「シンジ、そろそろ行くわよ」
「行くって、どこに」
放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。
最近、妙に既視感を感じるこのアスカとのやり取りだったが、そこから先のアスカの返事がシンジの予想と少し違っていた。
「……うーん、あんたはどこに行きたい?」
自分でシンジを誘っておきながら、アスカは戸惑っているようだった。いつもの果断即決の彼女の自信が、遅疑逡巡の不安に取って代わられている。
「へ?」
「シンジはどこに行きたいんだろ。考えても分からない。だから、決めて欲しい」
「えっと、どういうことなのかな──」
シンジが首を捻ると、アスカは形の良い顎をしゃくって、教室の前にある黒板の右下の日直の記載欄、いや、その上へとシンジの視線を誘導する。
そこには今日の日付が──2018年6月5日(火曜日)と──そう書いてあった。
「分かるかな、分からないなら折檻だけど──」
「そりゃ流石に分かるよ。僕らが付き合ってから丁度半年なんだから。正確にはきのうがその日だけど」
慌てて早口で言ったのは、日付を改めて見るまですっかり忘れていたからだが、アスカが鼻で笑ったところを見ると、そんなシンジの取り繕いはとっくに見透かされていたようだ。
「半年間、お疲れ様だったわね──あたしに付き合わせて振り回したり……」
「なんだか不吉な物言いだね。まさか半年のお試し交際期間が終わったから、もう別れるとか言い出さないよね?」
「は。情けないわね。シンジってば、まだそんな風に自信が持てないの」
「だって、さ──アスカはやっぱり、モテるし……その」
シンジは頭を掻く。シンジとの交際を学校で公言した後も、アスカは未だ隠然とした明城学院のアイドルで、少なからぬ男子が未だに彼女への憧れや未練を断ち切れないでいるようだ。
「あんたは、その話では、嫉妬する方じゃなくて、思い切り嫉妬される方じゃないの。……阿呆か」
「……うん、まあそうなのかも知れないけどね。でもさ、アスカと付き合う人はみんなそういう不安に陥るんじゃないかな?」
「仮定でもそんな人間が複数いるような妄想はやめてよ。あんたしかいないし、あんたはバカシンジだからそんな風に不安になるのよ──」
「うん」
それはそうだろう。原因はシンジの外ではなく中にある。いつだってそうだ。
「つまりは──これから、付き合って半年記念のデートだってこと?」
放課後の教室。周囲はまだ帰宅を先延ばしにする生徒たちが多数残っている。シンジの席の周りの彼らは自分の用事を処理するような素振りをしながら、それとなく、しかし好奇心いっぱいにアスカとシンジのやりとりに耳をそばだてている。
「これだけヒントをあげてようやくそこに辿り着く。シンジはやっぱりおばかさんだね──」
とアスカは笑った。
「そんなの当日に言わなくても……って一応抗議したらいけないのかな」
「だって、ちびすけたちの予定がギリギリまで見えないんだもの」
当初一週間だけ預かるという予定だったマリと綾波レイ№シスの葛城家における同居は三か月経ってもまだ続いていた。
何故かといえば、予定通りならば一週間後に用意された宿舎での孤独な暮らしへとそれぞれ戻される少女たちの運命に、アスカとシンジが待ったを掛けて、同居継続を葛城ミサトに懇願したのだ。
だから、平日の日中はネルフ構内の託児施設に預けられている二人を、アスカとシンジが放課後に迎えに行ったりもしていた。マリとシスを引き留めた時に、「自分たちも出来ることをするから! だから二人をこの家に居させてあげて!」と懇願して、約束したからだった。
ミサトは相変わらず冷たい無表情の仮面を被ったままだったが、やがてぼそりと言った。
「あなたたちに大人の気持ちで、子供みたいな我が儘を言われると、私は子供の気持ちで、大人のように却下をしなくてはならなくなる。でも、そこまで見苦しい事は出来ないわね」
「ミサトさん……」
ミサトの説明はよく分からなかったが、それでも以前とは何かが変わったようにシンジは感じた。
いくらネルフの司令として高禄を食む身であろうとも、多忙を極める仕事をしながら子供四人を養うのは容易なことではない。まだ結婚もしていないミサトが母親代わりのような事をするだけの経験も義務もない。
だからシンジとアスカはミサトを助けるために出来るだけの事をしなければならない。「いい子にする、何でもお手伝いをするから!」などと、子供がクリスマス前にプレゼントをねだるためだけにするような、プレゼントを貰ったら直ぐに忘れてしまうような──いい加減な約束であってはいけないのだ──
