花屋の朝は早い。
正確には、週三回開かれる
仲卸業者が販売を開始する午前6時までには市場に着いておきたいところである。
「花の
「はい。お魚やお野菜ならイメージし易いでしょうけど」
「花は青果・鮮魚・精肉に並ぶ生鮮品なんだけどなあ」
運転席でハンドルを握る天葉と助手席に座る樟美の会話。二人は業務用として保有するミニバンに揺られ、商品を仕入れるべくまだ薄暗い鎌倉の街を走っていた。
幅広の道路。だんだんと建築密度が低下していく車窓の光景。
程なくして、天葉たちは街の郊外にある卸売市場に到着した。
そこは広大なスペースを擁する活況の空間だった。四大生鮮食品――流通業の間では花卉も食品扱い――全てを取り扱っており、集積される物品は膨大な量に及ぶ。川崎市と厚木市に元々あった市場を統合して作られた、鎌倉府中央卸売市場である。
駐車場に車を停めた後、天葉は軽い伸びをしてからアスファルト舗装の上に降り立つ。仕入れ予定の品を書き連ねたメモ帳を右手に携えて。
「優先するべきなのはバラにアヤメにスズラン、リモニウムとかだから。覚えてて」
「旬のお花ですね」
二人は連れ立って市場の敷地を歩いていく。
商品のせりが開かれているのは中心部にあるコンクリートの建物だが、天葉たちの向かう先はそこではない。実際に仕入れに行くのは、外縁部に立ち並ぶ小さな商店の列。彼ら仲卸業者から、アマノのような小売店は買い付けている。
何せ、せりで取引される物品の単位は大きい。花の場合、1ケース100本といった具合である。なので5本単位10本単位で小売りしている仲卸業者を利用するというわけだ。
「葉のへたり具合に、花粉の色具合……。目利きは難しいです」
「全部見比べてはいられないからね。他の食料品よりは少ないけど、それでも結構な数だから」
市場がこれほど賑わうようになったのも極々最近のことらしい。天葉や樟美たちが現役リリィだった頃は、人も物もここまで集まりはしなかったとか。
もっとも、生産者以上に運送業が息を吹き返したことの方が奇跡かもしれない。鎌倉から横浜や横須賀、東京といった大都市圏ならともかく、それ以外の地域はヒュージによってズタズタにされた道路網の復旧が待たれている。特に甲州や静岡といった元陥落指定地域にとっては切実な問題と言えた。
天葉が車を業務用と割り切っているのもこの辺りに事情がある。今の御時世、オフロードカーでもない限り、車で移動可能な場所は存外に多くないのだ。
ともあれ店と市場の行き来ならば、ただのミニバンでも役に立つ。天葉たちは買い付けた花の束をトランクにしまう。後部座席を倒して拡充したスペースは色取り取りの切り花や鉢植えで一杯になった。
時刻は7時前。市場としてのピークはまだだが、既に天葉の目的は達成されていた。
「ふぁあ……。眠い……お腹減った……」
いざ車中の座席に着いて二人きりの空間になった途端、天葉が空気の抜けた風船みたいにだらけ出した。ついさっきまでテキパキと指示を出していた姿とはまるで別人。
しかし樟美は全く動じることなく、車内に持ち込んでいた籐のバスケットの蓋を開けて、こぶしに収まりきらないほどの握り飯を取り出した。
「お結び、作ってきました」
「食べるー」
「はい、どうぞ」
「食べさせてー」
そんな子供染みたお願いを聞き入れ、樟美の手が天葉の口元まで伸びる。
底面に海苔が巻かれた白米の丸い塊。製作者の手よりも明らかに大きいが、形は良い。輪郭をちょっとずつ丁寧に握って作ったのだろう。
差し出されたそれに、天葉は遠慮なくかぶりつく。見た目通り内容もボリューミーだった。ご飯の中に隠れていたのは鮭のフレーク、昆布、おかか。バクダンおにぎりである。
「塩加減、どうですか?」
樟美が味の具合を尋ねてくる。
それに対し、天葉は黙々と口を動かして、おにぎりを胃の中へ取り込むことで答えの代わりとした。
あれだけ大きかったバクダンおにぎりが、あっという間に平らげられた。
本人としては綺麗に食べたつもりでも、幾らかの米粒が零れ落ちている。おにぎりを保持していた樟美の指に。天葉の口から漏れた米粒が、樟美の指に。
その食べかすを樟美はあろうことか、自身の指ごと口に含んだ。
「んむっ、ちゅっ……」
米粒を食べて取り除き、指に付着した塩気を小さな舌で舐め取る。そんな行為を樟美はわけもなくやってのけた。
隣の天葉は樟美を横目でガン見していた。普段の樟美より5歳は大人びて見えた。
この二人、気分はいつも新婚同然。いつもとは違うあらゆる仕草が情動を動かし得る。
