【第一章・第一節】
「うへぇっ!」
「あぢぃ~」
シャトルランが終わると、校庭に座り込む者や待ちかねた様にボトルを咥える者など様々だ。
(そこまでキツイとは思わないけどなぁ)
そう思いながら隼太は校舎側にある水道に走ると、頭を下げて蛇口からの水を被る。
(あ~生き返る♪)
項に当たる水は少々生ぬるいのだが、それでも何とも言えず心地良い。
教師から五月蠅く言われているので直ぐに蛇口を捻って水を止めると、ブンブンと頭を振って飛沫を振りまく。
そうしておいてから顔を上げるが、如何にも自然な風を装って校庭の隅にある花壇をチラッと盗み見る。
言う迄もないことだが別に花壇が見たい訳でも何でもなく、その手前にしゃがみ込む後姿こそが彼の視線を惹き付けて止まないのだ。
(お願い! ちらっとだけでいいから振り返ってよ!)
期待を込めてもう少しの間だけ念を送るが、当然のことながらそれが届いたりする様子は無かった。
「隼太ぁ、どこ見てんだよぉ」
背後から清次の声が響いたので思わずびくっと反応仕掛けたのを懸命に我慢すると、殊更に首を捻って見せつつ振り返る。
「なんかさぁ、この角度にすると首痛ぇ感じなんだよなぁ」
「え~
「そんなんじゃねぇって、何か引っ掛かる見てぇな感じすっだけだって」
そう言いながらクキクキと首を動かして見せる彼の様子にはさして関心が無いのか、清次は蛇口に手を伸ばすと勢い良く顔を洗い始める。
彼――
(ちぇっ、お前の所為だぞ)
別に声を掛けられなかったらと言って彼の望む通りに振り返ってくれる保証など何も無いのに、なんとなく心の中で八つ当たりして見せる。
とにかくどんな些細な事でも良いので切っ掛けが欲しいのだが、少なくともこのひと月或いはふた月程の間、隼太の身の上にはそれが舞い降りて来る気配も無い。
そして時間ばかりが徒らに過ぎて行き、次第に焦りを覚えつつある彼は少々苛立っていた。
「隼太君!」
不意に明るくとても朗らかな女子の声が響き、今度はどんな風に誤魔化そうかと思いながら振り返る。
ところが声を掛けられたのは確かに彼だったのは間違いないのに、振り返った時にはたった今迄ザバザバと威勢よく顔を洗っていた筈の清次が何故かちょっとキリッとした顔で直立していた。
「もう練習終わりなの?」
「と、とりあえず全トレは終わりっす!」
(何でお前が返事してんだよ……)
と心の中で彼に突っ込んでは見たが、理由など考える迄 ない。
声をかけてきたのが
「え~、じゃあ木俣君はまだ個別やってくの?」
「う、うっす! やっぱ、秋に向けての追い込みなんで!」
(お前がそんなに真剣にジュニア選手権目指してたとか聞いたことねえぞ?)
