もう、ボロボロの廃墟と化したNERVである。太陽の光が差し込んで青空を見渡すことの可能な一画が設けられた。サード・インパクトから自然と生じており、これを活かさない選択肢は無い。この空間自体を一種の芸術とするべく、大きなグランドピアノが設置された。
「まさか。スタインウェイのピアノを弾けるなんて」
「これを調律することに苦労したよ。僕は手先が器用な方だけど、リリンを知ることは、一筋縄ではいかない」
「ありがとう。僕のために用意してくれるなんて」
「どういたしまして。シンジ君」
グランドピアノは信頼と実績のあるスタインウェイ社製である。知らぬ者はいないピアノの王様だ。シンジは幼少期に叩き込まれた音楽の才を奮い立たせる。皮肉なことに、音楽は実の父たる碇ゲンドウから引き継いた。
「僕が教える必要は無さそうだね」
「かなりの久し振りに弾くから、ほら、ブランクがあるかもしれない」
「大丈夫だよ。手じゃなくて心に刻み込まれた音楽は消えない」
渚カヲルが用意したピアノを前にして、ワクワクのドキドキを隠せず、もじもじな恥ずかしさを覚える。彼は14年も眠りについた空白を挟み、音楽に関するブランクは抱えた。
もしかしたら、スポーツにおけるイップスと似た状態かもしれない。しかし、渚カヲルは優しく励ました。こればかりは彼の言う通りである。人の身体ではなくて心に刻み込まれた音楽は消えなかった。
「彼女に楽譜を持ってくるよう。予めに頼んでおいたけど…」
「アスカには申し訳ないな。ちょっと、慣らしで弾いてみる」
「それがいい」
原則として、渚カヲルが碇シンジを否定することはあり得ない。
なお、アスカは楽譜の調達に出かけた。本人の心に刻み込まれたと雖も楽譜があるに越したことはない。しかし、シンジは慣らし運転と称し、軽く弾き始めて、カヲルは「簡単な曲だろう」と高を括る。あいにく、すぐに良い方向に裏切られてしまった。
「これは…」
「あら、フライングしてると思ったら。あの碇ゲンドウの教育なだけある。アイツは最低で最悪な父親でも、シンジに与えた才だけは認めてあげようじゃないの」
慣らしで弾き始めると、アスカが楽譜を抱えてやって来た。演奏の邪魔にならぬように細心の注意を払う。シンジの横に置かれた空き椅子に楽譜を置いた。楽譜は書物を保管する区画から数冊程度を調達している。
「ショパンの『別れの曲』だよ。エチュードの練習曲と称する。何てことはない、素晴らしい音楽じゃないか」
シンジは慣らし運転にエチュードの『別れの曲』を弾いた。あのショパンが作曲した故に完成度は恐ろしく高い。シンジは旋律の美しさを感じているが、椅子に立つ上半身は動かなかった。
「音楽はリリスの文化だよ。僕としては、是非とも、残して欲しいな」
「私が決められることじゃない。全てはシンジが決定するべきなの。リリンの救世主としてよ」
「第九の使徒を吸収して、初号機を覚醒させたことにより、彼はリリンの範疇に収まり切らなくなった。リリンの救世主どころか、この世に現存する神の領域に達している」
「そうでしょうね。それでも、シンジは謙虚にコツコツと積み重ねる」
第一の使徒タブリスを兼任する渚カヲルは、リリスこと人間の勉強に余念が無く、特に文化に関しては造詣が深かった。人と使徒の仲介役を務める都合の渚に偽りなし。
さらに、音楽について深く掘り下げると、使徒の中では唯一無二の理解を示した。本来は人と相容れることのないところ、使徒側から人類の文化を残すことを希望した。
なんとも、例外的な使徒だろう。
「どうだった?」
「楽譜なしで弾き切るとは恐れ入るよ。本当に君は素晴らしい」
見事にショパンのピアノを再現してみせた。彼は視線を隣の空き椅子に落とす。アスカの調達した楽譜を舐めるが如き見定め、とある楽譜に強い興味を惹かれたらしく、熱心に隅から隅まで読み込んだ。
