冷静に考えると、自転車置場で待ち合わせと言うのは非常に危険だと言うことに気付いた隼太は、しばらくは離れたところから様子をうかがっていた。
だが、どうやら多くの男子達はまだ校庭で個別練習に励んでいるらしく(いぶきに引っ掛かっているだけかも知れない)、五十田が出てくるまでに三年生を一人やり過ごしただけで済んだ。
「あっ、あの、待たせちゃってごめんなさい――」
「まさか! 全然、全然そんなことないから、ウン」
そうきっぱりと言い切ってみせると、彼女は内側からにじみ出る様な笑顔を浮かべる。
(うわ、可愛い――)
ただでさえ舞い上がっている隼太の心臓はさらにテンションを上げて暴れはじめ、全身の血管に血が勢いよく流れる音が聞こえてきそうなほどだ。
「じゃ、じゃあ帰ろっか」
「う、うん」
揃って頬を紅潮させた二人は、それでも慎重に周囲をうかがいながらそそくさと通用門を出る。
暫く無言のまま急ぎ足に歩いた彼らは、道を回り込んで校舎が見えなくなった途端同時にほーっとため息をついてしまい、思わず顔を見合わせる。
「……」
「……」
「うふっ――」
「はは――」
「うふふふふふ」
「ハハハハハハ――――ひょっとして、緊張してた?」
「うん――敷島君も?」
「すごく緊張してた!」
「ドキドキしたよね」
「そうだね♪」
全部で60人弱しかいない全校生徒の中で、親類や近所同志でもない男子と女子が二人きりで帰ったりしていれば、あっという間に噂になってしまうのは目に見えており、できれば目撃されたくないと思う(とはいうものの隼太としては望むところではあるが)のが人情と言うものだろう。
「清次とかに見られたら、何言われるか分かんないよ」
「そうだよね――木俣君ってちょっと苦手……」
「あ、わかるな~、男同志だから平気だけど、あいつ何でも勢いだけだからなぁ」
「うん、班学習の時とか全然ペース合わせられなくて――」
「仕方ないよ~、どう考えてもそれ五十田さんのせいじゃないし」
「あ、ありがとう――でも、やっぱりわたし、人に合わせるの苦手だから……」
「五十田さんがそんなこと言ったらさ、もっとトロい子とかどうすりゃいいの? 誰とは言わないけど♪」
「――あっ、誰か分かっちゃった――敷島君ひどい♪」
「別に誰って言ってないからひどくないよ!」
「うふふ、そうだったね♪」
彼女の声はやや小さいものの、隼太のいう事にとても素直に反応してくれるだけでなく、楽しそうな笑顔も見せてくれている。
(ひょっとして喜んでくれてる? これって少なくとも嫌われてないってことだよな⁉)
そう思っただけでもう今にも体が勝手に踊りだしそうなほど高揚してくるが、そんな自分を必死に抑え込んで何とか普通の会話を続ける。
「五十田さんは園芸とか好きなの?」
「好き――なのかどうか自信ないけど――でも誰かお世話してあげなきゃかわいそうだし、それにお花や木はペースとか合わせなくてもいいから……」
(人に合わせられないの、本当に気にしてるんだ……)
「五十田さんは気にしてるけど――でも、そんなに遅いとか合わないとか思わないけどなぁ」
「ありがとう、だけど……やっぱりなんだか置いてかれちゃうみたいな気がするから……」
「そう思う人もひょっとしたらいるのかも知れないけど、俺はさっき一緒にコンポスト運んで、全然そんなこと感じなかったよ? まぁその、俺が言ったくらいで急に気が楽になったりしないだろうけど♪」
彼のその言葉を聞いた五十田は頬を少し桜色に染めてはにかみ、心底からの笑顔を見せる。
「敷島君――、とっても、とっても嬉しいよ、本当にありがとう♪」
急に隼太の胸の中に何かがしみ込んでくるような気配が生じ、体の芯がしびれる様な不思議な感覚に包まれる。
彼女の笑顔と言葉が全身を満たしていくような気分で、味わったことのない幸福感が体中に満ち溢れるようだ。
「そ、そ、そんなこと言われるとさ、――なんか、その――めちゃめちゃ落ち着かないよ」
「ご、ごめんなさい、――でも、本当に嬉しいの」
