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⑴
(―――視点)
たおやかな手が、髪を撫でる。
何度も何度も……いとおしむように。
「……この髪はお気に召しましたか?」
「ええ、大好きよ。とても綺麗ですもの。雪解けに芽吹いた若草のよう……」
優しい手つきに身を委ねていると、なにもかも忘れて、今この瞬間の幸せに溺れそうになる。
子どもの頃から短く刈り込んできた髪の毛が、ひとつに束ねられるほどに伸びていた。
これまでの自分の不遇の元凶であった緑色の髪。
ずっと忌まわしくてたまらなかった、スペルド族と同じ呪われた髪の毛の色。
職業として騎士を選んだのも、兜で髪を隠せると考えたからだ。
たったひとりの女性が愛でてくれただけで、すべての悩みが溶けだして消えた思いがする。
けれど——
「ミリス領土に入ってからは、魔物の妨害もなく、移動が速くなりました。
あと数日でミリシオンです。
あなたを教団本部までお送りしたら、もう……」
直視したくない現実を口にすれば、忘れていた苦悩が再び胸を締め付ける。
護衛対象である姫君。
今やそれ以上……自分のすべてとも言うべき存在が、静かに長いまつ毛を伏せた。
「この婚姻は、ミリス神聖国との深い繋がりを求めた父王が決めたもの。
ただの政略結婚であり、わたくしは政治の道具にすぎません」
彼女の母親は、王が気まぐれに手を出した下級貴族の娘であった。
敬虔なミリス教国において、側室は日陰の存在だ。王女として認知はされたものの、城内での立場は弱い。
彼女がミリス神聖国高官の息子のもとへ嫁ぐにあたり、付けられた従者は侍女と下僕が2名ずつ。最低限のものだった。
それを補うため、現地駐在中の神殿騎士が警護に付き従うこととなり、長い道中の安全をひとりで守ってきたのだ。
人質のように他国へ嫁がされる姫君と、誰もやりたがらない貧乏クジの任務を押し付けられた騎士。
道中のさまざまな出来事を通して気心をかよわせ、ふたり愛情を育みあった2年余り。そして今、その旅も終わろうとしている。
年月を経て良き理解者となっていた従者たちは、邪魔にならぬよう離れたところから見守ってくれた。
もう間もなく、ふたりが引き離されてしまうことは自明の理であったし、聖ミリスの遺徳か、少々目を離しても街道沿いに危険はほとんどないからだ。
「わたくしの心は生涯あなたのものだと、ミリス様に誓います。
あなたがミリシオンにおられるあいだは、なんとか抜け出して会いにまいりましょう。
わたくしの心をあなたに捧げる証として、どうぞ指輪をお持ちください」
持参金の一部として持たされた道具類の中から、小さくも重厚な造りの箱を選び出す。
小箱からそっと指輪を取り出すと、鎧手甲を外した無骨な指に、姫君手ずからとおしてくれた。
「この指輪はふたつでひとつ。たとえ離れても、たがいに呼び合うと言い伝えられているものです。
どうか、わたくしにも指輪を……あなただと思ってずっと大切にいたします」
残ったひとつを託すと、みずからの白く細い手を差し出す。
⑵
回復棟へ向かうには、教団本部の入り口を経由しなければならなかった。
ルーシーとエリナリーゼ、クライブは、教団の客人であるルーデウス・グレイラットの身内ということで問題なく通過することができた。
ルーデウスに4人目の妻がいたと噂になるかもしれないが、今は非常事態。そんなことは些細な話だ。
内部を連れ立って歩けば、エリナリーゼよりも、むしろクライブに目を止める人間が多かった。
あえて言及する者はいなかったものの、その面差しがクリフに似ていたためだろう。
クリフは一瞬、彼らは自分の家族だと、公表してしまいたい衝動に駆られた。
しかしこれは、クリフ自身の立場を守るためではなく、大切な妻と子どもの安全を最優先したうえでの判断なのだ。
エリナリーゼとクライブは、ルーシー同様にルーデウスの身内ということで押しとおそう。
実際、エリナリーゼは義理の祖母にあたるわけだから嘘ではない。
部屋の入り口には立ち番の騎士がひとり立っている。
「副隊長は、ただ今ミコ様のところへ行っております。明日、朝いちばんで戻るということでした」
「わかった。ありがとう」
「入るぞ」
ノックのあと返事を待たずに扉を開けると、白いリネンの上に真っ赤な髪の毛が広がっていた。
強い色彩のコントラストに、視線が縫いとめられる。
……なんだ?
