虫達の声がとても心地よかった。
何処からか、川のせせらぎが耳に届く。
ついこの間迄夏の陽気だったのに、季節はその足を早めて里全体を秋色に変えて行く。
ゆっくりと自転車を漕ぐ彼の体には、穂波の腕がしっかりと巻き付けられていた。
「今日は楽しかったね」
そう話し掛けるが彼女は答えない。
代わりに巻き付けられた腕に少しだけ力が籠り、背中にその体温をはっきりと感じる。
(穂波ちゃん……)
背中に顔を埋めているのは恥ずかしがっているのだろうか?
そんな風に想像してしまうと、どうしても確かめたくなって来て後ろを振り返る。
ところが、一体どうした事かそこには誰もいない。
(えっ⁉)
驚いて自転車を止めると、何時の間にか穂波が少し離れた所に立って、何処か悲し気に此方を見ていた。
「どうしたの?」
そう声を掛けても黙ったままで反応してくれず、此方を見つめるばかりだ。
よく見ると、穂波は見た事も無いぴっちりとした群青色のスーツの様な服を身に着けていた。
近付こうと足を踏み出すと、何故か彼女は首を左右に振って拒む様な仕草をする。
まるで、来てはいけないと言っているかの様だ。
「どうして? 訳を言ってよ!」
我慢出来なくなった隼太がそう呼び掛けて更に近付こうとすると、突然彼女の横に影の様な何かが出現してその腕を掴む。
「おい待てよ! お前誰だ!」
慌てて駆け寄ろうとしたが、その影と穂波は滑る様に急速に遠ざかって行く。
「待て! 穂波ちゃんをどうする気だ! 逃げろ、穂波ちゃん!」
手を伸ばして全力で追い掛け様とするが、足がもつれて思うように走れない。
その時、強い力で腕を掴む者がいる。
あっと思って振り返ろうとしたが、突然周囲の景色がぼやけて何処からか彼の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
ハヤタ――ハヤタ――はやた――はやた――隼太……
「――――隼太、おい隼太! しっかりしろ、聞こえるか?」
「あんちゃん! しっかりしてくれあんちゃん!」
眩しい光が世界に満ち溢れ、急に彼は自分が何者なのかを覚る。
目を開けると、そこにあったのは清次と浪江の顔だった。
「良かった――気が付いたか隼太ぁ……」
「心配したぞあんちゃん!」
背中の硬い感触で、ようやく此処が何処なのかを思い出す。
そう、確か自分は『うさ』のプール甲板でコンソールを睨みつけて居た。
穂波や浪江、綾瀬達の奮戦で敵を1隻撃沈して――そして、水平線の向こうで閃光が走ったのを見た――筈だ。
そして――そして――――
「――穂波ちゃん――穂波ちゃんは?」
そう口にした途端、彼を見詰めていた2人の表情が曇る。
「おい、まさか――」
思わずガバッと体を起こすと、頭がズキンとする。
「痛っ!」
「無理すんなよ、頭ぁ打ってんだぞ!」
「そうだぞ、あんちゃん」
痛んだところを触ってみたら瘤が出来ていた――が、少なくとも激痛が襲って来る様子は無く、骨に異常は無さそうだ。
「何があったんだ?」
「直撃されたんだよ……」
沈んだ声でそう言った清次が視線を走らせた方向を見て息を呑む。
艦中央部にあった煙突が拉げてしまっており、その前の――艦橋も、半ば潰れてしまっていた。
(斑駒艦長!)