(いや、俺の方が絶対嬉しいと思う――ウン)
それは今最も確信を持って言えることだ。
なんと言っても、間近で見る五十田は日ごろはほとんど見せないその笑顔も相まって本当に可愛く、しかも彼との会話にもとても屈託なく応じてくれているのだから。
「うん、やっぱり嬉しいよ」
「えっ」
「あっ、いやっ、ご、ごめん、今の独り言だから!」
「そ、そうなの?」
「うん、五十田さんとこんな風にしてるとさ、なんか嬉しくてたまらなくなっちゃって、つい……」
「えっ、えっ、――も、もうやだ、恥ずかしいよ……」
顔を赤らめて俯く彼女がまたどうにも可愛く見えて、隼太は今にも錯乱しそうだった。
「あ、あのね?」
「え、な、なに?」
わずかな沈黙を挟んで彼女が口を開いたので、錯乱寸前の状態からいくらかは正気に戻る。
「敷島君は、どうして陸上やってるの?」
「あ……、うん、実はね、五十田さんと同じような理由かなぁ」
「わたしと?」
「うん、人と合わせるのが辛くなったからだよ」
「……本当に?」
「そうだよ、小学校まではサッカーやってたんだけどさ、最初は自分が下手くそなんで迷惑かけたりミスしたりしない様に必死で練習してたんだよ。そしたらさ、そのうち自分がある程度できるようになってきたなぁって思い始めたら、今度は他の誰かがミスったり練習不足だったりするのがすごく気になっちゃってね」
「それでサッカーやめたの?」
「うん、それなりには好きだったんだけど、そんなこと思うようになってきたらなんだかあまり楽しくなくなっちゃって……で、中学からは陸上に変えたんだよ」
「陸上だったら、人のこと気にしないで済むから?」
「まぁ、陸上でも別に自分の好き勝手やるってわけじゃないけどね♪ それでも、自分の競技に集中できるからいいかなぁって思ってるけど」
「そうだったんだ、知らなかった……」
「そりゃそうだよ、ほんとの事話すのは五十田さんが初めてだからね」
「あっ、そ、そうなんだ――ありがとう敷島君。そんな事話してくれて――」
「ううん、五十田さんが自分のことを話してくれたから、あぁ同じようなこと感じるんだって思っただけだよ?」
「それでもいいの、そんな風に普通に話してくれるのが嬉しいから……」
(ひょっとしたら、これまでちょっと寂しかったのかな)
一年の時も含めて、五十田が特に孤立しているとかいじめに遭っているとかは無いのだが、彼女は大人しいしあまりはしゃぐのも好きではないだろうと誰もが勝手に思い込んでいたかも知れない。
現に今隼太は、彼女が普通に楽しげなお喋りができるのを目の当たりにして意外に感じているくらいなのだ。
だから、本当は皆と一緒に楽しく過ごしたいと思っていても、周囲の思い込みのせいでその輪に入れずにいたのだろう。
「なんか――ごめん」
「や、やだ、なんで謝るの?」
「だって、これまで五十田さんのことよく知らないのに、あんまり喋るの好きじゃなさそうだとか勝手に思い込んでたから……」
「そんなこと言わないで、敷島君が悪いんじゃないから、わたしそんなこと思ってないから――」
彼女の眼差しが急に真剣さを帯び、まるで彼にそんな気持ちを抱かせたことを恐れているようにも見える。
つまらないことを何気なく口にしただけのつもりだったが、それは彼女にとって大事なことだったようだ。
「わかったよ、そのことはもう謝らないようにするから、だから心配しないで?」
「う、うん……敷島君は、本当に優しいね」
「えっ! いやっ! そっ、そんなこと言われたの初めてだよ、なんかすっごく照れるなぁ」
「でも、ほんとだよ」
「いや~、その、ははは……」
それ以上返す言葉が無く、二人は思わず沈黙してしまい、そのまま暫く黙って歩き続ける。
ところがそれはあまり長く続かず、間もなく田んぼの際の分かれ道に差し掛かる。
「あの、敷島君、わたし帰り道こっちだから……」
「そ、そうだね、俺はこっちだし、その……」
「う、うん……」