エリスがルーデウスの上に覆いかぶさり、唇を重ねている。
こちらに気付かないはずはない。
そのまま黙っていると、やがてエリスは顔を上げて息をついた。
彼女の表情に、口付けの現場を他人に見られたという、気恥ずかしさや後ろめたさはまったくない。
色ごととは無縁の横顔は、真剣で、悲壮ですらあった。
「あの時、口からなにか入れられたのかもしれないわ。
だとしたら、吸い出せるんじゃないかと思ったのだけれど……」
自嘲気味に手の甲で唇をグイとぬぐうと、繊細なレースの施された絹の袖でルーデウスの口元を拭いた。
「……ルーシー……連れて来てくれたのね」
「ルーデウスにとって自分の子どもは特別だ。この子の呼びかけには反応するかもしれない」
神子が言う、ナリス姫の心の内部と同じことがルーデウスに起こっているとしたら。
知らない誰かの精神が、ルーデウス本人のものと不可分に絡みあっているとしたら。
そう考えると、神撃魔術を試みるのはリスクが高すぎた。
明日までに、なんとか自力で目覚めてもらうしかなかった。
エリナリーゼの服の裾を掴んでいたルーシーが、おそるおそるベッドに近寄った。
小さな手の繊細な指先が、物言わず眠るルーデウスの頰に伸ばされる。
「パパ、起きないの? どうして?」
来る途中、なるべく深刻に聞こえないよう気を付けながら伝えたつもりだ。
しかしクリフはもともと、遠回しなもの言いがあまり得意ではない。
エリナリーゼの助けを借りてなんとかなっていたものの、この部屋の固い空気は、幼い少女を動揺させるにじゅうぶんで。
大きな目に溜まった涙は、今にもこぼれ落ちそうだった。
⑶
(―――視点)
悶々としながら待ったひと月あまり。
ほんとうに長かった。
婚礼儀式や、その後のもろもろ……落ち着くまで、ある程度の期間を要するのは理解している。
俺のような庶民でさえ、最初のシルフィとの結婚前後は、やらなければならないことで忙殺されたのだから。
嫁ぎ先が上流貴族ならば、なおさら面倒な手続きなどで時間がかかることは想像に難くない。
とはいえ、心穏やかに待っていられるかは別問題だった。
ここミリシオンには、俺の親や兄弟たちが今も暮らしている。
なんの因果か緑の髪なんぞに生まれついたため、この街に、この国に、俺の居場所はどこにもなかった。
家族との縁も、とうの昔に切れている。
ミリス全土における魔族排斥の風潮は根強く、中でもスペルド族への嫌悪は強烈だ。
ルイジェルドを知る俺にとっては悪評がただの言いがかりであるのは常識だが、世間はそうはいかない。
周囲からの冷たい視線を避けるために兜をかぶり、遠隔地任務を志願するしかなかった。
しかし、そのお陰であの人に出会えた。
俺は初めて生きる理由を見つけたのだ。
緑の髪で生まれたのも、故郷を捨てざるを得なかったのも、この出会いのためだったと思えた。
きっと、すべては運命だったのだ。
騎士としての勤務以外はできるだけ身を隠し、再会の時まで、ひたすら耐えて待ちつづけた。
そして、ようやく届いた手紙。
心から待ち焦がれた、愛しい人からの連絡だ。
むさぼるように読んだ文面には、会えない寂しさと恋情が切々と綴られていた。
そして最後に、逢瀬の場所と日時が記されている。
俺は自由になるすべての時間、文面を噛み締め、筆跡を指で辿り、ほのかに立ちのぼる香りを味わって過ごした。
⑷
(―――視点)
一日千秋の思いで迎えた、約束の日。
教団本部の裏手にある礼拝堂の陰、真夜中を過ぎた時間帯。
この施設は聖ミリス記念日のミサにしか使用されない。
深夜である今、シンと静まりかえっていた。
逢瀬の場所としては郊外のほうがより安全にも思えたが、あまり遠いと抜け出せないのかもしれない。
……遅くはないか?
ソワソワと待つうちに、しだいに心配が込みあげる。
今の姿が俺だとわからない、ということはないよな?
いつもの鎧は身に付けておらず、腰に剣を1本帯びているだけの軽装。
闇に紛れるのに都合が良かったし、愛しい人を抱きしめるなら、硬く冷たい鎧は邪魔でしかなかったから。
待ちきれなくなって、付近を探してみようと物陰から足を踏み出した時、背後に気配を感じた。
聞こえた声は、心待ちにしていた想い人のものではなく。
「やはり来たのか。神殿騎士でありながら、護衛対象に懸想するなど言語道断」
そこにいるはずのない青い鎧が、松明の炎に浮かびあがった。
「……姫君はどこに……?」
「姫君?……もう宰相殿のご子息の奥方だよ」
名も知らぬ騎士は、せせら笑う。
「来るわけがないじゃないか。付きまとうお前の扱いに困って、教団に対応を依頼してきたのだ。奥方ご自身がな。
まったく……おめでたいヤツだよ」
そう吐き捨てると、俺の目の前にこれ見よがしになにかを掲げ、パッと指を離した。
——チャリン
松明の光をキラリと反射して、小さな金属片が石畳に落ちて転がった。
あの指輪だ!
