ナンバーズ!!   作:通りすがりの猫好き

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NO.1000

『ベアーズ9回にまさかの暗転…指揮官「こういう時もある。また、次の機会にやってくれれば」』

 

 コーヒーを机に置いて、眉をひそめながら新聞に書かれた文字を目で追っていく。あれから一夜明け、朝刊の一面を飾ったのは昨日の試合だった。写真は打球を呆然と見つめる千石の姿が映している。記事は千石の投球内容をなじるばかりで擁護するようなコメントはほとんどない。どいつもこいつも言いたい放題の状況だった。

 

(ええい、やめだやめだ)

 

 こんなニュースを見たところでモチベーションが下がるだけで、何の意味もない。ふと、千石の顔が思い浮かんだ。いつもは平然としているあいつでも、今回ばかりはさすがに落ち込んでいるのだろうか。新聞を畳んでコーヒーに手を付けようとすると目の前に腕が見えた。腕の付け根まで視線を移し、見上げた先には、当事者である千石が腕を組んでニヤニヤしながら座っていた。

 

「おはよう、元気してる~?」

 

 思わずコーヒーをこぼしそうになる。今日の服は白いポロシャツだ。こぼせば確実に跡がつく。危ないところで何とかコーヒーカップを持ち直して事なきを得る。

 

「何で、っていうかいつからいたんだ」

 

 意識して声のトーンを落とす。そうしないと確実に怒気を孕んだ声になってしまうと察したからだ。この場で怒るのも別にいいが、それはこいつの思うつぼのような気がする。

 

「え~、いつからだと思う~」

 

「答えないならそれでいい」

 

「分かった分かった、言うよ」

 

 千石は両手を上げて降参、というポーズを見せる。

 

「いやぁ、朝飯を食べに来たらお前がすげー神妙な顔して新聞を見てたからさ。驚かしてやろうと思って。にしてもオレってば気配を消すのも上手いときたらもう弱点がないな~」

 

 子供か!と喉から出かかった言葉を飲み込む。そういえばこういう奴だった。

 

「で、何の記事見てたんだ?」

 

 どうせ後で知るのなら隠す必要もない。黙って新聞を手渡してやった。新聞の記事を「へ~」だとか「なるほど~」と言いながら目を動かしていく。新聞くらい静かに読めないものか。

 

「あ~、結構な言われようだな。まぁあんな負け方したらそりゃあ色々言われるわな」

 

 千石はケロリとした様子で話し続ける。その様子を見る限り、昨日の試合が特に響いたとかそんな感じではないらしい。

 

「昨日の事、気にしてないのか?」

 

「まぁでも、そういう日って誰にでもあるじゃん?昔から『明日は明日の風が吹く』って言うし、あんまり気にしないようにしてんのよ」

 

 なぁんだ、心配して損した。本人がそういうならそうなんだろう。ただ、一つだけ昨日の試合で疑問に残る事があった。

 

「でもさ、何でパスボールのあとフォークを投げなかったわけ?何回かサイン出てただろ」

 

「そりゃあお前…」

 

 そういって千石は固まった。もしかしたら何かまずい事を言ってしまったのか?でも千石は気にしてないって言ってたし…。もう少し追及しても罰は当たらないだろう。

 

「無理に答えなくていいけど、引きずらないのと反省しないのは別の話だぞ」

 

「分かってる。分かってるよ」

 

「まぁいいさ。次投げる時に打たれないようにしてくれよ」

 

「…お前なら、分かってくれると思ったんだけどな」

 

「??」

 

「いや、何でもない。じゃあまた後でな」

 

 千石は何かを言いかけて、そこで話を無理矢理に強制終了させた。席を立って、朝食をもらいに行くその背中は昨日と同様小さく感じた。ポツンと一人残されたテーブルに静寂が訪れる。ようやく落ち着いたところで、コーヒーを喉に流し込む。ブラックコーヒーの苦い味が口の中を支配していくのを感じながら、一人の時間を謳歌しようとした丁度そのころ、誰かに肩を叩かれた。

 

「やぁ一原君。ここ、座っていいかな」

 

 声の主は五島だった。どうして誰もかれも俺の近くに座ろうとしてくるのか。他にも席は空いてるだろうに。俺の平和な時間をどうか返してほしい。とはいえ、先輩の手前「嫌です」と言えるはずもなく、どうぞとだけ返した。五島は朝食を載せたプレートを机の上において、席についた。