シンジはゲンドウと似ているところがある。音楽の才は言わずもがなで除外した。彼は一人の世界に入ると、自と他を遮断する結界を張り巡らし、彼が集中したいことに没入していった。
「父と子の血は争えないんだね。彼が父を拒絶しても…」
「あら? なにか勘違いしてるのではな~い?」
「おっと、それは聞き捨てならないなぁ」
カヲルもアスカも碇シンジをよく知るどころの関係でなかった。したがって、彼を巡ってピリピリすることは日常茶飯事である。二人は終着駅が同じ列車に乗っているに過ぎない。その同じ列車の中で同じ椅子に座る確率は非常に低かった。なんなら、他の号車に乗っていることもあり、カヲルとアスカの親和性は良好と言い難かった。
「シンジは父の願いも叶えてあげようとしている。碇ゲンドウの愛した妻であるユイさんを取り戻すこと。それは子の願いでもある。だから、彼が取り込んだ父も喜ぶはずね」
「あの失踪事件は彼女の仕業と聞いている。まさか、シンジ君に融合させたのか」
「家族が別れ離れになるより、一体になった方が幸せでしょう。シンジは心の底から憎んでも責められない。それにもかかわらず、あの碇ゲンドウを赦してしまった」
「大いなる存在の偉大な慈悲とは参る。使徒である僕でさえ降参するね」
アスカとカヲルのピリピリはシンジに届かなかった。各人の捉え方次第だが結界はATフィールドを凌駕する。二人の音声をシャットアウトした。そして、彼はお気に入りのピアノ曲を反芻する。彼のチョイスが何なのか気になるが、とにかく、聞いてほしいようだ。
「ベートーヴェンの悲愴か…」
「抱えることを強いられた苦境を乗り越え、新たなる世界を創造する覚悟を表した」
正解はベートーヴェンの『悲愴』である。ベートーヴェンが曲名に込めた意図は分からない。しかし、現代まで多くのリリンを惹き付けてきた。ピアノを嗜む者は避けて通ることを許されない。ある種の魔性を帯びた魔曲と評した。
シンジが悲愴を選んだことは、彼なりの覚悟を敷き詰めている。
聴衆にも至らない、たった2人の観客を置いて、ピアノコンサートは続いた。
NERVは性質から近代的な設備が占める。そんな中に極々僅かな古風な和を発見できるが、照明が点いては消えてはを繰り返し、どうにも薄暗くて目を悪くしそうだ。頑張って目を凝らすと、数畳の畳が敷かれる。その畳の上に将棋盤を置いて前に座るは老人以外になかった。
「おや、渚カヲルのピアノか。ふむ、選曲がガラリと変わったね。なるほど、シンジ君に交代している」
おそらく、ピアノまでの距離を逆算して、耳に入ることは相当に難しい。老人の年齢不相応の聴力が微かな音を確実に吸い込んだ。NERVで過ごす日々に散在するピアノと照合するが、今までと明確に異なることから演奏者の交代を知る。
「こうして将棋をする時間もあと少しになった。なに、一度だけでいい。彼と将棋を打ちたい。彼と話すことがたくさん積もり積もった」
バチン!
照明が灯りの安定供給を開始した。これで暗い空間で将棋盤と駒を眺めずに済む。単なる人間は年寄る波を弾き返せなかった。14年ぶりに再会した少年から年を取ったことを指摘されている。
「全てはここで始まったよ。ユイ君は自ら実験台となることを希望した。そして、人類の希望であるエヴァを実現するため、彼女はコアへのダイレクト・エントリーシステムを成功させている。そして、彼女はこの世界からいなくなった」
楽譜に点在する強弱の指示を受けて、ピアノの音は途切れに途切れが否めない。さらに、わずか数人という無人に等しいNERVが発する環境音にかき消された。それでも、老人は微かな音に心の安らぎを覚える。
「ユイ君…本当にこれでいいんだな。君の息子を中心に世界が書き換えられる」
続く