だからアスカとシンジ、二人の日々はそれから幼女二人を半ば中心にして動いている。
「まあ分かるけど。……今日はマリとシスは夜まで起動試験だっけ。ミサトさんと一緒に帰るって連絡来てたね」
「そう、チャンスなのよ。たまのコブナシの日なんだから、おデートしましょ」
アスカはシンジの前の誰かの席の椅子を勝手に拝借し、後ろ向きに座って、シンジと机を挟んで向かい合わせになる。
「さてと。あたし一人じゃやっぱり決められない」
シンジにはそれが何故だか分からない。
「アスカにも行きたい所ぐらいあるでしょう? いつもなら、強引にでも僕を引っ張っていくのに。どうしたの?」
「──こないだの、ひな祭りの一騒動でさ」
「うん」
「シンジは──何だかあたしより先に羽ばたいたような気がしているんだ」
「えっ」
「あんたはあの時、大人になってた。瞬間風速的なものかも知れないけど。でもそれがあたしには少し眩しくて……」
シンジには全くそんな自覚はなかったが、だが、アスカの主観的にはどうやらそういうものらしい。瞬間風速的な成長というのには、素直に喜んでいいものか戸惑うのだが……
「だから、何でもあたしが仕切るというのも違うのかな、と思った訳よ。あんたの自主性もちったあ重んじて……」
「良かった」
シンジは破顔した。ついアスカをからかう様な軽口が出てしまう。
「これで、もう──アスカの
「はあ? 調子に乗んな」
アスカはシンジの額に軽くデコピンをする。
「っ……痛てっ」
「まだまだ尻に敷くわよ、当たり前じゃないの……あんただって、あたしの尻に敷かれるの嬉しいくせに」
「それはまあ……」
シンジは痛むおでこをさすりながら、苦笑する。確かに、他愛のないアスカの「威張りんぼう」っぷりには愛おしさや可愛らしさを感じることもある。もちろん、シンジだって、アスカがやいのやいのと偉そうに指図をするとムキになって反論することもあるのだけれど。
だけど最近はアスカがそんな風にするのは、ある種の不安もあるのだろうなと感じていて。──自分からシンジが離れていくのではないかという不安。シンジが何かを間違えてしまうのではないかという心配。そうした懸念を完全にぬぐい去るのは多分不可能なのだろう。
何しろシンジには一度はアスカを見捨てた前科がある。本部決戦では量産機の魔手からアスカを救おうとせず、自分だけの殻に閉じこもっていた。だから先手を打って、アスカがシンジを束縛、拘束したいという気持ちも分からないではない。
「あたしがちゃんと方向性を示して、リードしてやらなくちゃ、バカシンジなんかどこに行くのか分からない」
「……羽ばたいたんじゃなかったの?」
「その後もどこかフラフラしてんのよ」
アスカはシンジを睨み付けるが、しかし、ふっとその表情を緩めた。
「でもま、デートの行き先ぐらいは決めさせてやってもいい。そういう所から訓練して行かなくちゃ。いい男になれるようにね」
「うん……」
照れくさそうなアスカの表情を、シンジも同じような顔をして見つめながら頷いた。
仕切り直して、二人は机の上で見つめ合い、掌をそっと机の上で重ねる。そうだ、大切なのは過去じゃなくて、未来だ。
「どこ行こうか、シンジ」
「……うーん。もう放課後だからなあ。あまり遅くなる訳には行かないし」
どうせ、黒服の保安部員が気付かれないようにアスカとシンジを尾行しているのだろうが、それでも帰宅が遅くなったことで騒ぎになるのはイヤだった。
シンジにも行きたい所はある。この間、放課後にアスカと寄ったショッピングモールで、アスカが服を見ている間に、隣のRADIOなんちゃらという名前のスポーツ用品店で見かけたFILAのスニーカー。カラーリングがパープルをキーカラーにしていて何処か初号機みたいで、だからだろうか、隣のレッドをキーカラーにした同じモデルのスニーカーと合わせてアスカと二人で履いたらお揃いだよな、なんて思ったりもして。限定モデルだからちょっと欲しいなと年相応の高校生男子として思うのだが、まあ僕のお小遣いじゃ足りないか──
頭の中に浮かんだ自分の行きたい所をすぐに振り払って、シンジは口に出しては次善の案を提案する。そうだ、僕だけが楽しくたってしょうがないじゃないか──。二人で楽しめなくっちゃ。やっぱりそうなると観光地みたいな所が一番だけど……。
「そうだ、
