天葉が夕食の洗い物を終えて戻ってきた時、リビングはやけに静かだった。それもそのはず。樟美はソファの端っこにちょことんと座り、黙々と読書に耽っていたからだ。
時折ページを捲る音だけが聞こえてくる中で、騒がしくしないよう、天葉はゆっくりとソファの反対側へ腰を下ろす。樟美の手元に視線を向けると、彼女の読んでいる本が漫画雑誌であることが分かった。月刊リリィプリンセスという女性向け雑誌。主に恋愛・日常ものを扱っている。樟美が特に好むのは日常系の漫画であった。
白くてモコモコなニットセーターに身を包む樟美。セーターはロング丈なので、彼女の小さな体は上半身がすっぽりと完全に収まっていた。ついでに言えば、袖も手首まで隠れている。
そんな姿でじっと雑誌を見つめる様は愛らしい。そんな樟美を横目で眺めつつ、天葉は少し前に依奈と交わしていたメールのやり取りを思い出す。
『樟美へのプレゼント、迷ってるんだけど』
『樟美といったら、動物ね』
『でも、動物を飼うのは難しいかも。世話の面で』
『大丈夫よソラ。私にいい考えがあるわ』
『付け耳と付け尻尾で、ウマ女です♪とかは却下で』
『えー? 絶対可愛いのに』
『樟美は動物に、そういうのは求めてないのよね』
『そういうの(オブラート)』
『漫画は無難過ぎるし。何か
天葉は悩んでいた。パートナーへの贈り物に。
無難でありきたりな物は避けたいという思いから、何を贈ろうか決めかねていたのだ。
相手の好みとサプライズという点では、何かしらのペットがベストなのは間違いない。だが依奈に説明した通り、それは少々難しい。共働きであるため動物の世話は負担になるだろう。せっかくのマイホームが勿体ない話ではあるが、飼う以上は中途半端にしたくない。
天葉が黙りこくって考え込んでいると、不意に、樟美の手の中にあった雑誌がテーブルの上に置かれた。それから樟美がすぐ隣まで寄ってきて、天葉の頭を撫で始めた。
無言で見つめ続けていたものだから「構って欲しがってる」と思われたのだろう。
悩みはちっとも解決してないが、せっかくなので天葉は構ってもらうことにした。体を傾け、自分のほっぺたを樟美のほっぺたにくっつける。そのまま樟美にもたれかかり、ゆっくり少しずつ力を抜いていくと、二人揃ってソファの上で真横に倒れ込んだ。
「も、もう! 天葉姉様!」
「構って~」
結局、天葉は悩んだ末、サプライズについては諦めた。それは直前まで隠し通すことを諦めたというだけであり、樟美を喜ばせる点に関しては十分だった。
それから数日後。
定休日の早朝に天葉は自宅の玄関から外へ出る。陽は未だ昇り切っておらず、住宅街は薄闇に包まれてひっそりと静まり返っていた。
天葉も後に続いて出てきた樟美も、ブラウンのお揃いの――無論サイズは違うが――コートを羽織って防寒対策としている。夏は暑く冬は寒い、関東地方の過酷な環境。何年も住んでいる地元民だとしても、慣れることは難しいだろう。
「寒いねえ」
楽しそうにそう言いながら、天葉は手袋を外した右手で樟美の頬を何度も撫でる。冷たさとくすぐったさで身を捩りつつも、樟美は顔を綻ばせた。
「今日は、ありがとうございます」
「どういたしまして。実は私も結構、て言うか、かなり楽しみにしてたんだ」
「私も姉様に、何かしてあげたいです。物だけじゃなくて」
「そっか、物以外で……」
提案を受け、天葉は顎へ手を当て考え込む。しかしすぐさまにっこりと深い笑みを浮かべた。
「それじゃあ今日から、行ってきますのキスは
「っ!?」
飛び出てきた言葉に樟美は驚き目を見開く。
店に出勤する度に毎回してきたことではある。だが樟美の方から、それも人目につく可能性がある玄関外でするというのは、彼女にとって相当勇気の要る行為なのだ。
「うぅっ……」
樟美は低く唸った後、キョロキョロと辺りを見渡してから、もう一度低く唸り声を漏らす。
やがて天葉と目を合わせ、何かを決意したように口を開いた。
「お、おはようとお休みの時なら、私からしますっ」
「いいよ! お願いねー」
即答。待ってましたと言わんばかり。
天葉も別に周りへ見せつけたいわけではないので、してもらう場所は重要ではない。重要なのは樟美からしてもらうという点なのだ。
「よーし、そろそろ行こっか。ん――」
「――んっ……はい」
取り決めに従い、今までと同じく天葉から行ってきますのキスをして、二人は自宅の門扉をくぐり抜ける。
もっとも、二人とも同じ場所へ一緒に向かうのだから、行ってきますも何もないのだが。しかしそれはいつものことであり、気にするような者もこの場には居なかった。
お店に寄って花に水やりしてから、天葉たちは駅へと赴いた。
