「逃がさん!!!」
地面が爆ぜた。
そう錯覚する程の、音と衝撃が芝を伝って反響する。初めて体験する感覚だが、かの怪物の本領が解放されたのだと、誰に言われるでもなく理解した。
これ自体も、予測できてはいたことだ。そして予測し得る中で、およそ最悪と言っても良い状況。
このレース、末脚という武器を最大限まで発揮させようとするならば、選ぶべき区間はこの最終区間を置いて他にない。
他の区間の終わりと異なり、襷を繋ぐため速度を落とす必要もなく、ただゴール板を一番に駆け抜ければ良いのだから。おまけに地面も踏み慣れた芝となれば、殆ど普段のレースと変わりなく、最高のパフォーマンスを発揮できる。
だから、オグリキャップを前半ではなく、この最終局面まで温存するという戦略を取ってくることも、可能性の一つとして頭に入れていた。ただしそれは、彼女一人でタマモクロスを除く二人ぶんのロスをカバーできるかという、ある種の賭けも含むものだったが……結果として、いま彼女は私の真後ろにつけている。
直線に入った私に遅れること数秒後、コーナーを曲がり終える前後で仕掛けてきたオグリキャップ。
ここから先、詰められた距離を取り戻すことは叶わない。私もまた、それに数瞬遅れながらもスパートをかける。お互い真正面にゴール板を捉え、あとは純粋な末脚勝負。
ふと、背後の気配が小さくなる。遠退いたのではなく、これは姿勢を変えたのだろう。低く、地を這うがごとき彼女独特のフォーム。ルドルフは今でもそれに慣れないと言っていた。確かに、これは感覚が酷く狂う。
模擬レース場の直線は短い。
既に中間地点へと到達し、ゴール板はあと少し、手を伸ばせば届きそうな程。
目の前に広がるのは、遮るもののない一面の緑。
その先頭の景色から目線を落とし、私は限界まで身体を前に倒す。走るというより、転げ落ちるように前へ前へと。一歩間違えれば、顔面から芝に突っ込みかねない危険な走法。
それは真後ろの彼女と一見類似しているようで、しかし比べようもなく精彩を欠いていた。速度も安定性にも劣り、その証拠に、怪物は私の喉元に指をかけようと迫っている。
呼吸すら届くその至近距離は、恐らく三バ身も残っていない。
駄目だ。ただ単に、身体を前に押しているだけでは振りきれない。この短い直線ですら、彼女が私を捉え、追い抜くには十分すぎる。
もっとなにかを。より洗練された、この残りの距離で己の全力を出し切る手はあるか。極限の集中の果てに、走マ灯を巡るがごとく記憶の階段を逆さまに転げ落ちていく。何百分の一秒で数ヶ月を追体験し、思い至ったのはいつかの春の夜、ルドルフと二人きりでこなした並走。
私なりのやり方では駄目だ。がむしゃらに加速したところで歯が立つ相手ではない。
経験が足りないというのなら、誰よりも勝利を重ね続け、磨き上げられた走法を模倣するのみ。
伏せていた顔を上げ、背筋に一本針を通すイメージでぶれていた上半身を固定する。先頭を走る以上、私は風の抵抗をもろに受けることとなる。極力正面に対する面積を小さくして、脇を締めた。
真似るのは初めてだが、数えるのもバカらしくなるほど観察してきただけあって、自分でやっていておかしくなるぐらい型に嵌まっているのが分かる。
『いずれ役に立つ』と彼女は言っていたな。
聡いあのウマ娘のことだ。
あの時点で既に、こうなることを見越していたとしてもおかしくない。
顎を上げ、気道を確保し、肺一杯に空気を吸い込んだ。
瞬間、鮮明に映える視界。絡み付いていた圧は霧散して、嘘のように脚が軽くなる。景色が背中に飛び去り、感じられるのは芝と人の匂いだけ。歓声も、足音も、風の音も聞こえない。
不気味に覆い被さる大空と、たわむような緑の大地の真ん中で。まるで、世界が自分一人になったような。
酩酊のような心地好さに浸っていると、ふと、懐かしさにも似た感傷が込み上げてくる。
おかしな話だ。きっかけは覚えていないが、走ることの叶わない私が、この感覚を知っているわけがないと言うのに。
「 」
それでも、確かに昔、こんなことがあったような。
ヒトの領域から外れたこの速さ。私はそれを知っていた。
覚えていない。でも知っている……違う、思い出したんだ。たった今、ここで。
あの時も、こんな雲一つない空の下だったか。もっと陽射しは強かったけど、それでも私には、今日この瞬間があたかもあの日の焼き直しのように思える。二人きりの競り合いで、誰かに追われていたことも同じ。
そうか、きっと、彼女の道はそこから始まったんだ。これまで何度かそれを尋ねて、結局答えは貰えなかったけど……そう言えば、一緒にレースをするという約束も、私は保留にしたままだったな。
フォームを維持したまま、少しだけ首を左に。
地を泳ぐような低姿勢で並びかける銀色の影が映って……そしてその向こうにほんの一瞬だけ翻る、ブラウンの長髪と淡い緑色の宝石。
告白すると、初めて君と会ったあの部屋で、交わした約束はただの欺瞞だった。
それでも、これまで駆け抜けてきた五年間を前にして、今さらそれが本心ではなかったなどと、誤魔化すことは叶わない。君と本気のレースだなんて、いつか誰かが笑ったそんな世迷い言も、ひょっとして今なら実現出来たのだろうか。
刹那の逡巡を終えて、私は頭を元に戻す。
ゴールまで残り数十。
二番手との差は既にクビ程度。
