———終わってみるとあっという間だったなぁ、と思う。
愛おしい日々だった。朝早くに千景が訪ねてきて、朝食を共にした後は夏休みの宿題をして。その後は一緒にゲームをして、分担しながら昼食の準備をし、昼食後はまたゲーム。ゲームをし過ぎて頭痛に悩まされたり、目が疲れたら千景とくっつきながら休憩。そんな人としてダメな生活も、終わり。
———目の前には無機質な瞳で俺を見下ろす母親。まるで俺をそのまま大人にしたような、整ったその顔は無表情。
そう、何もこれは『夏休みが終わってしまった』とか、そんな覚悟していた予定通りの話ではない。単純に、女の子を許可なく家に上げて好き勝手に生活していた事が親にバレたという話なのだ。
「さあ言え、もう一回言ってみろ。私が家にいない間、どんな生活をしていたのか」
まるで氷のような、冷徹さを孕む女王の声。父と姉がいなくなってから人が変わったように冷たくなった母親は、しかし相変わらず俺の事を大切にしてくれる。———だからこそ、俺が怠惰な生活をする事を良しとしないのだ。
———千景は俺の部屋に隠れている。その存在は母親にバレているが、母は何も言わない。あくまで叱る対象は俺であると判断しているのだろう。
だからこそ、俺は堂々と答えた。ちゃんと叱られるために。
「勝手に彼女を家に連れ込んでました」
「ふむ。……なぜ何も言わなかった?」
無表情のまま、母は不思議そうに首を傾げる。———どうやら、理由もなく信頼を裏切る息子ではないと考えているらしい。
さて、どうしたものか———と俺は考える。俺の母には、嘘が通じない。隠し事をしていてもバレてしまう。
だから、単純な話だった。
「言ったら何するか分からないから」
敢えて開き直る。隠し事をしているのがバレているのなら、単純に『言いたくない』と主張するしかない。
———正直に話してしまったら、千景と一緒にいられなくなるかもしれない。
だが、母は俺のような子供の事など何よりもお見通しだったらしい。
「なるほど、その『彼女』というのが噂の郡千景か」
「なるほど、その『彼女』というのが噂の郡千景か」
———その冷たい声音に、陰で聞いていた千景は「ひぅっ」と呻き声を漏らした。
噂、と彼女は言った。つまり翼の母親は知っているのだ。この村で郡家が村八分にされている事を。いや、千景の名前を出した時点で、学校で行われているいじめについても知っているかもしれない。———もしかしたら、翼がいじめのターゲットになってしまっている事も。
(嫌……)
千景は翼の母親の気持ちを想像した。……もしも翼がいじめられている原因が千景で、その千景と翼が付き合っているのなら。母親としては、何がなんでも別れさせたいと思うのではないだろうか。
千景は翼の事が大好きだ。でも、そんな事は翼の母親には関係ない。翼の母親の目には、『いじめから守ってもらうために翼の事を利用している嫌な子供』と映っても仕方がないのだから。
———だから千景には何もできない。何かを言う資格すらない。
無力感と罪悪感で俯く千景をよそに、話は進む。
「知ってたんだ。どこまで?」
「有名な話だ。こんな狭い村、噂話が広がるのは速い。この間の怪我についても納得がいった。…彼女をいじめから庇って自分もいじめられる奴があるか、ばか」
翼の母親の声が震える。それは悔しさか、それとも悲しさか。
「まあでも、私が一番の馬鹿だな。息子をほったらかしにした挙句、最近までいじめについても知らなかったのだから」
「……仕事でいなかったんだから仕方ないとは思うけど」
「だからと言って、子供を放置して良い事にはならない。仕事を言い訳に、私は翼を放置した。私の怠慢だ」
(……うわ、まっず。この流れはまずい)
翼はこの展開に危機感を覚えた。
そもそもの話、翼はなぜ母親と自分が高知県に引っ越してきたのかを知らない。聞いても教えてくれなかった。
仕事が理由ではないだろう。なぜなら、仕事のために母親は四国外へ出ているのだから。
———だから、この村から引っ越すのは難しくないのだ。
そうなった場合、どうなるだろう?と、翼は考える。