 

「さっき一原君さ、千石君と話してたよね?良かったら、何を話したか教えてくれないかな」

 

 その言葉で合点がいった。なるほど、目当ては千石か。さしずめ昨日の件をそれとなく聞くつもりなのだろう。

 

「別にあいつは昨日のこと気にしてないって言ってましたよ」

 

 そういっても五島の顔は複雑そうだ。何やらもごもごと言おうとしているが、はっきりと口には出そうとしない。少し時間がたってからようやく口を開いた。

 

「一原君は昨日、何で彼がフォークを投げなくなったんだと思う?」

 

「あぁ、それはさっき千石に訊きましたよ。はぐらかされましたけど」

 

「あれは多分、僕が悪いんだ。サイン違いとかじゃなくて、純粋にあのボールを取れなかったから」

 

 五島の表情は真剣だ。それが謙遜などではないことは、目を見れば明らかだった。

 

 ああそうか、だからあいつは。それを投球練習の時から気にしていたんだ。自分の決め球を取れるキャッチャーがいないと思っていたのだ。それを俺に伝えようとしていたんじゃないのか。

 

「通りで投げたがらないわけだ」

 

 フォークを投げようとしなかったのはきっとそのせいだ。しかしそれでも、自分にはどうこうする術もない。出来るとするなら彼のフォークを捕れるキャッチャーが現れることを願うくらいだ。

 

「九重さんなら、どうしていたかな」

 

 すがるような五島の呟きに、何も応えられなかった。

 

 

 

 

 

 千石秀樹はきっと今、野球人生の岐路に立たされている。決め球のフォークを捨ててストレートとチェンジアップだけでやっていくか、それともフォークの変化量を落とすよう模索するか。昔からフォークをウリにしていた千石だったが、それを受け止められるキャッチャーは中々いなかった。高校時代、三年間バッテリーを組んでいた同級生が、3年の春ごろにようやくしっかりと捕球できるようになったくらいだ。そのキャッチャーは高校で野球を卒業している。

 

 高校日本代表に選ばれた時だって、世代最高と謳われたキャッチャーが前にこぼすので精いっぱいだった。もしかすると、この先も俺の望むキャッチャーなど現れないのかもしれない。そんな邪念を振り払うかのように、千石はブルペンで投げ込みを続けた。

 

「おい、もうそろそろ止めといた方が…」

 

「いえ、もう少しだけお願いします」

 

「そんなこと言ったってな、これ以上はオーバーワークだぞ」

 

「その通りだ。そこらへんで止めておけよ」

 

 ブルペンの外から聞こえた声。声のする方へ目を移すと、そこに立っていたのは九重だった。九重優。高い守備力と巧みなリードで投手を引っ張る扇の要。ベアーズの正捕手。彼が千石のフォークを取れないならば、このチームでフォークを投げることはもうないだろう。それを確かめてしまえば、自分の居場所がなくなるような気がして。怖くてそんな事はとても言えなかった。

 

「九重さん、でしたっけ。今いいところなんで邪魔しないでください」

 

「いーや、そうはいかないね。お前は抑えだ。今日登板するって時にばててちゃ困るんだよ」

 

「でも…」

 

「どーしてもっつーんなら」

 

 九重がにやりと口角を上げてプロテクターやマスク、レガースをはめていく。

 

「五球だけ、俺が受けてやんよ」

 

 それくらいならいいですよね、と九重がブルペン捕手に確認をとる。彼は一瞬たじろいだ様子だったが、「お前がそう言うなら」と渋々了承した。

 

「…分かりました。じゃあしっかり取ってくださいよ」

 

「お、言ってくれるじゃないの!いいねぇ、そういうの嫌いじゃないよ。じゃ、投げる球は俺が指示するよ。初めはそうさな…ストレートで」

 

 コクリとうなずいて投球モーションに入る。スムーズな体重移動で力を指先にまで伝導させて投げられたその球は、心地よい音を響かせてキャッチャーミットに吸い込まれていった。

 

「ナイスボール。なんだ、やっぱりいい球もってんじゃん」

 

 右打者のインコースをえぐるような綺麗なクロスファイアー。球速は150キロ前後といったところか。九重がうんうん、と首を縦にふりながらボールを千石へと投げ返した

 

「それはど~も」

 

