観覧車の順番を待つ列に並んだ時、彼らはまた新たなことに気が付いた。
前後に並ぶ他の客達の話によれば、昼時はどうやら列が短いらしいのだ。
おそらく昼食を優先する者が多いからなのだろうが、更に言うならこの観覧車は日が暮れてから街の夜景を見る目的の客が多いらしく、それもあってこの時間は待ち時間が少ない様だ。
「つまり、長門さんは最初からここ迄考えてたってことだよね?」
「うん、そうなんじゃないかなぁ」
「だったら何だかもう頭上がんないっていうか、なんて言ったらいいか分かんないよ~」
「本当にそうだね♪」
改めて彼女の配慮に感謝しつつ順番を待った2人は、程なくしてゴンドラに乗ることができた。
先に乗り込んだ隼太は、穂波に向かって手を差し出す。
「足元気を付けて」
「あっ、う、うん」
昔もそうだったが、彼女は決して運動神経が鈍いわけではないものの、性格なのかやはり一瞬躊躇ってしまう様だ。
(戦闘機動の時は、普通にキビキビしてて素早いのになぁ♪)
その辺りが如何にも穂波らしいところだろうか。
とは言え余り時間が掛かると危ないので、自分が受け止めるつもりで空いた片手を伸ばしてグイっと体ごと引っ張りあげる。
「きゃっ!」
「ほら大丈夫♪」
そう言いながらも、倒れこんできた彼女の勢いを吸収するためにストンと背後のベンチシートに腰を落とす。
「は、隼太君――」
意図した訳ではないのだが抱きかかえた状態になってしまったので、穂波が戸惑ったように声を上げる。
「ごめんね、怖かった?」
「あ、えっと――ううん、平気だよぉ」
そう言って笑顔を浮かべた彼女は、数秒間逡巡した後にそっと隼太の胸に体を預けてきた。
昔の隼太であれば、これだけでもう心臓が破裂しそうな程動悸が激しくなったところだが、今は全く違っていた。
(何だろう、この感じ……)
全身に何かが充填されていく――熱くもなければ冷たくもない、とても滑らかでいてそして同時にしっとりとして簡単には揺るがない――摩訶不思議な液体の様な何か――。
(充実――そうだ、俺は今充実してるんだ……)
そう俄かに悟った彼は、迷わず穂波を抱いたその腕にスッと力を籠める。
それを感じ取った彼女が束の間身を固くするが、一瞬の後にはその緊張を解いていた。
「ずっと――ずっと待ってたんだ――」
「うん――」
「何時か、何時かこんな時が来るのを待ってたんだ――ずっとね……」
「――わたしもだよ――ずっと、待ってたよ……」
「やっと来れたんだ――やっとここ迄来れたんだ――君の許へ」
「信じてたよ、何時かきっと来てくれるって……」
そう言った穂波の手が彼の腕をキュッと握りしめる。
遠いあの日、まだそれを表現する言葉を持たなかった彼が感じたその気持ち――愛おしさが体の奥から噴き上げてくる。
彼女を抱き寄せながら見つめると、潤んだ様な瞳が見詰め返してきた。
何かを言おうと思ったのだが、何も言葉が浮かんでこない。
いや、浮かばなかったのではなく必要が無かっただけなのだろう。
彼の腕の中で穂波がそっと目を閉じたその刹那、それは確信に変わった。
己の唇が、彼女の甘く蕩ける様な唇に触れるとともに、新たな情熱が湧いてくる。
まるでドアをノックするかの様に舌で彼女の歯に触れると、それ迄どこか遠慮がちに半ば閉じていたその口が開いて彼を受け入れる。
そして暖かく滑り、うねる様な舌がおずおずと彼を迎え入れ、欲望に身を任せるかの如く絡み合う。
互いの唾液が交じり合うのを感じると、体の奥から言い知れぬ昂ぶりが満ちてきて、更に強く互いを求めずにはいられなくなる。
一体どれ程の間そうしていたのか、少しずつ潮が引くように興奮と熱情が退いていく感覚の中で、2人は名残惜し気に身を離す。
酩酊から覚めたように上気した顔で見つめあった彼らだったが、互いの視線がしっかりと交わった瞬間穂波が真っ赤になり、隼太の胸に顔を埋める。
先程とは違い今度は力を入れずに優しく抱き締めると、胸の中で彼女が呟く。
「恥ずかしい……けど――とっても嬉しい……」
「俺だって嬉しいよ、っていうか俺の方がずぅっと嬉しいからね」
「そんなことないよ、わたしの方がずっと嬉しいよぉ」
「ふふふ」
「うふふ」
「ハハハ♪」
「うふふふ♪」
「――やっぱり同じだね」
「うん、おんなじ」
そう言った穂波が、少し顔を上げて上目遣いに彼を見つめる。
「大好きだよ」
「うん、俺も大好き」
そう言い交わした2人は、ここで初めてゴンドラの外に目を向ける。
とても長い時間が経った様な気がしていたが、まだ彼らは眼下に広がる横濱の街の風景の中を上昇していくところだった。
「どうしよう、他の人に一杯見られちゃったかな……」
「そうかも知れないけど、きっと皆そんなに気にしてないんじゃないかなぁ」
「でも――やっぱり恥ずかしい」
「ごめんね、嫌だった?」
「ううん、そんな事ないよぉ――只ちょっと恥ずかしいだけ」
そうはにかむ様に言うと彼女は隼太の手を取り、互いの指を絡ませる。
「とても長かった様な気もするけど――でも、今振り返ったらほんの少ししか経ってない様な気もするよ」
「うん、本当にそう……」
「正直に言うとね、俺、最初の穂波ちゃんからの手紙読んだ時さ、泣いちゃったんだよ」
