「ここも人がいっぱいになってきたわねぇ。そろそろ一走目の子達が近いのかしら」
「みたいだね」
隣でストレッチを終えたマルゼンが、のほほんとした口調でそう話しかけてきた。
ちょうどアタシも、全く同じことを考えていたところだ。
彼女の言うとおり、三十分ほど前まではまばらだった沿道も、気づけばすっかり観客で埋まっている。このタイミングで一斉に移動してきたということは、すなわちアタシ達の順番がすぐそこまで迫ってきているという前触れに他ならない。
あとどれだけ待てば出走となるか、その具体的な時間が一切分からず、自分の頭の中で試算を重ねなければならないというのは、想像以上に神経を使う作業だった。
ほんの数センチ手前でゲートが開き、同時に全員が飛び出してポジションを争う。そのルーチンに馴れきったこの身体には、待機という指示がどうにももどかしくて堪らない。
この点、まだそれほど場数を踏んでいないテイオーやトレーナーよりも、アタシとルドルフの方が辛いのだろうか。
それでも競技ウマ娘としての期間が長いぶん、メンタルコントロールには一日の長がある。最高のパフォーマンスを発揮できる第一陣ではなく、アタシがここに配置されたのは、ひとえにルドルフよりもさらに一年上回る経験を買われてのこと。
それと同じ理由で、アタシよりもさらに一つ先輩のマルゼンがここにいるのだろうか。仮に彼女達のトレーナーが、本気で勝ちを目指しているなら、の話だけども。
「ところでマルゼン、やっぱりキミに襷を渡してくれるのはカフェなのかな」
「全然ところでになってないわよシービー。もう、一応は敵対関係なんだから、そんな真正面から尋ねるのはお姉さんどうかと思うわ」
「だって、それ以外知りようがないじゃない。アタシ達はここに待機の指示だから、ウマホで実況も観れないし」
自分が出走する順番、つまりアタシの場合だとこの第二走のぶんだけしか、メンバーの名簿は開示されていない。それを誰かに見せたり、中身を伝達することも禁じられていた。
果たしてそのルールがどのぐらい徹底されているかは甚だ疑問だが。
ただ、少なくともうちはルドルフが厳しいこともあって、アタシはマルゼンと一緒に走るという程度のことしか把握していない。
「貴女自身はどう考えてるの?」
「さぁ。アタシのトレーナーによれば、先鋒には強豪を揃えてくるらしいけど……肝心のエースのキミがここにいるんだもの。わかんないや」
彼女のチームにおけるパワーバランスについては、詳しいところは把握していない。普段のレースならともかく、チーム対抗戦になると大いに攻略の手掛かりとなり得るため、部外者に公開されることはないからだ。
もっとも、勝利数や公式記録を見ればだいたいの予想はつくけども。ただ、マルゼンのチームはそのあたりの分析が難しかった。
実力がはっきり分かれているうちのチームとは逆で、向こうはとにかく層が厚い。
トレーナーならまだしも、あくまで選手に過ぎないアタシには、そこからどう戦略を立てるかについては生憎さっぱりである。
一応、タキオンとカフェが二人とも出走するらしいことは聞いている。
それに加えて目の前にいるマルゼンと……残りもう一人は誰だろうか。
「まぁ、この際だから言っちゃうけど……私のトレーナーくんも、そこまで勝ちに拘ってるわけじゃないの」
「へぇ。少ないともアタシの知ってる三人は、どれも粒揃いだと思うけど」
「一応、学園屈指の大所帯って外面はあるし、理事長の顔に泥を塗るわけにもいかないのよ。ただ、一人ぐらいは新しく入ってきた子に経験を積ませてあげたいらしくて……まぁ、私のスタートは当分先でしょうね」
「キセキやシャカールは?」
「お休み」
成る程、あのトレーナーもやっぱりこのレースに本腰入れていたわけではなかったか。
それでもあっけらかんとしたマルゼンの佇まいからは、不平不満はどこにも見当たらない。さっぱりした彼女のことだから、どんな事情があるにせよ、目の前のレースに集中するだけだと割り切っているのだろう。
なんにしても、件の新人の子は今まさにルドルフと直接かち合っているという事で、恐らく勝負にもなっていないだろうね。
アタシとマルゼンの実力は拮抗している。故に、第一走で生まれた差はそうそう埋まることもないだろう。彼女との競り合いは、このレースにおいては実現出来そうになかった。
一瞬、残念だと沈みかけた心に慌てて蓋をする。ここで気を落とすのは、一生懸命走っているその新人の子に失礼だろうから。
「ふぅん」
曖昧に頷きながら、他の子達の顔もざっと眺める。
目があった瞬間、慌てて顔を背ける子、おずおずと会釈を返してくれる子、嬉しそうにはにかむ子など反応は十人十色。一人一人に、こちらからもお返しをしてやる。
名簿を見た時から分かっていたことだが、マルゼン以外は皆、そこまでキャリアのあるウマ娘ではない。初々しいのも当然かな。
それでも経験に乏しいことと、実力不足は必ずしも直結しない。特にリギルの新顔と思われる子は、流石あの学園最難関と名高いチーム選抜試験を突破しただけあって、かなり光るものを持っていた覚えがある。……ま、うちのテイオーには敵わないけど。
ただ、それはそれとして、やっぱりアタシとは勝負出来そうになかった。
傲慢そのものな感想だけど、しかし誰の目にも明らかな事実。匹敵し得るのがマルゼンのみであり、その彼女のスタートがだいぶ遅れる見込みな以上、この第二走において私に敵はいない。