「次は、やっぱりそうだな。あのフォークを投げてみろよ」

 

 心臓の鼓動がやけにうるさく響きだした。フラッシュバックしたのは昨日の光景。ボールが捕手の間をすり抜けていく風景。もしこの人でも取れなかったら?そんな考えが靴にひっついたガムのように頭から離れなかった。

 

「どうした?」

 

「い、いや!何でもないです!」

 

 両手を高く掲げる。大丈夫だ、落ち着けオレ。きちんと、普段通りに。しかし動揺が体に伝わったのか、フォークが指に上手く引っかからなかった。

 

「しまっ…!!」

 

 叩きつけるような形になった球は打者のずっと手前でワンバウンドした。完全な暴投。そう思った瞬間、九重は膝を滑り込ませてボールを体にぶつける。プロテクターに直撃したボールは九重の前を少し転がって、止まった。

 

「おっと…なるほどな」

 

 何かを察した九重がマスクを外し、千石のもとへと駆け寄ってくる。

 

「さてはお前、フォークを投げるのが怖いんだろ」

 

「…!!」

 

「まぁ昨日の連続パスボールを見たらそうなるわな。でも気にするな。あれは五島が悪い」

 

「だけど俺は」

 

 有無を言わせず九重は話を続ける。

 

「いいか?いい球を放るのが投手の仕事なら、捕手の最低限の仕事はそれを捕ってやることだ。お前がよっぽど酷いボールを投げない限り、その責任は俺たちキャッチャーにある。昨日のアレは暴投なんかに入らねーよ。それにな、周りが捕れないからってお前が合わせてやる必要なんてないぞ」

 

「え」

 

「お前のフォークは一級品だ。それを投げなくなるのは、間違いなく球界にとっての損失になる」

 

「いいんですか、投げても」

 

「当たり前だろ。どんな球でも捕ってやるのが正捕手ってやつなんだぜ?」

 

「どうしてオレを持ち上げるんですか?」

 

「そりゃあお前が守護神になれると思ったからだよ。お前の球を唯一取れる俺は、もしスタメンを剥奪されても抑え捕手として起用してもらえるだろ?」

 

「はは、何ですかそれ」

 

 思わず笑みがこぼれる。どうやら自分の事ばかり考えているのはお互い様らしい。

 

「…分かりました。九重さんを信じます」

 

 うなずいて戻っていった九重がミットを構える。三球目に要求されたのも同じフォークだ。しっかり指にかかったボールは理想的な変化を描き、打者の手元で大きく沈んだ。九重は膝をたたみ、横にスライドしてボールを前に落とす。

 

(やっぱり、この人なら捕ってくれるのかもしれない)

 

 そして最後の五球目。三度投げられたフォークは今度こそしっかりとキャッチャーミットに収まった。

 

 

 

 

 

 

北海道ベアーズ      兵庫パンサーズ

 

一番 ライト   二葉  一番 センター  遠野

二番 セカンド  万丈一 二番 ショート  上野

三番 レフト   五島  三番 ファースト マルセル

四番 ファースト 四谷  四番 ライト   里

五番 サード   一原  五番 サード   小森

六番 ショート  木下  六番 セカンド  猪原

七番 センター  七海  七番 レフト   磯井

八番 キャッチャー九重  八番 キャッチャー竹谷

九番 ピッチャー 億平  九番 ピッチャー 春山

 

 

 甲子園で迎えた対パンサーズ二回戦。ベアーズは左の億平、パンサーズは右の春山と共に技巧派投手の先発で幕を開けた。試合は初回、フェンス直撃の二塁打を放った五島を二塁において、バッターは四番四谷。芯でとらえた打球はセンターとレフトの前に落ちるクリーンヒット。この隙に五島が激走して生還。幸先よくベアーズが一点を先制した。

 

 この日は億平が絶好調。早いカウントで追いこんで、振りに来たところを詰まらせる戦法が上手くハマっていた。得意の打たせて取る投球術で、パンサーズ打線を寄せ付けない。5回に連打で1死一二塁のピンチを招くも、スライダーを引っかけさせて4-6-3。教科書のようなダブルプレイを完成させてグラブを叩く。これで勝利投手の権利を得た。

 

