そして……
新年、明けましておめでとうございます!今年も宜しくお願いします。
書く時間があるのって、良いですねぇ。
「社会人の皆さん、ごめんなさい…。正直、馬鹿にしてました……」
登校日の朝。トイレの中で苦しみつつ、俺は呟いた。
唐突だが、『過敏性腸症候群』という病をご存知だろうか?ストレスにより胃腸が異常をきたし、突然の腹痛や下痢に悩まされる困った病である。この病を発症するのは、主に感情が不安定になりやすい思春期や、ストレスの中で生き続ける社会人。正直、舐めていた。精々、『下痢止めでも飲んでおけばなんとかなる程度だろう』なんて思っていたかつての自分に言ってやりたい。
———発症すると、地獄だぞ と。
始業式の日がつい3日前。当然と言うべきか、予想通りいじめに遭った。
とはいえ、俺も慣れたもの。1学期と同じように、千景の靴箱を掃除したり、千景をストーキング……もとい追跡していじめから庇ったりと、忙しく働いた。
———だが、異変が起きたのはその日の放課後。『明日はどんな嫌がらせをされることやら』なんて考えていたところで腹痛に襲われ、トイレに閉じこもった。
その後、出すものを出しても腹痛に悩まされ、なかなかトイレから出られない状態が続いた。千景が非常に心配し、『本当に大丈夫なの?』と今にも泣きそうな顔で声を掛けてきたのを覚えている。
特に悪いものを食べた覚えはない。そして腹痛が起きるのは決まってストレスを感じた時。となれば、噂の精神性の病になってしまったと考えるのが妥当である。
そしてタチの悪い事に、腹痛そのものを恐れるストレスでも腹痛が出てしまう。正直、泣きそうなくらい辛い。千景の前では強がってみたものの、実態は全然大丈夫ではなかった。
(今までの俺って、恵まれてたんだな……)
しみじみと実感する。
この小学校に来る前の俺は、人気者というか、保護されていた。姉がいなくなった後も、昔俺の事を女と間違えて告白してきた男子が何かと助けてくれたりしたし、人間関係で悩まされることなど何一つなかった。ところが今はかつての状況とは一変。この容姿で揶揄われるのは当たり前、怪我をするレベルのいじめも日常茶飯事ときた。
(……ちかちゃんって、凄いな)
恋仲の少女に対して、尊敬の念すら覚える。彼女はずっと、俺よりも過酷な環境で生き抜いてきたのだ。それで俺のように精神性の疾患になっていないのだから、実は相当メンタルが強いのではなかろうか。
(……心配だ。また隠れて酷い目に遭ってないか心配だ………またお腹痛くなってきた)
防犯ブザーを渡してあるものの、一度も使われた痕跡がない。いくらGPS機能付きで、俺が駆けつけられるように通知が来るとはいえ、使われなければ意味がない。彼女の事だ、『このくらいなら大丈夫』と強がって痛みを堪えるくらいの事は平気でするだろう。
———また夏休み前のように、傷跡が残りかねない大怪我を隠すような事があれば。きっと俺は、正気を保てない。
でもきっと、俺よりも千景の方がよほど辛い思いをしているだろう。あの怪我を平然と隠していたくらいだ。きっと俺が来る前にも、痛い思いは何度もしていたはずだ。
なら、彼女よりも恵まれた俺が、折れて良いわけがない。そもそも俺は、千景を助けるためだけに学校に通っているようなものなのだから。
彼女の事を思い出し、頑張ってトイレから出る。———憂鬱な気分から、1日が始まった。
———苦しむ間にも日々は過ぎゆく。
正直、とても順調に生活が送れているとは言い難い。いじめは続くし、俺も千景も怪我をする。土日を待ち遠しく思いながら平日を乗り切り、土日はずっと2人きり。平日の苦しみ故か、はたまた夏休みで距離が縮まったからか。俺も千景も、互いが互いに依存している。それを心地良く思っている辺り、俺はもう手遅れなのかもしれない。———千景はどうなのか分からないが。
もはや、以前の自分には戻れない。何かを考えるのにも千景を判断基準にしてしまっている。
だから、
「お揃いの服、買ってみました⭐︎」
「……⁉︎」
とりあえず、千景と全く同じ服を着てみた。
時は土曜日の昼間。ちょうど昼食前の事である。
呆気にとられる千景。やがて頬を染め、「可愛い…」と小さな声で呟く。……だから、あなたの方が可愛いでしょう?
「……翼、我が愛息子よ。頭大丈夫か?いくら可愛いとはいえ、堂々と女装とは……」
珍しく家にいる母親にも溜息を吐かれてしまった。実に心外である。昔、俺の事を嬉々として女装させていたのを忘れているのだろうか?
