キッチンの小窓から見える空は、完熟したトマトの如く夕焼けに染まっていた。小窓の位置は樟美の背よりも若干高い。覗き込みでもしない限り、そこから外の詳しい様子は分からないが、直に暗闇が訪れることは明白だった。
お店で使っているものとは違う明るい色合いのエプロンを付けて、樟美が台所に立っている。今夜の食卓を飾る品々、その下拵えのために。
透明なボールの中に茹でたほうれん草とクリームチーズ。緑と白の混ざりあう中へ、樟美が醤油の黒を小さじで投下していく。三色を更に菜箸で混ぜ合わせて、まず一品完成。出来上がった和え物は、一旦ラップに包んで冷蔵庫へと仕舞った。
そうして次に、揚げ物で使う天ぷら鍋の油の様子を見る。
ちょうどその時、玄関の方から扉が開かれる音が聞こえてきた。
「樟美ー、帰ったよー」
最後までお店の方に残っていた天葉の帰宅。彼女は樟美の後ろまでやって来ると、小さな両肩に手を乗せて銀髪の上から口づけする。
「何を手伝おうか」
「じゃあ、厚揚げに使うお豆腐を切って、それから枝豆を出しておいてください」
「うん、分かった」
基本、天野家の炊事は樟美が引き受けているが、天葉とて何もしないわけではない。特に今日のような日、これから始めることを思えば尚更だ。
「依奈たちはいつ頃来るんだっけ?」
「多分もうちょっと。七時までには着くって」
「そう」
まな板の上で木綿豆腐を角切りにしながら、天葉は横に立つ樟美と話を続ける。
「依奈に聞いたんだけどさ。この件、樟美と壱の提案なんだってね」
「はい、そうですが」
「そっかー。いやあ、私たちも果報者だねえ」
「大袈裟です……」
気恥ずかしさに、否定の言葉を口にする樟美。だがそんな彼女も、依奈が果報者である点には同意した。自身の親友で幼馴染の想いを知っているからだ。
会話の最中に樟美は熱した油の中へ食材を投下する。中でも衣をたっぷりと付けた鶏肉は今宵の準主役と言っても過言ではないだろう。
ただし、あくまで準。主役にはなり得ない。何せ今回彼女らが集ったのは、皆でお酒を飲むため。宅飲みのためなのだから。
程なくして、天野家の玄関から呼び出しのチャイムが鳴る。
樟美の言葉が証明されたのだ。玄関に向かった天葉の声に混ざって、樟美のよく知る二人の声がキッチンまで聞こえてきた。
「お邪魔するわよー」
「天葉様、樟美。本日はお招き頂きありがとうございます」
依奈が気さくに、壱が折り目正しく、家の主と挨拶を交わす。
自分にとっても樟美にとっても旧友である二人の客人を、天葉が敷居を跨がせ家の中へと招き入れた。
「暇人の依奈はともかく、壱とはあんまり遊べないから、楽しんでいってね」
「はい!」
「……人から言われるのはやっぱり癪ね」
軽い憎まれ口を叩き合いながら、リビングまでやって来る。そこではテーブルを挟んでソファが二つ向かい合っていた。机上には人数分、即ち四人分の箸や小皿などが綺麗に並んでいる。
肝心の料理はまだ見えない。ただし、キッチンから漂う香りだけはその存在をしっかりアピールしてくる。鼻腔を通って空腹を刺激し、食欲をそそられる香りだ。ほとんど毎日嗅いでいるはずの天葉でも、その誘惑には抗し難い。
「私、樟美を手伝ってきます」
「いいから、いいから。壱たちはお客さんだから、座ってて」
「でも」
「うちの料理長からの指示だから。ね?」
「はぁ、そういうことなら」
天葉は今にもキッチンへと駆け出しそうな壱の制止に成功した。本当は、樟美から特に何か言われたわけではないのだが。しかし長い付き合いから、それぐらいのことは察せられる。
なお料理長というのは、百合ヶ丘時代の樟美が渾名された称号である。この家においても、天葉は密かにその渾名を使っていた。
「そうそう、料理はプロに任せて。それよりも他に大事なことがあるでしょう」
「あ、そうだった。すぐに出しますね」
依奈に促され、壱は肩から提げていたクーラーボックスの蓋を開ける。中に詰められていたのは缶。多種多様なお酒の缶。今宵の主役たちである。
壱がテーブル近くの適当な場所にクーラーボックスを置いたところで、樟美がお盆に乗せて何枚かの平皿を運んでくる。それを何往復か繰り返し、天葉と共同でテーブルの上に皿を並べていく。夕餉にして、酒の肴となるものだ。
こうして全ての準備が完了すると、天葉は全員に着席を求めた。