「聞いたことはあるけど無いわね……、観光に来日したわけじゃなかったから、ね」
「実は僕もないんだ。近所では、かなり有名な観光地なのにね」
学校から行くとなると、箱根ロープウェイの
「でもシンジ。あたしとデートだってのに、最近は随分落ち着いてるのね」
「そうかな?」
「うん、ちょっとはドキマギしてくれるのかな、と思ったけど。……もうあたしに飽きちゃった?」
「そんな事は」
ある筈がない──と、シンジは心の中で堅く否定する。
「アスカと付き合い始めてからまだ半年だけど、アスカとは知り合ってもうそろそろ二年だし。それに……」
「それに?」
「ヘンな話だけど、アスカとは最初に出逢ったときから別に緊張しなかったんだ。なんだか初めて会った感じではなくて、昔からの知り合いや幼なじみみたいで……」
「何をナンパ師の口説き文句みたいな事を」
でも不思議とシンジの説明には納得できるものがある。こんなにもアスカがシンジ以外の男を眼中の外に置いているというのに、それでも嫉妬して不安になるシンジが、しかしアスカとの会話では出逢った最初の時から特に気後れすることなく話せている。他のアスカに告白してくるような男子たちは、面と向かって話せなかったり、勇気を出しても話が続かなかったりするのが殆どなのに。
シンジは他の男子に対しては嫉妬もするし自信を持てない所もあるが、アスカに対しては引け目を感じている訳ではない。それは奇妙に矛盾している気もするが、アスカにはむしろ自然に思える事実だった。
「でも、分からないでもない、あたしも同じように感じてた。古い馴染みのようにしっくりくる感覚。あたしも同い年の男子となんか話したこと無かったのに、あんたとは別に構えることなく話せてた」
そうだね──とシンジも肯いた。
「これは単なる妄想だけど──あんたとあたしは別の世界でも何度も何度も巡り逢っていて、そこでもきっといつも幼なじみとか恋人とか夫婦とか、そんな近しい間柄になっていて、だからそんな風に思えるのかも──」
何の根拠もないが、アスカにはそんな風になぜか思えたのだ。
「アスカは乙女だね」
「悪い? バカにしているの?」
「違うよ。ロマンティックだな、って──とても可愛いと思うよ」
「ばか」
一時期、日本では転生ものの恋愛漫画などが一大ブームを巻き起こした事があったし、それは極東の島国ばかりではなく、世界的流行にさえ広がったことがあった。以後、定期的にその手のブームは再燃する。
女の子はいつだって、運命に定められた世紀の大恋愛が大好きだ。だからアスカも、シンジとの間がそうであることを念願する。運命に邪魔をされ、引き裂かれたとしても、きっといつかは巡り逢って結ばれる。今はそのきっといつかに当たるのだ、と。
「ね。アスカ行こうよ、大涌谷」
「うん、シンジが連れて行ってくれるのなら──地獄だって、どこだって、あたしは行く」
大涌谷は別に地獄じゃないよとシンジは苦笑するのだが──。
あの赤い海の浜辺をくぐり抜けた以上は、もうどこにだって行けるのだ。たとえ、そこが苦しみばかりの世界だったとしても、運命で結ばれているシンジと二人で一緒ならば。アスカはそう堅く決めているのだ。
◆
姥子駅から大涌谷駅まではロープウェイでたったのひと駅。時間にしたら八分ほどに過ぎない。平日の夕方近く、観光客でそこまで混んでいる訳でもないのだが、それでもロープウェイに乗っている時間の倍以上を乗る順番待ちに使わされて。
「わあ──こんなの初めてよ」
「うん、アスカ。確かにこれは凄いよね……」
しかし、待たされただけの甲斐はあった。これは確かに絶景だ──とシンジとアスカはガラスに顔を引っ付けるようにして景色を眺め、互いの顔を見合わせては、息を呑む。全面ガラス張りのゴンドラの四囲からはどちらを見下ろしても谷、また、谷。ロープウェイの高度から見下ろす大涌谷は、まさしく大渓谷と呼ぶに相応しい雄大さで、実のところを言えば、水蒸気爆発や火砕流による崩壊地形としての斜面であるにも関わらず、まるで造化の神がわざわざ下から斜面を段々と積み上げて拵えたような偉大さを醸し出していた。
八分間の絶景はあっという間に終わり、アスカとシンジはロープウェイを降りて、駅を出る。
駅前の売店施設くろたまご館の前にある、黒いたまご型のモニュメントの前でちょっとだけ順番待ちをしてツーショットの写真を──親切そうな女子大生風のお姉さん二人連れに取って貰ってから、大涌谷一番の目玉を購入しようとする人だかりにアスカとシンジは加わった。
