全力を尽くした果ての結末ならば、残る悔いなどありはしない。
それは、二水の尊敬する人物の言葉だった。
二水の尊敬する人物は強かった。強く、誇り高く、見ている世界が広い。だからこそ他人に気を配れるし、自分に自信を持っている。
しかし彼女にとって万事が万事、順風満帆とはいかなかった。傷付いたりもしたはずだ。
力になりたい、たとえ及ぶ物が無い非力な身でも――――
二水がそう願うのは当然だった。彼女が尊敬する人物も、きっと立場が同じならば同じように願うだろう。
もっとも、二水の場合は願うことしかできなかったのだが。
ホテルで夜を明かした後、二水たちは独仏国境を越えてパリへと向かった。イタリアを発った時にも言えるのだが、国を跨ぐ道程はあっという間である。
欧州連合、その域内では人・物・情報の行き来がスムーズなのだ。柔軟な戦力移動が求められるヒュージとの戦いに際し、それはプラスに働いていた。
パリ支局にて楓と別れた二水は早速記事の作成に取り掛かる…………前に支局内での情報収集に努める。
情報自体は幾らあっても良いと考えていた。精査する手間暇さえ惜しまなければ。
『仏米英葡艦隊集結、アゾレス諸島解放作戦発動!』
地元紙で最も目を引いたのが、多国籍の艦船が一堂に会している写真であった。場所はフランス西端ブレスト軍港。同国最大の海軍基地で、大西洋反攻の策源地となる重要拠点である。
海軍部隊がクローズアップされる一方で、本来主役であるはずのリリィたちは扱いが小さかった。10機近いガンシップが発着場に居並ぶ写真は壮観だが、記事に割かれたスペースについてはそれ程でもない。
(これも今だけ。実際に戦闘が始まれば、新聞はリリィ一色になる)
二水がそう予測したのは、彼女が記者だからとか、元リリィだからとか、何かしら特別な事情によるものではない。大規模作戦が展開する直前は決まってそんなパターンなのだ。
逆に言えば、こういった機会でもないと軍が脚光を浴びることはない。少なくとも一面記事はリリィたちに譲るはめになるだろう。
「っと、それはともかく……」
二水はタブレット端末に映し出した電子版の記事を閉じ、支局のデータベースから本題のデータを探す。
欲していたのは大陸派と海洋派の支持基盤を裏付ける情報で、それは労せずして見つかった。
ドイツの時と、大方の傾向は一緒だと判明する。欧州のチャームメイカーやガーデンはほとんどが海洋派で、造船を除く重工業関係や旧来の軍需産業には大陸派が多く見られた。
それから二水は更に突っ込んだ調査に入る。
二つの派閥がリリィをどのように見ているのか。それは元リリィの二水にとっては気になる点だった。
ガーデンやガーデン関連企業から成る海洋派はリリィの損害を嫌う傾向が強い。リリィの親族や関係者が多く勤めているので感情的な理由もあるのだが、当然ながら実利も絡んでいる。リリィの数はチャーム配備数や彼女らを対象とした支援事業の規模に直結するので、リリィが多ければ多いほど関連企業の仕事も増大するのだ。
それに対して大陸派はリリィの損耗が予想される大規模な地上侵攻を望んでいる。だがそれはアフリカや中東を解放し、労働力や製品市場を確保するという経済的な思惑以外は無いように思えた。実際、大陸派からリリィを直接害するような主張はほとんど見られない。
(うーん……。やっぱりこの問題、企業間の代理戦争なのかな。リリィはあまり関係ない?)
