芝の上の雲   作:ニゴハチ

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芝の上の雲・前編

 ──雲はいつでも、変幻自在。

 何者にも捕まらず、己のカタチを変えながら、ただ、流れていくばかりである。

 

 

 

 

 

 「起きろ」

 

 

 

 都心を外れたとある河川敷に、帽子を日除けにして寝転ぶウマ娘と、上等だが傷のある、使い込まれたステッキを支えにして立つ、深い皺と、白髪をこさえた男の影があった。

 

 

 

 「………」

 

 

 

 男の呼びかけに応じる様子はない。

 冬の、突き刺すような寒さが終わりに近づく柔らかな日差しの下、帽子からはみ出た芦毛が寝息に合わせて揺れ続けている。

 彼女の足元には、水流に向かって垂らされた釣竿が、主人と共に静寂を保っていた。

 

 

 

 「…早く起きんと、食い付いた大物が逃げるぞ」

 

 

 

 反応は速かった。

 帽子を投げ捨て、情報によるところの"大物"の姿を確認しようと跳ね起きる。

 釣竿を握り、水面を睨む。

 その目つきは、百戦錬磨の狩猟者のそれと相違なかった。

 …少女は狸寝入りを決め込んでいた。

 

 

 

 「…?」

 

 

 

 やがて竿に掛かった負荷もなく、水面に一匹の魚影もないことを認めると、少女は老人の策にまんまと乗せられたことに気づく。

 かくりと肩を落とし、溜息をついてから再び仰向けになった。

 少女の纏う外套が、芝生と少女とに挟まれてふぁさ、と音を鳴らす。

 

 

 

 「サボりのお叱りですか?残念ですけど、トレーニングって気分じゃなくて…」

 

 

 「そんなんはいい。釣果は?」

 

 

 「はぁ…」

 

 

 「何匹釣れたんかと聞いとるんだよ」

 

 

 「…ボウズですよ。妙に魚が寄り付かなくって」

 

 

 「………カカ、そうか」

 

 

 「…何ですか。腕の悪い釣り人を笑いに来たんですか?」

 

 

 「いやいや」

 

 

 

 老人は心底愉快そうに、一向に魚が現れない水面を見つめた。

 

 

 

 「今のお前は、釣りなどしている場合ではないと、魚たちが言っているようやと思ってな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──トレセン学園、トレーニングコース

 

 

 

 「最後のスパートですッ!ビタークラッセ、リトルココン!」

 

 

 「やぁぁあああ!!」

 

 

 「はっ、はっ、はっ……!」

 

 

 

 夕暮れのコースを駆ける2人のウマ娘に、『樫本理子』は檄を飛ばす。

 1日の締めくくりに行われた併走トレーニングには、実力が近いもの同士が選ばれる。

 彼女ら──『チームファースト』の中では、類稀なる肺活量を持つ『リトルココン』と、先行策を得意とし、持ち前のパワーで他を圧倒する『ビターグラッセ』がそれだ。

 ……とはいえ、まだこのチームには、2人をおいて他にメンバーはいない。

 レースは最後まで伯仲し、2人はほぼ同時にゴールした。

 

 

 

 「はぁっ…はぁっ…よぉし!今日は私の勝ちだぞっ!リトルココン!」

 

 

 「はぁっ…はぁっ…くそっ…!」

 

 

 「お疲れ様でした。2人とも、順調にタイムが伸びています」

 

 

 「樫本トレーナー!調子はバッチリですよ!これなら次のレースも勝てそうですッ!」

 

 

 「──いいえ、まだまだです。フォームも安定していませんし、スパート距離もさらに長くできるはずです。やるべきことは山ほど残っていますよ」

 

 

 「うっ…そうですか…」

 

 

 「では、柔軟メニューを終えたら今日のトレーニングは終了にします。準備を」

 

 

 「「はい!」」

 

 

 

 ──チームファースト

 

