極熱の8月が終わった。暦の上では秋となったが、それですぐさま過ごし易くなったかというと、そんなことはない。残暑と呼ぶには些か暑過ぎ、今夏が未だ終わってない現実を無情に突き付けていた。
開店間近のアマノの店先にて、天葉が水で満たしたプラスチックの
天葉は土に続き、葉っぱにも忘れずに水を掛けた。葉から水が蒸発するのを抑えるために。何せ今彼女が世話しているキク科の花――――ダリアは真夏の暑さに弱い花なのだ。店頭といっても日陰の位置にくるよう調整してもいた。手間は掛かるが、ダリアは9月の誕生花なので欠かせない。
「天葉姉様っ」
作業中の天葉のもとに、店の中から樟美が歩み寄って来る。若干責めるような声色で。右手には水差し、左手にはマグボトルタイプの水筒を持って。
「家から水筒持っていくの、忘れてますっ」
「あれ、そうだった?」
「お花より先に、姉様が干からびちゃいますよ」
休憩所を兼ねるバックヤードには小さな冷蔵庫を置いてあるが、今は確か飲み物を切らしていたはず。なのでたちまち今日は水筒を持参しようと考えていたのだが、うっかりしていたらしい。
「ごめんごめん」
「じょうろの水は、飲んじゃいけません」
「飲まないよぅ。それ、ちょうだい」
天葉は樟美から水筒を受け取って、中身の麦茶を喉奥に流し込む。天葉の水筒が家にあるということは、これは樟美の水筒だ。
後程、樟美の分も含めて飲み物を補充しなければならない。まあ、近所の自動販売機まで足を運べば良いだけなのだが。
「あ、やっぱりアイスも欲しい。コンビニに行こう」
思い出したように呟く天葉。
一方、水筒を手放した樟美は水差しを使って屋内の花に水をやっていた。
余談だが、じょうろと水差しの違いはサイズの大小によって決まる。小さいじょうろを水差しと呼ぶのが一般的だった。
水を浴びる花々と、水筒に飛びつく人間。花も人間も、何とか暑さを紛らわせようと必死なのである。
「あの、ごめんください」
開店から間も無く、早速アマノにお客さんがやって来た。店先からおずおずと遠慮がちに中を窺う若い女性。肩まで伸ばした艶やかな黒髪と物静かな雰囲気が大人っぽさを引き上げている。
天葉は少しだけ思案した後、その女性について思い至った。
「もしかして、
「はい。お久しぶりです、天葉様」
天葉に覚えてもらえていて安堵したのか、整った顔に浮かんだ固い表情が僅かに緩む。
彼女、
「故郷のアイスランドに帰ったって聞いてたけど」
「用事で、暫く日本に居ます」
「そう……。勿論梨璃さんたちには会ったよね?」
「はい。梨璃と夢結様と、結梨には挨拶に行ってきました」
雨嘉を日陰の店内に招いて軽く立ち話する。
どうやら花を求めていたところ、梨璃の勧めでここにやって来たそうだ。
「ご自分のお店……凄い……」
「あはは、ありがとう。雨嘉さんは、今は何を?」
「アイスランドの大学で、海洋物理や海洋環境を専攻しています。そっち関係の仕事に就きたくて」
思い掛けない雨嘉の発言に、天葉は瞬きする。意外だったからだ。王家と言えば、欧州でも指折りのリリィの名門一族。なのでガーデン関係の仕事を目指すと思っていた。
そんな天葉の心境を察したのか、雨嘉が慌てて説明する。
「私はっ、教導官とか向いていませんから。向いてないことを無理してやるより、他のことを頑張ってみようかと」
天葉は静かに耳を傾ける。そうしている内に、自分が先程抱いた疑問を思い直すようになった。
よくよく考えてみれば、雨嘉の選択はそう不思議なものではない。海洋調査技術者の任務は測量や環境調査、気象・海象調査など多岐に渡る。その中でも今現在、最も需要がありそうなのが危険物調査、取り分けヒュージ関連調査である。