おにぎりの
フラワーショップ『アマノ』は基本的に
だが幾ら小さくとも、繁忙期というものは存在する。先の母の日もそうだが、お盆や年末年始は特に法人からの仕事が増してくるのだ。
そういったどうしても人手の欲しい時期、繁忙期でなくとも大口の仕事が舞い込んできた時などは、他の店と同様にアマノでもアルバイトを入れている。
今、開け放たれた裏口からバックヤードを覗いている女の子こそが、そのアルバイトであった。
「ごきげんよう」
聞き知った声に、樟美はハサミを持つ手を止めて振り向く。
肩まで伸びた薄紫の髪は、前髪がぱっつんと切り揃えられていた。前髪の下のくりっと丸い両の瞳は彼女の幼い雰囲気をより引き立てている。
とは言え少女というのはあくまで形容。少なくとも戸籍上では、彼女は樟美と同い年であった。
「ごきげんよう、
「うん。お店開くまで待ってるね。それまでお仕事見ててもいい?」
「勿論、いいよ」
樟美の許しを得て結梨が中へと入っていく。
折り畳まれ何枚も重ねられたダンボールや、まだ中身入りのダンボール。花の手入れや加工のための作業机。物に溢れて窮屈な印象のバックヤードだった。
丸椅子の一つに座り込んだ結梨は辺りをきょろきょろ見回している。バイト中に何度も出入りした場所ではあるが、それでも興味が尽きないのだろう。
「夢結様と梨璃さんへのプレゼントを探しに?」
「違うよ。今日は由比ヶ浜の、海に持っていくの」
「海?」
「うん、海」
意外な答えを聞いて樟美は首を傾げた。だが深くは踏み込まない。海に花と言ったら十中八九、鎮魂のためだろうから。
白井結梨。旧姓が一柳結梨。
彼女は極めて特殊な事情を持つリリィだった。ヒュージと認定され捕獲命令が出されたかと思うと、命令はすぐに撤回。直後、由比ヶ浜での戦闘で死亡認定を受ける。霊園にお墓が建てられ百合ヶ丘のリリィたちによる葬儀まで執り行われた。
その亡くなったはずの彼女が、暫くしてひょっこりと百合ヶ丘に戻ってきた。樟美や天葉など、当時のアールヴヘイムのメンバーに詳細は分からない。生徒会長たちや一柳隊ならば知っているのだろうが、何やかんやあったのだろう。いずれにせよ、あの時のっぴきならない状況に置かれていたのは想像に難くない。
そんな結梨も、出席日数が足りず一年留年するというアクシデントこそあったが、無事に百合ヶ丘を卒業することができた。今では本業の傍ら、花屋のバイトをこなす程度には平穏な生活を送っている。
もっとも、その本業というのが中々に変わったものだった。
「この前のニュース、見た? 紀伊半島にギガント級が上陸したって話」
「ええ。うちからも外征レギオンが出ていたっけ」
「あれ、私たちで倒したんだよ。私は、出番がほとんど無かったけど」
結梨は嘱託職員という肩書で百合ヶ丘に所属している。実際の彼女の仕事は、重要な作戦に予備戦力として同行したり、工廠科で試作チャームのテストに協力したり。結梨は通常よりもずっと、マギの減退が遅かったのだ。それこそ現役のリリィと肩を並べられるほどに。
「そう言えば、天葉お姉さんは?」
「家に忘れ物を取りに行ってる。朝の開店までには戻ってくるはず」
樟美たちが初めて彼女と出会ってから5年が過ぎた。
昔は見た目以上に幼かった結梨も、順調に成長しているようだ。一番分かりやすい変化は言葉遣いだろう。以前なら年上であろうが構わず呼び捨てにするところだが、今ではかつてのレギオンメンバーを除くと、立場相応の言動を取っている。
社会性・協調性を養い育てる。そのために結梨の保護者たちは、ガーデン外での彼女の労働を認めたのかもしれない。
「じーっ……」
先程から結梨は樟美の手元をじっと見つめていた。気が散るということはないが、少しばかりこそばゆい。
樟美は現在、商品である切り花の水切りに勤しんでいた。水切りとは、花の茎を切って水分の吸収を助ける作業のことである。根を失った切り花は水を吸う機能が低下しているので、鮮度を保つためにはこうした手間暇が欠かせない。
パチ、パチ ――――
会話の途切れた空間に、金属の小気味よい音が響く。剪定バサミの短く分厚い刃が、茎の下部を斜めにすっぱりと切り裂いていく。
見つめる結梨の瞳は輝きを放っており、尊敬の念すら宿っているように思える。樟美にとってはルーチンワークの如く繰り返してきた作業だが、ああいった目で見られて悪い気はしない。
それに、樟美は元々地味な仕事が性に合っていた。彼女の得意な料理も、大抵の場合地味な部分が多くを占めている。
