大変お待たせ致しました。
———キスをされたと認識するのに、たっぷり3秒もかかってしまった。
「ど、どう…?」
千景が上目遣いで、顔を真っ赤にしながらこちらを見ている。おどおどしたその様子が実に愛おしい。ああ、なんて可愛いのか。
「控えめに言って最高だね」
さっきまでの陰鬱とした自己嫌悪は既にない。あるのは、彼女への愛おしさだけ。頭がおかしくなるくらいに、俺は彼女への恋心を持て余している。
ああ、なんて狂おしい。自分でもよく理解できない衝動に駆られる。訳が分からないので、取り敢えず彼女を胸に抱き寄せた。
「…え、えと、翼君……?」
千景が戸惑いの声を上げる。その様子さえも愛おしい。
このまま、正体不明の衝動に身を任せてしまおうか———なんてトチ狂った欲求を、なんとか俺は握り潰した。
「ああ、ごめん。つい感極まってやってしまった……」
危なかった。同年代の姿がないとはいえ、ここは一応公共の場だ。2人きりの時ならばともかく、ここでは過度なスキンシップは控えるべきだろう。恥ずかしいし、どこから見られているか分かったものではない。
———何より、このままよく分からない衝動に身を任せていたら、自分が何をしでかすか分かったものではなかった。そして実感する。すなわち、これが『独占欲』であり『性欲』なのだろう。どうやら俺は、女々しい見た目に反して内面は早熟であるようだった。
独占欲。性欲。どちらも小学生が抱くには少々早いもの。恋愛感情に付随するものでありながら、恋愛感情と完全に一致するとは言い切れないもの。そして、彼女を傷付けかねないもの。
俺は、彼女の幸福を第一にすると決めている。自分の恋愛感情を自覚した瞬間に。だからこそ、独占欲も性欲も危険なもので。しかし、不要とは言い切れないものだった。
なぜなら、千景が喜んでいる。俺が見せた欲の一端、その行動で。戸惑いの中に、確かな喜びがその表情に隠れていたのを俺は見逃さなかった。……最高かよ。
千景は、心臓をバクバク言わせながら、自分の行動に驚いていた。
(いきなりキス?どうして?)
『何をして欲しいのか』という問いに対する答えが『キスして欲しい』という要求。それを認識した時には、千景の体は翼に口づけを行っていた。
———完全に無意識の行動だった。
そもそも千景は、本来あまり積極的な方ではない。翼に対して何かを要求するのにも、『ゲームで勝った報酬だから』という口実を要するほどだ。付き合い始めたばかりの頃は服の中に手を入れさせようとしたこともあったが、それはきっと翼が異性である事を意識していなかったからだろう、と千景本人は思っている。
「ど、どう…?」
とはいえ、やってしまったものは仕方がない。千景は恐る恐る、感想を尋ねた。翼が満足してくれたのか、それがもっとも大切な事だった。
「控えめに言って最高だね」
翼はそう答えると、千景を強く抱きしめた。
(……っ⁉︎)
———その時千景は、安心感や多幸感と共に、途轍もない飢餓感のようなものに襲われた。
いつもと違う、『何か』。胸の奥から湧き出る、理解できない衝動。
抱き締められて嬉しいという感情とも、好きな相手と密着できる喜びとも少しだけ違うもの。そう、何か『足りない』。もっと先に何かがあって、自分がそれを強く渇望しているのに、その『何か』が分からない——というような……。
「…え、えと、翼君……?」
自分でもよく分からないまま、翼の名を呼ぶ。
「ああ、ごめん。つい感極まってやってしまった……」
軽く謝罪する翼。彼は何かを勘違いしたまま、優しく千景を引き離した。
(……あっ)
離れていく翼の熱が、いつも以上に名残惜しい。明らかに普段よりも翼が恋しくなっている事を自覚した千景は、彼を視界の端で捉えたまま目を離せない。じっと見つめる事は気恥ずかしくてできないが、翼本人に気づかれないように密かに見る事をやめられなかった。
———ジョギングの続きをしている時も。
———帰りのバス停へ歩いている時も。
少女のようなその横顔を、密かに覗く。鼓動は高鳴り、頬に熱が集まっているのを感じた。
「夏休みももうすぐ終わりか。……そろそろ宿題の証拠取りでも始めようかな」
「……写真でも撮るの?」
「そうだね。問題集はコピーしておくか。もし破かれたり隠されても、先生に『夏休みの宿題をやりました』って証明はしないと」
そんな他愛のない、しかし目を逸らしたい二学期の話をしながらも千景は翼を視界の端に捉え続ける。
やがて待っていたバスが来ると、2人は空いていた最後部座席に並んで座った。……その時、千景はふと気付く。翼がいつも、さりげなく千景を窓側に座らせようとしている事に。
(もしかして、自然に私の事を庇ってくれてる?)
