日が西に傾くと、茜色の空は急速に光を失いはじめる。
いつの間にか季節は移ろい、日一日と夕暮れはその早さを増していた。
(もうすっかり秋だよな……)
僅か2ヶ月ほど前、はじめて穂波と二人で辿った帰り道はまだ金色の太陽に照らされていたはずなのに、あの時とほぼ変わらない時刻にもかかわらず、辺りは宵闇に包まれている。
その時カチャリと控えめな音がしたため、物思いから引き戻された隼太は慌ててそちらに向き直る。
傍らに停めた自転車とともに彼が今立っている場所は五十田家の玄関前であり、開いた扉から現れたのは、恥ずかし気に頬を紅潮させた穂波と彼女の母親であった。
「ごめんなさいね、お待たせしちゃって」
「い、いえ! 全然そんなことはありません!」
実際待たされるというほど時間が経ったわけではないが、秋の日は釣瓶落としと言うその言葉の通り、みるみるうちに辺りが薄暗くなり始めただけのことだ。
「勝手なお願いで申し訳ないけど、穂波のことよろしくお願いします」
「あ、はい! 必ずお約束の時間までに戻りますから!」
そう言って勢いよく頭を下げた隼太に満足してくれたのか、それとも気を遣わせないように早めに切り上げてくれたものか、穂波の母は
「それじゃ二人とも気を付けてね」
とだけ言い残してスッと扉の向こうに姿を消してしまう。
思わず肩の力が抜けてため息を吐く隼太の様子に穂波が苦笑する。
「ごめんね、緊張した?」
「うん、ちょっとね♪」
「うふふ――でも、ありがとう迎えに来てくれて」
「そんなの! ぜんっぜん気にしないでね」
そう言い切ると、彼女はあの内側からにじみ出るような笑みを浮かべる。
(穂波ちゃん――奇麗だな……)
彼女は縹色の浴衣の様な着物に身を包んでおり、夏の名残の様な日焼けが退いたあとの色白の肌とのコントラストは、どんな言葉で表現すれば良いのか戸惑うほどだ。
「それって、浴衣なの?」
「ううん、袷っていうの」
「そうなんだ――でも、すごく綺麗だよ」
「あ、ありがとう……」
「……」
「そ、その、い、行こっか」
「う、うん」
はにかみながら俯く穂波を乗せて、隼太は出来るだけそっとペダルを漕ぐ。
腰に回された彼女の腕の温もりが、足にかかる重みを忘れさせてくれる。
秋の虫達の鳴き声に包まれた薄暗い農道を、彼らと同じ方向を目指して漫ろ歩く人影を何度か追い越し、或いは斯波中生と思しき自転車に追い越されたりしながら駆け抜けた二人は、間もなく一の鳥居前にたどり着く。
臨時の駐輪場と化している鳥居脇の空き地に自転車を止めると、今や隠し立てする必要もなくなったので、自然に手をつないで参道を奥へ進む。
ところどころに篝が焚かれてぼんやりと照らし出された境内には、里人達が集まって立ち話などをしながら時を潰していた。
そんな大人達の中には、手を繋いで歩く二人に目を止めて何やら痛まし気な表情を浮かべる者もおり、今夜の神楽が例年とは違った特別な意味を持つことを漠然と感じさせる。
神楽殿の周囲には既に人集りができていたが、その中には斯波中の教員も交じっており、二人の姿を認めると、
「二人とも、こごさこ!」
と言ってわざわざ場所をあけてくれる。
「すいません!」
「ありがとうございます」
口々に礼を言って小走った二人に、教員だけでなく周囲の大人達も最前列の良い場所を譲ってくれる。
それを有難いと感じながらも、それと共に既に里全体が彼女達を戦場に送り出すというその事実を共有しており、今夜の神楽はいわばその送別の宴なのだという事を感じ取った二人は、思わず互いに握った手にぐっと力を籠める。
「親御さんも複雑だろなぁ」
「んだなぁ、奥さんもさぞがっかりしとるだろうに」
大人達の会話が切れ切れに聞こえてくる。
「今日は村越さんが舞うんだよね」
「うん、本当は来年からの積もりだったんだって」
「じゃ、急遽練習したの?」
「練習は前からしてたんだって、だから急いで仕上げの練習をしたみたいだよ」
「そっかぁ、でも凄いよなぁ」
「うん、すごく緊張するよねぇ」
四隅で篝が焚かれた神楽殿の周囲は既に里人で埋め尽くされており、この場で舞う緊張感はちょっと想像がつかない。
