西暦2014年の4月。1人の少年が、高知県にある小さな村の小学校に転校してきた。
紫にも見える黒髪の、可憐な容貌を持つ少女———に見える少年。神崎翼10歳である。
転校初日、その放課後のこと。彼は、信じられないものを見た。
———1人の女の子が、下着姿で蹲っている。
それを見て笑いながら、数人の女子が焼却炉に服を放り込んでいた。
生まれて初めて見るいじめの現場。翼は、しばらくの間動く事ができなかった。
———いじめを止めるために飛び込む事も、見て見ぬ振りをしてその場から立ち去る事もできなかった。
転校初日から顰蹙を買ってまで見ず知らずの他人を助ける勇気も、いじめの被害を見なかった事にするだけの卑怯さも、翼にはなかった。
何もできないまま、焼却炉に放り込まれた服は燃えていき、火はやがて衣服全てに燃え広がる。その様子に満足したのか、女子達は何事もなかったかのように雑談しながらその場を後にした。
———そこに残るのは、蹲って身動きをしない少女と、物陰から様子を伺う翼だけ。
「……大丈夫、ですか?」
おずおずと、翼は少女に声を掛けた。……返事はない。どうやら縮こまるようにして耳を塞いでいるようで、そもそも声が届いていないらしい。
———あとから自身の声掛けを振り返り『大丈夫な訳ねーだろ』と翼は自暴自棄に陥る事になるのだが、この時の翼にはそう声を掛けるのが精一杯だった。
「……ふむ」
返事がないので、とりあえず翼は上着を少女に被せる。下着姿の少女をそのままにしておくわけにもいかないので、急場凌ぎのありふれた対応。そこでようやくこちらに気がついたのか、少女の昏い瞳が翼の方を向いた。
(……⁉︎)
そこで翼は、まさしく雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。———そして自分は一体何をしていたのかという自責の念に駆られる。その光のない瞳は、決して幼い少女がして良いものではなかった。
よく見ると、露出した肌には数え切れない肌の痣や擦り傷があり、日常的に暴力を振るわれている事が窺えた。
(どうして俺はすぐに飛び出して行かなかったっ⁉︎)
できた筈だ。『何してるんだ⁉︎』と叫び声を上げて、虐められている女の子を庇う事くらい。それをしなかったのは、単に勇気がなかったからだ。転校初日から嫌な目立ち方をして、居場所ができなくなるのを恐れたからだ。
———そんな自己中心的な事情など、いじめで居場所を既に失っている少女を助ける事に比べれば価値など無いに等しいというのに。
(……でも、まだ間に合う。取り返しがつかないわけじゃない)
———今までずっと誰かに守られて生きてきた。そろそろ、誰かを守る側に立ってもバチは当たらない筈だ。
もしかしたら、独りよがりかもしれない。目の前の女の子は助けなんて求めてなくて、意味のない行いなのかもしれない。
しかし翼は、目の前のいじめを看過する事こそがどのような理由があっても悪であると信じていた。
———最初は、全く信用なんてしていなかった。
ある日突然現れた、全く見覚えのない女の子。神崎翼というその少女は、初めて会った日から何かと千景を気にかけた。
———例えば、服を脱がせようとする女子達の間に割って入って、千景を逃したり。
———暴力を振るう男子達から千景を守るように身を盾にしたり。
———千景の靴箱に入れられていたゴミを先に処分していたり。
クラスが違うので、流石に教室の机にされた落書きや悪戯はどうしようもなかったが、それでも以前に比べて負担が減ったのは確かだった。
最初は、『きっと虐めの一部なんだろう』と千景は思っていた。最初に油断させておいて、最後に裏切るような悪辣な罠。千景が知らない間にいじめっ子達と結託していて、自分を陥れる算段でも立てているんだろうと千景は考えていた。
———その考えが間違いだと気づいたのは、6月のこと。偶然、校舎裏で翼が暴力を振るわれているのを見つけてしまった時だった。
暴力を振るっているのは、千景を虐めるいつものメンバー。なにやら翼と言い争いをしながら、一方的に殴りつけている。……そして翼は、負けじと何かを言い返し———そしてまた殴られた。
それを千景は、陰から見ていた。当然だ。だって、怖くて仕方がない。見つかればまた虐められると分かっているのに、どうして姿を見せることなどできようか。
———自分でもよく分からない後ろめたさを覚えながら、千景は逃げるようにしてその場を後にした。
(…なんで、どうして……)
しかし、その場から逃げ出しても、千景の脳裏には先ほどの光景がこびりついて離れない。全身に痣や擦り傷を作りながら、懸命に何かを訴えていた翼。その翼に対し、暴力を振るういじめっ子達。……それはまるで、千景に対する虐めについて憤慨する翼を屈服させようと暴力を振るっているようで。
(………ッ!)
