先生に手を引かれるまま、ドナドナと私は本校舎を出て、学園からも飛び出して、東京を西から東へと横切って後にした。
助手席に縛り付けられたまま、送り届けられた先は千葉県成田市に構えるシンボリのお屋敷。関東一円に君臨するレース競技界の大御所は、今日も今日とて厳つい門扉で迎えてくれる。
私を放り出すや否や、仕事が残っているからと踵を返す先生の背中を見送っていたところ、普段は使わない正門から飛び出してきた大勢の警備ウマ娘達に有無を言わさず連行されて、最上階の一室へ。
そこで待ち構えていたスイートルナに、『シンボリ家の歴史』とやらの講義を受けさせられている……というのが、これまでの経緯である。
「……………で、………という経緯から……」
ホワイトボードに走るペン先をぼうっと目で追いながら、構えたシャープペンシルを手持ち無沙汰にくるくると回してみる。
与えられたレジュメには一応メモを取っているものの、それは勤勉さの発露とは程遠く、この身の入らない授業を少しでも有意義なものにしようという試みの産物であった。
それすらもうんざりしてきて、今度は視線だけを動かして部屋の内装の観察を始める。隅から隅まで、あたかも新築一戸建てを内見するかのように、じっくりと。
シンボリ本邸に顔を出すのはこれが初めてではなかったが、その豪奢を極めた様については、何度経験しても慣れるものではない。
応接室でもなんでもない、屋敷の片隅に"とりあえず"設けられたこんな部屋ですら、細部にはさりげなく意匠が凝らされており、深紅の絨毯敷きの床も毛がしっかりと立っている。
勝手知ったる……と言える程にはかつて呼び出された場所なので、今さら過度に緊張することもないのだが。
千葉に本拠地を構えるこの一族は、数百年単位で遡れる由緒正しい家系だという。ここ半世紀で急速に勢力を伸ばしつつあるものの、まさしく旧家と呼ぶに相応しい名門だった。
それにしては、昔ながらの武家屋敷や倉もなく、エキゾチックを前面に押し出しているのが印象的である。
ともすれば成金じみたちぐはぐさで滑稽になりかねないそれを、あたかも一つの芸術品の如く見事に調和させて仕上げたのは流石と言うべきか。
母は『アイツらは伝統を欠片も解しちゃいねぇ』などと酷評していたが、彼女は彼女で和洋折衷の混沌とした屋敷で満足しているものだから、正直人のことを言えた立場でもないと思う。まぁ、どちらも退嬰に陥らないだけ健全ではないだろうか。
「……さて、ここまでの話を簡潔にまとめてご説明願えますか?ちゃんと聞いていたなら、迷わず答えられますね?」
ようやく一区切りついたのか、ペンにキャップを嵌めつつくるりとこちらに振り向いて、そう問いかけてくるスイートルナ。
腰まで伸ばした艶やかな鹿毛に、白く散った星がよく映えている。勝ち気に目尻と唇をつり上げたその微笑みからは、あの姉妹との血の繋がりが色濃く感じられた。
余裕を演じているのだろうが、そのウマ耳がほんの僅かに震えて後ろに倒れたがっているのは見逃さない。たぶん、感情操作に長けたルドルフと普段から接している私だからこそ気付けるサイン。
マンツーマンなわけだから、講義に集中していない事がバレるのも当たり前か。ずっと背中を向けていたのでもしかしたらと思っていたが、生憎そこまでこのウマ娘は甘くなかったらしい。
とはいえ、別に困る程のものでもない。
聞き流してはいたものの、決して上の空だったわけではない。気を散らしつつも、最低限必要なワードは拾っていたから、後はそれらを適当に繋げて出力すれば良いだけの話。
修習生の頃、よく使っていた手の抜き方でもある。座学には昔から自信があった。
「明治後期から大正にかけての婚姻を基盤とした勢力再編、メジロへの分離並びに戦中における出征とその影響、戦後二十年における勃興とURA設立における役割まで……具体的な話を挙げるとなると、優に三十分は超える見込みですが、どうします?」
「……いいえ、十分です。成る程、しっかり耳には入っていたと。結構結構」
「どうも。ですが正直なところ、ここまで深入りする必要があるのかどうかについてはかなり疑問が残りますね」
「必要なことなのですよ、これも。仮にもウチの名義を借りる以上、知るべきことは知っておかなければならないと思いませんか」
「ええ、それは……その通りですね」
自らの属する組織について、知っておくことは大切である。
例えば勤め人であれば、雇用された企業なり官公庁なりの歴史も一通りは抑えておくものだろう。私はトレーナーであるから、URAやトレセン学園のこれまでについてもよく理解している。そういう面では、彼女の言葉も一理あった。
とはいえ、それをこのレベルで実践しているのは、この家でも彼女ぐらいのものではないだろうか。
以前、ふと気になってこの家について数点シリウスに尋ねてみた時など、「さぁ、知らないな」などと速攻で切り捨てられたことを覚えている。幸いその時は代わりにルドルフが答えてくれたものの、ここまで微に入り細を穿つ説明はもらえなかった。
