私は腕を引かれたまま、勝手口から屋敷の外に出る。
てっきり庭のターフにでも向うのかと思っていたのだが、誘導灯の灯りを辿って広場を真っ直ぐ横切ると、正門玄関からルドルフは私を敷地の外に連れ出した。日が沈み、街灯だけが光を落とす夜の道を、迷いのない足取りで進んでいく。
後ろからシービーやテイオーが追い掛けてくる気配はない。どうやらあの五人は外出届と一緒に外泊届まで出してきたらしく、どうやらシンボリ本邸に一晩の床を借りるつもりのようだった。
私達がいずれ帰ってくることも分かりきっているため、わざわざ後を追うまでもないと判断したのだろう。今頃、ビリヤードで賭けにでも興じているに違いない。
いくら春と夏の境目の時期とはいっても、日が暮れればやはり気温は下がる。屋敷に帰還した直後、お出かけの私服から学園指定のジャージへと着替えさせられていたため、肌の露出自体は少ない。それでも、乾いた夜風がうなじを撫でる感触に、寒くはないがどことなく落ち着かなさを感じてしまう。
ルドルフが先導する道のりは、まさしくつい数十分前、ここまで戻ってきた帰路とまったく同じ。ここに至るまでどちらも口を開かなかったが、彼女がどこを目指しているのかについては、なんとなく想像できる気がする。
「夜の散歩にしては、ずいぶん遠くまで足を延ばすんだな。あの時も言っただろう。用事なら屋敷であらかたまかなえると」
「君にとってはそうかもしれないな。それでも、私にとっては、あの場所にこそ意味があるんだ」
「それは、トレーニングが捗るという意味かな」
「そうとも言える。もっとも、モチベーションに繋がるのは私の方だが。……ところで、トレーナー君。さっき言っていた、『このレースには全力を注ぐつもりはない』とはどういうつもりだろう。勝敗に拘るつもりはないのかい、君は」
「っ…」
私の問いかけをするりとかわし、逆にルドルフは穏やかな声でそう問い詰めてくる。
決して問いただすような強い口調ではないものの、痛いところを突かれたと感じて一瞬言葉を詰まらせてしまう。自分でも、よくない言葉選びだったことは自覚していた。
「言い方が悪かったな。なにもポスト・レースで手を抜こうって話じゃない。ただ、力を入れるべきはやっぱり公式戦だろう」
その点において、私の認識は他のトレーナーとなんら変わるところはない。
トゥインクルへ挑むテイオーの基礎固めと、ドリームトロフィー・リーグを見据えたルドルフとシービーの調整。幸い、どちらもまだ時間的に余裕があるとはいえ、片手間でこなせるものでもないのだ。ようするにこれは、限られたリソースの振り分けの問題だった。
「そうか……」
その言葉に、ルドルフはとりあえず頷いてこそくれたものの、手応えは芳しくない。
彼女が己の『皇帝』という二つ名に抱く自負は相当なもの。たとえ非公式の身内開催だとしても、初めから全力を回避するという考え方は、やはり不真面目な態度として捉えられてしまうだろうか。
「君には、納得行かない話だろうか」
「いや。君の時間と体力は有限だし、その配分について熟慮断行しなければならないことは理解出来る。それについては、トレーナーたる君の判断に任せるとも。……ただ、彼女がどう思うか、それだけが私は気がかりでね」
「彼女……?『お友達』のことか」
「……………………」
ルドルフからの反応はない。
その沈黙を肯定ととるべきか否定ととるべきか、考えあぐねた挙げ句に私は自分の推測に従うこととする。
彼女はポスト・レースに歓心を見せていた。もっと踏み込んで言えば、他のウマ娘と競争すること……レースそのものに執着していたように思う。手抜きを許さない、等と言い出しても不思議ではないが。
しかし、カフェ曰く私にとり憑いたという彼女は、あれ以来全く姿を見せていない。仮に私の中にいるとして、声も聞けないとなれば意志疎通を図ることなど不可能だ。そもそも、お友達の方から何かしらのアクションを起こせるのか否かすら不明である。
これ幸いとばかりに、母からは神社で綺麗さっぱり祓うことを強要されているものの、いざ試したところで一向に効果は見られなかった。誰かに似てとことん自己中心的な癖して、力だけは無駄に強い。この際、正式に幽霊から悪霊へと呼称を改めようか。