否。まるで、ではない。普段の翼の行いから考えて、いじめっ子達と翼が対立しているのはもはや紛れもない事実だ。ただそれを、千景は認められなかったというだけで。
いつものように、イヤホンを耳に挿して早足で帰る。———そうすれば、村の住人の陰口など聞こえない。
いつものように、帰宅してすぐにゲーム機の電源を入れ、お気に入りのソフトで遊ぶ。———そうすれば、嫌なことなどすぐに忘れられる。
それでも、あの光景が頭から離れない。
(……ッ)
いつものように、ゲームに集中できない。いつもなら簡単に倒せるはずの雑魚敵にすら遅れを取る。
———脳裏に過ぎるのは、傷つき、ボロボロになってもなお屈しない翼の姿。
———そんな少女に対し、千景はどんな態度を取っていた?
『もう、私に構わないで…』
『近づかないで』
『騙されないわ』
———そっけない態度どころか、傷つける言葉ばかりを吐いていなかったか?
相手を見ずに、自分を守る事ばかり考えて……今までいなかったはずの味方を切り捨ててはいなかったか?
結局その日は、寝る時までゲームに集中する事はできなかった。
———ふと、学校に行きたくないな、なんて思った。
いじめられている女の子———郡千景を庇い始めてから2ヶ月。俺———神崎翼は、憂鬱な気分で目を覚ました。
痛む体を無理矢理起こして、ベッドから出る。時刻は5時45分。普段よりも1時間以上早い時間だが、痛みでよく眠れないので仕方がない。
ふと鏡の前に立つと、2ヶ月前とは変わり果てた自分の姿が映った。千景を庇い続けた結果、俺もまたいじめのターゲットになってしまったのだ。
———そりゃあ、心配されるわけだよな。
腕や脚は傷や痣だらけ。あまり目立たないものの、顔にも少し擦り傷がある。2ヶ月ぶりに顔を合わせた母親が驚くのも無理はない。
(でも、きっと彼女はこれ以上の痛みを、ずっと味わってきた)
いじめで学校での居場所を失おうとも、ある程度の情報は手に入る。例えば、両親のせいでいじめのターゲットになっている事や、そのいじめが学校だけではなく村全体で起こっている事。階段から突き落とされたり、ハサミで耳を切られるような深刻な傷害が起きているような事も。
(そりゃあ、人間不信にもなるわけだ。いきなり声を掛けられて、いくらか助けられたからって信用できるわけもない……)
小さい頃からそんな過酷な環境に身を置き続けてきたのだ。とうに心は閉ざされてしまっている。もしかすると、これから先何があっても、心を開いてくれる時なんて来ないのかもしれない。
『近づかないで』
そう呟いた時の彼女の姿の、なんと哀しい事か。その声音に含まれていた感情は、嫌悪ではなく恐怖。郡千景という少女は、助けてもらった相手にすら怯える程にすり潰されていた。
———でも、関係ない。
心配する母親には申し訳ないが、これは俺が自分で決めた事だ。無意味なお節介でも、ただの自己満足でも関係ない。たったの1人も味方がいないのでは、郡千景にあまりにも救いがなさすぎる。それに、いじめがあるのを知りながら、その環境を変えようと行動しないのはいじめっ子と同罪だ。
「よし、行くか」
パチンと自分を頬を叩いて気を取り直し、俺は朝食も摂らずに家を出た。
———その日も、いつも通りの日常だった。
郡千景の靴箱に詰められていた色々な虫の死骸を外に捨て、自分の上履きの中に入っていた画鋲も取り除く。むしゃくしゃしたので、取った画鋲はいじめっ子の靴の中に入れておいた。
教室に入っても挨拶はなく、机には落書きがされている。2ヶ月近くも続けば流石に慣れてしまい、面倒なので落書きは消さずに放置した。
授業中では消しゴムのカスを投げられたが、それも放置。放っておいたところで怪我をするわけでもない。
給食の時間になれば乱雑に配膳された食事を急いで食べる。ゆっくり食べている間にゴミでも入れられたら流石に堪えるからだ。
掃除の時間には雑巾で汚れたバケツの水を掛けられたが、放置。クスクス笑う同級生に殺意を覚えたものの、郡千景が耐えている事を思い出して辛抱する。風邪を引くのは嫌なので、予め用意していた服に着替えた。
そんな地味に苛立つ嫌がらせに耐え続け、ようやく放課後。いつもと違う出来事が起きた。
「…あの、その……ええと……」
目の前にいるのは郡千景。どもりながらも、必死に何かを言おうとしている。
「うん」
女子に囲まれている所に割って入り、いじめっ子達を追い払ったのがつい先ほど。帰宅しようとしていたところで千景に呼び止められ、今に至る。この間までずっと無視されていた事を考えれば、なかなか意外な状況と言える。何か心境の変化でもあったのだろうか?
やがて意を決したように千景は顔を上げ、頬を染めながら呟いた。
「……ありがとう」
そう言うや否や、彼女は走り去った。
その時の俺の心境は、一言では言い表せない。これまで頑張ってきた事が報われるような心地もしたし、いきなり礼を言われた事に対する戸惑いもあった。そして、他者に感謝を伝えられるだけの余裕が千景に出てきた事に対する喜びと、これまで以上に頑張ろうという奮起。しかし、最も心を占めていた感情は。
「……これが萌えというやつか」
恥ずかしさで目を逸らし、頬を赤く染めながらも礼を言う千景の姿に対する感想だった。