あっという間に月日は流れ、オープン戦も今日の一戦を終えてすべての日程を消化していた。最終的に残した成績は打率.250、本塁打2本、打点は9に盗塁3つという何とも評価し難いものである。
2軍や俗に1.5軍レベルと呼ばれる投手からは快音を響かせるものの、1軍で安定してローテーションやリリーフを務める投手からは中々ヒットが出ない。特に左投手からは燕のスライダーが余程脳裏に浮かぶのか、打率.167、5三振という酷い有様であった。そんな俺の成績を見て首脳陣が下した決断とは…
「一原、すまんがお前には基礎から叩きなおしてもらう必要があると判断した。明日から千葉に向かってくれ」
千葉にはファーム、いわゆる二軍に在籍する選手のための寮がある。要するに二軍調整、という残酷なものだった。
「…そうですか」
歯を食いしばって拳を握りしめる。この結果に納得がいかないというわけではない。同じポジションを争う野木は自分よりも高い打率を叩きだし、出したエラーが少なかったのも知っている。
ただただ、自分の成績が良くなかっただけだ。自らのふがいなさに怒りを抑えるので精一杯だった。俯いたまま顔を上げられない自分の表情を察してか、監督の漆原は付け足すように話を続けた。
「まぁそう肩を落とすな。二軍で万全の状態までもっていってから一軍に上がってもらいたいんだ。それにな、お前には二軍で学んでもらいたい事がある」
「学んでもらいたい事?」
「そうだ、同じく二軍調整が決まっている
「はぁ、よくわかりませんが。とりあえず話だけでも聞いてきます」
「その調子だ一原。お前がやってくるのを楽しみにしてるからな!」
その後は世話になった先輩たちへの挨拶をすませようと二葉と九重を探した。奇遇な事に二人とも同じ場所にいたので、探すのにはあまり手間取らなかった。二軍に降格になった事を率直に話すと、二人とも意外そうな顔をしていた。話を聞いてみれば二人とも自分が一軍に残る事を微塵も疑っていなかったらしい。二葉に至っては自分が一軍に残る事に3日分の昼食代を賭けていたらしい。それでも二人とも発した言葉は同じだった。
「「先に一軍で待ってる」」
期待をかけてくれた二人の期待に応えるためにも、最短で一軍で帰ってくる。そんな思いを胸に千葉へと向かう飛行機に乗った。
◇◇
二軍で調整に励むこと半月が過ぎた。いつの間にか桜は散り、辺り一面ピンク色で染められていた寮近くの公園も緑色に衣替えしていた。ここまで俺はファームでは主に三番・サードとして出場し打撃成席は打率.333、ホームランは3本で打点は12と順調な成績を残していた。オープン戦でも2軍の選手からは打っていたのである意味当然と言えば当然の事だった。
克服したのは左打者に対するバッティングである。自らの映像を繰り返し確認し、二軍コーチとのマンツーマンで取り組んだ結果、突っ込みがちだった体勢を立て直すことに成功した。これにより外角から逃げる変化球に対して余裕をもって見逃す事が可能となり、ボール球のスイング率の減少に繋げる事ができたのだ。
そして二つ目の課題である
全くうまくいっていなかった!!