 昨年デビューを迎えたリトルココン、ビターグラッセを擁する新進気鋭のチーム。

 レース生活の全てを管理する『徹底管理主義』を掲げるトレーナー『樫本理子』の指導の下、トゥインクル・シリーズに新風を巻き起こした。

 ビターグラッセはデビュー戦から、GⅢ京成杯を含む3連勝中。

 リトルココンは2勝止まりだが、GⅠホープフルステークスでの入着を果たしている。

 メディアでの注目も集まっている、まさに期待の新チームである。

 

 

 

 (…トレーニングの成果は出ている。この調子でタイムを縮めていけば、あるいは)

 

 

 

 ──GⅠタイトルに手が届く。

 2人の実力は本物だ。

 トゥインクル・シリーズのGⅠ戦線でも十分に戦っていけるほどに。

 ただ、

 

 

 

 (故障が無ければ、の話ですが…)

 

 

 

 かつての自分の過ちを振り返る。

 甘かった自分を、

 経験不足だった自分を、

 

 

 

 (もう二度と、あんな悲劇は起こさせない)

 

 

 

 夕暮れのアカイロに染まるトレーニングコースで、柔軟に励む2人に、誓った。

 

 その時、スマホの振動が体に伝わった。

 着信は未登録の番号からだった。

 

 

 

 「もしもし…?」

 

 

 「……!お久しぶりです…」

 

 

 「今夜、ですか…?………ええ、分かりました」

 

 「では、そちらのお店に…はい、失礼します…」

 

 

 

 電話が切れたのを確認し、スマホを収めた。

 

 

 

 「…………」

 

 

 

 すぐに、連絡先の情報を入力する。

 番号を変えていたということは、『彼』もとうとうスマホに買い替えたのだろうか。

 ──懐かしい、昔の思い出が蘇る。

 話したいことがあるのは、むしろこちらの方かもしれない。

 

 

 

 「本当に…久しぶりになりますね…」

 

 

 「"植月先生"……」

 

 

 

 

 

 ──東京都内、某所

 

 

 

 都会の喧騒も、目の眩むような光も、この店には届かない。

 なにせ看板も無いものだから、そもそも店かどうかも分からない。

 映画で登場する、悪い大人たちが、怪しい商談を持ち込むようなそんな佇まいのバーだった。

 

 

 

 「……………」

 

 

 

 階段を下りる。

 この先に"先生"がいる。

 そう思うと、やけに胸が高鳴るような、緊張するような気持ちがした。

 階段を下りきった先の、薄暗い店内に小さなカウンターが設けられていた。

 その中央の席に、使い古されたステッキを携えた白髪の老人が腰掛けている。

 

 

 

 「おお」

 

 

 「先生…!」

 

 

 「しばらくやったな、理子…」

 

 

 「……はい、本当に…お久しぶりです」

 

 

 

 ──小さい、ずいぶん痩せたように感じる。

 『植月敦也』はどちらかといえば小太りな体型だったはずだ。

 加齢か、生活の変化か…。

 それとも、昔に比べて彼が小さく見えるのは、視覚的な要因ではないのかもしれない。

 

 

 

 「座んなさい。とりあえず、再会を祝うとしようや」

 

 

 「……はい、失礼します」

 

 

 

 隣の席に腰を下ろした。

 昔感じたような、きつい煙草の匂いはしなかった。

 重度のヘビースモーカーだった彼も、健康に気を遣って禁煙したのだろうか。

 

 やがて、店の奥から、小柄で、縁の無い眼鏡をかけた老人のバーテンダーが現れた。

 植月とさほど変わらない年齢のように見えたが、仕事柄か、背筋はシャンと伸びている。

 

 

 

 「いつもので…」

 

 

 

 店主は植月の注文を受け取ったようで、瞳を閉じて、軽く会釈をした後、理子の方へ視線を向けた。

 …さて、何を頼んだものか。

 仕事の関係で酒の席に座ることは多かったが、あまり強い方ではない。

 

 

 

 「心配すんな」

 

 

 「え?」

 

 

 「同じものを…」

 

 

 

 今度は両人に向けてか、店主は深く頭を下げた。

 再び奥へ戻っていく。

 

 

 

 「あの……」

 

 

 

