【Side 櫻井螢】
「…………………………………………」
目の前の巨体は無言のまま佇んでいる。
2メートルを超す体躯、潰され縫い付けられた眼。
何もが遠い暖かい記憶と異なり、そして取り戻そうとしていた時と同じ。
私はその巨体の胴に頭を押し付け、目を閉じる。
嘗ては硬くとも暖かかったそれは、冷たい硬さを以って私に応える。
「どうして、戻って来てくれないの。 兄さん」
「…………………………………………」
彼を取り戻したくて、黒円卓に入り戦い続けてきた。
失った物を取り戻したかった私はそれを否定する藤井君が憎らしくて、彼が大切なものを失った時に暗い気持ちを抑え切れず酷い言葉を投げ掛けた。
その行為が英雄の資格なしと断じられ、私は殺され第五のスワスチカとされてしまった。
ハイドリヒ卿がメルクリウスと戦った時には元凶である相手への恨みを晴らすつもりで一太刀入れたけど、あまり効果は無かった。
思えばあの時一瞬だけ、兄さんと肩を並べることが出来た筈だった。
それなのに、この世界に来た時には兄さんは再びカインに戻ってしまっていた。
あの時元に戻ることが出来た筈なのだから、その気になれば戻ることは出来る筈だ。
ベアトリスにも相談したけれど、兄さんが自分の意志でカインの中に閉じ籠っていると言っていた。
それはおそらく……私の為。
メルクリウスによって黒円卓の面々に課されていた呪いは彼を打倒することで消えた。
しかし、偽槍の呪いだけはメルクリウスによるものではない。
偽槍の呪いは消えていない。
今は兄さんがカインとして抑え込んでいるけれど、それが無くなれば再び櫻井の血筋を狙うだろう。
だから兄さんは敢えてカインのままでいる……それは分かっている。
「それでも……逢いたいのよ」
「…………………………………………」
英雄の資格なしと断じられた私だが、ハイドリヒ卿の気紛れにより何故か第五位の席に座ったままでいる。
元々、人種も年齢も違う私にとって黒円卓は居心地の悪い場所だったが、登城後は更にそれが顕著になった。
いっそ逃げ出してしまいたくなることもあるけれど、兄さんを置いていくわけにもいかない。
いつか逢えることを願って、ただ唯々諾々と命令に従ってきた。
唯一の救いとしてはベアトリスの存在だ。
彼女が居てくれなかったら、きっと耐えられなかった。
「ベアトリスも……待ってるよ?」
「…………………………………………」
彼女は決して口には出さないけれど、私は知っている。
私や兄さんの処遇を少しでも良い様にするために、ザミエル卿やハイドリヒ卿に掛け合ってくれていたことを。
無言で佇む兄さんを見上げて、声も涙も出さずに心の中で泣いていたことを。
「だから兄さん……お願いだから……」
「…………………………………………」
相変わらず兄さんは応えてくれない。
身動き一つせずに佇んだままだ。
私はしばらくそうして無言の兄さんに触れていたが、意を決して姿勢を正す。
いつの間にか流れていた涙を乱暴に手で拭うと、踵を返す。
「また来るわ、兄さん」
「…………………………………………」
扉が閉まる瞬間、声が聞こえた気がした。
『待ってるよ、螢』
私はハッとなって振り返り閉じた扉をもう一度開けようとするが、ドアノブを握ったところで止まる。
そんな筈はない、今のは私の希望によって生み出された都合のいい幻聴だ。
ここで扉を開けても、待っているのは希望から突き落された絶望だけ。
私は結局、扉を開けずにその場を離れた。
(後書き)
トバルカイン(戒兄さん)と螢の回でした。
トバルカインの呪いについてはどうなのでしょうね。
ザミエルが自分がやった様な示唆をしてましたし、メルクリウスが直接関わった描写は無かったと記憶してますが……獣殿の発言と矛盾します。
ここではまだ偽槍の呪いは機能している前提です。