それが分かっただけでも、楓にあの街へ連れていってもらった甲斐があった。
もっとも、元リリィならではの記事からは遠のいてしまったが。
(それにしても)
支局でフランス紙の記事を読み漁った二水は改めて思う。この国のメディアは歯に衣など着せぬし、オブラートに包んだりもしない。
保守系メディアもリベラル系メディアも、こぞって大陸派を叩いている。
とある大手新聞社に至っては『肥え太った巨大な豚が地中海にバスタブの如く浸かり、アフリカ大陸へ手を伸ばして果実にかじりつく』という辛辣な風刺画を載せていた。
“豚”は大陸派に与する大企業や資本家を表しており、“果実”は労働者や資源のことを指しているのだろう。
これもお国柄、この国の歴史的経緯が市民社会の公器たるマスメディアを鋭利に研ぎ澄まさせていた。無論、反論権を担保した上で。
「……ちょっと、休憩」
煮詰まった頭を冷やすべく、二水は借り受けたデスクから立ち上がって支局のオフィスを抜け出した。
「んーーーーーーっ」
支局の広い廊下の真ん中で、二水が小さな背と細い腕を思い切り真上に伸ばす。
記者の仕事は両極端で、取材のため外を駆けずり回るか、デスクで端末や紙の書類と日がな一日睨めっこするか。二水はどちらか選べと言われたら、前者の方を選ぶタイプの人間だった。ただ、後者も決して嫌いではない。
広くがらんどうとした廊下に二水以外の気配は無かった。皆、先程までの二水の如くオフィスに缶詰であったり、あるいは外に出払っていたり。
二水が派遣されるのも分かるぐらいに人手不足だった。
とは言え、そんな彼らの働きがあるからこそ、二水は記事の執筆に活かせる情報が入手できているのだが。
情報と言えば、正直なところ、まだまだ集め足りないと感じていた。
単純に労力が掛かっているのだ。主に翻訳面で。
二水も小さな頃から外国のリリィ関連の論文を読み漁ってきたが、それでもネイティブみたいな完全な読解には苦労する。
端末に翻訳機能が付いてはいるが、機械任せでは微妙なニュアンスが伝わらない可能性があった。記事を書く上で、それは困る。
そこで二水は携帯電話を取り出した。困った時は上司に相談するに限る。
「…………あっ、二川ですー。お疲れ様ですー」
「どうしたんだ、二川君! 取材は順調なのかい!」
数度のコール音の後、耳をつんざく大音量が轟いた。
二水は携帯を耳から少々離して通話を続ける。
「実は、少し行き詰ってて……。それで、部長に折り入ってお願いがあるのですが」
「ふむ、何かな?」
「部長は欧州勤務が長かったんですよね」
「うん、若い頃は特派員として、欧州中の支局を渡り歩いたものだ!」
戦局優勢な現在ならばともかく、あちこちで戦火が吹き荒れていた頃の欧州で特派員を務め切る。それは並大抵のことではない。生きて帰って来ただけでも自慢に値するだろう。
「欧州市民の中では、リリィがどんな風に映ってきたのでしょうか。いえ、表面的な部分は分かったんですけど……。それより深い事情になると……」
「確かに、過去の記事やデータからは読み取れない
ただでさえてんてこ舞いな支局の記者に尋ねるのは憚られた。
勿論、国際部部長が忙しくないはずがないのだが、こちらは自分の上司なので二水は頼ることにした。
「二川君も欧州がリリィ脅威論発祥の地であることは知っていると思う」
「はい」
「ヒュージの侵略を受けている最中に、愚かな話と呆れるだろう」
「はい……」
一時期世界で、そして日本でも騒がれたことだった。ヒュージと同じマギを操るリリィが人間の脅威になるという主張。
「欧州においてあの思想が台頭したのは、歴史的な背景があってのことなんだ。ソ連邦の崩壊と中国の市場経済化によってイデオロギー闘争に敗れた活動家が、次に錦の御旗として掲げた自然回帰主義。その中でも殊更に過激な者たちがリリィを槍玉に上げた」
「マギによって変質した、自然に反する存在。地球と人類を脅かす存在。リリィをそう非難したんですよね……」
「今でこそ陰謀論と一笑に付される思想だけど、当時はそれなりに信じられてしまったんだ。当然、リリィを支持する勢力はそれに反論する。こうして生まれた対立構造が今日の大陸派と海洋派へと引き継がれてきたわけだよ」
「えっ? でも、待ってください。今の海と陸の対立って、企業同士の産業構造に関わる対立じゃないんですか? リリィ脅威論みたいな思想の問題とは、性質が違うと思うんですが」
柄にもなく淡々と語る部長の言葉に、二水は疑問を抱く。部長の言う過去の対立と、自分がこれまで調べてきた今の対立の間に、繋がりが見つけられなかった。
