古来から人間を魅了し思いを馳せさせた白い月は地上の民が思う姿とはかけ離れた。血のような赤い液体で描かれた十字架が刻まれ、地表には多数の建造物が設けられる。また、一際大きな建造物があると思って覗いてみれば、そこでは湯船につかるような態勢で巨人が座した。顔に当たる部分には奇怪な面をつけており、素性を悟られないよう努めているらしい。
そんな巨人の前で何も隠そうとしない裸の美しい少年が微笑を浮かべて立ち、隣には上下で制服を着こなした老人が表情を変えず無で立った。両者共に綺麗な直立姿勢で猫背からは程遠かった。凛とした姿勢は年齢を窺わせないが、月の上で普通に立つことが可能な力には恐れ入る。いったい、何者なんだ。
「第八の使徒殲滅に成功したようです。流石は碇シンジ君…僕が行かなくても大丈夫か」
「彼は最早私のような老いぼれには測れない存在になった。誰よりも老いて捨て去れてもおかしくない爺が彼の側近を14年も先まで務められるとはね。彼は私を過大評価している」
「まるで姥捨て山ですね。最終的には老婆の知恵が生きて良い話で終わります。いわば、ハッピーエンドと」
「渚カ…第一の使徒タブリスが日本の古典を存じているとね」
姥捨て山の話は日本古典の中でも比較的に有名な話と思われる。簡潔に纏めれば「老人を大切にしよう」と言う教訓的な内容だ。もちろん、老いた人は大切にしなければならない。それは現代でも十分に通用することだったが、どうも適用する先が間違っているように聞こえる。
「僕はあなたが思っているよりも多趣味で文化人を志しています。文学から音楽までリリンの文化は興味深いものばかりです。しかし、こんな世を自ら幾度となく破壊してきたリリンは完全ではないことが良く理解出来ました。彼と彼女が目指す世は完全な大いなる存在に治められた祝福の世でしょう」
「まだ分からんよ。全ての匙加減は彼が決める。私はあくまでも仲介役として下請けに走るだけだ。あいにく、私は世を治めることにさして興味は無い。彼と彼女が存分に治められるよう基礎を作り維持することに私の使命がある」
「地球が儀式により細部まで紅に染まり、その先は碇シンジ君の願うがままに。僕も土台作りに参加させてもらいますよ。流石に年老いたあなただけに押し付けては良心が痛みます」
「人に近しい心があり、神に理解のある使徒で助かる。一応、君の要望にも応えさせてもらう」
「よしなにお願いします」
一旦会話を止めて2人の背面に位置した地球を振り返る。大災厄を受けて海が紅く染まったため遥か遠方からは赤い球に見えた。何十年と前の時代においては初めて宇宙の有人飛行に成功した偉人は地球が青かったことを残したが、地球は反対で赤々としている。人は富を得るため母なる大地を喰らいつくしたが、よもや表向きだけの崇高な願いのために母と父のみならず兄弟姉妹までをも喰らうとは想像以上だった。よって、穢れ壊れた世を修復するため神の子と伴侶の天使達が儀式を始める。
この世を完全たるに治めることを願って。
「まだ降りられないことが残念で堪りません。抜け駆けしたいのですが」
「すまんが、もう少し我慢してくれ。君の役目はディファ―・サードインパクトの終息と後処理まで役目は無い。君が単なる客人であれば我々の母なる大地を観光してもらいたかったが、今来られては人の目が多すぎる。ましてや、この特設されたエヴァンゲリオンMK-6Aを大衆に晒すわけにはいかん」
「僕のためだけに作られたエヴァンゲリオン。身の丈に合わない贅沢をいただいていいのですか?」
「構わん。エヴァは持つべきものが持たねばならん。君が乗らずしてどうする。まさか私が収束の手を打つわけか?」
至極真面目なつもりで言い放ったが、受け取った少年は破顔一笑の四字熟語が最も似合う輝かしい表情になった。
「あなたなら可能でしょう。一人で彼の注文をこなした冬月コウゾウ先生なら」
「君から先生呼びされると怖いな」
この後も意味ありげな会話が続けられた。月面上で行われた珍妙な会談は後世に甚大な被害を与える大災厄の行く末を決定付けることになった。
日中に繰り広げられた使徒とNERVの激闘で痛ましい傷を負わされたのが月でも話題の碇シンジ君だった。彼は両掌を子使徒の槍に完全に貫かれてしまい、フィードバックから受けた傷を雑菌から守るため滅菌済み包帯でグルグル巻きにされた。包帯にはにじみ出た鮮血が彩る。流石に滲んだ包帯で過ごしては自身以外の周囲に迷惑をかけてしまうため、状況に応じて交換することが命じられた。
無論、両手が満足に使えない以上は己では出来ず、同居する愛する人に巻いてもらう。
「はい、動かないでね」
「ありがとう」
「何言ってんの。私に怪我させないと自分を犠牲にしておいて。感謝したいのはこっちの方」
シンジは愛するアスカを庇って自分が深く痛い傷を負うことを一切厭わなかった。男が受ける傷は総じて名誉の傷であり、愛する者を庇った傷は最高級の褒章であろう。よって、彼は名誉の傷を誇るも世話を焼かせてしまうことには申し訳なさがあった。対して、庇ってもらったアスカは傷一つ無く生還したことが彼の犠牲により成り立つことを一番理解し、率先して自宅療養の看護を買って出て献身を尽くした。
「痛くない?」
「痛くないよ。痛みは忘れたんだ」
傷口は確かに形成されているが、ウニウニと動いていて気味悪さが目立つ。しかし、2人とも気味悪がることなく淡々と包帯を巻いて巻かれた。常人ではありえない動きは彼が人を超えたことを意味する。事実として血は出ても麻酔で痛覚が消えたようにケロッとしていた。
「はい、右手終わり。次、左手」
「どうぞ」
右手の巻き直しを終えて左手にシフトする。ソファに体を預けているシンジの隣にアスカが座って作業を行った。隣で丁寧に巻き巻きするアスカは真剣そのものだが、シンジは一種の愛おしさを感じて思わず額にキスしてしまった。普通に考えれば作業の邪魔で狂いそうである。しかし、彼女は意に介さずに続行して寸分狂わず綺麗に終えた。
「無理しないでいいのよ。傷が治ればいつでもどこでも受け入れるから」
「そんなの嫌だよ」
「強情なこと。ま、そんなところが好き。でも、体を綺麗に洗わないとね。両手が利きづらいでしょ?ほら、一緒にシャワーでも浴びましょ」
ソファーから立ち上がれば脱衣所を経由して浴室へ向かった。
互いに身を清めたら、そのまま寝室へ向かうだけだ。
そこから先は秘密である。
続く