朝早くから鎌倉の街を発ち、途中で電車を乗り換えて、相模線を走る。相模原市の中でも鎌倉寄りの駅で降り、目的地まで少しばかり徒歩で進む。
そこそこ大きな駅の近くだというのに、前方には緑が広がっていた。その緑が広がる空間こそ、天葉たちが目指す場所である。
そこは動物園だった。ヒュージの侵攻以来、営業停止状態に追い込まれていたが、近年になって無事復活を遂げた相模原の代表的な動物園だ。
木々の緑に沿って歩いていくと、入場口であるゲートが見つかった。料金を払ってゲートをくぐり、いよいよ園内へと足を踏み入れる。その先には、区画分けされ整然とした草原や何棟かの建物と、それらの間に伸びる並木道が見えた。
「元々は動物と触れ合える自然公園だったらしいね。入場自体は無料だったとか。それを、ヒュージを追い出した後、規模を大きくして本格的に動物園にして。それが見事にヒットした」
天葉が軽く調べたこの施設の来歴を語る。
今のご時世、この手の話は珍しくない。商業施設の復興は、それだけ人々の暮らしが豊かになった証だろう。
動物目当ての天葉が動物園を選ぶのは必然。だが、それだけではない。他にもっと具体的な、決め手になった要素がある。
園内を道なりに歩く内、頑丈な木の柵に囲まれた草原の前までやって来た。柵の内側の光景を、樟美が食い入るように見つめている。
「馬……」
「馬だね」
「はい……!」
長い首を下ろして水飲み場の水を飲み、筆の毛みたいなフサフサの尻尾を左右に揺らす。
紛れもなく馬だった。幼少期の樟美が故郷で毎日見ていたであろう光景だった。
馬と言っても、その体は小振りで脚や首もそこまで長くない。ポニーと呼ばれるタイプの馬である。
それでも馬であることに変わりはなくて。腰よりも高い柵のすぐ外で、樟美が目を輝かせていた。
スティック人参のパックを購入し、二人は柵の内側へ。人に慣れているためか、ポニーたちに驚いた様子は見られない。
すぐ傍でポニーと触れ合える。それがこの動物園最大の売り。リニューアル以前から引き継がれたコンセプトであった。
天葉に見守られる中、樟美が一頭のポニーへ近付いていく。その子はちょうど、木板で作られた水飲み場から離れたところだった。背後から近寄って後ろ足に蹴られるような真似はしない。斜め前から静かに距離を縮め、右手を伸ばしてスティック人参を口元へ差し出す。
ややあって、大きな鼻息と軽い嘶きの後、咀嚼音が響いた。樟美の手からポニーの口へと人参が移ったのだ。
「私の祖父の頃は、まだどうにかやっていけたんですよ。でもヒュージの影響で閉園せざるを得なくなって。動物たちも、運べる子は東北や北海道の施設に疎開させたんです」
一方、天葉は係員のお姉さんと話をしていた。
「ヒュージに直接襲われたりしなかったんですか?」
「うちは大丈夫でした。ただ、最寄りの駅が砲撃の流れ弾を受けて……。今の駅は建て替えたものなんです。新しかったでしょう?」
「ああ、そう言えば」
天葉と同い年ぐらいであろうお姉さんは、昔から家族でこの辺りに住んでいたそうだ。
鎌倉府5大ガーデンの一角、相模女子高等学館の守備範囲だけあって、居住区への被害は軽微だったらしい。人が無事なら、建物はいつか立て直せるし、商売も再開できるかもしれない。この動物園を運営する者たちはそれを実現させたのだ。
「本当はもっと早く再開したかったんですけど。もう一度動物たちを集め直すのに、思ったよりも手間取っちゃって」
「生き物はナイーブだから、仕方ないですよ。うちは仕事で花を扱ってるけど、気を遣うことが多くて」
元々話好きなのか、たまたま天葉と気が合ったのか、係員のお姉さんは色々と教えてくれた。曰く、目玉であるポニーたちを手に入れるのに一番苦労した。北海道の牧場から纏まった数を呼び寄せて、ようやくこの触れ合いコーナーを復活させることができた。
小振りとは言え、やはり馬。輸送の問題などは花よりもずっと難しいに違いない。
「ふふっ、ふふふっ。くすぐったい」
楽しげな声が聞こえてきたため、天葉は樟美の方に目を向け直す。
ポニーが面長の横顔を樟美の頬に擦り付ける。白銀色の長い髪が乱れるが、彼女は構わずポニーの顔を慈しむように撫で続けていた。
「そろそろ乗馬体験、してみませんか?」
顔を綻ばせた係員からの提案。樟美は一も二もなく首を縦に振る。そのためにスカートではなくジーンズを履いたパンツスタイルで来たのだから。
「鞍の真ん中に手を置いて、ゆっくりでいいので背中を跨いでくださいねー。……あら、お上手」
指示するまでもない樟美の鮮やかな手際に、係員は目を丸くした。木製の簡易な踏み台からポニーの鞍と鐙へ乗り移る。一連の動作を、樟美は日頃の習慣と見紛うようにやってのけたのだ。
