実の所、隼太と穂波は今日の外出先について十分に計画していた訳ではなかった。
勤務時間外で2人が意思を通じ合う手段は、総務課が配送してくれる隊内通信こと手紙の遣り取り位しかないからだ。
ただ、在港時であれば勤務時間中は比較的傍に居られる機会もあり、少々の雑談位は交わせる事から若干の摺り合わせをした程度である。
無論そんな折はいぶきも一緒に居るのだが、彼女からは『絶対横濱だよ~、横濱しか無いよね!』と頻りに謎のプッシュ(おそらくは彼女自身が横濱デートを目論んでいるのだろう)をされており、それもあって何となく目的地を横濱として申請していたのだ。
「そうか、で横濱の何処へ行きたいのだ?」
長門からこう問われた彼らは、以上の様な経緯を正直に話した。
それを聞いて軽く笑った彼女は、続けて質問する。
「敷島は横濱に行ったことがあるのか?」
「いえ、通り過ぎた事しかありません。これ迄に外出した先は横須賀と――逗子と鎌倉です」
「まぁそんな所か、五十田はどうだ?」
「1回あります。中華街と元町と山下公園とかには行きました」
「成程な――で、その辺りに行きたいか?」
「いえ、特にそこ迄は――」
「他にどんな所があるかよく知りませんので……」
この至って正直な物言いに軽く笑みを漏らした長門は、些かの迷いも見せずに結論を出す。
「では、お前達さえ良ければわたしが少しばかり手伝ってやろう。さぁ行くぞ!」
「はい!」
こうして彼らは、付き添いならぬ引率者となった長門に連れられてバスから電車へと乗り換え、程なく横濱の中心街に程近い駅に降り立つ。
ただ、そこは確かに都会の賑やかさを感じさせてはくれるものの、彼らが抱いていたお洒落な華やかさ等とは余り縁の無さそうな街並みだ。
思わずキョロキョロしてしまう隼太と穂波を顧みた長門は、視線を前に戻して歩きながら話し掛ける。
「そうだ、ここは所謂繁華街などではない。市民が暮らす普通の街とでもいう場所だ」
「あ、はい」
「一つお節介な事を言わせて貰うが、今日は何処かで昼食を摂るのはやめておけ。その時間を空けておく方が良いぞ」
「そ、そうなんですか?」
「長門さんがそう仰るのでしたら……」
「ハハハ、信用して貰って有難い事だ♪ しかし、只昼を抜くのでは腹が減るばかりだ。なので、これから行く処で少々小腹を満たして行こうと思ってな」
「有難うございます」
「ご配慮頂いて済みません」
「何を大袈裟な♪ 何より、お前達が気に入るかどうかすら未だ分からんのだぞ」
そう言いながらも、長門は何処か楽しそうな笑みを崩さずに歩を進める。
そして彼此10分足らずというところだろうか、やはりお洒落とは程遠いものの活気のあるアーケードの入り口に辿り着く。
確かに観光客が訪れたり若い男女がデートコースに選ぶような佇まいでは無いものの、クリスマスらしく飾り付けられたその様子も相まって、決して印象は悪くない。
「こちらですか?」
隼太のその問いには彼女は応えず、そのままつかつかと入り口近くの店舗に無造作に歩み寄っていく。
と、店頭のガラスカウンターの向こうに居た中年の女性がそれに気付き声を上げる。
「あらまぁ、長門さんお久し振り!」
「すっかりご無沙汰しているな女将、元気そうで何よりだ」
「いーえー、こうして忘れずにお越し頂いて有難うございます♪ それに今日は何だか可愛らしいお連れさん迄いらっしゃって」