暫くして、樟美が何気なく首を回して視線を動かした。
その時、結梨と目が合う。
するとおもむろに結梨が口を開く。
「樟美お姉さんと天葉お姉さんは結婚してるんだよね」
「えっ? うん、そうだけど」
「今は女の人同士でも子供が作れるんだよね」
「そう。東京の大学の研究チームとイルマ女子のラボが共同発表してたね」
「二人は、子供作らないの?」
予想外の質問が飛び出して、樟美は顔に表さずとも内心で面食らう。そして面食らった後、結梨もそういう話に興味が湧くようになったのか、とある種の感慨を抱く。
「お店を始めたばかりで、分からないことやバタバタすることも多いから。うちは、まだ。もう少し時間が経って落ち着いてから、かな」
「ふーん……」
樟美の返答を聞いた結梨はつぶらな瞳を二、三度瞬きさせる。納得したのか、していないのか。どちらにしろ、彼女の本題は直後に語られる。
「梨璃と夢結もそうなのかな」
「それは……」
「それとも、私に遠慮して作らないのかな」
結梨は梨璃と夢結の子供であった。戸籍上・法律上の子供というだけでなく、そうなる以前から、もっと本質的な意味での家族なのだ。
結梨の疑問を解消する術を、樟美は知らない。樟美も他人に語れるほど、家族について理解できてはいない。百合ヶ丘が全寮制であることを差し引いても、彼女は家族との関わりが希薄なのだ。
何と言ったら良いか、考えあぐねる樟美。
「結梨さん自身は、どう思ってる?」
気まずい沈黙を破ったのは、後ろの出入り口から聞こえてきた声だ。そこには自宅から戻ってきた店の主が立っていた。
「新しく子供ができたら自分のことを見てもらえなくなる。って結梨さんは思ってるの?」
「ううん、思わない」
「結梨さんが思ってないのなら、あの二人なんか想像もしてないよ。だからきっと、遠慮もしていない」
いつも以上に穏やかな調子で天葉がそう言う。
夢結もまた、天葉にとって旧友の一人。疎遠になった時期もあるが、何かと気に掛けていた。
「よく考えたら、私、そんなに子供じゃない」
「それはまあ、樟美や梨璃さんの一つ下で卒業したわけだし」
いつもの元気が戻ってきたのか、結梨の表情に精彩な色が付き始めた。
大人へと成長しても、子供っぽい顔つきや仕草など、どこかしら昔の面影を残しているものである。
「梨璃と夢結に聞いてみるよ。私の妹、いつできるのか」
「フフッ。お手柔らかにしてあげてね」
「あ、その前に、花束買っていくよ!」
「はーい、毎度ありがとうございます」
お店のオープン後、花束を抱えて元気よく飛び出していった結梨の背中を、天葉と樟美はカウンターの裏から見送った。
出生にどんな事情があろうとも、少なくとも身近な者たちからは、結梨の歩みが祝福されてきたのは疑いようがない。一度は悪意と命の危険に晒されながらも、真っ直ぐに育った現在の彼女を見れば一目瞭然だ。
「夢結と梨璃さんは、本当に幸せ者だね」
「はい」
隣に立っている天葉の言葉に、樟美が小さく頷く。
百合ヶ丘の中ならいざ知らず、外において結梨たちの関係は奇異に映るだろう。同性結婚だけでも議論の余地がある上に、外見年齢がほとんど変わらない訳ありの娘を養子にしたのだから、無理からぬことである。
だがあの三人は様々な問題を乗り越えて今の幸福を掴み取った。名実ともに家族となったのだ。それは樟美にとって、思わず目を伏せる程に眩しいものだった。
「羨ましい?」
「少し」
続く問いに対しても、樟美は頷いた。
天葉と共にある現状に不満があるのではない。ただ、やはり血の繋がった者からの祝福の有無は大きい。
樟美は北海道の実家と絶縁状態だった。天葉との結婚についても反応が無い。入籍を樟美の成人まで待っていたのは、彼女の両親から同意書を得られなかったからである。
一方で夢結の方はと言うと、甲州の一柳家を訪ねて筋を通したらしい。あちらが梨璃の成人を待って籍を入れたのは、結梨の養子縁組と合わせるためだとか。
眩しく、羨ましい。樟美は未だ顔を合わせに行く勇気が持てないというのに。
「いつか、会いに行けるといいね」
「……ごめんなさい。私が弱いから」
「弱虫な樟美も好きだよ」
隣り合ったまま、樟美の左手は天葉の右手に包み込まれた。その温もりは特別寮に居た頃から変わっていない。樟美を甘やかし、同時に励ましもする天葉の温もりだ。
「そうだ。今度夢結に、甲州に行った時のこと詳しく聞いてみよう」
「えぇ? 話してくれるかなあ」
それから数日後、意外なことに天葉の提案は実現することになる。