「これが名物の黒たまごかぁ」
大涌谷に湧き出す温泉池に浸して茹でたそのゆでたまごは、鉄分と硫化水素が反応して、殻が硫化鉄の黒色に見事に染まる。これが名物黒たまごだ。
黒い紙の包みに温泉たまごが五つ入って、五百円。たまごにまぶす塩付きだ。小腹も空いていた二人は早速一包みを買った。
殻は確かに真っ黒で、少し硫黄の臭いもするけれど、殻を剥けば中は、白い至って普通のゆでたまごだ。
アスカとシンジは近くのベンチに腰掛けて、綺麗に剥いたたまごを一つずつ、それぞれ大きく開いた──自分ではなく相手の──口の中にちょんと放り込んだ。つるんとしたたまごが恋人の手により、相手の口腔の中に呑み込まれるのは、何故かしら、ちょっとだけエロティックな光景だ。
「よく噛むんだよ、アスカ」
「ううむっ……はむはむ……んぐ……ごくっん……んまぁ、普通のたまごよね……」
アスカが口の中一杯にゆでたまごを頬張って、咀嚼した後で、素直な感想を呟いた。
シンジももぐもぐとしていたが、綺麗に食べ終わるまで待ってから口を開いた。
「……うん、でも一個食べると寿命が七年伸びるらしいよ」
口の中が少しパサパサする。それでも二人は相手が食べ終わったのを確認してから、お互いの口の中に二個目を放り込む。まるで親鳥が雛に食餌を与えるみたいに。甲斐甲斐しく相手の世話をして。相手の口の中にたまごが入ったのを見届けると、膨らんだほっぺたを指先でつついて、からかってみたりもする。
「えひっ。ひんじ。こいふめ、こいふめ!」
「ひょっと……もが……ひゃめてよ、あふか。たべにふいから!」
それでも妨害や茶々入れにもめげずにようやく二個目を胃の中に収め込むと、アスカもシンジも些かこのたまごにうんざりし始めていた。
「はん。一個で七年? ……バカバカしい、迷信でしょ。でも本当だとしたら……残り一つは半分こしないとあたしとシンジの寿命にバラつきが出るわね」
「もともと女の人の方が長生きだけどね」
「男は暴飲暴食、タバコ、大酒……どうせそういう生活習慣で寿命を縮めてるだけでしょ。でもいいわ。三つ目はシンジが食べなさい。それで男女差トントンよ」
「ええーっ。夕食前にゆでたまごを三つも食べたくないなぁ……」
「駄目よ。あたしはもう一人で残されるのはイヤなんだから……」
アスカが差し出した黒たまごの包みをシンジは受け取って、そっぽを向いて見えないアスカの視線を想像する。多分、それは恥じらいを含んでいて、それでも真剣で。だからそんな顔でアスカは、シンジの顔を直接見れない。
「うん、ありがとう……」
別に黒たまごの効果をそこまで信じた訳じゃない。でも、アスカがずっとシンジと──それこそ共白髪になるまででも──いつまでも一緒に居たいと願っているからシンジに余分にたまごを寄越したのなら、シンジは喜んで三つ目を口に運ぶに決まっている。
──しょうがないな。夕食は、二品減らそう。
たまごをなんとか食べ終わったシンジが決意すると、アスカは思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。ちびすけたちやミサトにももう一個買って帰ろう。お土産にね」
「アスカ、帰りでいいじゃない。荷物になるし……」
「帰りじゃ売り切れちゃうかも知れないでしょ、だって七年寿命が延びるんだし! ここで動かず待ってなさいよ、すぐ戻るッ」
シンジが止めるのも聞かず、アスカは駅前の売店にとって返す。シンジは目尻を下げて、それを見送った。
「そんなにすぐ売り切れる訳がないじゃないか。……七年とかすっかり信じちゃってるし」
賢いようで、アスカもどこか抜けている。おまじないのような物を前にしては、飛び級で大学を卒業していても、全く年相応の少女に過ぎない。欠点や短所が目立つ程に沢山ある。だから、シンジもアスカを色々補ってあげられる。それは多分嬉しいことなのであって──。
「しかし、凄い景色だな……」
ベンチから立ち上がって、奥に広がる大涌谷の園路を眺める。もうもうと立ち上る噴煙や鼻を突く硫黄の臭いが、そして火山ガスの影響で立ち枯れた今にも折れそうな木々が、奥手にある雄大な山嶺との対比を成して、遠近感を強調している。
冠ヶ岳の北側に位置し、今なお地熱で活発な噴気を上げる斜面が、大涌谷だ。先ほどまでロープウェイで天の高みから見下ろしていた高低差のある地形を、今度はその底の方から見上げていると、自然の雄大さを思わずには居られない。二年ほど前は、こんな巨大な自然の中を自分やアスカや綾波レイが紫や赤や青色の巨人を繰って、天人のように駆け抜けていたのだから、夢みたいな話でもあった。