 理子が動じながらも問いかけると、植月は照れ臭そうに言った。

 

 

 

 「いや…、酒は医者に止められとるからな」

 

 

 

 店主はすぐに戻ってきた。

 手元に2つのグラスと、よく見慣れた『アレ』を持って。

 

 

 

 「おめぇも、酒は弱かったやろ。だからこれでええわ」

 

 

 

 白と緑のデザインの紙パックから、真白の液体が注がれる。

 コースターを敷いて、目の前に差し出しながら、店主は言った。

 

 

 

 「アイスミルクでございます……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「地方の子らを見ながら、ゆっくりちびっこレース団体の指導でも……と思っとったんやけどな」

 

 

 

 どうやら『いつもの』らしいアイスミルクをちびちびとやりながら、植月は近況を語り始めた。

 

 

 

 「……URAから声がかかってな。チームトレーナーが不祥事を起こしたとかで、代理が必要やったんや。それで、こっちに来たのが今年の冬頃。…ちょうど、"ファースト"の2人がデビューした時期やったな」

 

 

 「…そうでしたか……」

 

 

 「"ファースト"の活躍は聞いとるよ。今や、トゥインクルの期待の新星やな」

 

 

 「そんな…まだまだ、課題だらけです。あの子たちも、私自身も……」

 

 

 「……それでええ。どうするか考えるのをやめた時、本当の終わりが来る。…いつまでも考えればええんや」

 

 

 

 ──どんな時でも、考えることを止めるな

 

 植月敦也の口癖だった。

 感覚や、根性論ではなく、データと実績を重んじた彼の金言。

 彼に育てられたのはウマ娘だけではない。

 現在、最前線でトレーナーとして励んでいる者の多くは、彼の教えを受けている。

 

 

 

 「"徹底管理主義"…やったか。自主トレーニングの禁止のみならず、食生活、休日の過ごし方までもトレーナーが管理する…と」

 

 

 かつての師が、ついにその話題に触れた。

 理子は次に出る言葉を待つように、身を引き締めた。

 

 

 「……俺らの時代には無かった発想、いや、思いついていたとしても実行には移さんわ。指導するトレーナーへの、そして生徒への負担が大きすぎる。無理のある時だって、あるやろ」

 

 

 「……いえ、逆、です。生徒に負担が掛からないようにするための、管理教育プログラムなのです」

 

 

 「……………」

 

 

 

 植月はやや間を置いて、グラスを手で弄びながら宙を見上げた。

 

 

 

 「故障、か」

 

 

 「……………」

 

 

 

 沈黙、だった。

 

 ──脳内のイメージは、過去へとダイブする。

 あの日、

 あのレース、

 あの子の、表情……。

 もう二度と、こんなことはごめんだと、一度はトレーナー業からその身を引いた、あの事件。

 

 

 

 「…あれから、何年になった」

 

 

 「……5年です」

 

 

 「………そうか、5年、か」

 

 

 「……………」

 

 

 「…忘れまい、と思っとったんやが、俺にはずいぶん昔のように感じるよ…」

 

 

 「………私には、」

 

 

 気づけば手が震えていた。

 過去の自分への憤り、故障して引退を余儀なくされたあの子への思い。

 それらがいつしか身体に伝わっていた。

 理子は精一杯の力で、震えながら、声を振り絞った。

 

 

 

 「私には、つい昨日のことのように……、思えてならないんです。もう、5年も経つというのに。崩れ落ちていくあの子の姿が、目に…焼き付いて……!」

 

 

 「…もう、ええよ……」

 

 

 

 そこで、制された。

 植月は観察眼に長けた名指導者だ。

 昔を思い出し、苦しむ理子の姿を、そのまま黙って見ているわけにはいかなかった。

 その彼の優しさを理解できる分には、理子は冷静だった。

 

 

 

 「すみません……」

 

 

 「いや……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……すまんかった」

 

 

 「……いえ」

 

 

 

 先ほどとは比べようも無いほど、長い、長い、沈黙が訪れた。

 狭い店内の、天井の隅に備え付けられた換気扇から聞こえる、ヴーーーーン………、という、普段なら気にもならないような音がやけに耳についた。

 これが、洒落た音楽の一つでも流れていたなら、この沈黙も耐えられていただろうに。

 