 一方の春山は対照的に、苦しいながらも粘りのピッチングを見せる。6回まで毎回のランナーを出しながらも、初回以降は失点を許さず踏ん張ってみせた。特に六回は先頭の一原にツーベースヒットを浴び、木下に死球を与えたところでピッチングコーチが出てくるも、志願の続投。続く七海、九重、億平を凡退に抑えてこの回もピンチを凌いだ。

 

 両投手の好投が続いたが、ついに9回裏。疲労の色が見えてきた億平にパンサーズ打線が襲い掛かる。一番・遠野が9球粘った末に四球で出塁し、続く上野は3球目を捉え打球は二遊間を破る。一塁ランナーは二塁ベースを回ったところで止まったが、無死にして一二塁のチャンスを迎えた。

 

(そろそろ潮時か…)

 

 億平の球数は既に110球を超えている。ましてやこのピンチでクリーンナップ、今の億平の状態からしても抑えるのは至難の業といえるだろう。

 

 やってきたピッチングコーチともども捕手や内野手がマウンドに集まる。ベンチではボールを受け取る漆原の姿が見えた。

 

「億平、今日はここまでだ。お疲れさん」

 

「…チッ、あともう少しで完封だったのによぉ」

 

 軽く舌打ちをしながら億平はすごすごとベンチへと引き下がっていく。そして電光掲示板に次の投手の名前が告げられた。

 

『ピッチャー、億平に代わりまして、千石。背番号13』

 

 歓声と太鼓の音がより一層大きくなったように感じる。そのほとんどはパンサーズファンのものだろう。無理もない。つい先日に千石はサヨナラタイムリーを打たれたばかりだ。昨日の展開を思い起こしてサヨナラ勝ちを期待しているファンがほとんどだろう。リリーフカーから降りた千石が輪の中に近づいてくる。

 

「ど~もど~も野手の皆さん。オレがやってきましたよ~」

 

 その表情は憑き物が落ちたように晴やかだ。何か吹っ切れるようなことがあったらしい。絶体絶命なこんな状況でも笑みを崩していないのは相当に自信があると見える。

 

「それくらい余裕があるんなら大丈夫そうだな。ちゃんと肩も作ってきたんだろうな?」

 

「そりゃあ勿論、ちょうどあったまってきたところですよ」

 

 千石はぐるぐると肩を回して見せる。

 

「昨日と同じ。いや、それ以上にキツイ場面だ。お前がリベンジを果たす場として、これ以上のものはないだろう?」

 

「そうですね。今なら誰にも打たれる気がしないです」

 

「よっしゃ、そんだけ大口叩けるなら上出来だな。ここの歓声を全部、悲鳴に変えてやろうぜ」

 

 そう言って千石は投球練習に入る。一球投げるごとにグラブに快音が響く。それはある種の宣戦布告だった。このボールを打てるものかと問いかけるように、昨日とは全く違うことを見せつけるように。

 

『三番、ファースト、マルセル』

 

 右の打席に入ったのはメジャーリーグでの経験もあるパンサーズの助っ人、マルセルだ。助っ人らしく恵まれたパワーは勿論のこと、抜群な選球眼を持っている。注目の初球、指にかかったストレートが容赦なくインコースへと決まり、審判がストライクをコールする。表示された球速は152キロ。昨日とほとんど同じ速さなのに、体感速度もノビも比べ物にならないほどのものだった。

 

 千石が淡々とキャッチャーから投げられたボールを受け取る。次に投じられたストレートは高めに外れてカウント1-1。3球目はど真ん中へのストレートがバットに当たりファール。追い込んだところでさらにストレートを続けるも、これには手を出さずカウントは2-2になる。ランナーを一二塁に置いている投手側としてはこのカウントで決めたいところだが、打者にとってもそれは重々承知だ。マルセルがバットを深く握りなおす。

 

 そして投じられた5球目、独特の軌道を描いたフォークボールは揺れながら右打者のアウトコースに逃げるように落ちた。マルセルがバットを回すも、完全に泳がされた形となりバットは空をきった。これでワンアウトだ。マルセルは驚愕の色を隠せないままベンチへと引き換えしていった。

 

『四番、ライト、里』

 

 今度は左のバッターボックスで里が土を払う仕草を見せる。今年で二年目を迎える里は昨年ルーキーながら20本塁打を記録した強打者だ。千石もロジンバッグに手をやり、白くなった手に息を吹きかける。飛び散った白い粉が風に吹かれて霧散していった。

 

(初球からこの打者は迷いなく振ってくる。となれば選択するボールは…これだ)

 

 九重がサインを出し、千石がそれにうなずく。セットポジションから投げられたボールは打者の手元で減速して沈んだ。

 

(チェンジアップ!?)