それ以外にも、なぜいきなり語尾に『っす』とかついてるんだ? 等々色々突っ込みたいところなのだが、相変わらずキリッを崩さない清次は、そんな隼太のことなどまるで最初から存在していなかったかの如く会話を続けようとする。
にもかかわらず、その努力とは裏腹にいつの間にか周囲にはわらわらと男子――しかも学年を問わずだ――が群がり始め、彼はその他大勢の一人に埋没していく。
「どうしてこう、うちの男どもはどいつもこいつもいぶきが好きなのかしらね~」
横に来た村越が、腕組みをしながら半ば呆れたような声を出す。
「全員ってわけじゃないだろ」
「へぇ~、それはつまりあんたとかって事?」
(なっ――)
図星を突かれてギクッとしたのを無理矢理押さえ込み、平静を装って彼女の顔を見ると、まるで『あんたが考えてること位、全部お見通しよ!』と言わんばかりのまなざしに突き刺されて再びギクッとしてしまう。
(ホンとにやな奴だな~)
彼女――
しかし、容姿だけ見れば黒髪ロングの完璧美女なのだ。
村越の父親は神社の禰宜であり、年末年始や秋の例祭の折などには彼女も巫女装束に身を固めて手伝いをしている姿を見掛けるが、そんな時はハッとするほど美しい。
いわゆる残念美人というのは村越のことを言うのかも知れない。
それにくらべたらそこまでの美女ではないものの、相当可愛くかつ明るくて親しみやすいいぶきに男子の人気が集中するのは仕方ない様な気がする。
(まぁ、それでもほとんど全員ってのはどうかと思うけどさ♪)
なにせ彼らと同じ二年男子だけならまだしも、三年や一年の男子にまで人気があるのはちょっとどうなんだろうとは思う。
思うものの、先ほど村越に看破された通り自分は違うという気持ちがあるので所詮は他人事でしかなかったし、こんな風に皆が彼をほったらかしてくれる状況というのは逆にとても都合のよいことなのだ。
いぶきを囲んで盛り上がる男子生徒たちの喧騒に背を向けて、スッと抜け出そうとする彼の背に「フン!」というどこか軽蔑した様な村越の鼻息が響くが、無視してそのまま校舎横に向かってスタスタと歩き去る。
一応校舎内にあるロッカーに行くという建前ではあるが、わざわざ校舎横を通り抜けていくのはそこに園芸用の物置があるからだ。
ひそかな期待を抱きながら物置の前までくるが、残念なことにそこには誰の人影もなく、全身が脱力するほどガッカリする。
(やっぱりダメかぁ~もしかしてもう帰ったかな……)
思わずため息が出るが、こればかりはどうしようもない。
ここまで来て引き返すわけにもいかないので、今日はもうあがるつもりでロッカーに行きかけるが、ことのついでと思い直して校舎裏のトイレに行こうと回り込んだその時だった。
(あっ! あっ! ああっ!)
つい声が出そうになるのを必死でこらえるが、雲一つない晴れた空から何の前触れもなく雷鳴が鳴り響いた様な驚きと興奮その他いろいろが一気に溢れてきて、挙動不審になってしまう。
(お、お、お、落ち着け! 落ち着け、オレ!)
誰も居ない校舎裏に一人切りで居たのは、この数ヶ月――つまり二年になってからずっと――隼太が二人きりになるチャンスが欲しいと希い続けてきた
彼女もまた同級生だったが、大人しく前に出たがらない性格らしく、クラスの中ではかなり目立たない存在である。
とは言え隼太の同級生の女子たちといえば、たった今もグラウンドでその人気振り(彼女が斯波中№1であることに誰も異存はないだろう)を発揮している、可愛いうえに明るく朗らかないぶきや、口が悪い残念美人の村越の他にも、成績優秀で堅物のクラス委員だがいぶきに負けないほど可愛く教師うけ抜群の
(でもそれがいい♪)
かくいう隼太とて一年の時は五十田に何の関心も無かったのだが、二年の始業式の日に桜の舞い散る中に佇む彼女の姿が突然銃弾の様に彼の胸を打ち抜いたのだ。
(あれは――ほんとに奇麗だったよな……)
その時の感動を表現することが出来ないのがもどかしいが、村越の美しさやいぶきや白石の可愛さとは全く異なる、可愛さと美しさとが同居した中に不思議な色香を漂わせた彼女は、魅力と言うよりも桜の花びらとともに虚空に消え去ってしまいそうな儚さを帯びていた。
隼太が彼女に抱いた気持ちを恋だと言ってしまえばそれまでだが、もっとストレートに表現するならば、五十田の手をしっかりと握って彼のもとにとどめておかなければ、遠からず幻の様に失われてしまうかも知れないと言う焦りにも似ていた。
そしてたった今、とうとう初めてのチャンスが彼のうえに巡ってきたのだ。
(あの袋は――)
五十田が一人で格闘していたのは、村営の処理施設から届けられるコンポストの袋だった。
本来は物置に運び込まれていなければならないそれは、どうしたことか校舎裏に無造作に積み上げられたままになっており、彼女はそれを台車にのせて運ぼうとしているらしい。
(隼太! これは絶対しくじるなよ⁉ 落ち着いていけ!)