 先に沈黙を破ったのは、植月敦也だった。

 

 

 

 「徹底管理主義には」

 

 

 

 そこで一度言葉を区切り、アイスミルクを口につけた。

 軽く息をついた後、胸元を探りながら言葉を続けた。

 

 

 

 「世間の注目が集まっとる。かつての教え子やってことで、何度か…マスコミから取材を受けたんやが、さて、どう答えたもんかと考えとってな…」

 

 

 

 植月は、ジャケットの胸ポケットの内側から煙草と、ライターを取り出した。

 身体から匂いはしなかったが、禁煙はしていなかったらしい。

 火をつけると、噛みしめるように煙を味わった。

 

 

 

 「1日、1本までなんや。大事な話をする時だけ、な。まあ、それはええんやが…」

 

 「俺が思うに、徹底管理主義は新たなレース教育の指標になりつつある。故障リスクを抑え、なおかつ、他に引けを取らない成長が見込めることを"チームファースト"が証明しとる」

 

 「今までは、故障とは、起こり得るもの、仕方がないものと割り切られる部分が多かった。だが、おめぇはそれを許さなかった。…いや、許せなかったんやな、過去の自分を…。その執念こそが、今の体制を作り上げるに至った」

 

 

 

 一つ一つ、冷静に分析を続ける。

 "チームファースト"の、徹底管理主義がもたらした結果と現実。

 植月敦也が紡ぐ言葉が、樫本理子の軌跡を辿る。

 

 

 

 「しかし……また同時に、批判も、多い」

 

 

 「………はい」

 

 

 

 『樫本理子は、生徒の自由を奪っている』

 『徹底管理主義は、生徒の自主性を受け入れない、時代遅れの産物である』

 

 チームファーストが結果を残すたび、樫本理子の名前が挙がるたびに、このような批判も同時に浮かび上がってきた。

 世間での徹底管理主義の評価は、風当たりが強く、それ故に、チームファーストもファンが定着していなかった。

 

 

 

 「……時折、考えてしまうのです。あの子たちは、もっと普通の青春を送るべきなのではないかと」

 

 

 

 ──らしく、ない。

 こんな言葉を漏らすのはいつ以来だろう。

 お酒は入っていないというのに、つい本音が漏れてしまうのは、場の雰囲気に酔ってしまっているからなのかもしれない。

 

 ……復帰してから、いつも厳しい周囲の目線に晒されてきた。

 マスコミも批判を取り上げ、追い詰めるように取材を強行してくる。

 そんな人々にも、毅然とした態度でいよう、何者にも負けない強い意志を持とうと心に誓って、この数年間を過ごしてきた。

 ──けれど

 

 

 

 「もっと、友人と遊びに出かけたり、美味しいものをお腹いっぱい食べたり、したかったのではないかと…。生活の全てをレースに捧げる毎日が、本当に満ち足りた青春と言えるのかと…」

 

 

 

 先生を前にすると、秘めていた迷いがぽつぽつと溢れ出してくる。

 震える手のひらに、また力がこもってしまう。

 

 彼女たちは、世界の注目を浴びる選りすぐりのレーサーであり、人々はその力強い姿に心動かされ、称賛と喝采を惜しまない。

 もちろん、レースで勝つことは、トレセン学園の生徒共通の夢だ。

 勝ちたいと願う以上、日々のトレーニングは欠かせない。

 だが、彼女たちは、そんな尊く高潔な存在であるのと同時に、ごく普通の女学生に過ぎないのだ。

 放課後に寄り道をしたり、甘味を食べ歩いたり、一生懸命に恋をしたり……。

 

 ──そんな青春時代を、チームファーストに所属しているばかりに味わえない。

 今この瞬間にしか出来ない経験が、管理教育プログラムによって全て塗りつぶされてしまう。

 

 

 

 「……まぁ、普通なら、耐えられんわな」

 

 

 