 

 予想だにしていなかった球種にタイミングを崩された里は腰砕けになりながら打球を詰まらせる。弱弱しい打球がサードベース方面へと転がっていく。

 

「頼む一原!」

 

「任せろ!」

 

 千石の言葉に応じるように一原が猛チャージをしかける。相手は左打者。加えて足もそこそこ速い。グラブで捕球していては間に合わない。そう判断した一原は右手で直接ボールをつかんだ。

 

「間に合えッ!」

 

 こうなれば一原の肩と里の俊足とのぶつかり合いだ。一原が走りながら送球する。ファーストの四谷も目一杯足を伸ばす。ボールは里の足から一歩分早く、ファーストミットに収まった。

 

「アウト!アウト―!!」

 

 これで2アウト目。しかしまだ油断はできない。ボテボテのサードゴロを捌いている間にランナーはそれぞれ進塁している。単打が出ても同点、さらに言えばサヨナラ負けの可能性が出てきた。

 

『五番、サード、小森』

 

 何の巡りあわせか、ネクストバッターサークルで待ち構えているのは昨日サヨナラタイムリーを放っている小森だ。すかさずタイムが入り、投手コーチと内野陣がマウンド上に集まる。

 

「千石…次の打者は敬遠で行く。それで」

 

「待ってください」

 

 投手コーチを止めたのは意外にも、捕手の九重だった。

 

「千石、お前が決めろ。敬遠して次の打者勝負か、それともここで逃げずに勝負するか」

 

 自分に向いた矛先に面食らった千石はしばらく黙り込んだ後、腹をくくったように顔を上げた。

 

「勝負させてください。お願いします」

 

「っはー、たく、打たれたら承知しねーからな」

 

 投手コーチはため息をつき、ぶつくさと言いながらベンチへと引き下がっていった。

 

「…俺が言うのもなんだけど、良かったのか?」

 

「そりゃあ怖くはありますけど~…ここで逃げたら、男じゃないような気がして」

 

「ハハッ、それでこそ抑え投手だ。まぁなんにせよ残りワンアウト。踏ん張っていこうぜ!」

 

 今や内野陣の思いは一つだ。絶対にこの試合をものにしてみせる。各々がそれぞれの思いを抱えながら守備位置へと戻っていく。

 

 バッターボックスには小森がバットの先で弧を描きながら待ち構えている。九重がサインを出した。少し戸惑った様子を見せた千石だったがすぐに表情を引き締めた。初球を投じる。投げられたボールはやや左に揺れながらストライクコースに決まった。九重もしっかり捕球している。これでワンストライク。

 

 素早くサイン交換をした千石は間髪入れずに二球目を投じた。ボールは今度は右に揺れながら鋭く落ちた。これも九重は前にこぼしてみせる。すんでのところで小森はバットを止めようとしたが、九重が一塁審に確認をとったところ、ハーフスイングが認められツーストライク。これでバッテリーが追い込んだ。

 

 そして三球目、九重が出したサインに二度、千石は首を横に振った。

 

(やっぱり、コレか)

 

 三度目のサインに千石はうなずいてみせた。ここでこの球を選択してくるのは、キャッチャーである九重を信頼している証だ。

 

(心配しなくても、絶対、逸らさねーよ)

 

 セットポジションからついに投じられた三球目。今度はきれいな軌道からストンと落ちる。フォークボールだ。小森は今度こそストレートが来ると思い込んでいたのか、バットを振りぬく。しかしボールは掠ることもなくすりぬけた。

 

(全く…)

 

 甲子園を包む歓声が落胆の声に変わっていく。千石が投じたフォークボールは、しっかりと九重のミットの中に収まっていた。

 

(一原といい、生意気な後輩を持ったもんだぜ)

 

 マウンド上で一人、千石は舌をペロリと出して見せた。

 

 

 

 

 




選手名鑑⑥
千石秀樹
ノビのある直球と落差の大きいフォークで空振りを奪う若手左腕。
昨年は二軍で12セーブを記録するなど、成長の一端を見せた。
今季は春からアピールを続け一軍の座を勝ち取りたい。
飄々としているようで、意外と繊細。
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