「え~本日はお忙しい中で集まって頂きありがとうございます。ささやかながら……あっ、これ謙遜だからね? 樟美の料理は豪勢だから」
「ほら、似合わない前置きなんていいから、早く」
「もー、依奈はせっかちだなあ。それじゃあ、かんぱーい!」
「乾杯!」
「乾杯」
「乾杯」
皆が口々に唱和して、小さな宴が幕を開ける。
唐揚げに天ぷらに佃煮に和え物に。皿に盛られたおかずの多くは樟美の手料理だった。中には依奈たちが道中で購入して持ち込んだ惣菜もあるが、量としては少ない。
「壱、味付け海苔はともかく、こんな時まで納豆なんか持ってきてどうするのよ」
「私が食べますから」
半ば呆れた様子の依奈に、ムッとする壱。
実際、夕食会も兼ねているので、パックの納豆ぐらい構わないのだが。
「壱っちゃん、ご飯もちゃんと炊いてるよ」
「ありがとう、樟美。やっぱりお米が無いと始まらないわよね!」
そうは言いつつも、やはり飲み会なので加減はする。肝心のお酒が入らなくなっては本末転倒だろう。
「缶ビールをグラスに移すとか……。謎な行動ね、ソラ」
「いや、こうしてビールを出すバーがあるんだよ」
「嘘おっしゃい」
「本当だって」
酒というのは不思議なもので、一人で飲む時よりも友人たちと飲む方が酔いの回りが早い。グラスを傾けるペースが自然と上がっているせいかもしれないが。
しかし何にせよ、この場の四人にもアルコールが確実に染み渡り始めていた。
「タイミングが合えば、亜羅椰も呼べたんだけどねえ」
「あいつなら女の子と二人で飲みたがりますよ」
「今まさに部屋に連れ込んでたりして。あはははっ!」
天葉と壱のやり取りに依奈が食いついてくる。
依奈は酒が入るとテンションが上がるタイプであった。絡み酒、と言っても良いかもしれない。
一方、騒々しい依奈と対照的なのが樟美だ。お手洗いから戻ってきてソファの上に腰掛けてから、五分と経たない内に、うつらうつらと船を漕ぎ出した。やがて完全に意識を手放したのか、隣に座る天葉の肩へとその頭を投げ出した。
「樟美、樟美ぃ」
「シードル一本で潰れちゃいましたね」
「相変わらず弱いなあ」
横から天葉が呼び掛け、向かいのソファから壱が覗き込んでも、起きる気配が全く無い。それどころか小さな寝息まで聞こえてくる。
樟美は今日の集まりを――言葉にはせずとも――楽しみにしていた。なので起こそうかと思った天葉だが、口をもごもごと動かす寝顔がどうしようもなく可愛くて、躊躇してしまう。
その時、天葉に悪戯心が湧き起こる。彼女は樟美の肩を掴んで揺さぶる代わりに、彼女の耳元で口をゆっくりと開く。
「樟美、早く起きないと食べちゃうわよ~」
そんな冗談めかした台詞に反応したのは、残念ながら樟美ではなく依奈だった。
「ちょっと、ソラお婆ちゃん! 樟美なら毎日食べてるでしょ!」
「流石に毎日は食べてないよ!?」
「ええ~? ほんとぉ~?」
「……まあ、隔日、ぐらいかな」
「この、お・お・ぐ・ら・い♪」
普通なら絶対口に出さないようなことを、割とあっさり口走る。どうやら天葉も酔いが回っているらしい。
「依奈ったら自分のところが倦怠期だからって、うちに当たらないでよ」
「失礼ね。うちの壱はもう凄いのよ? 最初こそキャンキャン鳴く可愛いワンちゃんだけど、ついついやり過ぎてスイッチ入れちゃうと、『天狼』に早変わりするんだから」
「知りたくなかった、そんな情報……。て言うか、お下品な話は止めてよね」
「あんたが始めたんでしょうが」
酒のお陰でふわふわとした心地のままに、天葉たちは取り留めの無い話を繰り広げていく。あっちに行ったり、こっちに行ったり、順序も纏まりもあったものではない。比喩ではなく、本当の意味で取り留めの無い会話であった。
「でさー、結局壱ったら私のこと、お姉様ってあまり呼ばなかったわよねぇ」
「今更いいじゃないですか。こうして結婚したんだし」
「良くないわよ! それとこれとは話が別でしょ!」
依奈が缶チューハイ片手に、隣のパートナーの肩へ寄り掛かる。ついさっきまで惚気ていたかと思うと、今度は眉を吊り上げて愚痴を吐く。
その様子を天葉は始め、フライドポテトを齧りながら他人事のように眺めていた。始めだけは。
「もういいわ! 頑固な壱の代わりに樟美をお嫁さんに貰うから!」
いきなりそんなことを言い出して、席を移動し樟美の傍へ近付く依奈。
無論、黙って見過ごす天葉ではない。