 植月敦也はあっさりとそう言った。

 彼は昔から気休めを言うタイプではない。

 いつだって、物事の本質を見抜いているし、それを伝える際に忖度はない。

 分かりきっていた評価だったが、やはり、師の言葉は一層響いてしまう。

 理子は静かに俯いた。

 

 しかし、否定的な意見と裏腹に、彼の表情は明るい。

 優しい笑みを浮かべながら、理子に向き直った。

 

 

 

 「おめぇが初めて担当契約した時、俺が何言ったか覚えとるか?」

 

 

 

 先生は突然、試すように質問する癖があるのを思い出した。

 自分の過去の教えが、今に活かされているかどうかを問うためだ。

 恩師の言葉は、胸にしかと刻んでいる。    

 答えるのは容易だった。

 

 

 

 「『トレーナーはウマ娘を見るのが仕事だが、彼女たちもまた、我々をよく観察し、評価している』…ですか」

 

 

 「……そう」

 

 

 「…………」

 

 

 「いや、な。実は、ファーストの2人のデビュー戦から、直近のレースまでの映像を全部見たんだがな……」

 

 

 

 先生があの子たちのことを把握してくれているだけでも嬉しかったが、それだけでなく、レースを全て見てくれているというのは素直に嬉しかった。

 植月は穏やかに言葉を続けた。

 

 

 

 「これは俺の所見なんだがよ、あの子らがゴールした後の表情は実に満足気なもんだよ。いい走りが出来たってのもそうだろうが、特に、おめぇに駆け寄ってく時の表情ったら…」

 

 「ありゃあ、あれだ。日々の欲求とか、トレーニングの辛さとか、そういうものを踏み越えていけるほど……」

 

 「──おめぇのことが、大好きなんだろうよ」

 

 

 

 ──そこで、ハッとした。

 レースが終わった時、最前列で見守る理子に、真っ先に駆け寄るリトルココンや、ビターグラッセの笑顔を思い出した。

 

 

 

 『樫本トレーナーッ!見ていてくれましたか!?』

 

 『樫本トレーナー…私、勝てました……!」

 

 

 

 

 

 

 「…………あぁ」

 

 

 

 不意に、目頭が熱くなった。

 あの子たちは、不満を感じていたどころか、自分に感謝を向けてくれていたんだと、恩師の言葉で気付かされた。

 なんて、愚かで、鈍感なトレーナーなんだろう。

 一番近くにいて、そんなことにも気付けないなんて。

 

 

 

 「──わたし、は」

 

 

 「……なぁ、理子よ。皆、分かっていてもな、トレーナーとウマ娘が、互いに互いを尊敬し合える関係ってのは、そうそう築けるもんじゃねえよ。おめぇは2人を想ってトレーニングメニューを組む。あの2人はそれに応える。食事制限や、オフの過ごし方にも気を配る。全部、おめぇを信頼してるからだ。いつか必ず、それが実を結ぶと信じてるからだ」

 

 

 

 理子は師の言葉を噛み締め、2人の顔を思い出しながら、じっと目を伏せた。

 

 

 

 「……良いチームを、作ったな」

 

 

 

 ──そこで、抑えていた感情が、目から溢れた。

 先生に背を向けて、ハンカチを取りだす。

 

 

 

 「ごめんなさい…っ」

 

 

 「………カカ、泣き虫は相変わらずやなぁ、理子」

 

 

 

 昔、陰で泣いていたのを、先生に見つかってしまったことがあるのを思い出した。

 人前では決して涙を見せまい、と思っていたのに、よりにもよって尊敬する植月に、情けない姿を見せてしまったと、さらにどうしようもない気持ちになったのをよく覚えている。

 そんな私にも、先生は温かい言葉をかけてくれた。

 そばにいて、励ましてくれた。

 理子が唯一涙を見せられる相手は、植月敦也だけだった。

 

 

 

 「理子よぉ、批判にしろ、賞賛にしろ、真正面から受け止めるには、人間、限界ってもんがある。おめぇは、それらに立ち向かっていく勇気と気概を持っとる強いトレーナーだが、それじゃあ保たねぇんよ。時には、適当に受け流すことだって必要なんや」