翼が座るのは通路側。バスの乗客が行き来する際に、他者ともっとも接近する位置。おそらく、いじめで他人に恐怖を抱きやすい自分のために窓際の席を譲ってくれているのだろう、と千景は推測した。
———心臓が、高鳴る。
翼は座った直後に眠ってしまった。いつもの事だ。バスに乗ると、彼はすぐに眠ってしまう。———少女のようなあどけないその寝顔が、ひどく愛おしい。
周りに乗客はいない。最後部座席なので、運転手からもよく見えない。———つまり、誰も見ていない。
「…………」
誘惑のまま、千景は眠っている翼の頬にキスをした。彼は身動き一つしない。『キスして欲しい』と翼は言った。しかし実のところ、キスを望んでいたのは果たしてどちらだったのか。
「……翼君」
隣で眠る翼にも聞こえない声量で、千景は彼の名を呼ぶ。
翼はいつも千景を助けてくれる。だから何か恩返しをしたかった。でも、恩返しのキスは千景にとっても『やりたいこと』で、結局は自分のためになっているようにしか思えない。———それが酷くもどかしい。
もう少しで夏休みも終わる。千景にとっての天国はそろそろ終焉の時を迎え、9月からは以前と同じような苦しい日々が待っているのだろう。
———登校中に石や泥を投げられ。
———靴箱にはゴミを入れられ。
———机には落書きをされて。
———2人組やグループ分けが必要な授業では無視されて。
———暇があれば暴力を振るわれる。
きっと、翼も同じような目に遭う。きっとその少女のような美貌に新しい傷を作りながらも、千景の事を守ってくれるのだろう。———せっかく、夏休みの間に傷跡もなく完治したというのに。
(…あ、あれ?何、これ…?)
暗い未来予想図が脳裏に過ぎった時、千景の身体は理解できない寒さに襲われた。
指先や爪先が凍ったように冷たくなり、手足からは力が抜け、全身が震える。背筋や胸の辺りには酷く重苦しい感覚が残り、視界が涙で歪む。やがて我慢できなくなった千景は、ポロポロと涙を溢し始めた。
———だが、絶対に嗚咽は漏らさない。眠る翼には決してバレないよう、静かに千景は泣く。
(……また、学校に行くの?)
幸せな時間はいつか終わる。きっと、いつの時代も、多くの小学生は夏休みが終わるのを悲しむだろう。———しかし、千景の悲しみはその『多くの小学生』の比ではない。
きっと、生まれて初めてだった。こんなにも穏やかで幸福な日々を享受したのは。普段されている仕打ちも忘れ、好きな人と好きな事をする日々。そんな毎日がやってくるとは、過去の千景は全く想像もしていなかった。
(……いやよ)
だから、こんな日々が終わってしまうという現実を、千景は受け入れられない。
(いや、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌っ‼︎なんで行かなきゃいけないのよっ⁉︎もうあんな思いはしたくないのにっ………)
サボって不登校になる、という選択肢は取れない。なぜなら、あまり問題を起こすと父親が怒るからだ。ただでさえ村から白い目で見られて苛立っているのに、学校から父親に連絡が入ったらどんな目に遭うか分かったものではない。
(こわい……痛い思いなんてもう、したくないのにっ!)
