とさえ言えるほどの早熟な知性には既視感がある。端から見ていて大人が薄気味悪く思うほどの知力──それはアスカに必ずしも幸福をもたらした訳ではなかった。それは大人をも含めた周囲の嫉妬を招き、壁を作り──それはあたかも『アルジャーノンに花束を』で超知性を獲得したチャーリィがやがて周囲との間に知性の壁を感じたように──、だからこそ周囲の理解を得たくて飽くなき自己の存在証明に走らせ、アスカをひたすらに孤独にした。このマリという幼女も同じなのだろうか。
「本は好きだから。それに、覚えてるわけじゃない。一度読んだ本は
容易ならざることを言って、マリは笑う。
「本の中身が……忘れられない?」
アスカは片眉を上げて、その言葉を聞き咎める。流石にアスカにはそんな特異な能力はない。サヴァン症候群の人などにしばしば見られる写真記憶とかは聞いたことがあるが、そのような異能なのだろうか?
「うん、そういう体質なのよ」
尋常ならざる異能を単なる体質とマリは軽く流してしまう。そこに、シンジが前を向いて足を止めないままに話に加わった。
「……マリちゃんだっけ──忘れられないってどういう──その、気持ちなのかな」
「マリでいいよ。どういう気持ちって、別にどんな気持ちでもない。忘れられないのは事実だから。あたしにとってはそういう物だというだけ」
「……そう」
「お兄ちゃんにも、忘れたいことがあるんだね」
そのマリの言葉は、シンジの肺腑を刺す。幼児とは思えない鋭さで、シンジの隠している部分を抉っていく。
「いや、忘れたい訳じゃない──忘れちゃいけないと思ってる。でもどうしようもなく、つらいんだ。だから時々は──」
アスカはシンジの手をぎゅっと握った。シンジの気持ちを理解して、励ますように、慰めるように力を込めて。
「シンジ……あたしにした事やしなかった事の記憶で、つらくなったら、覚えておいて。あたしはいつだってあんたの味方だ。あんたを非難する側に回る積もりは金輪際ない。あたしはシンジの妻になる──妻はいつだって、夫の味方なのよ」
「アスカ──アスカはどうしてそこまで──」
シンジはずっと心細かった。エヴァに乗っていた時、やることの全てが裏目となり、人間関係も破壊されて、一時はもうお仕舞いだとさえ思った。でもアスカが支えてくれるという。あんなにアスカに対して酷いことをした僕なのに。だから申し訳ない気持ちと共に、アスカとならば何処までも一緒に進めるという気持ちが湧いてくる。
「どうしてなのかしらね。でもこれ、愛なのよ」
「愛……」
「そう。シンジのことを愛する気持ち。愛おしく思う気持ち。お互いに許し合いたいと思う気持ち。優しくしたいと思う気持ち。優しくされたいと思う気持ち。愛は人間の中でいちばん貴い感情だから、恨みや憎しみに勝る。シンジがした事、しなかった事を知っていて、それであんたには幸せになる資格がないと非難して、あたしとシンジの未来を否定しようとする連中は、きっと、恨みや憎しみが愛より強いと思っている寂しい人たちなのよ。この世に愛に勝てるものなんか、有りはしないのにね」
そこで、不意にアスカは頓悟に至る。頓悟、それは突然の真理への目覚めのことだ。
そうか──雅歌が聖書に含まれている理由がアスカには急に理解できるようになった。神と民族との契約やキリストと教会との関係を結婚に喩えたとか様々に言われるし、民族や祖先の基層の記憶だからともアスカは解釈していたが、そういう小難しい話よりも前に、それはきっと、もっと素朴に純粋に男女の「愛」を歌う詩だから──。愛こそがこの世でもっとも大切なものだから、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書といった預言書より前に置かれたのだろう、とアスカは悟る。それは、おそらくは聖書を歴史学的、文献学的に批評する、近代聖書学の「高等批評」の立場などからは一笑に付される見方なのに違いなかったが、アスカはそうだと思った。そうであって欲しいと思ったのだ──。