話しかけるまではいい、大した問題ではない。いくら「クールぶっているだけのコミュ障」だとか「野球の事しか考えていない男」と言われた俺にだって他人に話しかける事くらいは簡単にできる。問題はそこからだ。とにかく会話が続かないのである。
話してみて分かったが、四谷も自分と同じようなタイプであった。あまり長く語る事を好まず、そんな時間があるなら野球の練習に費やす種類の人間だ。この前話しかけた時だって「バッティングの邪魔だ、後にしろ」と邪険に扱われていた。
ただ、それにしたって違和感がある。何というか、一言では言い表せないけれど、コミュニケーションが苦手というよりは意識して話すのを避けているような感じだった。
それに、バッティングにも違和感が残る。四谷は一塁手や指名打者として四番に座るものの、打率は.235、ホームランは1本、得点圏打率に至っては.200と低空飛行を続けていた。特に俺が出塁した時なんてほとんど打ったのを見た事がない。
俺が記憶している限り、四谷将大という打者は超一流の二塁手だったはずだ。当然のようにレギュラーの座に座り30本塁打以上を記録する事二度、90打点を超える事三度。チャンスに強いバッティングを見せ、ベストナインの常連として名を連ねていた。
怪我をして二軍調整をしている事は風の噂で知ったが、それでも本来二軍でくすぶっているような打者ではない。それがどうして今現在二軍で打撃不振にあえいでいるのか、それにどうして本職の二塁ではなく一塁を守っているのか、考えてみれば謎だらけだ。
だけど、それがどうした。だからといって諦めるわけ理由になんてならない。ここで打撃理論を教えてもらってさらに成績が向上すれば堂々と胸を張って一軍に昇格する事が出来る。というわけで、今日も今日とて俺は四谷に話しかける。
事件が起きたのはそんな春のことだった。
◇
ファームで迎えた千葉マリナーズとの三回戦。ここまで試合展開は拮抗しているものの、6回裏、連続ヒットで無死一二塁のチャンスを作ると打席には四番の四谷。彼ならこの場面でうってくれるはずだ。
2ストライク1ボールと追い込まれた状況、完全に当てに行っただけの弱弱しい打球はセカンド正面へと転がっていく。頭から滑り込むもギリギリのタイミングで二塁はアウト。ボールを受け取ったショートが一塁に送球しこれもアウト。この状況では最悪のダブルプレーだ。
ベンチに戻りながら四谷の表情をうかがうが、相変わらず覇気がない。ベンチに座ると珍しく四谷の方から話しかけてきた。自分に心を開いたのかと期待したが、呟くように吐かれた言葉はそれを大きく裏切るものだった。
「そんな必死になってどうする」
―――は?今この男は何といった?四谷の顔には苛立ちが浮かんでいる。言うに事欠いてあんたがそれを言うか。あー、ダメだ。これはダメだ。言ってはならない。頭の中では分かっているはずなのに俺の口はとどまる事を知らない。
「少しでもセーフの可能性があるなら滑り込むのは間違いではないと思いますが」
「そういう話じゃない。大して評価されない二軍の試合でそんなプレーをして何の意味がある」
「じゃあ何ですか。四谷さんは評価のためだけに野球やってるんですか」
「プロ野球とはそういうものだろう」
「俺はアンタとは違う。勝つために野球をやってる。アンタだってそうだったはずだろう!!他の選手達だってそうだ、勝つために野球をしているんだ!アンタが後ろで立ち止まってる分には構わない!だがな、前に進もうとする選手の邪魔だけはしないでくれ!!」
「何やってんだ!やめろ一原!!」
一番に座る小村の一言でヒートアップした頭が冷めていく。気付けば四谷につかみかかるような体勢になっていた。小村が俺と四谷の間に立って何とか取りなそうとする。
「へ、へへへ。すいませんね、こいつ、物を知らないもんで。ほら一原も謝れ」
冷静になったところで答えは変わらない。俺は間違ってなどいない。だから、頭を下げる気などこれっぽっちも無かった。
「アンタがそんなスタンスなら俺が証明しますよ。次の打席、ホームランを打ちます。それならどれだけ俺が本気か、認めてもらえますか」
小村が頼むから察してくれ、という視線を送ってくるが知った事ではない。四谷は冷たい表情を変えないまま、踵を返した。
「…好きにすればいい。どうせ俺には関係の無い事だ」
すかした態度を取りやがって。今に見ていやがれ。あわあわと右往左往する小村を置いておき、小さく舌打ちをしてグラブを取って守備の準備をする。試合に目を移せば、丁度タイミングよく五番打者が内野ゴロに倒れたところだった。
◇
四谷将大は正真正銘、野球の天才である。幼少の頃からその才能を遺憾なく発揮し、中学の頃のシニアでも高校でも当然のように名門にスカウトされた。貴重な右の大砲として1年生ながらベンチ入りし、2年生の夏を終えてからはキャプテンを務めた。主に遊撃手を守り、高校三年間で重ねた本塁打の数は50本を超えた。