改めて周囲を見回すと、斯波中の生徒達もかなりの人数が見て取れる。
清次をはじめとする男子達に囲まれたいぶきやクラスメイトと一緒の白石の姿も見えるが、なんと性懲りもなく清次はわざわざ白石のところに絡みに行っていた。
(何考えてんだよあいつは……)
とは言え、彼女はもう慣れっこになっているのかほとんど相手にしておらず、クラスメイトに文句を言われた清次も程々にいぶきの傍に戻っている。
「隼太君」
「あっ、う、うん」
穂波が促すほうを見ると、神楽殿の壇下に設えられた神紋が染め抜かれた幔幕の中で人がうごめく気配がしていた。
周囲のざわめきが徐々に静まっていき、境内に散っていた里人達が神楽殿の周囲に静かに集まってくる。
あちらこちらでしわぶきが起こっては消え、間もなく辺りはパチパチと篝の爆ぜる音ばかりが響く様になる。
その時唐突に幕がサッと割れ、狩衣に身を固めた村越の父親が姿を見せる。
静々と殿上に上がった彼は拝殿に向かって舞を奉納する旨の祝詞を唱え、それを終えて片隅の胡床に腰を下ろすと、篠笛を取り出して無言で控える。
周囲の里人達が固唾をのむ気配がすると共に再び幕が割れ、これまた装束を身に着けた村越の母親が現れると幕の中央を房で留める。
その房の下から艶のある黒髪を篝に閃かせた村越が姿を現すと、集まった里人達から一斉におおと声が上がる。
シュッシュッと衣擦れの音を響かせながら殿上に昇った彼女は拝殿に向かって恭しく礼をすると、その後集まった里人達に向き直って一礼し、スーッと面を上げる。
(む、村越さん……)
その神々しさに思わず絶句したのが彼ばかりでないことは、その場の雰囲気ですぐに分かった。
白銀に煌めく小忌衣には目にも鮮やかな碧色で鶴と亀とが描かれ、それは燃え立つような紅の胸紐で純白の衵の上から緩やかに結ばれている。
篝に照らされた緋の袴の腰から松があしらわれた長い裳を引きずる様に立つ村越は、その美しい黒髪に黄金の天冠を閃かせ、揺らめくような篝火の明かりの中でこの世ならぬ美しさを湛えていた。
その姿を唖然と見つめる隼太の脳裏に、突然小学校時代の記憶が蘇ってくる。
国語の時間に自分の名前の意味を調べて発表するという宿題が出され、教師にあてられた彼女がスッと立って(そう言えば、その時も村越は隣の席だった)美空望というその変わった名前の由来を説明した時のことだ。
「うちの神社のご祭神は天之御中主神様といって、天空の神様です――」
神職である彼女の父親が、その神様に肖って空にかかわる名前を付けてくれたのだということだった。
しかしながら、並の小学生にとってそれは特別に興味を引くような事柄ではなく、担任のお定まりの寸評だけを挟んですぐに次のクラスメイトの発表に移っていたはずだ。
(不思議だな――なんでこんなこと覚えてるんだろ……)
これまで一度も思い出したことすらなかった遠い日の情景が自身の中に眠っていたことに、何の前触れもなく気付かされて戸惑いを覚える彼をよそに、殿上では村越の舞が始まろうとしていた。
いきなり鳴り響いたタンッ、タンッという甲高い音に意識を引き戻される。
村越の母が、手にした小振りの撥で締太鼓を叩いて拍子をとっているのだ。
それに合わせて彼女の両手がゆっくりと両脇から斜め前に差し上げられ、そのまま暫く静止する。
間もなく村越の父が手にした篠笛を口許にあて、周囲の空気を震わせるような喨々とした音色を奏でると、まるでその調べと同調しているかの様に彼女の体や手足が滑らかに旋回していく。
その流れる様な動きは決して止まることがなく、それでいて激しい動作や急な身のこなしなどは一切ない。
抑制された肉体の動きが纏った衣をはためかせ、或いは翻し、そのたびに篝の揺らめきが四方八方に陰影を投げかける。
時折差し挟まれるシャリーンという透明で金属的な響きは、村越の右手に握られた金色の神楽鈴のものだ。
手を振っている様には見えないのでよく見ていると、舞の動作の中で手首をくるっと捻る様に鳴らしている。
こうした所作の一つ一つを何度も練習して身につけていったのだろうか。
(すごいよな――それに比べたら、俺はお気楽過ぎる……)