「……あの、アスカ。僕はもう、アスカの事を一番に考えるよ」
「……うん」
「どうしたらいいかをちゃんと考える。アスカの為に、アスカの事を思って考えるから」
「信じてる」
シンジには、それがアスカに唯一返せる「愛」だと思うから。アスカから貰い続けている「愛」に報いるにはそれしかないのだと思っている。
長大なエスカレーターで、延々と時間を掛けて、ジオフロントから地上へと上がっていく。ようやくエスカレーターから降りた所で、手を繋いだままのシンジは、アスカの手を引いて注意を促した。
「ん?」
「アスカ、ネルフの構外に出るから、この子たちと手を繋いであげないと」
シンジは空いている手の指先で、構外の道路を走る車を指差した。
「ああそうね──」
確かに幼児たちがいきなり車道に飛び出したりしたら危ない。あたしたちが手を引いてあげないと。シンジはそういう事にはよく気が付く。いい父親になれそう──
アスカはそう思ってから、シンジとの手を離す。
今度は、めいめい幼児たちと手を繋ごうとするが、その組み合わせは何故か自然に決まった。シンジが綾波レイ№シスを、アスカがマリの手を引くことになったのだ。何故その組み合わせになったかはよく分からない。しかし、それがピッタリ、しっくりとくる組み合わせに思えた。
「アスカちゃんと一緒だ、ステキステキ!」
「ふん……転ばないでよね。そうしたらあたしも転けるんだから。ちゃんと足下を見て歩くの」
アスカがそんな風にマリに世話を焼くのを見ながら、シンジは綾波レイ№シスに問い掛ける。
「あの……キミのこと、何て呼べばいいのかな」
この小さな子を綾波と呼んだり、レイと呼んだりするのには少し躊躇いがある。シンジの知っている二番目の綾波と三番目の綾波はもういない。その名で呼ぶと、どうしても彼女たちの事を思い出してしまいそうで。
「シスでいい。それが私だけの名前だから──姉妹とは違う私だけの名前」
そう言ったシスの顔は少し誇らしげだった。
「うんわかったよ、シス。いい名前だね。僕はシンジだよ」
「別に……シスは単なる数字、フランス語で6という意味。でも、私だけの数字。シンジはどんな数字なの?」
「……あの、ごめん。僕の名前は数字じゃないんだ」
それが何故かシンジには後ろめたくて。彼女にも綾波レイという名前は無論あるのだが、通称としては数字しか与えられていない幼女に、申し訳なくて。でも、幼女はその数字こそ、自分だけの名前だと感じている。彼女にはシンジの申し訳なさは理解されない。
「数字じゃないのに、お兄ちゃん一人だけの名前? そういうのもあるのね。シンジって、誰が付けてくれた名前?」
「父さんだって聞いた。男ならシンジ、女ならレイにするって決めていたらしい」
「レイ?……シスの名前も同じ」
「うん、そうだね……」
二人の複雑な関係を想起すれば、もちろんそれは偶然ではない。綾波レイは母碇ユイのクローンだから、父ゲンドウは娘に付けるはずだったレイという名前を付けた。そして使い捨ての道具だったとしても、シンジに対しては与えてくれなかった親としての愛情を綾波レイには注いでいた。シンジが綾波に惹かれたのは、彼女に母親を求めるような気持ちと、得たくても得られない父の愛情を得ている彼女に対する羨望のような気持ちの両方があった。
「おとうさんがいるのってどんな気持ち?」
「……わからない、僕もそんなに父さんと過ごしたことはないから。でも父さんが僕の名前と命を呉れたのは確かだ。父さんがしてくれたのは只それだけだけど、それは小さな事じゃない。でも、僕は本当は父さんとはもっと……」
シスはシンジの独白に不思議そうな顔をした。
「どうしてそんなに寂しそう? シンジにはおとうさんもおかあさんも居た。最初からいないのとは違う。……シスには家族は初めからいない。おとうさんもおかあさんもいない。葛城司令に呼び出されて、しばらく一緒に暮らせると聞いた。葛城司令がおかあさんになってくれるのかと思った。でも違った」