「確かに、元リリィならヒュージ関連の知識を持ってるし、何よりヒュージと戦ってきたから覚悟もできてる」
「はい。未だに海を恐れている一般の人は、少なくありませんから」
天葉の言葉を、幾分か力強くなった雨嘉の声が肯定した。
アイスランドもまた、日本と同じく海に囲まれた島国である。ヒュージの住み処である海への恐怖が同じなら、海が果たす重要な役割も同じ。故に海洋調査の必要性は日本で暮らす天葉にもストンと理解できた。
「雨嘉さん。缶だけど、どうぞ」
「あっ、ありがとう……樟美さん」
店の奥から引っ張り出した椅子と、いつの間にか外で調達してきたアイスティーを渡し、樟美が雨嘉を持て成す。
プルタブを押し開けて、開いた飲み口からごくごくと冷たい紅茶を飲んでいく。「ふぅ」と小さく漏れた吐息は、雨嘉の体が如何に水分を欲していたかを如実に物語っていた。
そうして一息つく彼女の視線が不意に固定された。その先を辿っていくと、樟美の左手薬指に行き着くことが分かる。視線は時折、天葉の指にも注がれた。雨嘉を惹き付けた物とは、二人の薬指にはめられた指輪である。
紅茶の缶を両手で包むように保持したまま、雨嘉は何を言うでもなく、ぼーっと二人をの方を眺めていた。
やがてそんな雨嘉が弾かれたように椅子から立ち上がる。
「くつろぎ過ぎちゃった……。お花、買いますっ」
「もっとゆっくりしても良いんだけどねー。それで、どんな花をご所望ですか?」
「えっと、泊まってるホテルの部屋に飾りたくて。少し、殺風景だから」
少しは涼めたであろう雨嘉と、天葉が商談を開始した。
ホテルの部屋に花瓶で飾ろうという試み。買うべき花の数は決して多くはなかったが、どんなものを選ぶか当人は両の目を細めて真剣に考えているようだった。
お店を閉めて、帰宅してから家事をこなし、天野家に
夜が更けつつある頃合、寝巻姿となった二人は寝室のベッドに腰掛けている。
部屋にベッドは一つだけ。しかし一人で使用するには明らかに過大。言わずもがな、ダブルベッドである。
「天葉姉様、海洋調査って色んなお仕事があるんですね」
「そうだね」
「色んな動物とも、関わるんでしょうか」
傍らに座る樟美が問い掛けてくる。澄まし顔に努めているようだが、口元は綻んでいた。声も心なしか弾んでいた。期待を膨らませているのは明白だ。
そんな伴侶の姿を見て、天葉は胸の中を温かくする。しかし残念ながら、その期待には答えられそうにない。
「雨嘉さんが言ってたのは多分、海洋動物調査じゃなくて港湾海洋調査の方だと思うよ」
「港湾?」
「漁業や海運を復活させるにしても、危険が残ってないか確かめないといけないでしょう。ヒュージの体液の影響とか、戦闘で海岸の地形が変わってないかとか」
「それで今、需要があるんですね」
樟美が肩を落とす。小さな肩が更に小さく見えた。
「今朝の話で、海、行ってみたくなったの?」
「はい」
「でもこの前、由比ヶ浜に行ったばかりでしょ」
「クラゲしか見れませんでした!」
「ふふっ、まあこの時期多いからねえ」
眉を吊り上げ不機嫌顔になる樟美。その顔を天葉は横から右手で抱き寄せ頬ずりする。しっとりと湿り気を帯びた樟美の銀髪から、シャンプーの仄かな香りが鼻をくすぐってきた。
二人きりの時間。普段は控え目な樟美が我が儘になるこの時間が天葉は好きだった。どんな樟美も好きなのだが、自分に対し我が儘を言う樟美が特に好きだった。
「じゃあ今度、水族館に行こっか」
「行きますっ。姉様の好きなハンバーガー作っていきます」