「昔は地獄谷とか大地獄とか呼ばれていたらしいよ。とっても偉い人がここを訪れたから、その時に名前を変えたんだって──」
シンジの独り言に対して振り返って声を掛けたのは、前に立っていた白いワンピース、白いつば広の帽子──そんなフェミニンな格好をした、シンジと同じ高校生くらいの少女だった。
「へぇ、そうなの。アスカが地獄と言ってたのも、まんざら的外れじゃなかったのかな──」
と思わず知らない女の子に返事を返してしまったシンジの脳裏に、同じように白いワンピース、白いつば広の帽子をかぶった母親──碇ユイのイメージが瞬間、蘇る。
未だ幼いシンジの前に、目線を合わせるためにかがみ込み、何かを話している。見たことなどない、覚えているはずなどないのに──そんな夢か幻のような記憶だ。
息子であるシンジの名を呼びかけるまだ年若い女性、その姿が目の前の同い年くらいの少女の面影に重なった。
だから思わず──シンジは──
「母さん……?」
シンジは慌てて、突いて出てしまった言葉を押し戻すように口を手のひらで押さえた。
なぜ少女のことを母のように感じたのだろうか。
声だろうか──少女の声は今はもう居ない綾波レイの二人め、三人めに少し似ていた。綾波レイ№シスの声にも似ているかも知れない。つまりはシンジの記憶にはっきりと残っている部分では聞いたことは勿論ないのだが、──母に似た声質とも言えるのかも知れなかった。
「……あたし、あなたのお母さんに似ているの?」
「い、いや、そういう訳じゃないけれど」
シンジはそもそも母親の顔を知らない。写真も父親が全部処分してしまった。多分、母の顔立ちは綾波レイに似ているのだろうと思うけど。
この子の顔は、当たり前だけど──綾波とは違う。でも雰囲気にはどこか似通った所があって。
「知らないんだ、母さんの顔。子供の頃に亡くなってるし」
「ふうん」
いきなり母親の事など──客観的に見れば変なことを言い出したシンジの事を、しかし、軽蔑したり、薄気味悪がるでもなく、少女はむしろ興を催したようだった。でもシンジの母が亡くなってると知っても、安易な同情などは見せなかった。淡々としていて、それがシンジにはかえって心安かった。
「あたしにも親は居ないよ」
突然の少女の告白。初めて逢ったばかりで互いに名前さえも知らないのに、そんなに明け透けに個人的な事情を少女は知らせてきて。でも、それは不幸を嘆くでもなく、誇るでもなく──事実を告げているだけのことで。
──なんでキミはそんな風に笑えるの?
そんなシンジの無言の問いかけに。
──だって最初から知らない親のことでは嘆けないよね、彼女はそう笑いかけているようで。
「そうなんだ──」
シンジは哀しい告白であるのに、自分と同じだねと微笑みながら、頷く。そして、少女とこんな風に言葉を交わしたのは初めてではないと、強烈なデジャヴを感じる。
無限に繰り返すループの中、僅かずつ違う分岐を一万通りもなぞるように同じ時間を繰り返して、その中にその出逢いもまた確かにあったのだ。アスカとの出逢いと同じように──。
「キミは一体──」
「あのね、あたしの名前は──」
しかし、シンジはその続きを聞けなかった。
「何をしているのよ、あんた」
へ? とシンジが振り向くと、黒たまごの包みを結わえた紐を片手にぶら下げたアスカが立っていた。
「いや、今そこの子が──」
そう言って、アスカにも少女を紹介しようとするがそこには誰も居なかった。
雲のようにかき消えて──幻のように白い少女はいなくなっていた。
夢? まさか──。
でも世の中には白昼夢というのがあるとも聞いたことがある。
「はぁん? 誰もいないじゃないの」
呆然と立ち尽くすシンジの目の前で、彼の視線を確かめるように前に回り込んだアスカは手を振ってみせる。更にはそのまま、シンジの額にひんやりする掌を当てて。
「熱はないみたいね──」
「そうなのかな」
「何を言ってるのよ、あんた」
あの子が幻なら、僕はむしろ夢を見ていたようなもので。熱ぐらいはあっても、不思議でない。
「さあ、大涌谷を探検しましょ。あんたがあたしを連れてきたんでしょ」
それはその通りなのに、シンジはどこかあの少女の事で気を取られていて。
せっかくのデートなのに、アスカにその気持ちをすべて注ぎ込む事が出来ないでいる──。