シンジもアスカもその言葉に息を呑み込んだ。
「シスには家族はいないの。最初から。最後まで」
シンジやアスカのように親子の関係に思い煩うこと自体がシスにはない。シンジが過去を悔やみ、もし父との関係がこうだったら──と思い悩むような事さえシスには出来ない。シスにはifも後悔も思い出もない。命さえも、親から与えられたのではない、いわばまがい物だった。
だからだろうか、シンジの言葉は、ふいに口を突いて出てしまったものに違いなかった。充分な思案の後に出て来た言葉ではない。迸るような感情が、普段は大人しいシンジの心の猛りが──そう言わせたのだろう。
「違うよ。……シスと僕は親子だ」
「え? それ、本当なの?」
確かに遺伝的には綾波レイ№シスはシンジの母親と同じだ。だから親子だと言ってもまんざらの嘘ではない。そこにはシスを慰めようとする気持ちだけではなく、シンジ自身の孤独に対して自ら慰めるような気持ちもあった筈だ。
シンジはシスの確認に無言で肯いた。
「シンジがシスのおとうさんだったの?」
しかし、シンジの言葉は誤解を生んだようだった。年齢的な上下関係からは幼いシスがそう考えるのも無理はなかった。それに、子が親の半分の遺伝子を受け継いでいるのなら、親も子の遺伝子の半分を共有しているわけで、少なくとも遺伝的な関係で言えば、親と子は入れ替えても大きくは変わらないのかも知れなかった。
シンジが言葉を継いでシスに補足の説明をする前に、早くも幼女の心は弾んだ。だからシンジは説明をする機会を喪った。
「シスにもおとうさんがいるんだ! シンジがシスのおとうさんだったんだ! シスにも家族がいるんだよ!」
世界に向かって大きな声で宣言するように、愉しげな声でシスは歌う。シスは独りではない。シスにも親がいる。今まで知らなかっただけなのだ、と。
「……シス」
シンジがちゃんと手を繋いでさえいなかったら、そのままクルクルと踊り出し、車道に飛び出しそうな勢いだった。
ネルフの大人たちは、シスに親はいないと言った。死んでしまったのではなく、初めから家族はいないのだと言った。理由はよく分からないが、それは大人たちのイジワルなウソだったのだ! もしかしたらシスを驚かせて喜ばせようと思って、わざと隠していたのかもしれなかった。うん、きっとそうに違いない! だって大人の人たちは悪いことなんて絶対にしないはずなんだから!
「……っ!」
アスカは絶句した。親のないクローンのシスは、今、自分の親がシンジなのだと誤解して──本当は父親ではなく息子に相当する存在なのに──無邪気に喜んでいる。満面の笑みを浮かべて、この心から祝福されるべき家族の発見という幸福に浸りきっている。余りにも哀れだった。人間の生命の尊厳を弄んだ結果が、この複雑な、普通では有り得ないような誤解なのだとしたら、誰も救われないとさえ思った。
「何なんだよ、これ……こんなのあんまりじゃないか。この子たちがどんな悪いことをしたって言うんだよ」
気が付くと、アスカの両目から涙がポロポロと零れ落ちていた。
不用意な事を言ってしまったシンジが悪いのではない。確かに二人は遺伝的には親子なのだ。だけど、このシスの喜びようは、あまりにも、あまりにも……だった。万感胸に迫る想いに、アスカの普段の理性を守る堤防が決壊する。
アスカ自身が、親子の問題を抱えているという点でシスへの共感もある。しかし、そもそもアスカは感受性豊かな少女だった。自身の存在証明の為だけではなく、つらい思いをしながらたゆまぬ努力を己に課して、世界と人類──顔も名前も知らない誰かの笑顔の為に──誰にもそんな本音は明かさないけれど──戦ってきた少女だった。自分の承認欲求を満たす為だけなら、エヴァに乗るよりも、もっと安全で平和的、利己的な道が幾らでもある筈だったのに、アスカはそんな道を決して取ろうとはしなかった。