「いやね、俺達ってもう小学校5年生じゃん?」
「……そうね」
「つまり、そろそろ容姿に性差が出てくるはず。ならば、その前にちかちゃんと同じ格好をしておかなきゃ勿体無いだろ?」
今だけなのだ。体型も身長も、大体一致している時期は。ならば、その間に一度でも同じ服を着るというイベントをこなさなければなるまい。俺は千景の全てのすべてを知りたいのだ。ならば、彼女と全く同じ服を着て、その服の感覚を記憶しなければならない。普段どんな服の感覚を感じているのかを知りたいのだ。
その旨を堂々と言ってみると、千景は顔を真っ赤にして俯き、母親はまた溜息を吐きながら頭を抱えた。俺は何もおかしな事を言ったつもりはないので、きっと2人の価値観がどこかズレていたりするのだろう。
「そもそも、今更だよね。ちかちゃんだって、俺にスク水着せて喜んでたじゃん」
「そ、それは…⁉︎」
俯いていた様子から一転、千景は何やら慌てている。実に可愛いが、一体何を焦っているのか。
「……なるほど、スク水か。良い趣味だな」
そして千景を見る、母の視線の冷たい事。どうやら俺がスク水を着た事に対して何か思う事があるようだ。千景は俺の彼女なので、できれば仲良くしてほしい。
しかし、その自分の発言で何かに気づいたようで、母は神妙な顔で俺にこう訊いた。
「なあ、息子よ。……下着とか、どうしてる?」
「当然、ちかちゃんとお揃いだけど?」
当たり前である。彼女と同じ感覚を知りたいのに、下着だけ変えてどうすると言うのか。
「〜〜〜〜〜〜ッ⁉︎」
俺の発言を聞いた千景が何やら顔を真っ赤にして悶えている。母親は母親で、何やらまた頭を抱えていた。
「まさかとは思うが、サイズまで同じなどと言わんだろうな?」
「いや、同じだけど?」
母は一体何を言っているのだろうか?心なしか、母の俺を見る目が冷たくなっている気がする。千景は千景で、真っ赤になったまま動かない。実に可愛い事である。
母はまた溜息を吐き、最後にこう宣った。
「……息子の育て方を間違えた」
千景は、恥ずかしさのあまり死にそうになっていた。
(下着?サイズまで同じッ?どういうことっ?)
翼の言う事が真実ならば、彼は千景の着用している下着をサイズまで把握しているという事である。確かに母親からすれば、「育て方を間違えた」と言いたくもなるだろう。
確かに、下着を知る機会は何度かあった。どういうわけか翼は、千景が怪我を隠すとすぐに見抜いてくる。そしてにっこり笑顔で「脱いで」と宣い、下着姿にして迅速かつ丁寧に手当をするのだ。だがまさか、下着のサイズの把握まで行っているとは思っていなかった。
(…もしかして、怪我を隠しているのをずっと根に持っていた?だから仕返しに…?)
あり得ない話ではない、と千景は思った。
翼は千景が怪我をすると、酷く悲しんでくれる。そして同時に、千景が怪我を隠すと怒る。あの笑顔の圧は、怒りを抑えている時の圧だ。千景を傷つけまいと、翼は千景に対して声を荒げる事はあまりない。ないのだが、こうして仕返しに何か悪戯めいた事をする可能性は大いにあった。
(……でも、残念ね翼君。逆効果よ)
千景は、死ぬほど恥ずかしい思いをしている。しかし、翼に対して怒っているわけでも、ましてや嫌悪感を抱いているわけでもない。
……むしろ、その逆。自分の事をそこまで知ろうとしてくれる事に、どうしようもない多幸感と嬉しさを感じていた。
———恥ずかしいのは、当然だ。千景にとって、自分の身体は貧相なもの。好きな相手にサイズを知られるのは、『自分の身体は貧相だ』と相手に知らせているようなものなのだ。だから、その羞恥は自分に対してのもので、翼を嫌うきっかけにはなり得ない。
(もっと、知ってほしい。私のいろいろな事を。私も、いろんな翼君を知りたい)
———だから、怪我を隠したくなる。「心配を掛けたくない」という理由も確かにある。しかし、それ以上に、「翼がどれだけ自分の事で悲しんでくれるのか」を知りたかった。どんな怪我をすればどんな風に悲しんでくれるのか、どれだけ自分を大切に思ってくれているのかを千景は知りたい。
(きっと、この気持ちは間違ってる。……でも、ごめんなさい。抑えられないの)
千景は翼を独占したい。彼の幸せな気持ちも、楽しい記憶も、悲しみすらも。その全てのすべてを、自分の事で埋め尽くしてしまいたいと千景は思っている。
千景は翼と離れたくない。———翼の一生の時間の中で、1%でも多くの割合を自分との時間にしてしまいたい。
千景は翼に対しての暴力を許せない。———そんな事で彼を苦しめるなら、いっそもっと私をいじめてほしい。そうすれば、その分の彼の苦しみを私に対する悲しみにできる。
(…痛みも恐怖も嫌。でも、最近の私はそれ以上に翼君を求めてる)
もう手遅れかもしれない、と千景は思った。でも、千景にとってはそれすらも好都合。夏休みに感じていた、底知れない恐怖も今はなんとか耐えられている。普段の学校生活で慣れてしまったのか、同級生から振るわれる暴力や嫌がらせも、以前ほど怖くは感じない。むしろ、翼の反応を心待ちにしている自分に千景は気づいてしまっていた。
(夏休みの前の日。翼君は、あの鋏の傷でこれまでにないくらい悲しんで、泣いてくれた。……なら、もっと大きな怪我をすれば。私がもっと酷い目に遭えば、翼君はどれだけ悲しんでくれる?)
考えただけで、千景の背筋はゾクゾクと震える。例えば、もっと深い傷なら。それこそ、命に関わりかねないくらいの怪我なら。翼はもっと、千景を想ってくれるのではないだろうか?
別に、千景から恐怖も痛みもなくなったわけではない。相変わらず暴力は手足が震えるくらいに怖いし、逃げ出してしまいまいのは相変わらず。ただ、それ以上に心を埋め尽くす感情が生まれてしまったというだけ。
———これを悪辣な趣味に目覚めたと取るか、はたまた哀れにも心を壊し始めてしまったと取るかは難しい所だ。
だが、いずれにせよ。これからも小学校に通い続ける以上、この状況は千景にとっては不幸中の幸いに他ならなかった。
郡千景はただの小学生の少女で、別に特別精神力が強いわけではない。ずっといじめられていた少女は、神崎翼が思っている以上に心に傷を負ってしまっていて。歪な恋愛感情は、千景の心を確かに歪ませてしまっていた。