「成る程、成る程。それはお目が高い、賢明な提案だ。……この
憤然として依奈の真ん前に躍り出る。
「このっ、樟美から離れなさいっ!」
「いやー! うちに連れて帰るのー!」
寝ている当人のすぐ前で、子供染みた掴み合いが始まった。高等部時代の頃を含めても、ここまで大人気無い二人は珍しい。げに恐ろしきは、酒の力か。
「樟美を起こしちゃいますよ」
ただ一人、壱だけは部屋の惨状とは無縁かの如く、平然とした顔でグラスの日本酒を啜り続けていた。
「ふぁ~っ……」
天葉が口元を右手で覆いながら気の抜ける声を出す。
庭先で夜風に当たり、水をコップ一杯飲み干し、大分酔いが醒めてきた。
そうしてリビングに戻ってきたところで、天葉は壱と鉢合わせする。
「お布団、使わせてもらいました」
「うん。樟美の方は後で私が運んでおくから」
樟美に続いて酔い潰れた依奈は、パートナーの手によって宅飲み会場から運び出されていた。来客用に空けてある、普段は使わない和室へと。今頃は真っ白い布団の上で寝息を立てていることだろう。
「壱はお酒強いね。けろっとしてる」
「体質、だと思います。家柄的には都合がいいんでしょうけど」
顔を薄らと赤く染めてるものの、壱は足取りも思考も明瞭としているようだった。結構な量の日本酒や焼酎を飲んだはずなのだが。二十歳でこの強さなら、確かに体質と言えるだろう。政治家・官僚一家にとって、酒が幾らでも入るというのは便利な体質である。
「天葉様、今日は本当にありがとうございました」
「改まって何? お礼を言うべきなのは、こっちも同じだよ」
壱がソファに腰も下ろさず居住まいを正してそう言ってくる。
「だって、依奈様がとても楽しそうだったから。こんなにはしゃぐことなんて、最近じゃ滅多にありません」
神妙な顔つきで、視線を幾分か落として話を続ける。
そんな姿を見ている内に、天葉は壱の気持ちが何となく分かってきた。
「自分と一緒に居るより幸せなんじゃないか。そう言いたいの?」
「いえ、別にそこまでは……」
「でも似たようなことは思ってるんでしょ」
「それは、はい。そうです」
田中壱という後輩は、元来真面目で小難しく考える傾向があった。それは美徳にも欠点にもなり得るもの。往々にして、この手の性格は多少の年月では変わらない。壱は今でも壱らしいというわけだ。
そこで、天葉も自分らしい持論を語ることにした。
「あのねえ。依奈だっていつもいつもはしゃぐわけにはいかないでしょう。特に壱の前では、年上とか先輩とかの面目もあるんだし」
「結婚して、一緒に住んでいるのに。それでもですか?」
「それでも、よ。好きな人に良い格好したがるのは、結婚したって変わらないものだから。壱にもそんな経験、あるんじゃない?」
「言われてみれば、あるかも」
全寮制のガーデンで、レギオンも一緒で。そういう環境にあった彼女らは、世間一般の夫婦に比べると同居へのハードルが低いだろう。しかしそれでもやはり、迷いや悩みは少なからずあるものだ。むしろ、全く無い方がおかしいと天葉は思う。
「それから、壱は私のこと羨んでいるのかもしれないけど。私は壱のことが羨ましいって思う時があった」
「天葉様が、私を……? 嘘だ」
「ほんと、ほんと」
天葉が普段は胸の内に仕舞っている想いを口にする。まだ完全に酔いが抜け切っていないのもあるが、何より腹を割って本音を吐き出した壱に倣いたくなったから。
「壱は伍人組、幼馴染の中でも樟美と特に仲が良かったし。ルームメイトだし。私の知らない樟美を知っているのが、羨ましい」
あの頃は、上級生だとかレギオンの主将だとか、立場があって表に出し難かった想い。事によっては嫉妬とも見なせる気持ちを、今だからこそ天葉は明かす。
「私だってそんなこと考えてたってわけ」
「はあ……」
「……っと、これ、ここだけの話だから。樟美にも依奈にも、誰にも言わないでね」
「分かってます。私の話も、皆には内密に」
それまで真面目腐った顔をしていた二人が、顔を見合わせた後、どちらからともなく吹き出して笑い合う。お互いに、自分とは違うタイプだと思っていた相手が、自分と似たようなモヤモヤを抱えていたのだと知ったせいだろうか。
本当に
「すっかり酔いが醒めちゃいましたね。天葉様、せっかくだから二人で飲み直しましょうか!」
「いや、私はもういいかな……」
「えぇ、そんなー」
この小説いつも何か食ってんな。