最後の希望 ベテランウマ娘、8年目の地方転戦【完結】 作:兄萬亭楽丸
"チャンピオンズカップ"前日。
"帝王賞"に続いてのホテル前入りを行っていた私は、寒気に反応して目を覚ます。
時計は…午前5時前。
風呂を沸かす間に資料を読み進めるつもりだったが、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。給湯システムが自動でお湯が止まるタイプだったことに救われた。
窓の外から覗く街は未だ寝静まっており、眼下の大通りには長距離輸送のトラックが走り抜けていくのみだ。
まだ黒一色の空を横断する飛行機両翼の航空灯が明滅し、ひときわ明るい星のように見えた。
日常業務であれば起床している時間ということもあり、目が覚めてしまったのでこのまま起きることにした。
部屋の換気を終えたところで風呂を沸かし、その間机に散らばった資料を一箇所にまとめる。
能力の衰えを前提に入れたトレーニングおよび休養計画、食事メニューをまとめた手帳。
新聞などから抜き出した、各出走者の直近のレース記事。
それらのレース映像を図式化したノート。
抗うだけ抗うと決めてから、これまで各出走者の傾向・対策に取る時間は大幅に増えた。
皮肉なことに、デビュー以来今が一番レースに対して
…最中、月刊トゥインクルのチャンピオンズカップ特集の記事を目にとめる。
尾花栗毛のロングヘアーに、黒のローブを基調とした勝負服、彼女の写真の横に猛々しく置かれた"聖母帰還"の文字。
"BCディスタフ"を制したマリアークラレンスが、明日の"チャンピオンズカップ"参加を強行したのだ。
私のように"JBCクラシック"から連闘で臨むことは珍しいことではない。昨年のクラレンスも月末の"東京大賞典"含めての三連闘を行ったのは以前説明した通りだ。
しかし海外遠征を挟んだクラレンスは昨年とは大きく事情が異なる。
そうした制限があってなお明日のレースを選択したのには、陣営による何らかの強い意志があるのだと思われる。
そうした懸念点を抱えても尚、出走メンバーの中でマリアークラレンスは圧倒的一番人気に居座る。
他にG1ウマ娘が私含め6名いるが、人気差は圧倒的。話題の中心はクラレンスに対し
他の不安材料を
ホテル提携のジムで、筋力トレーニングを中心に瞬発力を高めるメニューを行う。
少しレース場会場からは遠くなったが、東海方面にも以前宿泊した系列のホテルがあったのが救いだ。
数字は残酷である。
トレーニング器具を使い正確な計測を行うことで、これまでなんとなくで感じていた衰えの兆候が、具体的に数値という形で可視化されていく。
数値上の衰えは瞬発力だけではなく、長くトップスピードを維持するための筋持久力にも僅かながら現れていた。
明日の1800メートルを走り切れるか不安が頭をよぎったが、考えることをやめた。
「今の状態で3週間間隔の出走を繰り返すことで、どれだけ疲労が重なるかは未知数です。ロングスパートは
抗う、とはいったもののクラレンスが出走を表明したことで、ただでさえ私の出走に及び腰だった代表は
今回の出走を許可していただいただけでも相当な温情をいただいているのは確かだ。
出走が近づく。
中京の土を踏みしめ、足元を確認する。…感触は悪くない。
ゲートまで一歩ずつ歩みを進めていくうちに衰えの恐怖は薄れていき、代わりに勝利への思いが
行けるかもしれない。
今回出走していないバルボアと担当も観戦に来てくれている。バルボアにとっても、このレースは肉眼でクラレンスの走りを確認するのにちょうどいい機会だったからだ。
ただ彼女はそれ以上に、私の周囲を取り巻く異常な空気に対する答えを一刻も早く知りたいのだと思う。
…この答えはレースが明けたら私の口から語ることにする。
私のウマ番は大外、16番。一つ深く息を吐き、ゆっくりとゲートの中に入る。
程なくして、ゲートが開いた。
2名が先頭を争う他は大人しくそれぞれ行きたい位置に収まる、おとなしいスタートになった。
そのまま第2コーナーを回り、向こう正面に。私は後方集団に位置取り、足を溜める。
先頭を走る二人は最初からペースを落とし、最後まで脚を残すための走りをしている。
最後方まで差はさほどなく、占めて8バ身程度に収まっているようだ。
後方にいるクラレンスを警戒している以上は、逃げウマ双方は最後まで余力を残しておきたいのだろう。
※普段バルボア陣営が取っている序盤ハイペースなレース展開は、本来であれば後方脚質のウマ娘を有利にしてしまうものである。バルボアは中盤にペースを落とし足を溜めることで、後方からの差し切りをさせないようにしている。
前を争う二人は残り800メートルのハロン棒を通過しようとしている。
目の前には大きく曲がるコーナー。此処からは下り
全て試算通り。外に付けている私を妨害する子もいない。
気持ち一瞬だけ外に膨らみ、先頭の位置を確認。一瞬力を溜め、今取り付いている集団からゆっくりと離脱する。
あとは衰えた加速力を下り坂の勢いで補い、徐々にギアを上げていく。
──後方集団オマツがいて、ラストスタンディン外から上がっていくか、一バ身開いて最後尾はマリアー…
──クラレンスだが、ラストスタンディンが一気にスパート!すでに四番手に取り付いて先頭をうかがう勢い!