さっきまでの楽しい気分も、翼に対する恋しさも砕け散っていた。心が乱れ、ぐちゃぐちゃになる。
「……ちかちゃん、やっぱり強がりだな」
そんな、情緒が不安定になってた時。千景の耳に、眠っていたはずの想い人の声が入ってきた。
———俺は、車の中で眠るのが好きだ。
赤ん坊の時からそうだったらしい。エンジンの掛かった車内にいると、抗い難い眠気に襲われる。そして大抵の場合、数分もしない内に眠りに落ちる。正直なところ、ベッドで眠るよりもぐっすりと眠れてしまうほどだ。
そしてそれは、公共の乗り物であるバスの中でも変わらない。
特に千景と並んで座っている時なんて最高だ。好きな感触と香りを感じつつ眠れるという至高の幸福。そしてそれを千景も理解していて、目的地に着く時は必ず俺の事を起こしてくれた。
———だから、バスの中であれば。千景は必ず、俺に隠している一面を見せてくれるのではないかと思った。
バスの中で眠るのは大好きだ。でもそれは、俺の彼女に対する欲求に勝るものではない。
———俺に普段見せてくれない一面を見たい。その欲望だけで、俺は睡魔を追い払った。
バスに乗り、眠ったフリをする。呼吸を落ち着かせ、ぐっすり眠りに入った演技。しばらくすると、頬に柔らかい感触。どうやらキスをされたらしい。眠っている間にこっそりほっぺにチューとか、萌える。唇じゃなくて頬というのが良い。慎ましさと恋しさが混ざり合ったが故の行動だろう。最高かよ。
平常心をなんとか取り繕いつつ、俺は寝たふりを続ける。さらにしばらくして薄く瞼を開けると、そこには音もなく泣き出している千景の姿があった。
「……ちかちゃん、やっぱり強がりだな」
つい、そんな感想を漏らしてしまう。その呟きを聞いたのか、ハッとした表情で千景は俺を見つめた。
———なんて健気なのだろう、と思う。きっと、俺を万が一にでも起こさないように、嗚咽も漏らさずにひっそりと泣いていたのだ。その頬に伝う涙も、濡れた睫毛も、その泣き顔も、全てが愛おしい。俺は、彼女をできるだけ優しく抱き寄せた。そのまま黙って千景の頭を撫でていると、やがてポツリと千景が話し始める。
「……こわいの、翼君」
「何が?」
「学校に、行く事が」
まあ、そうだろうなと思う。俺だって怖い。新学期早々どんな目に遭うのかと想像しただけで寒気がするし、なんなら逃げ出してしまいたいとすら思う。毎年どんな思いで、彼女は新学期を迎えていたのだろうか。
「……正直に言うと、俺も怖い。怖くないはずがない」
「どうしよう、翼君……。こわくて、頭がおかしくなりそう……」
———千景のこれまでの状況を推察する。
きっと、俺がやってくるまでは。彼女にとって、夏休みなんて大した面白みもなかったに違いない。せいぜいが『学校のみんなにいじめられる事のない期間』なんて認識で、きっと家に閉じこもって1人でゲームばかりしていたのだろう。もしかしたら、家でも父親に何か言われたりして、心休まる時間なんてなかったかもしれない。そして夏休みが終わっても、『またいじめられる時間が始まる』程度の、諦めに満ちた感想しか抱かなかった筈だ。
———でも、今年は俺が彼女を色々と付き合わせた。
その事に後悔はない。でも、その反動で今まで以上に学校に恐怖心を抱いたのだとしたら……どうしても、責任を感じてしまう。
「なら、そうだな。せめて、準備くらいはしておこう」
「……準備?」
「そう、準備。備えがあるだけで、心配事って軽くなるものだよ」
備えあれば憂いなし。テスト前に勉強するだけで、精神状態が多少改善されてケアレスミスが少なくなるのと同じように。準備をすれば、学校へ行く恐怖も多少は和らぐのではないだろうか。
「とは言っても、大した事はできないんだけどね」
そう言いつつ、俺は彼女に防犯ブザーを手渡した。
「ただの防犯ブザーじゃないよ。GPS付き。……精度は正直、よく分からないけど」
元々は母が俺に持たせてくれていたもの。しかし設定を変えれば、GPSの通知先を俺のスマホに変えることもできる。
「……ありがとう、翼君。でも、良いの?」
「良いよ。何かあったら、すぐに鳴らしてくれ」
恐る恐る、といった様子で千景が防犯ブザーを受け取る。……しかし、この贈り物には気休め以上の意味がない事を、俺は理解していた。