いつの世にも、悪は絶えない。
その頃、徳川幕府は、火付盗賊改方という特別警察を設けていた。
凶悪な賊の群を、容赦なく取り締まるためである。
独自の機動性を与えられたこの火付盗賊改方の長官こそが長谷川平蔵…人呼んで、鬼の平蔵である。
「今より、この嶋田左近が、そちの夫だ」
理由は……わかっていた。
その男が、むすめ時代に愛して、無惨にもその仲を引き裂かれた、かつての想い人に似ていたからだ。
あのひとが歳をとれば、ちょうどこんな面差しになるかしら…と思わせるに充分なほどに。
不貞をしたと自分を詰った、愛した男のあの日の面影に、忘れたはずの哀しみが、篠の心の奥にゆらりと、陽炎のように立ち上がる。
だが。
「……やはり、似ておりますか?」
「えっ!?」
不躾にまじまじと、その顔を見つめてしまっていた自分に、向けられた嶋田の微笑んだ顔は、似ていると思った面影よりも、遥かにやさしげに篠の目に映った。
☆☆☆
妻女に刺殺されたという下級旗本の名を聞いて、火付盗賊改方同心・嶋田左近は、おやと思った。
その男の名に、聞き覚えがあったからである。
嶋田は分家の養子に入った身で、本家はこの度、兄の長男が家督を継ぐことになっている。
その下に二人の弟がおり、彼らはやはり養子に入った先で、それぞれの家庭を持っているが、次男の方がまだ今の養子の口が決まるより前、どうしても一緒になりたい女がいると言って、その時自分がお膳立てしていた縁組の申し入れを、断ってきた事があった。
後日、女の方に別の男がいたとの事でその話はなかった事となり、結局は先にお膳立てをした家に婿入り養子縁組して、今は良き妻子に恵まれているが、その時に出てきた男の名が、その本間彦四郎だった筈だ。
もしやすると、それを刺殺した妻女とは、その時に甥を捨てた女ではないかと、はじめは単なる興味で、
最初は、夫を手にかけたにもかかわらずのその太々しい態度に、さすがに甥を騙して二股をかけていた女だと思った。
……真相は、全く違った。
夫を刺殺したのは、それに穢されそうになった小女を助けようとしてのことであった上、そもそもその男の妻となったこと自体が、彼女の本意ではなかったという。
あの時、自分も含めた事情を聞いた者全てが、潔白を訴える彼女を信じなかった。
誰か一人でも彼女の言葉に耳を傾けていたなら、このような事は起きなかったのに違いない。
この女の不幸には、自分も関わっている…嶋田は、そんなやり切れない思いを抱えて、その日は
…そう思ったとても、それだけであった。
その時の嶋田は、知らなかった。
自身が再び、彼女と深く関わることになる事を。
☆☆☆
「喜多やさんの塩饅頭は、父の好物でございました。
むすめ時代、お稽古ごとの帰りに、よく買って帰りましたものでございます。
わたくしは嫁いでからは実家に縁を切られたも同然でございましたし、夫だった人は甘いものがきらいでしたので、お土産を買って帰るどころか、立ち寄ることがそもそもなくなりましたが…。
あのお
眉根を寄せて痛いような表情を浮かべながら、篠は一度深く息を
時折立ち寄った時に見覚えた顔を、思い浮かべてでもいるのだろう。
「一昨日の夜の話よ。
朝になって、店の開かぬことを不審に思った客が、勝手口が開いているのを見つけて気付いたそうだ。
一家使用人に至るまで皆殺しにされ、その中にはまだ年端もゆかぬ幼子までおった。
まことに許せぬことよ…そちもそう思うであろう?」
平蔵の問いに、躊躇いなく頷く篠。
一年前、夫殺しとなったあの時まで、ごく普通の武家の妻女として生きてきた篠を、平蔵が火付盗賊改方の密偵としたのは、その正義感を見込んでの事だった。
これといって特徴のない篠の姿形が、どのようにでも拵えがきくと思ったこともある。
(実際には、生まれながらの武家の娘として教育を受けた所作や言葉遣いがどうにも抜けず、町やに溶け込むには無理があったので、そこだけは見込み違いであったが)
加えて、実は篠には、腕にいささかのおぼえがあった。
娘時代を迎えるより先に亡くなった母方の祖父の気まぐれで、篠は幼い頃より小太刀の手ほどきを受けており、嫁いでからは稽古に出る余裕などなかったものの、その基礎は身体に染み付いている。
もちろん酒井祐助や沢田小平次といった、免許皆伝の腕をもつ遣い手に敵うはずもないが、二本差しで腰がふらつく今どきのさむらい相手であれば、決して後手に回ることはないだろう。
武家のむすめの嗜みであり、いざという時に身を守るため必要と、習い覚えさせられたものだそうだが、実のところ教えた祖父以外の家族は皆、女が剣を取る事を、
『
と見做していた。
それが故に本人も、それを吹聴する事がなかった為、夫となった本間も、まさに己が死ぬ段になるまで、その事実を知ることはなかった。