「ハンバーガーもいいけど、どっちかと言うとホットドッグって気分かな」
「えーっ? 姉様我が儘」
「あっ、言ったなー」
天葉はベッドに腰掛けている樟美の両脚を左腕で支えると、お姫様抱っこしてベッドの中央まで運んでいく。そうしてゆっくりと仰向けに寝かせ、逃げられないようそのまま樟美の上から覆いかぶさった。
「ん~っ!」
フカフカのベッドと天葉の温もりに挟まれた樟美は、首を左右に振って形だけの抵抗を見せる。すると樟美の口元を目掛けた天葉のキスが狙いを外し、左の頬に命中する。薄桃色の果肉が白い柔肌にぶつかり、微かな吸着音を立てて密着した。もう一度キスを落とすと、今度は右の頬にぶつかった。
5~6回そんなことを繰り返した後、天葉は自分も仰向けとなって樟美のすぐ横に寝っ転がる。
「実は私も今朝、思ったことがあってさ」
「……姉様?」
急に改まった物言いをしたことで、樟美が疑問の目を向ける。
「お店を出す時、樟美にも話したけど。私の、次の目標」
「はい、勿論覚えてます。フラワーアレンジメントの教室」
もっとお店に客が増えて、花に興味を持ってくれる人が増えたら、フラワーアレンジメントを教えたい。場所はお店の一部を改装するか、あるいは自宅を利用するのも良いだろう。
事業拡大……などと言うほど大袈裟なものではなかった。教室と呼ぶのも些か大仰。ただ三人ずつでも四人ずつでも、受けてくれる人が集まれば嬉しい。
今朝、雨嘉が目標を定めていることを知り、天葉も改めて自身のことに思い巡らせたのだった。
「そのためにはまず、お花がもっと売れるようにならないと、ですね」
「うん。できればもっと人を雇えるようになって、余裕が生まれるといいね」
二人して将来を展望する。それは幾分か皮算用の混ざったものだった。だが今はそれで良い。焦る必要は無いのだから。
「……でもそうなると、樟美と一緒の時間が減っちゃうかも」
「それは嫌っ」
「んー、だけどよく言うじゃない? ずっと四六時中傍にいる夫婦はギスギスしてくるって」
「そんなの出鱈目です、僻みですぅ」
一度は機嫌を直した樟美がまたもやヘソを曲げる。
だから天葉もまた樟美の上にかぶさって、彼女の顔を両手で挟み込むように包む。
「私も、出鱈目だと思う」
今回は逃げられないため、否、逃げるつもりがなかったため、樟美の唇は天葉によって容易く捉えられた。
「んむっ、ねえさまっ」
互いに互いの薄桃色をした果肉を求め合う。僅かに開いた口と口の隙間から、チュッチュッと水気を含んだ吸着の音が鳴る。
二枚の舌は最初こそ先っぽを軽く撫で合うだけだった。だがいつしか上下左右と忙しなく絡み合い、やがては互いの舌を区別できなくなるほどに、感覚が麻痺し脳が蕩ける。
二人の舌と唇が再び二つに別れた時、どちらも息を荒げていた。
「はぁ、はぁ、はっ、くすみぃ」
「ふぅ、ふぅっ……んはぁっ……ねえさまぁ」
下ろした髪が汗で頬に張り付き、焦れったい。
吐き出された呼気が鼻に掛かって、こそばゆい
首に回された樟美の両腕は、その細さから想像もつかないほどの力を込めて、天葉から離れまいとしがみつく。だがその痛みも息苦しさも、今の天葉にとっては感情をより昂らせるためのスパイスに過ぎない。
「ありがとう」
昂った感情とは裏腹に、凪の如く穏やかな天葉の声。
「一緒になってくれて、ありがとう」
リリィとしての務めを終えて、ガーデンを出て。その先も同じ生き方、同じ道を選んでくれた。それがどれだけ幸せなことか。
天葉は感謝を言葉に表す。
樟美は潤んだ瞳をそっと閉じ、額同士でキスをすることで返事とした。