秋の中頃、瑞子が血を吐いてから数日。
娘を心配してか、父の敬次郎はしばらく仕事を休んで家で過ごしていた。
瑞子の病気は、胃潰瘍。大正のこの時代では治すことのできない病だ。いつ容態が悪化するかもわからぬ。治せないのであれば病がこれ以上悪化しないよう、安静にさせて様子を見るしかない。
敬次郎は、黙々と差していた詰将棋の手を止めて、ぐいと茶を飲み干した。
すっかりぬるくなった茶と茶葉の残りが喉を通り過ぎる。娘が、孫の姫子と共に帝都から名古屋へ帰ってきてくれた時どんなに喜ばしく思ったことか、どんなに咽び泣きたかったことか。
その喜びを打ち消すように瑞子が胃潰瘍で身体が弱っていることがわかると、なるべく無理をさせないようにしてやろうと気を配った。
気を配ったつもりだったが、帝都から名古屋へ帰ってきた時の疲れが、予想以上に瑞子に負担をかけたのだろう。女中達がいない時に吐血してしまった。幸い孫娘が医者を呼んでくれたおかげで大事には至らなかったが、それでも敬次郎は気が気でなかった。
もし、また自分がいない時に瑞子が倒れたら。最悪それで命を落としてしまったら、それは親不孝ならぬ娘不孝になってしまうかもしれないと。
「旦那様、奥様がお話したいので部屋に来て欲しいと」
龍子がドアを叩いてからそう告げる。
「わかった。すぐ行く」
敬次郎か部屋に行くと、布団から身を起こして
瑞子がじっとしていた。これといって悪い所は無いように見えるが、血を吐いたというだけあって、蒼白な顔をしている。結い上げた髪はところどころほつれていて病み上がりの風体であった。
「調子はどうだ?瑞子」
「お医者様にいただいた薬のおかげで、大分良くなりました」
「そうか、姫子が医者を連れて来てきて良かったの」
「あの娘(こ)がいなければ、今頃どうなっていたか……」
「女中達は交代で休ませるようにするかの、あの時は皆出払ってしまって1人もいなかったのがいけなかった」
「お父様、そこまでしなくても」
「いや、お前は体調が悪い時我慢してしまうから誰か一人は家に残しておかねばなるまい」
あまりにも必死な顔で敬次郎が言うものだから
瑞子は可笑しくなって声を出さずに笑ってしまった。それに敬次郎が気づいて、眉をひそめたものの特に深く言及はしなかった。
「お父様」
「なんじゃ」
「姫子と文治さんを婚約させたのは姫子が将来困らないようにでしょう」
「何を急に、お前には昔話をしたはず。わしは爵位が欲しいから姫子を土屋の倅に嫁がせる。それ以上の理由などない」
豪語した敬次郎だが、僅かに目が揺れ動揺した。
「でも、私は病気でお父様も姫子が、大人になるまで生きているかわからない。だからこその政略結婚ではないのですか?」
「むむっ!そんなことはにゃー。わしの野望を叶えるためだ」
「お父様ったら素直じゃにゃーがね」
思わず名古屋言葉が瑞子の口から出る。帝都にいた頃は、使わないようにしていたがふとした時にぽんと出てくる。やはり名古屋が一番居心地の良い場所と瑞子が実感する理由の一つであった。
「年寄りが娘や孫にしてやれることなど何もない。
ただ衣食住には困らぬようにしてやらんと、とは思うておるよ」
「ええ」
敬次郎は瑞子に背を向ける。瑞子は随分と敬次郎の背中が小さくなったように感じた。瑞子が子供の時にはあんなに大きく立派に見えた父も、齢を重ねていくと段々と老いが顕著にあらわれた。
誰もがそうなると、わかっていても自分の父が、老いていく姿は見ていて辛くなってくるものだ。
まして、瑞子自身が病気で親より早く命を落とすかもしれないのであればなおさら。
老いていく敬次郎が唯一できるのは、
「のう瑞子」
「はい」
「お前には話していなかったか、お前の名前を瑞子と名付けたか」
「そうですね。それは聞いていませんでした」
「そうか…では話しておかないとな、といっても大した意味はない。瑞という字にはめでたいという意味があってな。お前が生まれた時、嬉しくて心からめでたいと思ったからめでたい子という意味合いで瑞子と命名した」
「意味あるじゃないですか、めでたい子だから瑞子。ふふふ」
「ふん、他の名前も考えていたが、瑞子という名前が一番しっくりきた。ただそれだけのこと」
敬次郎は機嫌を損ね仏頂面になった。
「全くお父様は素直じゃないんですから」
瑞子は、袖を口元に当てて瑞子は含み笑いをすると、布団から立ち上がって敬次郎の側に行く。
隣に座って父の顔をまじまじと瑞子は見る。
髭は手入れかされていて清潔感がある。髪は全て白髪になっている。顔には艶があるが、皺はそれなりに刻まれ老人の顔。
「わしの顔に何かついてるのか?」
「いいえ、こんなに頑固で、素直じゃないのに人一倍私と姫子の事を考えてくれているお父様、いつもありがとうございますね」
「たまたまそうなっただけで、お前たちの為ではない。そうだ今度、土屋の倅と将棋でもやる時この話でもするか」
無論、わしが姫子をあやつと婚約させたのは爵位が欲しいからだと言ってやる!と敬次郎は唾を飛ばして言い放ち、ドスドス足音を立てて部屋から出て行ってしまった。
「お父様のことだから、本当に文治さんに婚約の敬意は爵位が欲しいからと言うのでしょうね。けど、文治さんにはそうでないとわかるはず」
瑞子は人の為とすることが好きでない父が、あえて
自分の野望を叶えるためと嘯(うそぶ)くだろうと予感していた。
「でもその方がお父様らしいかもしれない」
終わり
砂利と体温のあとの話
父と娘が話す場面が書きたくて書いた話。
瑞子さんの名前をつけた理由は捏造で原作では語られていません。気づいているかと思いますが命と名をくっつけると命名となります。