その結果、ドラフト会議では高卒内野手でありながら北海道ベアーズに単独一位指名を受ける。チーム事情の影響を受けて二塁手へとコンバートしたものの、自慢の打棒は変わらなかった。年を追うごとに順調に成績はステップアップし、5年目にして正レギュラーとしての立ち位置を確固たるものとした。守備では名手の野木一成と二遊間を組み、守備コーチからの熱心な指導も功を奏して年々守備指標も向上していた。私生活でも同級生と結婚し、二人の子供に恵まれた。これからもその成長を誰もが、そして何より四谷自身も信じて疑わなかった。
最初はちょっとした違和感だった。肩がいつもより重たい。本当に小さなものだったし、申告すればレギュラーを外されるような気がして監督にもコーチにも話すことはなかった。
しかしそれは最悪の形で明るみに出る事になる。二年前、真夏の試合でそれは起きた。一塁に送球しようとした時、鋭い痛みに襲われたのだ。普段かく爽快感とは全く別の、冷たい汗が頬を伝う。肩を襲う激痛を前に、ただただうめき声を上げる事しかできなかった。立ち上がれないまま担架に乗せられ、病院へと直行した。医者からの診断によると、肩の靭帯を損傷したとの事だった。自分の座っている椅子ごと奈落にゆっくりと落ちていく感覚。あの時の感覚を四谷は忘れる事はない。否、忘れる事などできない。
戦列に復帰してからも肩の痛みは続いた。今でこそようやくまともになったが、送球するときなどには痛みが走ってまともにコントロールする事も難しかったため、あっさりとセカンドの座を明け渡す事態になった。コーチとの相談の末に、セカンドよりも負担の少ないファーストを守ることになった。
バッティングを取っても以前の力強い打球は鳴りを潜めて、以前ならスタンドインしていたボールも外野手の前で減速してしまう。そんなプレーが続くうちに、いつしか怪我をすることが、野球をすることが恐ろしくなった。四谷将大は正真正銘、野球の天才である。天才であるがゆえに、「挫折」を知らなかった。
試合は九回の裏。先頭打者の一原が打席に入る。先ほど吹っ掛けてきた言葉で気合が入っているのか、明らかに目の色が違った。もしかするともしかするのかもしれない。四谷は一人、ネクストバッターサークルで相手投手の投球を見ながら、考えていた。自分はなぜあそこまで一原に対して苛立っていたのか。
(…そうか、俺は)
相手投手が投球モーションに入る、と同時に一原も右足を上げる。
(重ねていたんだ。昔がむしゃらにプレーしていた自分と一原を)
乾いたバットの音が響く。大きく上がった打球をライトが追う。まだ追う。
(怪我する事など微塵も恐れていなかった、あの頃が羨ましかったんだ)
一原が右の拳を高く掲げる。今日一番の歓声が球場を包み込んだ。
◇
球場のスコアボードに灯った「1×」の文字を見ながら、今にも頬が緩みそうになるのを抑える。完璧なタイミング、真芯で捉えた自画自賛の一発。その感触は両手にしっかりと焼き付いている。勝利の余韻に浸っていると、誰かが声をかけてきた。
「一原」
振り返った先には四谷がいた。何とも言い難い気分になる。(相手は認めてなどいないかもしれないが)勝負に勝ったのだ。ちょっとくらい威張りたい気持ちにもなるが、そこは流石に自重する。
「…なんですか。勝負は俺の勝ちですよ」
「そうだな、その通りだ。意地の悪い言い方をして、すまなかった」
そう言って四谷は頭を下げた。素直に謝罪された事に戸惑いの色を隠せなかった。てっきり互いに意地を張り続けるものかと。別に謝ってほしかったわけではない。自分のやり方に口を挟まれるのが単に気に食わなかっただけだ。それでも、バッティングを教えてもらうタイミングは今しかない。直感的にそう悟った。
「それなら俺の打撃練習に付き合ってください。一軍で活躍するために、…勝つために四谷さんの協力が必要なんです」
「…俺は教えるのには向いてない。何より、今の俺のバッティングは二軍でも通用していない。それでも構わないと言うのなら」
「構いません」
食い気味に即答した。元より断る気など全くない。左手を差し出す。
「これで契約成立ですね。よろしくお願いします」
「分かった。お前がそれでいいのならな」
四谷も同様に左手で握手する。この日から、特訓の日々が始まった。
選手名鑑②
二葉 昴
俊足と強肩で球場を沸かせる若手外野手。特に走塁技術は群を抜いて上手く、圧倒的な速さで一気にホームを狙う。高校3年の夏の甲子園では、伝説と呼ばれるレーザービームでチームのサヨナラ負けを阻止した。十九川とは同じ年にドラフトで指名された同期で、何かと競う事が多い。