と考えると、やはりこの講義は教養の域を超えているような。見方を変えれば、スイートルナはそれだけ家の代表としての責任を重く受け止めているということか。
「ですが、そうですね。講義はこのあたりで良いでしょう。正直、そろそろ私が飽きてきましたから」
「その言い方からすると、まだ他になにか?」
「はい。むしろこちらの方が本題でしょう。今日、貴女をここへ連れてきた理由」
「……なんでしょうか、それは」
てっきりこの歴史の授業のためだけに呼び出されたものだと思っていたが、よく考えればこんなもの、別に資料にでも目を通しておけばおおよそは掴めそうである。
さてとなると、名義使用料代わりに労働でもさせられるのだろうか。
そんなことを思い浮かべていた私は、やはり考えが甘かったようで。
スイートルナはごく真っ当な、そして絶対に無視できない課題を指摘する。
「トレーニングですよ。最悪、当家の歴史なんか別にそっくり忘れてしまっても構いません。相応の実力さえあれば、の話ですがね」
「ああ……」
そうか。
講義の目的がひとえにシンボリ家に相応しいウマ娘へと叩き直すことだと言うのなら、その矛先がフィジカル面に向けられるのも当然の話。
なにもこの家にいるウマ娘の全てがレース巧者というわけではないが、しかし今の私はここの研修生という建前であり、看板を借りている立場。それに足り得るだけの実力を求められるのは当たり前のこと。
「誤解を恐れずに言わせていただきますが、シンボリはそこらの家名と格が違います。何代にも渡って粉骨砕身してきた賜物でして、我々にはそれを守る義務がある。講義を聞いていたなら分かりますね?」
「はい」
「結構。貴女の記録については予め拝見させて頂きましたが……そうですね、そう成ったばかりにしては、よくやっていると言ったところでしょうか。残念ながら、私達の求める基準を満たしているとは言い難い」
「そう……ですよね。重賞ウマ娘相当が最低ラインでしょうか」
「本来であれば。もっとも、今回にあたっては事情を鑑みてそこまでは求めません。が、それでも今現在の記録では不足です。鍛えなくては」
分かってはいたことだが、ここまできっぱり断言されると少々心に来るものがある。
とは言えここは下手に持ち上げたりはぐらかしたりしないぶん、情けがあると捉えるべきか。
「そうなると、この家の誰かが私に指導をつけてくれると。もしや、それも貴女が?」
「生憎、私にそのノウハウはありません。いえ、指導出来ないこともないのですが、本職相手には釈迦に説法でしょう。今現在、ここにいる者の中で、最も育成に長けているのは貴女ですから。なので」
そこで一旦言葉を区切り、ぱんっと柏手が高らかにだだっ広い部屋中に響き渡る。
乾いた音が落ち着くのとほぼ同時、正面右のドアがゆっくりと開かれた。姿を見せたのは、この屋敷で警備隊の長を勤めるウマ娘。
「フィジカルを鍛え上げます。なにをおいても、まずは基礎を整えなければ話にならない。まぁ、これも釈迦に説法でしょうが。……さて、カストル」
「承知しました。ええ、覚悟してください貴女。覚悟してこの先一ヶ月、泣いたり笑ったり出来なくして差し上げますから」
不敵に腕を組み、黒鹿毛のウマ娘はそれはそれは愉しげに唇の両端を引き上げた。
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実は、この屋敷にはトレーニングの設備が充実している。規模こそ敵わないが、中身の面ではトレセンにすら匹敵すると言う。
私の記憶では、少なくとも五年かそこら前の時点においては、一般的なレース教室に広大な庭がくっついている、という程度だったような気がする。ここ数年で瞬く間に規模を拡充させたらしい。
そこにはきっと、ルドルフの貢献も少なからずあった筈だ。
「ル"ドルフ~……あ"んの"クソ真面目ぇ……い、いらんことを……」
「こらそこ!!喋るな逸れるな止まるな!!ペナルティもう十セット!!」
「う"あ"ぁ……」
とっくに桜も散り終えて、だんだんと夏の陽気が色を帯びてきた今日この頃。
正午を過ぎたとはいえ、太陽はまだ高い。照りつける日差しの中、私の上腕と腰、そして太腿の五ヶ所にはぶっとい縄が結ばれている。もはや綱と呼ぶべきだろうか。
当然、ただ縄だけをぶら下げておしまいなわけもなく、それぞれの先っぽに繋がっているのは、ウマ娘のトレーニング専用に作られた巨大なタイヤ。総幅は私の背丈を優に上回っていて、全部合わせてどれだけの重量になるか見当もつかない。
……いや、一応、学園の類似品から推定すれば、おおよその数値は掴めるのだが。
ただ、具体的な数字として見せつけられると正気を保つ自信がないので、所詮見かけ倒しだろうと全力で自分を騙している。そうでもしなければ、この柔らかな砂に顔面から沈みかねないのだから。
「も"う"………む"り"ぃ………」