「ん~………」
「あら、なぁにシービー。こんな時に悩み事?」
「ん、まぁね。レースは水物とはいえ、中々思うようにはいかないものだ」
しかし、それが幸運なことかと言えば、決してそうとは限らなかった。
以前、トレーナーが口にしていた警戒に値するウマ娘達。まだ夏に入る前に出された情報だから、ここ数ヵ月で事情が変わっていてもおかしくないと、実のところアタシはアタシで独自に調べをつけていた。
結論から言ってしまうと、その予測は本番を迎えた現在においても通用している。すなわちブライアン、エアグルーヴ、マルゼン、シリウス、タキオンとカフェ、そしてオグリにタマモクロスあたりが立ち塞がる壁となるということ。
ルドルフとの二人がかりで、これら全てを引き受けてしまうのがベストだった。しかし現実として、アタシが処理できるのはマルゼンのみ。これは完全にブタを引いた。
なにより最悪なのは、カフェとタキオンとマルゼン、そしてオグリとタマモクロスが同じ陣営なことだ。
一つの区画において、一つの陣営から参戦可能なウマ娘は一人のみなのだから。
先ほどのマルゼンの話がブラフでないとするなら、カフェとタキオンは二人揃って後半に回され、テイオーとトレーナーにそれぞれ当たることとなる。さらにこの場にどちらもいない以上、オグリとタマモクロスについても、最低でも片方が後半に顔を見せる配置になったというわけか。
この第二走……アタシにとって最大の敵はタイムとなるだろう。後半までどれだけ時間を稼げるかが勝敗を左右する。アタシが走り終えたその後は、全てロスになるぐらいの気持ちでいた方がいい。
新鮮な気分だ。
普段のレースなら、最初から最後まで自分のことだけを意識していればいい。コンマ数秒でも早いタイムでゴール坂を駆け抜けること。ただそれだけを考えていれば良かった。
レースというのはどこまでも個人競技で、同じチームの仲間であっても一度ターフで相まみえれば敵同士。勝敗に自分とはなんら関係のない他人の実力が絡むこともなかったし、ゴール坂を抜けたその先のことを勘定に入れる必要もなかったのに。
こうしてチーム全体に向けて視野を広く取り、各々の立ち位置とやるべきことを推考するのは、どちらかと言えば選手ではなくトレーナーの領分。それはたぶん、アタシよりルドルフの方が得意とする所だろう。
あるいは、そういった新しい視点を持たせることこそが、このポスト・レースに隠された真の目的なのかもしれない。
トレーナーとしての実力だとか素養だとか、そんなことをやたらと強調していたのも、彼らの視点をアタシ達に意識させるためだったのだろうか。なんにしても、その真意については理事長のみぞ知る。
そう思考に耽っていると、急に道端のざわめきが大きくなった。中継でレースの動向を追っていた観客達の視線が、一斉にアタシ達の後ろを向く。
それにつられて振り返ったとほぼ同時に、耳に届くのは地面の揺れるような足音。やがて、緩やかなカーブの向こうから待ち望んでいた姿が見えた。
「あっ、やっと来たわね」
「うん、ようやくだ。先頭は……やっぱりルドルフだね。ここまでは予定調和かな」
ただ、十分に余裕があるわけではない。
迫ってくるルドルフのさらに向こうには、後方一気を仕掛けるとブライアンとタマモクロスの姿も見える。
カーブを最終コーナーになぞらえ、お互い末脚勝負にもつれ込んだ結果、ルドルフに軍配が上がったというところだろう。その二人からやや遅れる形で、順調に追い上げるシリウスも確認出来た。
流石の皇帝も、タマモクロスとナリタブライアン、そしてシリウスシンボリの三人を完全に振り千切るまでには至らなかったか。
それでも一気に三人を相手にしてくれたのは有り難いが、ブライアンが間近に迫っている以上、全く油断はならない。
彼女の所属するリギルは一人一人のアベレージが高い。もっと差をつける必要がある。ルドルフに変わって、ここでアタシが徹底的にすり潰しておくこととしよう。
これでシリウスシンボリとナリタブライアン、マルゼンスキー、アグネスタキオンとマンハッタンカフェ、そしてタマモクロスのポジションは割れた。
あとはエアグルーヴとオグリキャップ……さて、キミ達は何処にいる?
勝たなければならない。勝ったところで、トレーナーが元に戻るかは分からないけど。ただ、件の『お友達』の目的が走ることならば、最初から勝ちを狙わない不甲斐ないレースなど許さないだろう。
彼をあんな姿にした輩の希望を叶えてやるのは癪だけど……勝負するからには勝ちたい、というのはアタシだって同じだ。
「シービー!これを……」
「いいよ!投げちゃって、もう!!」
助走をつけつつ、ルドルフから襷を引ったくるように受け取る。
それを肩にかけ終わるのも待てないまま、アタシは一目散にアスファルトを駆け出した。
「行ってこい、シービー!!」
「うん!」
そう言えば、気になることが一つだけ。
アタシがトレセンで二年目を迎えたばかりのこと。
ルドルフとトレーナーの取り合いをしたことがあったけど、その成り行きとして、彼女の過去についても本人の口から聞いていた。それを踏まえた上で、ねぇルドルフ……キミは、本当にトレーナーをヒトに戻す気でいるのかな。
そしてトレーナーも……キミはヒトに戻りたいと、本気でそう思っているの?