翼は転校し、千景はまた1人になる。……1人ぼっちで、あの地獄のような環境に取り残される。それを許容して良いものか。
翼がいなければ、彼女を庇ってくれる人間はいない。翼の知らない間に、心も体も傷付けられる生活が続く。もしかしたら、取り返しのつかない事態に陥ってしまうかもしれない。そんな嫌な想像が、翼の脳裏を駆け巡る。
———だから、次の母親の発言には驚いた。
「だから、私には怒る権利はないな。運動と勉強を毎日きちんとするなら、勝手に家に連れ込んでも怒らないよ」
ポカンと口を開ける愛息子の姿を見て、私は少し笑いそうになってしまった。まさか、「また引っ越しをするぞ」とでも私が言うと思ったのだろうか。
郡家の悪い噂は、最近になって漸く知った。その家の1人娘が、壮絶ないじめを受けている事も。
翼と同学年の少女、村ぐるみのいじめ、以前翼にあった怪我。それだけの情報があれば、推測するのは難しくない。そして今日、『彼女を連れ込んでいる』と聞いて確信を得た。
———おそらくは一目惚れでもしたのだろう。だからいじめから守ろうとして自分も犠牲になった。夫とよく似た、困った性格だ。
しかし、娘を守るべき両親のせいでいじめられるとは……郡千景も可哀想な事だ。正直なところ、全く信じられない。しかし、この世の中には子供を犠牲にする親がいるのも事実。
常識的に考えれば、すぐにでもこの村から出て行くべきなのだろう。それが子供を守る親の責任でもある。しかし私は、今の現状を黙認する事にした。
———なぜなら翼は、今の現状で幸せそうにしていた。学校でいじめられているにも関わらず、郡千景という少女のために動く事に喜びを感じていたのだ。
もしもいじめられている現状から『逃げ出したい』と翼が考えているなら、無理をしてでもこの村から出る事を決意していただろう。当然だ。意味もなく劣悪な環境に息子を置く親など、想像もできない。
しかし、息子本人がそれを望むのであれば。息子の成長につながるのであれば、親として協力を惜しむつもりはない。
無論、私はいつまでもこの状況に甘んじるわけではない。小学校卒業時にはここを出て、別の地域の学校に通わせよう。問題は郡千景だが、こればかりは仕方がない。最悪、彼女の親を説得して、彼女を一人暮らしさせる前提で連れて行く事も考えよう。
———この時の私は、想像すらしていなかった。息子にも郡千景にも、中学校に通う未来は訪れないという事を。
その後の日々は、ただただ穏やかな日々が続いた。母と千景が顔を合わせた時は何を言われるかと思ったが、特にトラブルも起きなかった。むしろ、一目で母が彼女を気に入り、無言で抱き締めていたのを覚えている。
ただし、穏やかな日々ではあったものの、これまでと全く同じ日々というわけではなかった。3日おきくらいに母親が帰宅するようになり、どの程度勉強をしたか、運動はやったかなどを詳しく聞き込むようになったのだ。すなわち、ゲーム三昧の日々の終焉である。
運動しようにも、この村ではいじめられる恐れがある———そう言うと、母は町まで出掛ける為の交通費を惜しみなく持たせてくれた。正直、千景の傷の抜糸の為に町まで行く必要があったので、ありがたかった。
そして今。俺と千景は、町にある大きな公園でジョギングを行っていた、のだが。
「もしかしてちかちゃん、体力ない?」
「……なん、で、……こんなに、走って、…平気、なの?」
息を荒げながら、俺の後ろを走っていた千景が立ち止まる。その足はガクガク震え、汗で髪が頬に貼り付いている———どころか、全身汗だく。薄着なので、よく見るとうっすらと下着が見えており目に毒だ。いくら夏だと言っても、今は早朝。確かに暑いが、そこまで汗をかくほどではない。
周囲を見渡すと、いるのはジョギングコースをゆっくり歩くお婆ちゃんくらいしかいない。同年代の男子に今の千景を見られる心配がない事に安堵しつつ、俺は反論する。
「ジョギングだから、ゆっくりだし……。まだ一キロも走ってないよ」
走った距離は概算でおよそ800メートル。100メートル走をゆっくり8回やってバテているようなものだ。
(いや、結構大きな怪我をしたから、そのせいか?)