何よりもシンジの言葉一つに無邪気に喜べるシスに、彼女のクローンとして生み出された境遇の哀しみが滲むのが、アスカにはつらかった。一番の不幸は、本人が自分は不幸だと気付いていない種類の不幸なのだ。アスカはむろん、クローンではない。しかし普通の人間であっても、むしろ普通の人間だからこそ、クローンの痛みが分かるべきではないのか。その痛みに共感できる存在こそが本当の人間と呼べるのではないか。
「あたし、ミサトを許せない──」
「……アスカ」
「人間の気持ちを弄び過ぎだ──あたしたちは世界を救う為の道具じゃない。人間なんだ」
クローンであろうと、オリジナルであろうと、エヴァンゲリオンの適合者であろうと、なかろうと、みな人間だ。断じて他者の道具ではない。
アスカの才能で世界を救ってくれと言われたから救ってやっている。戦い続けてやっている。しかし、大を活かすための小の贄になった積もりは一切ない。あたしたちが単なる道具で、人間として扱われないのなら、そんな風にエヴァのパイロットを扱わないと滅んでしまうようならば、そんな人類は滅んでしまえばいいんだ──
そんなアスカの心の針の振り切れ方がシンジにはよく分かった。そして、シンジはそれを危ういと思う。自分の事ではなく、他人の事だから、優しいアスカは怒ってしまう。自分に対する過酷な扱いは自分の精神や肉体が壊れるまで我慢し続けてきた彼女でも、他人の事だから、幼い少女たちの事だから、素直に怒れてしまう。それはアスカの疑いようのない美質だった。美し過ぎる魂の在り方だった。でも、シンジはアスカの為にそれを心配する。脆すぎるアスカが他者とぶつかって壊れてしまわないかと心配でたまらない。だから、あえてアスカを制止する。
「ミサトさんも苦しんでいると思う──今日のミサトさん、少しだけ昔のミサトさんみたいだった。アスカの気持ち分かるけど──分かってる積もりだけど──」
「あの女を庇うの!? 苦悩や懊悩が非道の免罪符になるとでも! 信じられない、あんたはお人好し過ぎる。分かってなんかいない! 何も分かっていないんだ!」
アスカは舌鋒鋭くシンジを非難する。自分の気持ちを分かってくれないと非難しつつ、アスカの方もシンジの考えが分からない。シスの為に怒っているのは、シンジの為に怒っているのと同じだ。シンジの母親なのだ。シンジの家族なのだ。天涯孤独になったシンジにまた家族のような存在が現れて、それがあるいは良い兆候になるかもと思えたのに、またこうしてシンジの心を傷つけかねない非道がまかり通っている。だから許せないのに、なぜシンジはあたしの気持ちを分かろうとしてくれないのだ。
先ほどまで手を繋ぎ、心をあんなにも優しく通い合わせた筈のシンジによる無理解を感じて、アスカの心を絶望が満たす。
繋いでいたマリの手を振りほどいて、アスカは自宅に向かう駅の方角に駆け出して行く。
「アスカっ!」
しかし、シンジには追いかけられない。二人の幼女の命を預かっているのだ。二人を置いてけぼりにして、アスカを追いかける訳にはいかない。段々と小さくなるアスカの背中に向かって、声を張り上げる事しか出来ない。
「アスカっ、待ってよ、止まってよ!」
シンジはアスカの為に、アスカの事を第一に考えると誓ったばかりなのに、アスカを怒らせてしまった。これでは、アスカに貰った愛を返すどころではない。後悔は尽きない。でも彼女のミサトへの怒りをそのままに肯定する事はアスカ自身の為にも出来ないと思ったのだ。シンジはどうすれば良かったのだろう。何が正しい対応だったのだろうか。
マリもアスカの背中を目で追いかけながら、小さな声で呟いた。旧約聖書続編シラ書22章19節からの暗誦だ。
──目を突くと、涙が流れ、
心を突き刺すと、感情が表れる。
石を投げると、鳥は飛び去り、
友をののしると、友情は壊れる。
友に向かって剣を抜いたとしても、
望みを捨てるな。まだ和解の道はある。
友と口論をしたとしても、
心配するな。まだ仲直りの道はある──