【第六章・第一節】
青い空に白い雲が浮かんではいたが、風は身を切る程に冷たく、穏やかというには程遠い。
早春の海は青というよりも灰色に近く、もし無防備に投げ出されたなら、例え浮いている事が出来たとしても生き存えるのは不可能だろうと思わせるには十分過ぎる程だ。
「定時報告、両舷水測異常なし!」
「了解です、そのまま監視を継続されたし」
「はいっ!」
穂波と副長のキビキビとした無線のやり取りが、隼太の注意を引き戻す。
『うさ』のプールには今は穂波だけが立っており、そのプールを挟んで反対側には清次がいた。
彼は隼太と同じ形のコンソールに齧りついており、その視線の先には『うさ』から数百メートル離れた海上で対潜機動訓練に携わっている村越、文谷、そして浪江の姿があった。
さきの交戦で被弾した『かすが』は現在ドック入りしており、戻ってくるには相当程度の期間が必要だ。
海軍には僅かながら予備艦が存在するものの、教育隊の付属艦隊に適した艦艇はなく、『かすが』が戻ってくる迄乗員達は船無しで待つしかない。
とは言えその間中沿岸哨戒無し、艦娘の訓練も中断、としてしまうのは影響が大き過ぎることから、彼女達と乗員の一部は交代で健在の3隻に乗組むシフトが組まれていた。
そのシフトに従えば、今日は指導役兼哨戒担当の艦娘3名に候補生2名の体制になる筈なのだが、ここには本来居てしかるべき姿が一つ欠けている。
そしてそれは昨日今日に突然起こったことでは無かった。
(やっぱり関係あるよな……)
内心そう思っているのは無論彼だけではない。
この事実を知っている者全員がそう思っていると言い切っても、恐らく過言ではないだろう。
白石が正式に傷病除隊して行ったのは2月半ばの事だったが、その前から既にそれは始まっていたのだ。
あの日以来、いぶきは体調不良を訴える事が多くなっていた。
それはちょっとした不調の事もあれば今日の様に勤務を休む程の事もあり、その時その時によって浮き沈みが激しい。
だがその様な体調の差は些細なことと言い切ってしまえる程に、彼女は変わってしまった。
以前のいぶきを知っている者であれば、今の彼女は別人かと勘違いする位朗らかさを喪っており、物憂げな覇気の無さが際立っている。
(村越さんがいてくれ無かったらどうなってたんだろう……)
当初穂波といぶきの補助としてシフトに入るだけだった筈の村越が、今やピンチヒッターどころかメインの働きをしてくれていた。
実際のところ指導を受ける候補生達の評判も良く、物言いに手加減の無い綾瀬などは一度『村越先輩の方がずっといいです!』などと口走ってしまい、村越自身に窘められる始末だった。
(でも――こういうのって凄く良くないよなぁ……)
こんな事を続けていては、いざ元の体制に復帰したとしてもいぶきの居場所がなくなってしまうかも知れない。それとも、ひょっとして彼女もまた除隊してしまうのだろうか?
いぶきは斑駒の指示に従って海軍病院を受診した様で、もちろん詳しい診断内容などは彼には伝えられないものの、どうやら適応障害との事らしい。
ただWave達に言わせると『適応障害なんてのは、他に適当な診断が出来ねえときに出す所見ってヤツさ』だそうで、平たく言えば原因不明に近いニュアンスらしい。
(原因なんて分かってるみたいなもんだけどさ――それは病名には出来ないよな)
事実、清次は宿舎で2人切りの折にはしばしば『俺の責任だ。俺が誤解される様な事をして来た所為だ』と口にする様になっており、少なからず落ち込んでいる様だ。
だからと言って彼に出来る事は今のところありそうにない。
ましてや清次がいぶきに謝罪する様な真似でもしたら、益々事態が悪化しそうだ。
(まぁでも、悪い事ばかりでも無いしな)
いぶきの事は確かに頭の痛い話だが、その代わり隼太にとって大きな心配事の種であった浪江の事がほぼ解決したのは素直に有難い。
あれ以来、浪江の訓練全般に現れていた危険な兆候はピタリと止み、見違える程規律正しく謙虚な振る舞いが出来る様になっていた。
さすがに綾瀬と並んでしまうと少々見劣りがしてしまうものの、少なくとも安心して見ていられる様になったのは、本当に白石のお陰としか言い様が無い。
そんな事を考えていると、穂波がチラリと視線を投げ掛ける。
(また2人で話がしたいね)
(うん、俺もだよ)
簡単な意思の疎通はすっかり目だけで出来る様になった彼らではあったが、ここ迄事態が変わってくるとやはり対面で相談がしたくなってくる。
無論2人での外出申請は相変わらずしているが、そうそう簡単に許可が下りるものでは無いし、何より前回は長門の計らいがあったからこそ2人切りになれたのだ。
それを思えば、寧ろ在港時点検などの折の方が邪魔されずに会話が出来るかも知れない。
そんな事を取り留めも無く考えている内に対潜機動訓練が終了し、村越達が戻って来る。
「せぇんぱい、どうも有難うございましたぁ」
「有難うございました!」
文谷のふわふわした挨拶は相変わらずだが、浪江が明るくキビキビ挨拶しているのを聞くだけで何となく嬉しくなって来てしまう。
(こう言うの親馬鹿とか言うんだっけな――俺、親じゃないけど)
そう心の中で苦笑した隼太であったが、これはどうやら父性の為せる処では無く身内故の感情らしい。
一般論で云うならばだが、目の前にいる2人を比較すれば父性を呼び起こされるのは明らかに文谷の方だからだ。