目の前でゆらゆら揺れる鹿毛の尻尾を目で追いながら、私はぼんやりとした思考のまま暗い歩道をガードレールに沿って辿る。
ウマ娘が聴力や嗅覚においてヒトより勝るのは有名な話だが、実は夜目についても優れている。ぽつぽつとした街灯の明かりでも、迷わず歩くには困らない。
「あっ……」
それがかえって油断を生んだのだろうか。
目の前で揺れる尻尾ばかり見ていた私は、アスファルトの亀裂に爪先をとられてバランスを崩してしまった。反射的に、一歩前を行く背中に飛び込んでしまう。
「おっと」
ルドルフはその不注意を諫めるようなこともせず、ただ困ったように目を細めながら、そっと私の腰を支えてくれた。そうして少しだけ近付いた距離を保ちながら、私達は歩みを再開する。
ここも決して田舎というわけでもないのだが、しかし都会の喧騒に慣れきった今となっては、二人きりの散歩がほんのりと物寂しい。平坦な道のりを終えて、上り坂へと差しかかかった時、ひゅうっと一陣の向かい風が吹き下ろしてきて、それが無意味に胸をざわめかせた。ぽっかりと口を開ける宵闇に、この歳にもなって尻込んでいるのだろうか。
それでも足を止めることはなく、ざらざらとしたアスファルトの感触を足裏に感じながら、一歩一歩着実に上っていく。この荒れ具合からして、多くの蹄鉄をつけたウマ娘が日常的に行き来しているのだろう。風雨に晒されるだけでこうはなるまい。もっとも、一日の終わりかけたこの時間帯では誰ともすれ違わないが。
亀裂を目でなぞった先には、ところどころ塗装の剥げたガードレールに隠れるようにして、一輪のたんぽぽが顔を覗かせていた。たった一つだけ色づいた黄色に目をとられていたところ、腰に添える力が僅かに強くなる。そんな余所見していると、また転んでしまうぞと言わんばかりに。
反省して、視線を再び正面に戻せば、そこにはつい数時間前通り過ぎたスタジアム。
もうとっくに開場時間は過ぎているのだろう。夕方にはちらほらと聞こえていた掛け声もなく、出入りする人の姿もない。受付のカウンターにも誰もいなかった。一応、事務所の収まっているらしき平屋から灯りが漏れているので、完全に戸締まりされているわけでもないらしいが、来客を閉じているのは誰の目にも明らかだった。
ここは素直に引き下がるしかないだろうと、踵を返そうとした瞬間……おもむろに歩み出たルドルフが、ゲートの脇にある通用口から堂々と中に入っていく。管理事務をこなす上での便利のためか、鍵はかかっていないようだが、いくらなんでもこれは……。
「ルドルフ。もう営業はとっくに終わってるらしいぞ。ほら、そこの案内にも十九時までって」
「知ってるよ。他に邪魔の入らない、この時間帯をあえて狙ったのだから。まだ終業というわけではないし、ちゃんと許可も貰っているんだ。さぁおいで、トレーナー君」
そう説明しながらルドルフが指差す先では、一台の監視カメラがしっかりとこちらを捉えている。
よく考えれば、閉場後だからこそ、こんな開けっ放しで放置しておくわけがない。平屋にも動きはなく、詰め所らしき建物にも動きがないあたり、彼女の言っていることは本当なのだろう。
「…………分かった」
差し伸べられた手をとって、私も通用口からスタジアムの敷地内へとお邪魔する。
入り口からもアスファルトの道が伸びていて、真っ直ぐ進めば地下通路に入った。そこをしばらく歩き、ホールに出ればそこは吹き抜けになっていて、最上階へと螺旋を描くように階段が続いていた。
誘導灯に照らされた標識の案内によれば、そこを昇っていけばそれぞれの階層の観客席に出られるらしい。レースを観戦する者は基本的に上へ行くのだろう。反対に、このまま地上を進めば更衣室やシャワールームといった、競技者用の施設に入ることが出来るようになっている。
私達にとって用があるのもそこだ。
しんと静まり返った構内を並んで歩いて、着替えもシャワーも全て不要と、そのままスタジアムの中心に広がるターフへと降り立つ。
鰯雲もすっかりどこかへ流されてしまったようで、なに一つ遮るもののない夜空の下、芝の真ん中に立てば年甲斐もなく心が弾む。
それはウマ娘の感性に基づいた、のびのびと走れる場所を一人占め出来ているという満足感なのかもしれないし、あるいは普通なら立ち入れない場所にいることへの、子供じみた優越感なのかもしれない。