(か、可愛らしい? ――ああ、俺じゃなくて穂波ちゃんか……)
すっかり見慣れてしまっているが、軍装こそ着ているものの穂波の外見は中学生そのものなのだ。
斯波中の頃と変わらぬ2本のお下げ髪を首の後ろに下げたその姿を、可愛らしいと言われるのも仕方の無い事だろう。
「ああ、今日はな、この連れ達に旨いものを食わせてやろうと思ったのでな」
「イヤですよ、それならもっといいお店が他にあるでしょうに」
「何を言うか♪ 格式や値段の高い店が必ず旨いものを食わせる訳ではないぞ。まぁとにかく何時ものヤツを3つ揚げてはくれまいか」
「はいはい、ちょっとお待ち下さいね」
どうやら此処は長門の馴染みの店の様だ。
とは言え、どう見てもこの商店街と長門は釣り合っていない様に見える。
(ただとんでもない美人だってだけじゃないよな、収入だって……)
公開されている訳でも無いので噂に近いレベルだが、オリジナルに支払われている報酬は上級士官どころか将官級かそれ以上だとも言われている。
事実、長門が身に付けている一見地味な装いも、近くで見ると極めて上質な逸品なのが(彼の目では辛うじてだが)分かる。
「はい、お待ちどう様」
「おおこれだこれ、お前達、何はともあれこれを食ってみろ♪」
「あ、はい――」
「済みません、いただきます」
正直なところ彼女がやたらににこやかなので、却って半信半疑でそれを口にする。
「えっ! 旨っ⁉」
「本当、凄く美味しい――」
「あらぁ~、有難うね♪」
「ハハハ、そうこなくてはいかん。では女将、今日はこれだけで済まんが、この連中に一通り味見をさせてやる積もりなのでな」
「いいえー、またゆっくり来て下さいね~」
そう言って別れを告げた長門は、自身もまだ口を動かしながら歩き始めるので、隼太と穂波も慌てて後に続く。
「長門さんは、良くこちらへ来られるんですか?」
「いや、良くと言う程ではないな。だが、私は観光地や繁華な街というのはあまり得意ではないのだ」
「でも、凄く意外です、こんな所へいらっしゃるだなんて――」
「おっ! 一体どこの別嬪さんかと思や長門さんじゃねぇか!」
「おお大将、相変わらず元気そうだな。それに何時もながら世辞が上手いことだ♪」
「世辞な訳ねぇじゃねえか、兄ちゃんもそう思うだろ?」
海鮮の焼ける香ばしい香りに包まれた店頭から威勢よく声を掛けた初老の男性は、そう言って隼太に話を振る。
「あ、はい! 自分もそう思います」
「こら、少しは私に気を遣ってはどうだ?」
「ハハハ、勘弁してやってくんな、兄ちゃんは正直なだけさね」
「やれやれ、仕様のない事だ。それはさておき大将、旨いところを見繕って3串焙ってはくれまいか」
「あいよ、ちょっと待っててくんな!」
こんな風にして、長門はアーケードのあちらこちらに立ち寄っては店主達の歓迎を受けつつ、2人を連れ回す。
そしてこの活気のある商店街を抜ける頃には、2人の小腹が満たされるどころか、たとえ昼食に高級料理を振舞われてもそれが入る余地もない程になっていた。
「どうだ、少しは腹がくちくはなったか?」
「いえ、ほとんど満腹です」
「もう、これ以上は食べられません……」
「そうか、ならば良かった。そう言うことならば少々腹ごなしがいりそうだな」
そう楽しげに言った彼女は、再び先頭に立って歩き始める。
「で、でも全部出して頂いたままでは――」