「――わたしもだよぉ」
「本当に?」
「うん、凄く凄く隼太君に会いたくてね、一生懸命我慢しても涙が止まらなかったの」
「俺もそうだよ、穂波ちゃんに会いたくて仕方がなかったから大声で叫んで我慢しようとしたんだ」
「うふふ、本当にぃ?」
「うん、浪江のヤツが部屋の扉ドンドン叩いてさぁ、『あんちゃん! あんべわりぃんが⁉』って大声出すんだよ」
「そんなのわたしだって言っちゃうよぉ♪」
「本当に、穂波ちゃんだったら良かったのに♪」
「うふふふふ♪」
屈託なく笑った穂波がしな垂れ掛かってくる。
「でも、まだちょっと信じられない――隼太君とこうしていられるなんて……」
「俺は信じられるよ、夢の中の穂波ちゃんじゃなくて正真正銘本物の穂波ちゃんに会う為に5年掛けたんだから」
「わたしもだよ――最初はね、辛くて寂しくて何度も泣いたけど、でも、何時かきっと隼太君が来てくれると思って我慢してたもの……」
思わず彼女に回した腕に力が入る。
「もう大丈夫だよ、俺は君のすぐ傍にいるから――どんな事があっても一緒だからね」
「有難う――でも――これが夢でも幻でもなくて本当の事だって思えば思う程ね、怖くなって来ちゃうの」
「――それは――やっぱり、2人とも何時戦死してもおかしくないって思うから?」
「――そうなのかも知れない――けど、何だかそれだけじゃないような気もするの」
「それって――何か分からない?」
「――――うん……」
掴み処のない不安に苛まれるその華奢な体を、もう一度しっかり抱き締める。
「さっき言ったのはね、嘘でも空元気でもないよ」
「うん」
「何があっても穂波ちゃんを独りにはしないからね」
「うん」
「海の上で、弾に中る瞬間が何時来るのかは分からないけど、でも――それでも俺は君と一緒だから」
「――うん……」
黙ったままで2人は抱き合い、暫くの間互いの心臓の鼓動と息遣いだけを感じていた。
やがて彼女の腕から力が抜け、ほーっと長い吐息が漏れる。
「嬉しい――隼太君が傍にいてくれて、とっても嬉しい……」
「……」
「……」
「――あのね、穂波ちゃん」
「なあに?」
「これから――どうする?」
「あ――うん……」
「河勝にさ、言われたんだよ」
「なんて?」
「穂波ちゃんと話し合ってさ、1日でも早く一緒に除隊して村に戻ること考えた方が良いんじゃないかってね」
「……」
「そんなの無理?」
「ううん、そんなことないよ――だって――本当はわたしだって1日でも早くね、隼太君と一緒に村へ帰りたいもの……」
「でも――今すぐには――やっぱり出来ない?」
「――うん……今はまだ……皆の事置いて行けないよ……」
「まだ、時間がいる?」
「うん――それが時間なのか――もっと違う別の何かなのか――それは分からないけど……」
「白石さんや村越さんはもう心配無い様に思うけどなぁ――いぶきちゃんはちょっと気になるけど」
「隼太君たら酷いよぉ、浪江ちゃんや真奈美ちゃんの事は心配じゃないのぉ?」
「あ、忘れてた♪ でも綾瀬は大丈夫な感じだよねぇ、浪江は確かに気になるけど」
「浪江ちゃんの事、何か聞いてる?」
「実はね、この間ちょっと聞いたよ」
「うちの班長さんとかね、学校の教官の人達が何時も言ってたの『適性があるのも良し悪しだ』って」
「適性かぁ、でも浪江と綾瀬だったら適性には差が無いとか聞いたけど?」
「うん――でも、真奈美ちゃんのこと見てたら何となく分かるでしょ?」
「うん、分かる。あれで練度が上がったらひょっとして凄いヤツになるんじゃないかって思うよ」
「実際ね、そう言われてるらしいよぉ」
「そっかぁ、それに比べたら浪江のヤツは――」
「あのね、内緒だよ?」
「うん?」
「何だかね、ちょっといぶきちゃんに似てる感じ」
「あっ……それってさ、ちょっと不味い?」
「うふふ、知らない♪」
クスクス笑った彼女が胸に顔をギュッと押し付けてくる。
「こらっ♪」
そう言って力一杯抱き締めると、胸の中で軽く暴れた穂波はモガモガといった後で
「降参! こうさんだよぉ♪」
と声を上げる。
「ふふふ、参ったか♪」
「もう、参ったって言ったよぉ♪」
口を尖らせる彼女は、またどうしようもない程可愛かった。
我慢出来ずにスッと顔を寄せると、先程よりもずっと自然に彼の腕に体を預けた穂波は、軽く小首を傾げて目を閉じる。
微かに開かれたその唇に吸いつくように唇を重ねると、ゆっくり味わう様に互いの舌を舐め合う。
その艶めかしい感触を十分に堪能したと感じた彼らは、チュッと音を立てながら顔を離すが、今度は暫く見つめ合いながらキスの余韻を楽しむ。
「2回もしちゃったね♪」
「でも、もっともっとしたいよ」
「うふふ、隼太君のエッチ」
彼の胸元にその頬が軽く押し付けられる。
「――ちゃんと、考えるからね」
「うん」
「だからね、もう少しだけ待っててくれる?」
「待ってるよ、こうして傍にいれば何時まででも待てるよ」
「――ありがとう……大好き」
「でもね、俺の方がずっと好きなんだ」
「違うよ、おんなじだよぉ」
「同じだね♪」
「うん♪」
いつの間にか地上が近づいていた。
僅か20分の逢瀬だったが、それは彼らにとってこの上もなく満ち足りた時間だった。