怪我の治癒で体力を使っていたためかと思ったが、医者は特に何も言っていなかった。激しい運動も大丈夫と言われているし、特に問題はないはず。すると必然的に、千景には元から体力がないという結論になってしまう。
「…ちょっと休もうか」
よく考えたら、これまではゲームばかりやっていたのだ。体力がないのも無理はない。近くのベンチに千景を座らせつつ、側の自販機でミネラルウォーターとスポーツドリンクを購入する。2本とも千景に手渡すと、彼女は迷う事なくコクコクと喉を鳴らして飲み始めた。
千景が飲んでいる間に、俺はポーチからタオルを取り出す。滅多にない機会だ。彼女の邪魔をしないように注意しながら、俺はタオルを押し当てるようにして千景の汗を拭き始めた。……せっかくなので、このタオルはしばらくの間そのまま保管する事にした。
やがて千景がペットボトルから口を離すと、俺の方にしなだれかかってくる。『暑くないのだろうか』と思わないわけでもないが、役得なのでそのまま抵抗はしない。漂ってくる良い香りを堪能しつつ、神経を集中させて彼女の体の柔らかさを感じ取る。実に幸せなひと時だ。
「ねえ、翼君」
しばらくすると、千景が上目遣いでこちらを見ていた。正直ドキドキするが、あくまで平静さを取り繕いつつ、「なに?」と聞き返す。
すると、千景はなにかを迷ってから、こんな事を聞いてきた。
「私達…恋人、なんだよね?」
「うん、そうだね」
まあ、言いたい事は分かる。俺が告白して、千景がそれを承諾して———そしてそういう関係になった。でも、やっている事といえば、あまり友達と変わらない。———いや、友達にしてはあまりにも距離が近いし、どさくさに紛れて彼女の身体の柔らかさとか香りとかを堪能していたりもするのだが。
「翼君は、私のことが好き……なんだよね?」
「うん、当たり前だね」
何やら千景が不安そうな顔をしている。俺は何か、彼女を不安にさせるような事をしたのだろうか。
「なら、どうして……どうして翼君は、私に何も求めないの?」
「……ふむ」
何やら難しい質問をされてしまった。『何も求めない』とはどういう意味だろうか。……いや、なんとなく分かる。要するに、『あれをしてほしい』『これをしてほしい』といった事を何も言わないのを気にしているのだろう。なるほど、時折ゲームの勝敗の景品として、千景に『負けた方が何でも言う事を聞く』といった報酬を掲げているのはそれが理由か。……千景に全く勝てないから、結局俺が着せ替え人形になっているのだが。
そして考える。もしも自分が何かの間違いで千景に勝ったとしたら、何をしてもらうだろうか。買い物?遊園地にでも遊びに行く?それとも、服屋にでも行って色々な服を試着させる?……いや、もっとやって欲しい事があった。
「何も求めない、じゃなくて。求められないんだよ。……嫌われるかもしれないから」
きっと、無意識に考えないようにしていたのだろう。だから『まだ小学生だから、友達の延長で我慢しておこう』なんて考えたのだ。
やってほしい事はいくらでもある。ただ、それを自分から言い出す勇気がない。
キスをしてほしい。……いや、これはまだセーフか。とはいえ、言ったらおそらく距離を置かれるだろう。
胸を触らせてほしい。……アウト。ただのスケベなガキである。
一緒に風呂に入りたい。……アウトオブアウト。自分でもドン引きだ。
自覚すると、だんだんと自己評価が暴落していくのが分かる。どうやら俺は、彼女と触れ合うだけで満足できるような聖人君子ではなかったらしい。
……俺が千景に求める事?考えれば考えるほど、自分の醜さを思い知る。
俺は彼女の全てのすべてを知りたい。心も体も、正も負も、その全てを。
彼女が何に対してどう感じているのかを知りたい。
彼女の身体を隅々まで観察して目に焼き付けたい。
楽しむ顔、喜ぶ顔を見たい。歓喜の声を聞きたい。
悲しむ顔、苦しむ顔も見たい。苦痛に震える声や悲鳴も聞きたい。
相反する欲求。彼女を守りたいと思う一方で、守るだけでは決して知る事のできない部分を知りたいとも思っている。
矛盾はしていない。俺は彼女の苦しむ顔が見たいだけで、苦しんで欲しいわけではない。否、苦しんで欲しくない。しかし、苦しむ顔は苦しませなければ見られないというジレンマ。だから、俺の欲求は決して満たされない。満たされてはならない。
本当に気持ち悪い。反吐が出る。
そんな自己嫌悪に浸っているとは思ってもいないのだろう。上目遣いのまま、千景はこんな言葉を口にした。
「嫌わないわ。だから、言って。……何をしてほしいの?」
なるほど大した自信だ。ならば、言ってやる。
自己嫌悪で自暴自棄になった俺は、ヤケクソ気味にこう言った。
「キスして欲しい」
———返答は、なかった。
ただ、いつの間にか千景は俺の唇に口づけをしていて。
パニックになった俺は、ファーストキスの味なんて全く分からなかった。
覚えているのは、彼女の柔らかい唇の感触だけだった。