「そうだねえ……例えば、かつて我が国にあった薩長閥の争いは、藩閥問題が解消した後も陸海軍の対立として引き継がれてしまっただろう? それと同じようなものさ」
「はあ、そういうものなんでしょうか」
二水の反応が微妙だったせいなのか、少しの沈黙の後、電話の向こうの部長が再び話し掛けてくる。
「君もよく知ってる通り、未だにリリィ脅威論を信じているのはごく一部の政治家と軍人、活動家ぐらいのものだよ。ヒュージを倒した次は人間対リリィの戦争が起こるぞ、なんて彼らの願望は妄想に過ぎないと証明された。今の日本や欧州を見ればそれは明らかだろう」
部長の言うように、国土奪還を果たしつつある日欧でも脅威論者は盛り返していない。依然として少数の陰謀論者という扱いだった。
「彼らは世論を扇動して騒乱を作りたかったようだけど。民衆を愚民と見下し民主主義を嘲る彼らの思惑に、人々は乗らなかったんだ」
それは人間の理性の勝利と言えた。
確かに研究機関の手で違法な人体実験が秘密裏に行われていたが、裏を返せば、秘密裏にしなければならないだけの分別はあったのだ。
それにしても、部長の物言いは元リリィの二水を気遣っているように感じられた。
普段はよく言えば豪快、悪く言えば大雑把な部長だが、そこは流石に管理職を務める人物。部下へのフォローは怠らない。
「さて、以上のことを踏まえた上で、リリィへの優遇措置に対する不満があるのは事実だよ。富裕層、上流階級の子女がリリィになると特に目立つからね」
「はい、私の母校もそうでした」
「だけどそれはあくまで経済上の問題であって、脅威論者の言説とはやはり別物なんだ」
リリィが手放しで称賛されるだけかと言うと、それもまた違うというわけだ。
だが仕方ない。社会に貧困がある限り、摩擦は付き物だから。百合ヶ丘に入るまでただの庶民だった二水にとっては、すんなりと理解できる話であった。
「部長、ありがとうございました。記事の方、何とか書けそうです」
「そうかそうか! それは良かった! 完成を楽しみにしているよ!」
「電話代は凄いことになりそうですが。あはは……」
「気にするな! 経費で落ちるから!」
それはそれで気にしてしまうのだが、二水は申し訳なさを覚えつつも通話を終了した。
そして踵を返し、オフィスへと戻っていく。
日本に帰るまで待てない。鉄は熱いうちに打てと言わんばかりに、早速タブレット端末を立ち上げる。
以前よりも、画面をタッチする二水の指は軽やかだった。
「もう遅いので、今日のところは帰ってください!」
支局のスタッフに遮られるまでは。
翌朝、二水は宿泊中のホテルから再び支局に足を運ぶ。言うまでもなく、執筆作業を続けるために。
「今日は何だかお巡りさんが多いような?」
道中で見たパリ市内、街角の所々を黒い制服の警察官が巡回警備に当たっていた。元々日本よりも治安の悪い街ではあるが、それを差し引いても少し物々しい。
これは、局内に籠っていた方が良さそうだ。初めからそのつもりだが。
二水はオフィスのデスクにつき、机上にタブレットを置いた。そこから先は話が早かった。
ひたすらにディスプレイ上のキーをタッチしていき、文章を構築する。
時折、資料を参照し、一度だけ小休憩を取った。
そうして正午まで通しで作業を続け、遂には記事を完成させた。正確には、日本に持ち帰って上司の承認を得なければならないが、それでも一応の完成と言えるだろう。
「ふぁ~~~っ」
大きな欠伸が二水の口から漏れ出てくる。
記事ができた直後に強く感じたのは、達成感よりも睡魔であった。空腹感もあるが、まずは睡眠欲が優先だ。
こんな時間からこんなに眠たい理由、それは有り体に言って因果応報である。
昨晩ベッドに入ってからも、記事の文章を頭の中で推敲し続けていたのだ。
いつ頃眠りに就いたのか定かでない。寝落ちして、気付けば朝だった。
「仮眠してきます~」
周りにそう宣言すると、二水はふらふらと立ち上がって廊下へ出る。
覚束ない足取りで休憩室を目指す。
昨日と同様、妙に閑散とした廊下。睡魔のせいで朧な意識では、果てなく伸びているかのように錯覚する。
無論、現実には果てがあるので、そのうち二水は休憩室の前まで辿り着けた。
二水の手がドアノブへ触れる寸前、轟音と共に彼女の体が上下に跳ねた。否、跳ねる錯覚に襲われた。
足元を激しく揺らす衝撃。それでも立っていられたのは、過去の経験のお陰か。先程の轟音が爆発音であることにもすぐに気が付いた。
「なっ、何がっ……!」
睡魔は一瞬で吹き飛んだ。
廊下の先へ向けられた二水の両目に、変わり果てたエントランスホールが映り込む。