家に帰るにはここから分かれていくしかないのは当然なのだが、どうしても隼太はこのまま帰りたくなかった。
心の底ではずっと、このタイミングが来た時なんと言うべきなのか考え続けていたのだが、結局なにも思いつかないままここまで来てしまっている。
それはそれとして意外だったのは、五十田もまたこのままそれぞれの家路につくのを躊躇っているらしいことだ。
(おい、なんとかしろ! これって結構いい感じだぞ⁉ こんなチャンスもう二度と巡ってこなかったらどうするんだよ⁉)
必死に何か良い言葉が無いものかと脳みそをギリギリと音が出るほど絞り上げるが、悲しいくらいに何も出てこない。
しまいには力を振り絞り過ぎて軽いめまいがしてきたその時、突然彼の視界に金色の光が差し込んでくる。
(あっ……)
夏の太陽は、まだ夕暮れには至らないものの西の空に傾いており、鮮やかな黄金の光が目前に開けた田園地帯をやや茜掛かった金色に染め上げていた。
隼太の目の前に立つ五十田の背後には、すでにたっぷりと穂を付けた稲田が広がり、いくらか涼しさをはらんだ風が、その稲穂をまるで波打つ海の様に揺らしている。
この稲穂が黄金に色づくまでにはまだひと月ほどはかかるはずなのだが、ありったけの光を放つ太陽は、それを一足早く鮮やかな金色に輝かせていた。
(い、五十田さん……)
彼女の名前は穂波――まさに今、彼が目にしている金色の稲穂の波そのものだった。
そのまばゆいほどの黄金の輝きに包まれて立つ彼女は、輪郭がぼやけてはっきりしなくなっている。
以前聞いたことのある神話に出てくる稲の女神の名前はとっくに忘れてしまってはいたが、それでもたった今彼の目に映る五十田の姿こそは、まさしく彼にとっての女神そのものに見えた。
(やっぱり、やっぱり君はいつか――)
この地上にひと時降臨した彼だけの女神――もしそれが五十田なのだとしたら、彼が全身全霊をかけてそれを引き留め様としない限り、この金色の輝きとともに手の届かない彼方へと飛び去ってしまうかも知れない。
そんなことだけは絶対にさせるわけにはいかなかった。
数ヶ月の間ひたすらにチャンスを待ち続けた彼にとって、今こそが伸ばしたその手が彼の女神――五十田に届く最後の瞬間になるかもしれないと言うのに、躊躇している場合では無いのだ。
そんな少々現実離れした焦りは、無意識のうちに彼の口をこじ開けて驚くべき言葉を紡ぎ出してしまう。
「――ここに――いて欲しいんだ――」
「えっ⁉」
「――どこにも、行かせたくない――好きなんだ――」
「あっ、えっ、えっ、――――あの…………」
「…………」
「あの――――し、敷島君――」
「はっ! えっ! あっ、あっ、お、俺、今そのっ―― ら、らづもねごど……」
突然現実に引き戻された彼は、今更ながら自分が何を口走ったのかに気付くと同時に頭が真っ白になってしまう。
もちろんまさか出てしまった言葉を引っ込められるわけもなく(しかも、間違いならともかくこれが本音なのだから余計だ)、ただただ絶句したままその場に立ち竦むことしか出来なかった。
そんな隼太を前にした五十田も、それこそ高熱にでも浮かされているかのように真っ赤な顔で俯いていたが、やがて稲穂が風に揺れる音にかき消されそうなほど小さな声を出す。
「あ、あの――――、お、お、おれも敷島君のこど――す、好ぎだ…………」
「……………」
「………………」
「…………えっ?」
彼女が発した衝撃的な言葉を理解できるまでに、かなりの時間を要した隼太がやっとの思いで聞き返す。
がしかし、それを聞いた瞬間、五十田は見たこともないような素早い行動を見せた。
「し、敷島君! ま、まだ、
そう一声叫ぶなりさっと一動作で自転車に跨ると、スカートを翻しながら飛ぶような速さで畦道を走り去っていく。
「えっ――えっ――、なにその――、まさか――――空耳じゃないよな? ――――えっ?」
次第に赤味を増す夕暮れの太陽に照らされながら、まるで独り言をつぶやき続ける怪しい立像の様に、彼はその場に立ち尽くすばかりだった。