昨日放心状態で帰宅した隼太は、家族から何を言われてもろくに反応もできず、半ば夢うつつのままに一夜を過ごした。
今朝目覚めてからもずっとそんな状態が続いたまま、とにかく良く分からない義務感と彼女に会いたいその衝動のみにかられて練習にでてきたのだが、案の定全く集中できる気配もない。
彼の体は一応トレーニングらしき動きはしているものの、その視線(というか意識)はただただ五十田の姿を追って行ったり来たりするばかりであり、それを周囲に気付かせないようにごまかすこと以外には何もしていないも同然だった。
やがて彼女の姿が見えなくなると、もうここにいる理由がなくなったと感じたからなのか急にけだるくなって走る気も失せたので、さっさと練習をあがる支度をはじめる。
「ちょっとぉ、あんた一体何しに来たの?」
昨日に続いてまたも、やや呆れ気味の村越が声を掛けてくる。
「何って――、トレーニングに決まってるだろ」
「何がトレーニングよ、こんな腑抜けたなりでいくら走ったって何の足しにもなりゃしないわよ!」
「だからもう上がるんだよ、集中できないんだから仕方ないだろ?」
「フン! 何が集中できないんだか! 他のことにばっかり集中してたんじゃないの⁉」
(なっ――、なんだよ、ほんとにやな事ばっかり言う奴だなぁ)
例によって腹の中を見透かしたような彼女の言葉が突き刺さり、ムカッとしてしまうものの本当のことなので言い返せない。
結局いつものごとく無視をするのが精一杯で、口をへの字に結んだまま手早くトレシューをバッグに突っ込むと、さっと立ち上がり校舎に向かって歩き始める。
「ちょっと本当の事言われたくらいで、なにカリカリしてんのよ!」
彼女の言葉が背中を追いかけてくるように投げ掛けられるが、すでにそれに取り合うつもりは全くなかった隼太は振り向きもしない。
「なによ――――バカ……」
村越のとても小さな呟きは、無論彼の耳には届くはずもなかった。
校舎内に入った途端に彼は走りだし、一目散にロッカーに辿り着くと急いで着替えをはじめ、秒速で着替え終わるなり昨日と同じ場所で息を潜めながら自転車置場の様子をうかがう。
そして数分と経たないうちに五十田が現れると、意味もなく偶然を装って彼女のもとに駆けつける。
「お、お疲れ♪」
「あっ、あのっ、し、敷島君もお疲れ様……」
どうにかそれだけを口にした二人は数秒間口を噤んでしまうが、ここに長居するのはやはり危険だというのはどちらも分かっていることなので、なんとなく互いの空気が伝わる。
「あ、あのね――」
「う、うん、帰ろうか」
「――うん」
そして再び彼らは昨日と同じ行動をなぞり、校舎が見えなくなったと同時にため息をつく。
「うふふふっ」
「ハハハ」
「これじゃ、昨日とおんなじだよね♪」
「そうだね、おんなじ♪」
「明日も――同じがいいな」
「う、うん、同じね♪」
「2学期始まっても――同じがいいな……」
「ずっと――同じがいいね……」
思わず五十田の顔を見ると、一瞬だけちらりと視線を絡ませた彼女はそのまま俯いて頬を染める。
隼太の胸の奥に曰く言い難い喜びが湧きだし、たちまちのうちにそれが溢れそうになる。
「ずっとだよ――ずっと同じがいい」
力を込めてそう言い切ると、わずかな沈黙の後で頬を赤らめたままの彼女が小さく、
「嬉しい――とっても嬉しい……」
と呟く。
が、例によって奇声を上げたくなるほどの喜びを感じていた彼は、反射的に死ぬほどくだらない反論をしてしまう。
「言っとくけど、俺の方がずっと嬉しいからね!」
「えぇっ、そっ、そんなことないよ、わたしの方がずっと嬉しいもん」
「いいや違うね、それよりももっとずぅっと俺の方が嬉しいね」
「そんなことないよ! 絶対、絶対わたしの方が嬉しいから!」
「――やっぱりそうだね、五十田さんの方がずっと嬉しいよね」
「えっ、あっ、やだ、敷島君ずるい♪」
「ハハハハハ」
「うふふふふ」
(あ~夢みたいだ――本当にまだ信じられないよ……)
たったの24時間前にはまだ二人ともただのクラスメイトでしかなかったのに、今はもう特別な関係になっているなんて!