「今よ、応急処置班が様子を確認してるんだけどよ……」
「――ダメ――なのか?」
清次と浪江が力なく頷く。
改めて気が付いたのだが、艦は動力を喪っているらしく漂流状態の様だ。
(そういう事か……)
浪江が艤装を下ろして彼の横にいるのも、プールの反対側で綾瀬がWaveらと共に倒れている兵士の様子を見ているのも、動力を喪失したために電力供給が途絶えてしまったからなのだ。
ハッとなって、すぐ脇にあった彼のコンソールに飛び付くが、勿論それも表示が消えてしまっている。
(いや――非常電源がある、起動できる筈だ)
「おい隼太、あまり動くんじゃねぇぞ」
「大丈夫だよ、吐き気や目眩はしてねえし」
そう応じながらコンソールの基部にある非常電源への切り替えスイッチを弄り、カバーをこじ開けて電源を切り替える。
(やった!)
コンソールのパイロットランプが点灯し、直ぐにシステムが再起動する。
「敵はどうなった? 撤退したのか?」
システムが立ち上がる迄の間を捉えて問い掛けるが、歯切れの悪い返答が返ってくる。
「それが――良く分からねぇんだ」
「直撃されたら、急に弾が飛んで来なくなっちまったんだぞ? それに電気なくなっちまったから、何も分からなくなったし……」
「じゃあ、やっぱり撤退したんじゃねぇのか?」
「いや、砲撃はもう少し続いてたんだ、何か大分狙いが外れてたんだけどよ」
「うん、あっちの方に」
浪江が指差すのは、概ね陸に近い方向だ。
「待てよ――それってもしかして――」
隼太がそう口に仕掛けると、清次と浪江もアッと口を開ける。
「まさか敵は――」
「先輩を撃ってたのが⁉」
その時システムの再起動が完了し、コンソールの表示が薄暗い節電モードながらも復活する。
(穂波ちゃん!)
そこに映し出されたのは、ぼんやりと不吉な赤色に灯る艤装の状態表示灯とバイタル表示灯だった。
突然、脳内に映像がフラッシュする。
来てはいけないと言う様に首を振る穂波――そして彼女を連れ去ろうとする謎の影……。
「――行かなきゃ……」
「何か言ったか隼太ぁ?」
「ああ、穂波ちゃんのところへ行かなきゃならねぇんだ」
「何だって! お前――」
「気が付いたか敷島!」
その声に顔を上げると、班長が此方を見下ろしていた。
「はい! ご迷惑お掛けしました」
「誰も迷惑なんぞ被っとらん、それより体調は問題無いのか」
「はい、ちょっと瘤が出来たくらいです――それより班長、申し上げたい事があります!」
「なんだ、余程大事な事か?」
「はい、ほな――五十田が危険なんです。救援の許可を頂け無いでしょうか?」
「先輩を助けに行かせて下さい! 予備バッテリーで艤装を動かしたいんです!」
事態を察した浪江も横から口を挟む。
だが、その申し出は班長にあっさり一喝される。
「馬鹿者! この状況が目に入らんのか貴様ら! そんな事が許可出来るか!」
「ですが、班長――」
「いいか、本艦は今全く無防備な状態だ。そんな時に予備のバッテリーを消費した上に、候補生を出撃させられると思うか! そんなことは絶対にさせんぞ!」
「それはそうですが――」
「間もなく味方が駆け付けて来る、後精々数十分の辛抱だ。それ迄にこの俺もやる事が山の様にある!」
「あ、はい……」
「いいか! 確かにあの小型機動艇にはビーコントラッカーも積まれているし、独りで操船が可能だ。だが、貴様にそんな事を許可する訳にはいかん! 今言った通り、俺は忙しいんだ! 余計な手間を掛けさせるな!」
そう言い放った班長はくるっと背を向けて離れて行ってしまう。
(えっ……?)
彼の言動に不自然なものを感じ取った隼太は事態が呑み込めず戸惑うが、そんな彼の背後からWave達が声を掛けて来る。
「班長がああ言ってるんだ、これ以上邪魔すんじゃねぇぞ」
「そうだそうだ、確かに機動艇はラチェット1つ外すだけで簡単にリリース出来るけどなぁ」
「何事も無きゃあ30分もありゃ何とかなるかも知れねぇが、絶対やっちゃぁいけねぇこった」
それだけを言い捨てた彼女達もまた、振り返った彼とは目を合わせる事無くそのまま散っていく。
(班長――皆……)
彼らの心遣いを察して、胸が熱くなってくる。
(有難うございます!)