「そうです、幾ら何でもそこ迄して頂いては……」
「まぁそう言うな、若い者に奢ってやるのは私の楽しみの一つだというのに、それを奪おうとは酷な事を言う♪」
「あ、はいー―」
「ほ、本当に有難うございます……」
そんな風に言葉を交わしながら歩く彼らは、やがて賑やかな歩行者道路に出る。
そこは先程迄の生活感溢れる街並みとは違い、如何にも繁華街という風情に満ちていた。
「この通りを港に向かって真っ直ぐ歩いていくと、所謂馬車道になる」
「あ、ここがそうなんですか」
「やっぱり人が多いんですねぇ」
「それはそうだ、何せ今日はクリスマスイブなのだからな」
そう言った長門は、2人の背中をグイっと押し、
「さぁ道案内は幾らでもしてやるが、そろそろ付き添いの立場に戻らせて貰うぞ♪ お前達が好きな様に歩け」
「あ――はい!」
「一応一言言っておくとだな、この通りをずっと行った先が横濱で最も華やかな処の一つだ」
「確かそうですよね――ネットで調べただけですけど……」
「だからこそ、お前達が実際に行って確かめてみろ♪」
「はい」
そう言い交わして再び歩き始めた3人は、次第に街の雰囲気の中に埋没していく。
あちらこちらの店頭からは楽し気なクリスマスソングが、赤と緑、そして金と銀に飾り付けられた通りに響き渡る。
思い思いに着飾って歩く人々の中には男女の2人連れの姿も目立ち、手を繋いだり腕を組んだりして歩く様子が嫌でも目に入る。
最初の内こそ背後の長門の存在を意識していた隼太と穂波だったが、先程迄とは打って変わって気配をすっかり消してしまった彼女の存在が次第に意識の中で遠のき始める。
(あれは、まだ秋の初め――いや、夏の終わりだったよな)
穂波の手をしっかりと握って歩いた盛岡の目抜き通りは、彼らにとって希望と幸福に満ちた世界だった。
(でも――今だって同じだ、俺の隣には穂波ちゃんがいる――俺はやっと取り戻せたんだ)
そう思って彼女に目をやると、穂波もまた彼を顧みる。
その眼差しは彼の想いに応えているのか、それとも彼女自身の想いを伝えようとしているのか、胸が高鳴るような煌めきを湛えている。
(穂波ちゃん……)
その瞬間、彼は周囲の全てを忘れていたが、それはどうやら彼女も同じだった様だ。
隼太がそっと伸ばした手を、穂波は大切な物でも扱う様に触れると、そのまま優しく包み込むかの如く握りしめる。
暖かいのに不思議にひんやりとした柔らかいその手の感触が隼太の脳裏を支配し、目に見える景色を変えてしまう。
遠い横濱の地にありながら、そこはあの日彼女と2人で歩いた懐かしい街だった。
鼻の奥がツンとする様な郷愁と、年月を経て再び巡り合ったその愛おしさが綯い交ぜになった不思議な感情に、後頭部が痺れる様な感覚を覚える。
恥ずかし気に少し俯いた穂波は、あの日彼が見たそのままの姿で彼の隣にいた。
そして隼太もまたいつしかあの日のままの姿に戻っていた。
2人は遠いあの日のままの若さと好奇心とに任せて漫ろ歩き、その目に映るもの全てが彼らに約束された幸福そのものの様に見えた。
間もなく遊歩道は終わり、鉄道の高架下を潜ってやや狭い通りの両側に広々とした歩道が現れたが、それでも2人の足は止まらない。
まるで夢の中にいるように疲れを知らぬ隼太と穂波は、やがて広々とした通りに出る。
「お前達は本当に楽しそうだな」
(あっ!)