とっさに拾いあげようと屈んだ俺の背中に、衝撃が走る。ついで、肉がバックリと割れる感触。
しかし、指輪を拾いあげることには成功した。
この男の言うことが真実であるはずがない!
会って、直接話して、あの人の真意を確かめなければ!
負った傷の痛みなど、どうでも良かった。
俺は剣を振り回して走り出す。
が、すぐに新手の騎士が現れて、方向を変えざるをえなくなる。
ちくしょう、また逃げ道を塞がれた!
礼拝堂から離れられぬままに、周囲をグルグル回る。
くそっ! こいつら、何人いるんだ。
こんな時、魔術が使えたら……!
一瞬頭をよぎるものの、初級魔術さえ身に付かなかった俺には、剣を振るう以外能はない。
剣ですら、複数の騎士相手では打ち倒すのは望み薄だろう。
とにかく逃げきる。
そして、あの人のもとへ……!
次々と湧き出てくる、同僚だったはずの騎士に追い詰められて行き場をなくした俺は、礼拝堂の窓を突き破って飛び込んだ。
ミリス教徒なら、少なくともこの中で殺生はしないはず。
とにかく時間を稼ごうと、祭壇の裏に回り込んだ。
と、突然足元から床がなくなった。
必死に伸ばした手は、虚しく宙を掻く。
⑸
(―――視点)
……ここは……どこだ?
どうやら、背中から落ちたようだ。
斬られた痛みか、打ち付けたせいか。強烈な痛みが脈打って俺を苛む。
目を凝らしてみても、闇が広がるばかりでなにも見えない。
まさか、転落の衝撃で視覚を失ったとか……ないよな?
ああ、光の精霊のスクロールを持って来ていれば良かった。
魔術を使えない俺は、ほんとうに役立たずだ。
剣はこの手にある。あの人の指輪は……持っていなかった。
落ちる瞬間、掴まるものを探してもがいた覚えがある。きっとあの時、握っていた手を開いてしまったのだろう。
身体を起こせば、小石やザラザラとした砂つぶが手のひらにめり込むように付いた。
地面の感じからすると、ここは屋外か?
いや、それはない。礼拝堂の地下のはず。
不快な匂いが立ち込めているものの、呼吸は苦しくない。かすかな空気の流れを感じる。
手を伸ばせば、でこぼことした石の壁に触れた。
助けが期待できない以上、ここにうずくまっていても事態は変わらない。
なんとか立ち上がり、ゆっくりと歩きだす。
壁づたいに進むうち、ふと閉塞感が緩んだ感覚がした。広い場所に出たのかもしれない。
……カシャン。
敏感になった聴覚が微かな物音を拾う。
全身を耳にしながら慎重に前進するあいだにも、雑音と呼ぶにふさわしい響きは近くはっきりしていった。
ガシャガシャと固いものどうしがぶつかりこすれ合いながら、なにかが、かなりのスピードでこちらに近づいてくる。
なんだ?
俺はついに足を止めた。
完全な暗闇の中、見ることを諦めていた瞳に、薄ぼんやりとした明かりが映った。
光を発しながら急接近する塊り。あれは……
音の発生源を確認できた時には、すでにグルリと囲まれていた。
奴らの身体が発する薄明かりで、今いるのが広場のような空間と理解する。
いくつもあるトンネルのような通路からは、新手のスケルトンが次々となだれ込んできていた。中には武器を持った者まで。
なお増えつづけるその数に、逃げ切ることは不可能と思い知る。
それでも俺は、向かってくるソレに向かって剣を振り回した。
何体かはバラバラになって崩れたものの、追いつくはずがない。
圧倒的な物量で覆いかぶさってくるスケルトンに、しだいに動きを封じられていった。
……このまま俺は死ぬんだな。
惨めな最期だが、俺にはふさわしい死に場所か。
この期に及んで、往生際悪く考える。
姫君は、俺を切り捨てたのだろうか? あの優しい人が、ほんとうに……?
いや、そんなはずはない。
だとすれば、彼女は無事なのだろうか?
今ごろひとり、窮地に陥っているのではないか?
ただ、ひたすらに会いたかった。
この腕で抱きしめて、柔らかな髪に顔をうずめて……
ああ……もう彼女のもとへ駆けつけることも叶わない。
もっと、警戒すべきだったんだ。
しかし、もう手遅れだ。すべてがあとの祭りだ。
後悔と絶望が津波のように押し寄せ、俺を飲み込んでいく。
血が足らず、酸素が足らず、朦朧としてきた脳裏に
シルフィ、ロキシー、エリスの顔がやけに鮮やかに浮かんだ。
ごめんな……
もう帰れないかもしれない。
子どもたちにも
もう、会えそうもない
……会えない……?
……いやだ!
会いたい。
会いたい。
会いたい。
会いたい!
「パパ!」
無数の骨の間から伸びてきた小さな手を、俺は夢中で掴んだ。