一見するとお淑やかで大人しく、運動神経が良いようには見えない。そんな樟美だから、リリィとしての彼女を知らない人から驚かれるのも当然だろう。
隣で手綱を持って先導する係員に続き、乗客を乗せたポニーが歩き出した。
鞍の上の樟美は背筋をピンと伸ばす。すると踵、お尻、背中、頭と綺麗な一直線ができる。これにより重心の取れた安全な乗馬が可能となっていた。
一歩一歩、蹄鉄が大地を踏み締める軽快な音が響く。その歩みは緩慢で、競走馬や軍馬などとは比べるべくもない。だがそれでも、騎手の表情を見れば彼女が十二分に満足していることが分かる。
「よかったね、樟美」
「はい。天葉姉様も……」
「んー、私はいいかな。見てるだけで。樟美は目一杯楽しんでよ」
少しだけ考えてから、天葉はこのまま樟美の乗馬姿を長め続けることにした。
見ているだけでも実際楽しい。それは本心の一つである。しかし天葉にはもう一つ別の思いがあった。この場では全く表に出さなかったが。
それは園内にある小さなレストランで遅めの昼食を取ろうとした時のこと。
窓際のテーブルに着こうと近付いていったところ、天葉の目に知り合いの食事風景が映る。
「天葉お姉さん、樟美お姉さん」
相手もこちらに気が付いた。ロングの薄紫――まるで桃色と黒色の合いの子みたいな薄紫の髪を持つ女の子が、隣のテーブルから天葉たちを覗き込む。
結梨と、その向かいの席にもう一人。色素の薄い、くせっ毛の女の子。結梨の外見年齢と同程度の歳だろうか。彼女が結梨の話に出てくる藍という子であった。
「結梨さんたちも、やっぱりポニーが目当て?」
「うん。お昼食べてから、もう一回行くの」
この動物園は樟美も体験したようにポニーの乗馬が目玉である。だが逆に、それ以外に関しては力の入れ方が弱いのも事実。他にヤギやヒツジやウサギなどを飼っているが、規模は決して大きくない。これはリニューアル以前から続く傾向のようだ。
「私はウサギが一番可愛いと思うなー」
平皿の上のオムライスをスプーンでつつきながら、藍がそんなことを漏らす。
ちなみに結梨の方はカレーライスを注文していた。
「ウサギは朝の最初に見たでしょ。あとでもう一度行くから」
「はーい」
どうやら結梨はポニー派で、藍がウサギ派らしい。しかしいずれにせよ、別々に行動する選択肢は無さそうだ。仲が良いのは良いことである。
「お姉さんたちもデート?」
「そうだよ」
藍の問い掛けに、天葉が即答した。
「結婚しても、こういう場所でデートするんだ」
「勿論するよ。仕事があるから、いつでもってわけにはいかないけど」
「ふーん。結婚って、人生の墓場じゃないの?」
「間違ってはないよ。お墓まで一緒って意味だから」
藍相手に自論を披露する。傍らの樟美が満足そうに口元を緩めたのは、天葉の気のせいではないだろう。
すっかり話し込んでしまったが、天葉と樟美は結梨たちのテーブル近くの席に座る。
「お腹減っちゃった。何かお勧めのメニューがあったら、私と樟美にも教えて欲しいな」
「カレーがいいよ! 今、からーい辛口に嵌まってて」
「えーっ? カレーは断然、家で食べる方が美味しいよ。だからオムライスにしよう。ほら、玉子トロトロ~」
スプーン片手に力説する結梨と藍。食の好み、あるいは考え方にも相違あるらしい。
これだけ違う二人だが、上手くやっていけている。違うからこそ上手くいく点もあるのかもしれない。自分たちも、傍から見たら同じように映っているのだろうか。ぼんやりとそんな風に思う天葉であった。
夕刻。目一杯遊んで鎌倉の街に帰ってきた時、辺りはすっかり薄闇に覆われていた。
途中、夕食に並べるため出来合いのおかずを買ってきた。あとするべきことは、ご飯を炊くぐらいのものか。冷蔵庫を覗いてみたら、一品か二品、簡単なおかずを用意できるかもしれない。樟美なら何かしら作ってくれるはず。
玄関の中、コートを畳んだ樟美を背中から、すっぽりと包むように天葉が抱き留めた。すると樟美は首だけ振り返って瞬きする。
「天葉姉様……」
「やっぱり、うちで動物は飼えないかもね」
「え?」
「だって、今日、ポニーに樟美を独占されちゃったから」
そう言うと樟美は天葉の気持ちに気付いたのか、視線を伏せて彷徨わせた。が、すぐに頬を膨らませて抗議の意思を示す。
「姉様だって、係員のお姉さんと楽しそうでした」
「そうだったっけ? ふふふ」
樟美は膨れっ面のまま廊下を進んでキッチンに向かおうとする。ところがいつまで経っても前に進まない。天葉の両腕がガッチリと抱えているのだから当然だ。
「お夕飯、準備するんです!」
「もうちょっと」
「ダメ、です!」
玄関前で押し合い圧し合い。
最終的に、空腹によって天葉の腹の音が響くまで、この攻防は続くことになった。