お互い加速は止まる所を知らず、それでもどうにか拮抗している。決着は、あと一秒と少しでつくだろう。
そう悟った私は、思考の全てを頭の中から追い出して……その下にある土ごと指で掴むように、全力で芝を抉り蹴った。
◆◆◆◆◆◆◆
「……まァ、という訳で。お疲れさん」
仰向けに天井の換気扇を見つめながら、医務室のベッドに横たわる私の顔に、ふと影が差し込む。
否、そう錯覚しているだけだ。実際には、実体を持たない彼女に影など発生し得ないのだから。ばさばさの黒鹿毛を無造作に垂らしながら、帰って来たお友達はそうぶっきらぼうに私を労った。
こちらを覗き込む顔は無表情で、喜びや満足感の色はない。それどころか、心なし疲労が溜まっているようにすら見える。幽霊の癖に。
不本意とは言え、せっかく走らせてやったのだから、少しはそれらしい態度を見せてくれないとこちらとしても張り合いがない。
まぁ、レースを終えてまる一日……私がこうして眠り呆けている間、カフェにこってりと絞られたらしいので、むしろ折檻が効いていることを喜ぶべきだろうか。
こんなわけのわからないトラブルを何度も引き起こされては、こちらとしてもやってられないのだから。
それに、私の災難はまだ終わっていない。
「おい」
「……んだよ」
「んだよ、じゃない。どういうことだ。おい、なんで私の身体は元に戻っていない?」
そう、レースから一日挟んだ今になっても、私の頭のてっぺんには長い耳が揃っていて、尻と清潔なシーツの間ではふさふさとした尻尾が窮屈そうに収まっている。
腰を曲げて、すうと鼻先をくっつけるように寄せてくるお友達。普段鏡に映らない彼女だが、しかしその金色に輝く瞳には私の顔が反射している。
元々中性的との評価を貰うことこそ多かったものの、こうして瞳越しに確認出来る顔はどこからどう見ても女性そのものだった。
噛みつかれるとでも思ったか、お友達は眉を寄せる私から顔を離すと、飄々と肩を竦めて首を振って見せる。
「そう怒んなよ。だいたい、昨日のレースで勝てたのも俺のお陰じゃんか。最後のコーナーで手を貸してやらんかったら、お前あの芦毛に進路を潰されてたんだぞ」
「そりゃどうも」
「喜べよ。勝ちたかったんじゃねぇのか?だからこの数ヶ月、あんだけ必死こいて準備してたんだろ」
「勝ちたかったさ。だけどそれは、勝ちさえすれば元に戻れると思ったからだ。とり憑いた君が満足して、私の体から出ていくだろうと。事実そうなった……なのに、どうして私はウマ娘のままなんだ?」
「さァな。生憎、そこまでは俺の知るところじゃない。『There are more things in heaven and Earth…… Than are dreamt of in your philosophy』 ……俺が言うのもなんだが、お前も大概、奇妙な生き物だな」
「減らず口を……」
この事態を招いた元凶でもある彼女の、そのあんまりと言えばあんまりな無責任さに、とっさに上体を跳ね上げて掴みかかる。
それはもしかしたら、『レースに勝てさえすれば元通り』なんて、そんな根拠のない見通しが上手くいかなかった八つ当たりもあったのかもしれない。
なんにしても、慣れないレースで疲弊したこの身体で無茶がきく筈もなく、あっさりと躱されると逆にベッドに寝かしつけられてしまった。
「チッ……」
これでも数ヶ月にもわたる地獄の特訓で、それなりに筋肉はつけたつもりだ。
それを片手で押さえつけているあたり、どうせ素の力だけでなくいつものインチキも併用しているに違いない。私のことを好き勝手言ってくれるが、やはり一番この世界の道理を無視しているのは彼女の方だろう。
医務室とは言え常に養護教諭が控えているわけでもなく、今現在この部屋にいるのは私とお友達のみ。事情を知らない者から見れば、私一人で暴れているとしか見えない状況。
一旦、頭を冷やして体から力を抜くと、お友達はこれ幸いと踵を返して医務室の出口扉へと歩いていく。礼は言った以上、もうここに用はないとでも言わんばかりに。
「ま、どうしても知りたきゃ、俺じゃなくて別の奴に聞くんだな。あの芦毛とか。なにか勘づいてたっぽいぜアイツ」
そう言い残して、お友達はふらっと消えてしまった。
足跡を残さない以上、ここから後を追うのも難しいだろう。それにさっきの話を聞く限り、どうやら彼女は本当になにも分かっていないらしい。
「………はぁ……あ……?」
どうしようもない行き詰まりの予感に頭を抱えながら枕に頭を落とした瞬間、医務室の扉が勢いよく開かれた。
一瞬、お友達が帰って来たのかと思ったが、そもそも彼女ならわざわざ扉の開閉なんて面倒を踏まない。
場所が場所故に、別に誰が来てもおかしくないだろうと、なんの期待も持たないままそちらの方向へと寝返りを打つ。
「失礼する」
果たしてそこにいたのは、銀色の艶やかな芦毛を腰まで長く伸ばしたウマ娘。
頭の先は灰を被ったようにくすんでいて、さらにその手前では、トレードマークの髪飾りが蛍光灯の光を反射して煌めいている。
歳によらず落ち着いた、人によってはやや怖いと感じられるらしい、澄んだ青色の瞳が私をしっかりと見つめてくる。
芦毛の怪物、オグリキャップ。
お互いよく知る仲ではあるが、こうして二人きりで対面するのは……不思議と懐かしい感覚だった。