どちらにしても、気分の良いことに変わりはなかった。
「おや、ご機嫌かいトレーナー君」
「え?」
「ふふ。尻尾が楽しく揺れているよ。耳だって……ほら」
ルドルフの長くほっそりとした指に優しく撫でられて、ようやくそのことに気がついた。
本人は隠しているつもりでも、ウマ娘は耳や尻尾から感情が漏れてしまう。そのサインを見逃さずキャッチするスキルはトレーナーとして初歩の初歩だが、こうも自然に動いてしまうものだったのか。
暢気に感心すると同時に、常日頃から完璧にそれを制御しているルドルフの精神力に改めて驚異を覚える。
弄るという程のものでもない、そっと縁をなぞり上げていくような触り方であるが、痺れるような擽ったさがてっぺんから駆け巡った。
ウマ娘の耳は敏感だ。ヒトよりずっと大きく、外側に張り出していながら、急所と呼ばれるぐらいには感覚が鋭く、ルドルフのようにピアスの穴を開けている者すら少ない。遊び半分で刺激することのないよう、義務教育の過程で口煩く教わることだ。それでいながら、こうしてスキンシップの手段としてとられることもあるらしいが。
「くすぐったいよ」
「ああ、すまないな」
身をよじる私にくすくすと笑いを溢しながら、彼女は軽やかに身を翻してコースのスタートラインへと歩いていく。
なにをするつもりか、なんて今さら聞くまでもないか。私もその背に続きながら、軽くストレッチで体をほぐす。
ラインに並び、構えをとると、全く同じタイミングでスタートをきった。
客観的に見れば、私がルドルフに合わせる形。しかし数え切れない程見てきたその踏み込みには、考える間もなく反射的に足がついていく。
ナイターすら機能していない中では、隣を走るルドルフの姿はよく見えなかった。いくら夜目に優れると言ったところで、この暗闇にウマ娘の速力があわされば、位置を捉えるだけでも一苦労となる。
きちんと整備されたターフの上であるから、足を取られるような障害物こそないものの、まだ馴れていない私にとっては視野を広くもつ余裕がなかった。
にも関わらず、ルドルフは徐々にペースを上げていく。
彼女の卓越した技術のなせる技か、不思議なことに私はそのペースアップにもなんとか食らいついていけた。走るというより、走らされているといった感じで、引き摺られるかのごとく真横を駆ける影に並ぶ。
じわじわと、真綿で首を絞めるような変化に呑まれている内に、軽く流す程度だった並走は全力疾走へと変貌を遂げていた。模範的なフォームを崩さず半歩前へ飛び出した皇帝を、私は限界寸前の前傾姿勢で追い掛ける。
ひゅっと、息をいれる呼吸が聞こえた。
その瞬間、初めてルドルフの姿勢に現れる変化。それは疲労に伴うフォームの乱れなどではなく、彼女がコーナーを曲がった最後の直線、差し切るにあたって披露する構え。上半身を前へと傾けつつ、顎は上げたまま視線を水平に保つ。
あらゆる能力が高水準でまとまっているルドルフだが、仕掛けの巧みさと末脚の爆発力は、その中でも突出している。いつも観客席から見守っていたその威力を間近で捉えて、その猛威に心が折られてしまいそうで。
それでも止まれない。ひとたび息を合わせてしまったが最後、落伍すら私には許されなかった。なまじ彼女のことを知り尽くしているばかりに、その本気についていける。ついていけてしまう。
無情にも、体はその感覚に馴染んでいく。破裂寸前の熱を内に秘めたまま、私はほんの0.1秒にも満たない刹那、彼女と同じ世界を見て―――
「はい、ここまでだトレーナー君」
倒していた上体を、滑らかに元通りに戻していくルドルフ。
淀みないその所作からは、微塵も疲れが感じられない。普段の半分にも満たない距離しか走っていないのだから当然だろうが。
己の限界を超えたスパートの果てに、思うように立て直せない私は、あえなく前のめりに芝へと倒れかかる。片足が虚空を掻いたその瞬間、優しく抱き止められた。器用に重心を動かして、衝撃を受け流すルドルフ。
それでも全くの無傷では済まないだろうに、些かも怯んだ様子を見せない。
「さて。なにか掴めたかな、トレーナー君」
「……ん。たぶん」
「その感覚を忘れてはいけないよ。きっと数ヶ月後、君の助けになるだろうから」
あくまで飄々とした口調のまま、彼女はそうぽつりと私に告げた。