その事を聞いた時には平蔵も驚きはしたが、確かにそうでなくば、いかに丸腰であったとはいえ大の男、しかも曲がりなりにも武士の端くれである夫を、出歯のひと突きで仕留めることなど、ただの女にできたはずもなかったと納得したものだ。
もっとも本人からすれば、そんな腕があったとても、女として一番守りたかったものを守るのに、
『いささかも、役にはたたなんだ…』
わけであるが。
そんな篠は、平蔵の言葉に頷きはしたものの、少しだけ考え込むように再び眉根を寄せた。
その視線をゆっくりと上げ、しかと目を見据えて、平蔵に問う。
「…はい。
ですが、その件になにゆえわたくしを?」
初めて会った時と同様、見た目の割に胆力のある女だと、その視線に苦笑すると共に感心もしつつ、平蔵が篠の問いに答えを返した。
「うむ。
実は喜多やのあるじの妹は、我ら火付盗賊改方の同心がひとりの、妻女であった。
だがその妻女も半年ほど前、遺書を残し大川に身を投げておる。
半年前のあるじの妹の死と、此度の押し込み。
ただの偶然と片付けるにはどうも釈然とせぬ。
そこで、死ぬ前のお八重…その死んだ妻女の行動を、改めて調べさせてみたところ、死ぬまでの数ヶ月、ある貸本屋へ、足繁く通っていたという」
平蔵がいうには、そこでは武家の妻女や娘たちを中心に、なにやらの同好の集まりが催されていたらしい。
が、事件の後、その貸本屋は店をたたんでおり、そこに参加していたとおぼしき者が何人か浮かびはしたものの、彼女らは示し合わせたかの如く、その集まりへの参加を否定したという。
ゆえに、その集まりがどのような内容であったか、貸本屋のあるじがどのような者であったか、一向に調べが進まぬのが現状であったのだ。
そんな中で、平蔵が思い出したのが、篠の存在だった。
「同じ立場の女にならば、心許すやもしれん。
そこで、おぬしの出番というわけよ、篠。
おぬしには武家の妻女に戻ってもらう。
今より、この嶋田左近が、そちの夫だ」
…そして、冒頭に戻る。
☆☆☆
「貴女とかつていい交わした仲だった桑田源次郎の父親は、私の兄。
つまり源次郎は、私の甥なのです。
あの子は昔から、兄よりも私に似ておりましたから。
今の貴女の表情を見て、そう思われたのかと推測いたしました」
ひとまずは打ち解けるためにと招き入れられた、役宅のひと間で向き合いながら、嶋田は穏やかに言葉を紡いでいた。
「そう…だったのですね。
…あの折は、わたくしの軽率な行動で大変な御迷惑をおかけいたしました。
今更ではございますが、お詫び申し上げ…」
「必要ありません。
当時の事情は
あの時の貴女が、ずっと潔白を訴えていたこと、私も聞き及んでおります。
源次郎をはじめ、貴女の父親である真田殿ですら、それを信じて差し上げることが出来なかったのは、今となってはこちらが詫びねばならぬこと。
…ともあれ源次郎は、貴女との話がまだ具体的に決まっていなかったゆえに、あの破談の後も経歴に傷がつくことはなく、良い婿入りの口が決まりまして、今は近藤畝目と名乗っております」
三つ指で深々と頭を下げる篠を、慌てて手を差し伸べて制した嶋田は、その顔を上げさせる為にかけた言葉を失敗したことを、次の瞬間には悟った。
彼女にしてみれば、自身を信じずに捨てた男の話だ。
だが。
「お幸せなのですね。それはようございました」
穏やかに微笑んだその
「…本当にそう、思っていらっしゃる?」
そう、思わず問うた嶋田の言葉に、篠が目を瞠く。
「ええ、勿論。何故、そのようなことを?」
「…恨みに思っていても、おかしくはないと思いましたが?
互いに末を誓った仲でありながら、あやつは貴女を信じなかったのですから」
少し戸惑ったように言った嶋田の言葉の、その意味を理解するのに時間がかかったのであろう。
ややあって、ああと呟いて微笑んだ篠の
「あの頃は、思うていたかもしれませぬが、もう忘れました。
…そんなことよりも、今はお役目のことを」
『女という生きものには、昨日も明日もない。
いつだって『いま』を生きておるものよ』
剣術の稽古に通っていた時期、師範が風邪をこじらせて寝込んでいた間、代わりに稽古をつけに道場に来てくれていた師範の知り合いだという老剣客が、何かの折にそう言っていたのを、嶋田は不意に思い出す。
自身を不幸に落とした出来事の、悲しみも恨みも『そんなこと』にして、この女も『いま』を生きているのだ。
そうできるゆえに、女は強いのか。
あるいは、そうしなければ生きられぬほど弱いのか。
『わたしの罪を、死んでお詫びします』
そんな短い文だけ残して大川に身を投げた妻にとって、『そんなこと』にできぬほどに、その『罪』は大きく重いものだったのであろうかと、そんな考えても詮無きことを思って、嶋田はふと合った篠の視線から目を逸らした。
…十二年連れ添った妻・八重が、たもとに石を入れた状態で、大川で水死体となって発見されたのは、嶋田が篠を見たあの白州の日より、半年ほどのち。
その実家である老舗の菓子