彼女が悪戦苦闘している袋にははっきり25kgと書かれており、どう考えても華奢な五十田が持ちあげられそうなものではない。
にもかかわらず、彼女はそれを引きずってなんとか台車にのせようとしていた。
――そう、どう考えてもまたとないチャンスだった。
2、3秒で決心を固めると、思い切って声を掛ける。
「それ重そうだよね、手伝うよ」
「――えっ、あっ、はや――あの、敷島君」
幸いにも落ち着いた声が出せたせいなのか、五十田は必要以上にびっくりするでもなく彼を振り返ってくれる。
「これ、全部物置に運ぶの?」
「う、うん、そう――そうなんだけど、でも――」
「気にしない気にしない♪ だって、どう考えたって五十田さん一人じゃ無理だよ」
隼太がそう口にした瞬間、彼女は心の底からと思われる嬉しげな笑みを浮かべてはにかんだのだが、目の前のことに必死になっている彼は、それに気づかないままいそいそと袋に手を掛ける。
「あ、あの――敷島君ありがとう」
「全然! 全然だいじょぶだから♪」
実際、心が浮き立っているせいなのかその袋の重さなどほとんど感じられない。
さっさと5袋ほど積み込むと二人で物置まで台車を押していき、彼女が扉をあけてくれる。
「し、敷島君、わたしも手伝うから――」
「でも持つのはやっぱり無理だから、五十田さんは台車押さえててくれる?」
「う、うん」
どこかしら遠慮がちでおどおどしている様にも見えるが、それでも行動はテキパキとしており、あれこれ説明しなくてもちゃんと隼太の意図するところを理解してくれている。
(ゴメン、五十田さんのこと、もっとトロい子だと思い込んでたよ……)
心中でひそかに彼女に詫びつつ彼はコンポストの袋を積みかえ続け、さらにもう一度往復するもののそれは思いのほか早く終わってしまい、五十田が物置の鍵をしめてしまうと、後は隼太がもうひと踏ん張りしなければこのまたとない機会は終了してしまうことにハタと思い当たる。
「あ、あのさ――」
「あ、あの――」
何とかしなければと口を開いたのだが、偶然なのか五十田もまた同時に口を開こうとする。
「あっ、ご、ごめんね」
「う、ううん、こっちこそ――」
「それで、その――なに?」
「ううん、敷島君から言って?」
「あ、うん――五十田さんは、もう帰るの?」
「うん、もう終わりにしようかなって――」
「そ、そしたらさ、あの、えっと――い、一緒に帰る?」
ありったけの勇気を振り絞って必死に捻り出したその言葉に彼女が一体どんな反応を示すのかなどと、予想して身構える様な準備は全くできていなかった隼太にとって、直後に訪れた十数秒間の静寂は永遠と言ってもいいほど長いものだった。
(お願いです! ど、どうか断らないで……)
彼の緊張が限界に達する寸前に、遂に五十田がか細い声を出す。
「き――」
「えっ?」
思わず聞き返してしまい、しまったと焦りかけた隼太の前で五十田はさらに俯いてしまうものの、それでもとても小さな声ではあるが言葉を続けてくれる。
「着替えてくるまで待っててくれたら……」
「えっ、あっ、あっ、うん、うん、もちろん待ってるから! ていうか俺も着替えてくるから!」
「う、うん、わかった――その、自転車置場に行くから――」
「それじゃ、あとでその――自転車置き場で」
その言葉が終わるか終らないかのうちに、彼女はまるで逃げるように走り去っていく。
一瞬それを見送りかけた隼太も、我に返るとこれまた一目散にロッカー目指して階段を駆け上がるが、正直に言ってところ構わず転げ回りたいほど舞い上がっていた。