ああ……レースで沈むウマ娘達をスタンドから眺めつつ、「本当に無理なら声なんて出ないだろ」などと呆れていた昨日までの私をぶん殴りたい。
ついでに彼女達にも謝りたかった。正しく心の底から絞り出される断末魔だったのだ、あれは。
首を絞められるガチョウのような、聞くに耐えない情けない悲鳴を上げる私を、タイヤの縁に腰かけたカストルが冷ややかに見下ろす。
「チッ……もう限界ですか。デスクワークにどっぷり漬かったモヤシはこれだから」
そう吐き捨てつつ振り下ろされた竹刀が、ぱしぃんと小気味いい破裂音を響かせた。よく見ればそれはタイヤに触れておらず、直前のあれは空気を叩きつける音なのだと悟って思わず顔を青くする。
彼女はなにも教官という肩書きを笠に着て威張っているわけではない。本人は昔取った杵柄などと宣っているが、その身体能力は明らかに元警官の範疇を逸脱していた。
「う"ぅ……」
トレーナーがデスクワーク漬けとはこれまた酷い言い掛かりである。
事務仕事も当然あるが、主な業務はなんと言ってもトレーニングの監督に他ならないので、現場での活動も非常に多い。当事者たるウマ娘達とは比べるべくもないが、それでもかなり体力を消耗する仕事なのだ。
もっとも、彼女とてそんなこと百も承知の上で言っているのだろうから、わざわざ訂正するような真似はしない。する気力もない。
第一どうせそんなことしたところで、まだまだ余裕ありとかえって負荷が重くなるだけだと知っている。
「だいたいトレーナーだって、学園ではウマ娘達を虐め抜いているらしいじゃないですか。人にやらせておきながら、自分は嫌とは何事ですか」
「あ、あれはあくまで指導の一環として……」
「なら、これもまた指導の一環です。私だって現役の頃は、こういう血の滲むような訓練を地道に重ねて力をつけていったものですよ…………ほら、さっさと進め!!!」
「はい!!はいぃぃぃ!!!」
ああ……やはりこれは、騎動隊基準のメニューだったか。トレーナーの育成論にはあまり馴染みがないものなので、薄々そんな予感はしていたけども。
基礎体力を鍛えるという意味ではうってつけなのだろうが、そのぶん過酷極まりない。なにせあそこはトレセンと違って、育て上げるのではなくふるい落す指導方針なのだから。
ひんひんと泣き言を垂れ流しつつ、のたりのたりと蝸牛のような鈍臭さで一歩一歩と踏み出していく。
幸いバ場状態は良好で、ダートと言えどもそこまで足をとられることなく前進出来ていたのだが、最後のコーナーを折れて十メートルほど進んだ先の、坂路の半ばで遂に崩れ落ちる。
滝のように汗を流し、地面に這いつくばっていたところ……ふと、顔の手前に落ちる影。
ついでローファーの先っぽが、汗と涙で滲んだ視界にぼやけながら映りこんだ。同時に聞こえてくる、ゆったりと落ち着いた担当ウマ娘の声。
もはや首をもたげる力すら湧かず、その顔を確かめることは出来ない。ただ、彼女がどんな表情をしているかは、その陽気な声音から分かってしまう。
「やぁ、パーフェクト。精が出るね」
「……ルドルフ……そうだ、私は、学園に帰らないと。まだ長期休みまで時間が……」
「その必要はないとも。君はちょっとした事情で、九月まで学園を空けることになった。君も時間の無い中で、学生の義務と言えど中等部の授業を受けるのは退屈だったろう」
「いや、内職してるから別に……」
「トレーニングについてもリモートでやってくれれば良い。元々そういう建前だったからな。ちゃんと、仕事用のラップトップも持ってきたよ」
「……………」
「これで、あと三ヶ月はここにいられるな、トレーナー君」
「………………はい」
そうだ。身元の保証を全てルドルフに……というよりシンボリ家に頼った以上、私の行動について裁量を握るのもまた彼女達なのか。
どうあがいても逆らえないのだと悟り、私は諦めと共に力無く首肯する。
その瞬間、私の鼻先に滑り込んできた一枚の紙。
まだ不良な視界ではよく読み取れないが、小さな文字が何行にも渡って書き込まれ、一番上には数字が八桁近くも並んでいる。その最後尾には、走り書きされた円の記号。
「……これは?」
「ライセンス使用料、滞在費その他諸々。まぁ、諸経費一覧とその合計だと捉えれくれれば良い」
「そうか。だけど、流石にこんな額は払えないぞ」
いくら高給取りと言えども、これだけの金額をポンと出すのは無理だ。
大方、最初だからと吹っ掛けてきたのだろう。どうにか落とし所を探るべく、無い袖は振れないときっぱり宣言しておく。
やはり交渉するにあたっては、こちらの態度を明確にしておくのが最善だろう。
相手に……シンボリ側に、駆け引きするつもりがあるならの話だが。
そう、ついさっき気づいたことだ。
全ての決定権は、私ではなく向こうが握っている。
「ふむ……そうか。それなら仕方ないな。積土成山。完済するまで、コツコツとその身体で払ってもらうとしよう」
予定調和であろうそれを、仕方ないなどと嘯きながら。
見切れたルドルフの爪先が、浮わついたように何度も砂を掻くのが見えた。