口には出さずに心の中で礼を言うと、すくっと立ち上がって小型機動艇を釣ったダビッドの方へ歩き始める。
「おい待てよ、隼太ぁ」
「何すんだあんちゃん!」
慌てて清次と浪江が追い縋ってくると、プールの反対側からそれを見止めた綾瀬も立ち上がって駆け寄って来ようとする。
(ダメだ、来るな)
目でそう言って首を振って見せると、彼女はピタッと立ち止まり、唇を尖らせて恨めしそうに彼を睨む。
「俺も行くぜ、一緒に五十田を助けに行こう」
「あんちゃん、おれも行ぐ!」
「駄目だ、命令違反をするのは俺だけで十分だ。お前達は行かせられない」
「何言ってんだよ! お前ぇを1人で行かせられるかよ」
「馬鹿言うな、お前は白石さんと約束したんじゃねぇのか? 今お前に命令違反なんかさせたら、俺、白石さんに刺されちまうよ」
「こんな時に、何ふざけた事言ってんだよぉ!」
「聞いてくれ清次、俺は穂波ちゃんと約束したんだ――必ず俺が迎えに行くって――だから、俺に行かせてくれよ」
そう静かに言って聞かせると、見る見る内に彼の顔がクシャクシャになり、突然驚く程の強い力で両肩を掴まれる。
「チクショウ! いいか! 今――此処で俺に誓え! 必ず――必ず、2人で生きて帰ってくると誓え! ――じゃなきゃ、お前ぇとは絶交だ!」
そう叫んで大粒の涙を零す彼を見ていると、自然に涙が溢れて来てしまう。
「分かったよ――誓うよ――お前に絶交されちゃかなわねぇからな♪」
そう応じると、彼らははじめてしっかりと抱き合う。
「あんちゃん! 絶対、絶対帰って来てくれよ!」
腕を緩めた彼の服を、涙を浮かべた浪江がギュッと掴む。
「分かってるよ、必ず帰ってくるから」
「絶対だぞ? ――帰って来なかったら――許さねぇからな⁉」
「そんな顔すんなよ、浪江に許して貰えるように、ちゃんと帰って来るよ」
言いながらロープを掴んで小型機動艇に飛び乗り、ダビッドの金具から釣り下がっているラチェットハンドルを軽く跳ね上げると、締め具が緩んで一気にロープが繰り出され、彼は小型艇ごと海面に落下する。
「約束だぞ!」
遠いあの日と同じ、背中を追い掛けて来る様に発せられた浪江の叫びに軽く手を上げて応えると、躊躇う事なく起動スイッチを押しエンジンを掛ける。
ゆっくりと動き出した艇の操作パネルのスイッチを入れるとトラッカーの電源が入り、画面上にビーコンの発信方向を示す矢印が灯る。
これが点灯しているという事は、少なくとも穂波の艤装はまだ海上にあるという事だが、実際にどうなっているのかは行って見なければ分からない。
(でも――俺は信じてる――穂波ちゃんはきっと無事で、俺が迎えに行くのを待ってくれている――必ず……)
グッと歯を食いしばると、右手で舵を操って矢印が艇の進行方向に向くように調整しつつ速度を上げる。
トラッカーの表示を見る限り、それは高々数千メートル程の距離の筈だ。
しかし未だに付近には敵が遊弋しているかも知れず、更に言うならば、彼の見たあの幻は敵の目的が『うさ』ではなく穂波である事をも予感させる。
(俺は――俺は、このために此処に来たんだ――どうか――間に合ってくれ――頼む……)
だが、彼の願いに応えてくれるものは何も無く、冷え冷えとした早春の空気がただただ頬を切り裂いていくばかりだった。