「でもね――」
「え、なに?」
「やっぱりちょっと不思議」
「そ、そんなに不思議かなぁ?」
「だって――いぶきちゃんや美空望ちゃん、雪乃ちゃんなんかはすごく綺麗だし、男子はみんないぶきちゃんが好きなのに、わたしなんかのこと好きだって言ってくれるなんて……」
と言われても隼太はそれを何も不思議には感じていないし、むしろ五十田が彼のことを好きだと言ってくれたことに奇跡を感じてしまっているくらいだった。
「それでも俺、やっぱり五十田さんがいいんだけどな~」
「えっ、あっ、あの、あ、ありがとう敷島君――」
真っ赤な顔をした彼女が恥ずかしそうに俯くのが可愛すぎて、頭の芯が痺れてくる。
(待て待て! 今倒れてる場合じゃねぇぞ⁉)
幸せに浸っているのはまだ早い、このラッキーをもっとしっかりとした現実にしておきたいのだ。
「あのね、お願いあるんだけど――いいかな?」
「な、なあに?」
「うん、――そ、そのぉ――ほ、穂波ちゃんって呼んでもいい?」
「あっ……」
桜色ほどにまで回復していた五十田の顔が、再び真っ赤に染まる。
「だ、だめ?」
「う、ううん、その――あの――」
聞き返したくなるのをじっと我慢して彼女の返事を待っていると、やがて少しずつ赤味が薄れ始めたその顔が上がり、恥ずかしそうな小さな声で応えてくれる。
「二人の時だけだったら――」
「あ、う、うん! 二人の時だけだよ、約束するよ」
「うん、お願い――わたしもね、隼太君って呼ぶから……」
(は、隼太君……)
彼が女子から名前で呼ばれるのは、別に五十田が初めてなわけではない。
たとえば吹輪いぶきはいつもごく自然に『隼太君』と呼びかけてくるし、彼女の性格のせいなのかあまり不自然さを感じない。
それにいつ頃までだったかは忘れてしまったが、村越は彼のことを『隼太!』と呼び捨てにしていたこともあった。
同じ陸上部だと言うこともあったのかも知れないが、それがいつの間にかなくなり、最近では『あんた』呼ばわりがほぼ定着している。
(でも、なんか――ときめかないよなぁ~)
それに比べると、いま五十田――いや、これからは穂波ちゃんだ! ――が口にした『隼太君』の響きのなんと甘いことか!
もしもう一度恥ずかしそうにそう呼ばれたら、そのまま溶けて水になってしまいそうなほどだ。
思わずにやけて顔面が土砂崩れを起こしそうになるが、それを必死で我慢すると何とか会話をつなげる。
「わかった、二人の間だけで使うって約束するよ――穂波ちゃん」
そう言った途端彼女はみたび真っ赤になったうえに、今度はそれだけではおさまらず、立ち止まって俯くと消え入りそうな声を出す。
「恥ずかしい――すごく恥ずかしいよ――だけど――すごく嬉しいの――隼太君……」
(ど、ど、どうしよう――俺もめっちゃ嬉しい……)
「あ、あのさ、――今度こそ俺の方がずっと嬉しいからね!」
「おんなじだよ――おんなじくらい嬉しいよ――、隼太君とおんなじ」
「うん、――そうだね、おんなじだね――穂波ちゃんとおんなじくらい嬉しいよ♪」
「うん♪」
さっきから二人は同じ同じと連呼しているだけだと言うのに、それがたまらなく嬉しい。
彼の言葉に一つ一つ反応してくれる穂波がいてくれることの喜び、彼女の笑顔が可愛くてどうしようもない喜び、そして穂波が自分だけの特別な存在になってくれたことへの喜び――数え上げていけばきりがないその喜びが、隼太の全身を嬉しさ一色に染め上げていた。
そして何を話したのかもよく分からない時間は飛ぶように過ぎ去り、瞬く間に二人の帰り道が分かれる時が来る。
ここで昨日は名残惜しげに立ちすくんだわけだが、今日の二人にはすでになすべきことが分かっていた。
生徒手帳のメモ欄を破いた紙に、彼らは互いの端末アドレスを走り書きして交換する。
これで二人は学校と言う場を介さずとも連絡が取れるようになったわけで、いわば互いに特別な関係になった証の様なものだ。
穂波がその証を大事そうに胸に抱いて帰っていくのを見送った隼太は、やはり同じようにその紙切れを大切に持ち帰る。
食事や風呂と言う日常を気もそぞろに通過した彼は、その夜自室の机の上で、いささか緊張しながらそのアドレスを登録する。
余談になるが、隼太が幼いころまではスマホというものが普及しており、今の彼の年頃の中学生たちはみなそれを持っていて、家と言わず屋外と言わずどこででも通信アプリを使ってメッセージや通話のやり取りをしていたのをかすかに覚えていた。
しかし戦争によって社会情勢が大きく変化した結果、現代では携帯可能な端末と言うのはごく限られた人しか使用できないものになっており、彼らの通信手段はもっぱら各家庭の電話回線にぶら下がる形で設置されている個人用の通信端末へと変化していた。
(――あっ!)
彼がアドレスを登録し終わったのを見ていたかのように、穂波からのメッセージが届く。
『隼太君、今日はありがとう』
『穂波ちゃんこそありがとう♪』
『明日も練習行くの?』
『そのつもりだよ、穂波ちゃんも行く?』
『うん』
『じゃあ、明日も一緒に帰れるのかな』
『うん、だけど、待ち合わせ場所考えないとね』
『当分自転車置き場で良いよ! 俺、ずっと待ってられるいい場所知ってるから♪』
『うふふ、隼太君なんか怪しい♪』
『あ、怪しくないよ!』
しばしそのやり取りに夢中になっていた彼らは、またしても時間をすさまじい勢いで消費してしまったことに気付く。
『あっ、もうこんな時間』
『あ、やべ、まずい』
『それじゃあね隼太君、また明日ね♪』
『うん、おやすみ穂波ちゃん』
『おやすみなさい、隼太君』
その最後のメッセージを、彼は長い間じっと見つめていた。
ただその顔はシリアスとは程遠く緩みきっており、見つめていたなどと言うちょっと文学的な要素など何もなく、ひたすらニヤついていただけではあったが……。
とにかく、こうして彼の生涯で最も幸福であろう一日は過ぎていった。