観客席からのどよめき。
そうだろう。私も9年間の競走生活で初めてとる戦法だ。
加速さえつけば、思った以上に最高速度を維持するのは容易い。
脚から伝わる感触も悪くない。…行けるかもしれない。
──行った!最後方マリアークラレンスも上がってきた!
やはり来たか。
私が先頭二人を越そうというところで飛んできた一際大きいどよめきに、一瞬耳を絞る。
状況確認のため後ろにやった耳からは独特の歩調こそ聞こえなかったが、
聖母の仕掛けを機に、他のウマ娘も一斉にスパートを掛け始めた。
それでも下り坂が私に欠けている加速を補助してくれたお陰で、先に仕掛けた分の優位は確保できている。
──第四コーナーを回ってラストスタンディン先頭を保っています、集団横一列は僅かにブエナビスタクラブ前に出ているが未だ2バ身差!
──ラストスタンディン先頭で、ゴール前の坂に突入する!マリアークラレンス左右に閉じ込められて苦しいか!
集団は混戦で、実況からは肝心のクラレンスの位置は判断できない。
それでも、先頭で最終直線に到達した。2番手とは4バ身…いや、3バ身半。
既に呼吸は荒く、己の限界が近いことは嫌でもわかる。坂を上りつつ、残り400メートル程を走り切らなければならない。
しかし、これしきの障害は"東海ステークス"で乗り越えている。このまま粘り切れば………勝てるかもしれない。
………心の片隅に"後方集団が上手く潰れてくれれば、クラレンスのスパートは止まるのではないか"…と、本来恥ずべき考えが
──いや、内を抜けた!マリアークラレンス来た!クラレンス猛追!先頭ラストスタンディンまで残り1バ身!
愚考は杞憂に終わり、聖母は私の想像を超えてきた。
半年前の彼女は既にそこにおらず、トップスピードを維持したまま集団を抜け、私を射程圏に
聖母はどのようにしてバ群を避けてきたのか?
アドレナリンで鈍化する時間の中、聴覚をクラレンスのいると思しき方面に集中させ、ようやく理解した。
彼女の走り方は今、"JBCクラシック"や過去の研究動画で幾度となく聞いた
バ群を
聖母のスパートは本来、
この走り方は以前も指摘したように急な進路変更に弱い。
おそらくその欠点を克服すべく、歩幅ではなく
またこの走法であれば、ゴール前の坂も姿勢を崩さず走ることができる。走るべき戦場に対応する、理にかなった走り方であった。
──外からヴァルカンエキスプレス、タンホイザーゲートとエリアオブナインも抜け出したが勝負は先頭二人に絞られた!
──マリアークラレンス並ぶ!耐えるラストスタンディン!ここからは根競べに…
残り200メートル。急勾配を乗り越え緩やかな坂に変わった所で、
──いや、代わった!代わった!マリアークラレンスだ!!!
── マリアークラレンス突き放す!まだ末脚を残していた!!!
クラレンスはさらにギアを上げた。
歩幅を大きくとる旧来の走法に戻し、私の外を
聖母の後姿を視界に認めたところで、もはや私には抜き返す末脚も胆力も残っていなかった。
私はバ群の中に沈んだ。
──最後は完全に突き放しました!圧勝と言っても差し支えないでしょう!マリアークラレンス、アメリカに続き国内でも約一年ぶりのG1勝利を決めました!!!
完走はした。
…呼吸が痛い。喉から血が出そうな感覚は久々だ。
想定以上に酷使された肉体は、何とか身体を支えつつ呼吸を繰り返すことが精一杯だった。
まさか、肺活量まで衰えているのだろうか。
『 …期待に応… …ます。東京大賞典にも出走を… 』
立ち尽くしていたところでようやくスタッフに促され、バ道に戻る。ウィナーズサークルでは既にインタビューが始まっていた。
私の意識は薄れかけ、耳から聞こえる情報も所々おぼろげになってしまっていたが、"東京大賞典"の言葉は確かに聞こえた。
このままいけば、彼女とは再度、月末に対戦が待っている。
"東京大賞典"には、バルボアも出走を表明している。
ただ、私には成長の余地はすでにない。それどころか、月末までにさらに衰えが進む可能性だってある。
残り200メートルで先頭を許した今… 今月末の私に、今の聖母が止められるとは到底思えなかった。
絶望感を感じた。
バ道に引き上げる前、私のウマ番なぞあるはずもない掲示板を
結果は11着。移籍以来、はじめての二桁順位。
これでよく解った。
私
「………無事に、怪我無く戻ってきましたね」
代表は私を傷つけまいと必死に言葉を選び、私を出迎えた。
数字は残酷である。
能力の衰えをスタミナ切れと着順という形で直接示されたことにより、2度目のG1を勝ってセンターに立つ夢は最早果たせなくなったことを感じ取っていた。
またそれを認めることは、"東京大賞典"を諦めることも意味していた。
仮に、私が出走を取り止めると言えば代表は了承するだろう。勝ち目のないレースに出ないことは決して恥ではないからだ。
ただ私は逆に、むしろ東京大賞典に出るべきだという結論に到達した。
それは曲がりなりにも私が"G1ウマ娘"として西都レース場の代表に立っている今、何としても成しえなければならない使命があると悟ったからだ。
"控室に担当とバルボアを、呼んでください。今すぐにでも、話したいことがあります"
"…東京大賞典を最後に、現役を退くことを考えています"