思わずため息を吐いた隼太だったが、そう思いながらも彼女の動きを目で追っているうちに次第に舞に引き込まれていく。
篝に照らし出された村越の姿は既に十分すぎるほど美しかったが、
次第にそれは人間離れした神さびたものとなり、
それとともに周囲の闇が濃く深くなっていく。
明るい輝きに満ちた殿上は天空から降臨した女神のために用意された舞台となり、
周囲で見守る里人やいぶきや白石、清次らの姿は
それを陶然として見守る八百万の神々の姿に重なり、
次第に幽玄の暗に溶け込んでいく。
女神が身に纏った金色の天冠や様々な装飾が燈色に煌めき、
体の動きに合わせて光の尾を曳きながら、
漆黒の闇を背景にして複雑な模様を描く。
終にはこの世の全てが暗黒の中に沈み込んでしまい、
ただ村越だけがその世界の中で光を纏って舞い続けていた。
それは永遠に続くのではないかと思いかけたその時、次第に彼女の舞が収束しはじめたことに辛うじて気付く。
篠笛と締太鼓の囃子も調子が変わっており、舞は終わりに近づいていた。
四方に向かって祓のような動作をしてそのたびにシャリーンという鈴の音を鳴り響かせた村越は、やがてその身を折り畳む様に屈み気味になって目を伏せるが、それはちょうど彼のところからはっきり見える角度だった。
次の瞬間、何の前触れもなく彼女の視線が跳ね上がり、真っすぐに隼太の瞳を捉える。
(あっ⁈)
いつも彼を見るときの射貫くような視線とは違い、
何かを強く訴えかける様なその眼差しに、
突然彼女の両手が伸びてきて胸板を貫き、
心臓をぐっと包み込まれたような錯覚を覚える。
(村越さん、君は――)
(美空望よ!)
(えっ!)
不意に頭の中にはっきりと彼女の声が響き、
その驚きとともに彼女の瞳が潤んでいることに気付かされる。
(なんで――なんで、そんな目で俺を見るんだよ? 君は、君は一体――)
その時、それまでどこか哀切な音色を響かせていた篠笛がすぅっと静かになり、締太鼓のひときわ高いターンという音が響き渡る。
途端にハッとして我に返った隼太の様子を見て取ったのか、村越は悲し気に視線をそらし、そのまま面を伏せて舞を終える。
囃子を終えた彼女の両親も立ち上がり、彼女とともに拝殿に向かって恭しく礼をするが、その両親の瞳にも光るものが浮かんでいる。
そして彼らが里人の方に向き直って一礼すると一斉に拍手が巻き起こり、それは長く長く続いた。
隼太も穂波も一緒に惜しみなく拍手を送ったが、彼の心の中にはあの村越の眼差しが焼き付いていた。
ひんやりとした夜気の中、背中に穂波の体温を感じながら彼はゆっくりとペダルを漕いでいた。
彼女の母親と交わした約束の時間までにはまだ余裕があり、特段に急ぐこともなかったし、何よりもたとえほんの少しであっても二人一緒の時を過ごしたかった。
「隼太君」
「なに?」
「何時かね――何時かまた、こんな風に一緒に神楽見に行けるのかな……」
「行けるよ、絶対に」
「本当に?」
「うん、この世界が終わらない限り、穂波ちゃんは必ずここに戻ってこれるよ、俺が迎えに行く」
「来てくれる?」
「うん、またこんな風にして一緒に帰ろう」
「うん……」
「……」
「美空望ちゃんのご両親、泣いてたね」
「そうだったね」
「美空望ちゃんも泣いてたね」
「うん」
「本当に――本当にこれで良かったのかな……」
「穂波ちゃんが選んだことだから、何も間違ってなんかないよ」
「うん――」
「それでももし、間違いに気が付いたらさ、その時になおせばいいと思う。神様じゃないんだから、いつも絶対に間違えないことなんてあり得ないよ」
「――――ありがとう、隼太君」
呟く様にそう言った穂波は、キュッと彼の背中に顔を押し付けた。
思わず彼は歯を食いしばり、ハンドルを握る手にグッと力を込める。
穂波が顔を押し付けたその場所から暖かな何かが浸み込み、それが次第に広がっていく。
「――俺、誓うよ――どんなことがあっても絶対に穂波ちゃんを迎えに行くから……」
「――――うん……」
月明かりに照らされて仄かに光る道、
虫達の声、
川のせせらぎと水の匂いを運ぶ風、
草のざわめき、
そして穂波の涙
――――この刹那の全てを、隼太は生涯忘れることはなかった。