 

 

 「、はい。肝に、銘じておきます…!」

 

 

 「カカ……、分かっとるんか、分かっとらんのか、やな」

 

 

 

 上機嫌そうに、植月は残りのアイスミルクを煽った。

 グラスの音をわざと立てるようにしてカウンターに置くと、薄く色のついた眼鏡を外し、理子に言った。

 

 

 

 「……そろそろ、本題に入らせてもらいますわ。樫本トレーナー?」

 

 

 

 植月敦也の纏った雰囲気が、先程までの温和な空気とは一変した。

 湿っぽくなった理子の涙は、驚くように急速に引いてしまい、目の前に座している強敵の存在に、否が応でも対峙しなければならなかった。

 植月の身体が小さく見えたのは、中央の荒波から身を引いたからだと思った。

 もはや勝負師としての彼はいないのだと、そう勘違いをしていた。

 

 ──あぁ、やっぱりこの人は、勝負の世界に今なお、生き続ける人なんだ。

 

 

 

 「チームファーストのビターグラッセ、次のレースはGⅡ『弥生賞』と睨んどるが、どうや?」

 

 

 

 ──当たっている。

 まだ、メディアにも発表していない情報だが、ビターグラッセが『クラシック三冠』を目指していることはすでに公表している。

 中山レース場2000mで争われるクラシックの1冠目、GⅠ『皐月賞』に向けて調整するならば、同条件で行われるGⅡ『弥生賞』はまさにうってつけのレースだ。

 

 

 

 「…まさか、先生のチームからも出走を?」

 

 

 「……頭も良く、素質もあるが、いかんせんトレーニングをサボりがちで苦労しとるよ。まぁ、実力でいえば、今のビターグラッセの圧勝やろうな」

 

 

 

 飄々と語る植月。

 こういう時、すぐに自分のペースに持ち込もうとするのが、植月の常套手段だということを理子は知っている。

 だからこそ、ビターグラッセへの美辞麗句も真に受けることはなかった。

 

 

 

 「……俺も老いぼれとはいえ、まだ現役やからな。レースとなれば、色々と策を練らせてもらうわ。勝つために出来ることは全て……な」

 

 

 「──望むところです」

 

 

 

 老人の挑発に理子は正面から受けて立った。

 かつての師とはいえ、レースでぶつかり合うというのなら、全力を持って打ち負かすまで。

 樫本理子には、揺るぎない信念があった。

 

 

 

 「たとえ先生が相手であろうとも、今のビターグラッセは負けません。……いえ、必ず、私が勝たせてみせます!」

 

 

 「カカ……ええわ。本当に、ええトレーナーになったわ」

 

 

 

 植月が懐を弄って、色褪せた革の長財布を取り出した。

 その中の万札を一枚、理子に差し出した。

 

 

 

 「ここの会計は済ませとくから、今日はこれで帰りなさい。遅くまで付き合わせて悪かった。ありがとうよ」

 

 

 「……頂けません。私の方こそ、お話を聞いていただいたのに」

 

 

 「いいから持ってけ。俺の気がすまん」

 

 

 

 植月敦也という男性は、こうやってわがままを言うように、他人に気をつかう。

 こうなった植月は、どれだけこちらが譲っても引かない。

 

 

 

 「……申し訳ありません。有り難く、頂戴します」

 

 

 

 差し出された万札を、同じように懐に収めた。

 アイスミルクはすでに飲み干している。

 今夜はここでお暇するとしよう。

 

 

 

 「それでは、失礼します。今度は、レース場で……」

 

 

 「ん……」

 

 

 「……そういえば」

 

 

 

 店を出る直前、理子は階段手前で立ち止まった。

 

 

 

 「弥生賞に出るのは、どんな娘なんですか?」

 

 

 

 

 

 「………………」

 

 「………まぁ、」

 

 「名前の通り、というか」

 

 「……カカ。掴み所のない、雲みたいなやつやな……」

 

 

 

 

 

 

 芝の上の雲・前編

 

 

 完

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