それ迄全く空気の様に気配を消していた長門が声を掛けたので彼らは一瞬の内に横濱の街に戻り、しかも再び5つ程歳を経っていた。
「す、すみません」
「長門さんのこと、何も考えていなくて……」
「ハハハ、付き添いとはそう言うものだろう♪ お前達がそう言ってくれたと言う事は、私は立派に付き添い役が勤まっているという事ではないか」
相変わらず彼女は楽しそうで、それでいてとても泰然としている。
(何なんだろうこの
「さぁお前達はどちらへ行くのだ? 真っ直ぐか? 右か? 左か?」
微笑した長門にそう問われた2人は顔を見合わせる。
「あのね?」
「うん」
「こっちは行ったことがあると思うの」
「じゃあ、こっちだね」
「ふふふ、では行こう。お前達の興味の赴くままで良いぞ♪」
「はい!」
傍らには見上げると首が痛くなる程の高層ビルがあり、如何にも都会といった情景だ。
「凄いよねぇ」
「うん、でも結構古そうな感じ」
「でも、この船の方がずっと古そうだよね」
「うん」
そんな会話を交わしながら歩く2人は、例によって長門の存在を忘れ掛けていたのだが、ふと振り返った穂波が声を上げる。
「あれ?」
「どしたの?」
「長門さん――どこかなぁ」
「えっ? あっ、あそこじゃない?」
「あ、そうだね、どうしたのかな……」
公園の一隅に立ち止まった彼女は、何やら角張ったものを片耳に当てて口を動かしている。
(そうか、長門さんは持ってるんだ)
既に述べたように、一般人がスマートフォンや携帯電話の様な移動体通信を利用することはほぼ出来なくなっており、公的機関や一部の業務用でしか見ることは無くなっていた。
しかし、やはり長門のような要人はそれを所持することが許されているのだろう。
そしてどうやら彼女は誰かと通話中の様だ。
やがて、通話を終えたらしい彼女は被りを振りながら2人の許へと近づいてくる。
「どうかされましたか?」
彼女の顔が先程迄とは違って少々しかめ面になっているのを見て取った隼太が声を掛けると、長門はやはりその表情そのままの口調で応える。
「いささか面倒なことになった」
「え、どうされたんですか?」
「いや急な用事でな、どうしても行かねばならん所が出来てしまったのだ」
「そうなんですか?」
「それじゃ、急ぎ隊へ戻りましょう」
「馬鹿を言うな、せっかくお前達が許可された外出を無駄にする訳にはいかんぞ」
「ですが――」
「大丈夫だ、行く先はここからの方が近いし、それ程長時間ではないからな」
「でもわたし達がお邪魔する訳にはいかないんじゃ無いですか?」
「ああ無論だ。お前達にはまことに済まん事だが、私が外している間は細心の注意を払って行動して貰わねばならん」
「えっ……」
「これもまた重要な教育の一環と考えて、慎重に行動するのだぞ。戦場においてはいつ何時予期せぬことが起こって、その場で適切な判断と行動が求められる事もあるのだからな」
「長門さん……」
「私は13時には用件を終えて戻ってこれるだろう。その時間にここで再び落ち合うことにしよう。いいか、時間厳守だぞ?」
「は、はい!」
あまりの事にまだ頭がついていかないままにそう返事をした彼らに向かって、長門は急にあらぬ方へ顎をしゃくって見せる。
「とは言っても、付き添いの私が外している間にどんなトラブルに巻き込まれるかも知れんからな。それを避けるためには、あの様な人と接触せずに済むような場所で出来るだけ時間を過ごすようにする事だ。不便を掛けて済まんが大目に見てくれると助かる」
事態がよく呑み込めないまま振り返った2人の目に映ったのは、どう見てもこの地区のランドマークとも言うべき大観覧車だ。
(まさか、長門さん……)
さすがに彼らも長門の意図を悟る。
彼女は如何にも別件が出来たような顔をして、隼太と穂波が2人切りになれる時間を作ってくれているのだった。
「あ、有難うございます!」
「お気遣い頂いて申し訳ありません」
慌てて口々に礼を言ったものの、相変わらず渋面を崩さぬ長門は素っ気なく応じる。
「一体なにを誤解しているのか知らんが、私には重要な要件があるのだ。では約束の時間を忘れるなよ」
それだけを言い残すと足早に歩き去っていく彼女を見送る2人は、思わず同時に溜息を吐く。
「長門さんって――何だか凄いよね……」
「本当だよ~あんなとんでもない美人の上に、こんな心配り迄出来る人なんて絶対どこにもいないよ……」
「……」
「……」
「あのさ――」
「そうだよね――」
「うん、海軍精神だよね」
「――うん♪」
せっかく長門が作ってくれた時間を無駄にする訳にはいかない。
そう短く確認しあった隼太と穂波は、公園を突っ切って運河に係る橋へと向かう。
その軽やかな足取りは、正に遠いあの日の2人そのものだった。