「それにしても夏樹ちゃんには驚かされるわ、対潜機動の速さと正確さはナンバー1なんじゃない?」
これは村越の素直な感想の様だ。
「えへへぇ、でも文谷はぁ火力で勝負にならないからぁ、対潜とスピードを鍛えるしかないんですよぉ♪」
「そう思って実践出来てるのって、やっぱり凄いと思いますよ先輩!」
浪江のその言葉通り確かに文谷の方が歳上なのだが、見た目は明らかに逆にしか見えない。
「でも、浪江ちゃんはまだ一芸を伸ばそうとか、そういう方向に努力する時期じゃないわよ。今はバランスよく練度を上げて能力を存分に発揮できるようになることが優先ね」
「はい!」
(いや~、何か結構いい雰囲気なんだけど……でも、不味いんだよなぁ)
村越がしっかりしている程、ますます状況が悪く見えて来てしまうという袋小路の様なものだ。
実際そう感じているのは隼太ばかりでは無い様で、先程から班長は苦り切った顔であらぬ方向を睨みつけている。
また『うさ』のWave達も務めて何気なく振舞っているものの、その心中は複雑な様だ。
(そりゃそうだよな、何だかんだ言ってもいぶきちゃんはうちの所属なんだからな)
そしてその意識を彼もまた共有し始めているのは間違いない。
彼にとっては村越も偶然に同郷の同級生であるからまだしも、もしこれが例えば三森や初田に置き換わったならば、今の班長やWave達に共通するようなモヤモヤとした違和感を感じていただろう。
有能だとかどうかには関わりなく、彼らにとってはいぶきもまた同じ艦で戦う同僚であり仲間意識を共有する存在なのだ。
(俺に何か出来ることがあるんだろうか……)
彼女が精神的なダメージを少しでも克服出来るように、彼がやれる事を何か考えねばならない。
しかしそのためには医師なのかカウンセラーなのか、某かの専門家に助けて貰う必要がありそうだ。
(いや~、それってハードル高いよな、その前に別の誰かに相談してからだなぁ)
そんな事を考えていると、突然文谷が地雷を踏みに来る。
「それにしてもぉ、今日も吹輪センパイはお休みなんですかぁ? 文谷もちょっと心配になっちゃいますよぉ~」
一瞬誰もそれに対して反応できず、微妙な沈黙が流れてしまう。
隊内には彼女の事を『天使』などと呼ぶ兵達も多いが、言う迄も無くその幼い容姿そのままの無邪気な言動を指しての事だ。
とは言うものの、残念なことにその天真爛漫さは時として諸刃の剣ともなるのだった。
どうなる事かと固唾を飲んでいると、村越が当たり障りのない物言いで何とかそれに応じる。
「夏樹ちゃんだけじゃないわ、あたし達も他の皆もやっぱり心配だけど、心の問題だとしたらそう簡単じゃないでしょうね」
「やっぱりそぉなんですかぁ~? でもでもそうですよねぇ、自分で乗り越えないとぉどうしようもないんですね~」
「あら、ちゃんと分かってるんじゃない♪ そうよね、他人が如何こうしてあげられる事って限られちゃうわよね」
「先輩も、ひょっとして挫折を乗り越えた経験とかあるんですか?」
(おっ、浪江もナイスフォローじゃないか♪)
上手く話が逸れていきそうだと思ったのだが、残念ながら天使は更に手強かった。
「文谷は経験ないよぉ~? でもぉ、やっぱりおんなじ乙女なんだからぁ、そこはちゃーんと分かっちゃうだけだよぉ。浪江ちゃんだってそうでしょぉ?」
「えっ? そ、そうなんですか? 乙女って?」
「そうだよぉ~、恋に破れた乙女はねぇ~海よりも深ぁ~く傷ついちゃうんだよぉ。とってもとっても深ぁ~いんだよぉ」
隼太の視界の向こうで、清次が硬直しているのが見えてしまった。
周囲には『あ~あ、一体どうすんだよこれ……』とでも表現するべき空気が充満しており、それが正常な地球の大気をどこかへ押し遣ってしまった様な息苦しい空間になっている。
しかし、これまで一度も見た事のないものが見られたのも事実だ。
(村越さんでもあんな顔するんだな……)
目が点になるとはよく使われる表現だが、まさか本当に――しかもそれが村越と浪江なのである――目が点になっているところを見られるとは思いもよらなかった。
しかもその状況を作った当の本人は少々ドヤ顔迄しているという、ちょっと日常生活では到底出会えそうもない稀有のシチュエーションだ。
とは言うものの、何時迄もこのまま放っておいて良いわけもないだろう。
何かして空気を変えなければと思った矢先に、気持ちが通じたのか穂波が声を上げてくれる。
「夏樹ちゃんも浪江ちゃんも、そろそろ終了点検掛からないと駄目だよぉ」
「そ、そうね! さぁ2人とも終了点検よ、支援班の皆さんもよろしく!」
「は、はい!」
「はぁ~い」
やっと周囲の空気が正常に戻り、時間も元通りに流れ始めた様だ。
プールの反対側で清次がコンソールに突っ伏しており、一緒に乗り組んできた『かすが』のWaveに肩を叩かれている。
相変わらずしかめ面をした班長が歩いてくると、隼太の斜め後ろに立って低い声を出す。
「貴様、出来るだけ早くあの色男と相談でもして何か出来ることを考えろ」
「あ、はい、何とか考えます」
とにかくそう答えると、彼はフンと鼻を鳴らして応じる。
清次が色男かどうかはさておくとしても、これで何か出来ることを考えて報告しなければならなくなったのだ。
(相談つってもなぁ――まぁ、あいつとだけ相談してても埒は開かないだろうな……)
心の中で溜息を吐いた彼の頬には、相変わらず早春の冷たい海風が吹き付けていた。