トレセン学園は学校施設である。
なにを今更と思われるかもしれないが、所属するウマ娘にとっての活動の中心はレースとライブであり、また学園の外部からもそのようにみなされているため、実のところ本校の教育の分野に目を向けられる機会というのはあまり多くはない。
とはいうものの、実際のところはしっかりとカリキュラムが定められ、文科省の監督も受けている歴とした中高一貫校なのだ。
世間一般の生徒より限られた時間で一定水準以上の教育を施さなければならないため、むしろ教育者の質は全国において指折りと評価しても過言ではないのではないだろうか。
これは決して名門としての威信だとか、中央としてのプライドだとかいうだけの話ではない。個々のウマ娘により違いはあるものの、およそ彼女達がレースの世界で生きていける時間は限られている。なればこそ、生徒達が幸せに生きるためにはその"先"を見据えた上での知識の定着が欠かせないからだ。
………そう、トレセン学園は学校なのだ。
故にここにも、学校を舞台にした定番のオカルト………所謂『七不思議』と呼ばれるものが存在する。もっとも、この学園におけるそれは一般によく聞かれるものとは少し色合いを異にするが。
この七不思議にはトイレの花子さんだったり、あるいは動く二宮金次郎像だったりというようなありきたりな逸話は含まれない。須らくトレセン学園ならではの独自色がある。
それは例えば、三女神像の前を通ることで別のウマ娘の力を引き継ぐことができるという話だったり、午前2時になると発走機に首のないウマ娘が現れ、それを見た生徒のトレーナーには不幸が訪れるという話だったり。そんなこんなで七つのうち六つもの逸話がレースに関係しているらしい。
いかにも競争バの聖地らしい、個性溢れる『トレセン学園七不思議』と言えるだろう。
………ところで、そんな七不思議にもただ一つだけ、レースとはおよそ無関係な怪談が名を連ねている。
「………トレセン学園の秘密の地下牢、か。暴れたり重大な粗相をやらかしたりしたウマ娘が、保護と折檻を兼ねて放り込まれるとかいう曰くつきの場所。ねぇトレーナー、キミはこの牢獄の存在を知っていたのかな?」
ガシャガシャと鉄格子を揺らしながら、まるでテーマパークにでも遊びに来たかのように弾んだ声でシービーはそう問いかけてきた。
彼女は柵を引っ張ったり、間に巻き付けられた鎖同士を擦り合わせたりして遊んでいたが、しばらくすると飽きたのだろうか、そそくさと牢の奥に引っ込んでしまう。
斜め向かいにある格子の向こう………姿の見えなくなってしまったシービーに向かって、私はため息混じりに言葉を返してやる。
「………知らなかったよ。てっきりただの作り話か、噂話に尾ひれがついた程度のものだと考えていたからね。こんなけったいな施設が人知れず眠っていたとは思いもしなかった」
「人知れず、ね。でもここら辺の牢屋とか、かなり最近まで使われていたような痕跡があるけど。過去に入れられた経験のあるウマ娘からネタバラシはなかったのかな?」
「あったんだろう。しかし誰もその話を真に受けるようなことはなく、都市伝説の一つとして広まった結果が七不思議になったんじゃないのかな。仮にタキオンがこの牢屋の存在を告発したとして誰が信じる?」
向かい合う私達の牢の間にある通路に転がった、微かな光に照されてキラキラと輝くガラス片を指し示す。
「………あー確かに。あの子は告発者としては少し信憑性には欠けるだろうね。問題児の筆頭みたいなところだから」
粉砕というにはパーツの大きすぎるそれは、頭の中で組み合わせてみれば確かにフラスコの形をしている。おまけにその周囲の床や壁、さらには天井の一部までもが黒く焼け焦げている有り様。
このような危険な薬品を携帯しているようなウマ娘を一人、私は知っている。彼女は最低でも一度はここに収容されており、尚且つ脱走に成功しているのだろう。近くにある牢の鎖が焼き切れ、その鉄格子が無惨に溶けて歪んでいるのを見る限りは。
彼女がここに連れてこられる意味は大いにあるだろうが、せめて身体検査はしっかりやっておけと言いたい。天下のトレセン学園のセキュリティがこの体たらくでは、我々トレーナーとしても先が思いやられる。今現在取っ捕まっている私が言えた義理でもないだろうが。
「それにしても………正直なところかなり度しがたい施設じゃないのか、ここ。一方的に連行して監禁とは、人道的にどうかと思うしなんなら法律も抵触しかねないでしょ、これ」
「人道、倫理、法律。…………規範というものは、得てして力の弱い立場の者を保護するために存在するものです。ここでいう弱者とはすなわち、トレーナーをはじめとした学園におわす人間のこと。彼らの身の安全を保障するために、力のあるウマ娘にはある程度の制約が科されなければなりません。そのような薄皮一枚、薄氷の上で我々の共存は成り立っているのです」
「そうですか。なるほど確かに、今の貴女の姿を見ているとよく分かりますよ。たづなさん」
「………誤解のないように申し上げておきますが、私はこの措置に不服を感じてなどいません。トレセン学園の秩序維持のためには致し方ないことです」
私から見て真正面の牢の中、ぷいと頬を膨らませて彼方を向いてしまうたづなさん。
首から上だけ見ればとても可愛らしいが、そこから下は重厚な拘束具のために得体の知れない威圧感を放っていた。
革のバンドが、上半身を丸ごと包むかのように何重にも巻かれている。その端と端は分厚い鋼鉄のリングで繋がれ、さながら納棺直前のミイラのような様相を醸し出す。この状況でも頑なに帽子を外さないのは流石といった所だろうか。
一見すればやり過ぎだと思わなくもないが、先の乱闘事件における当事者の片割れだという事情を考えればやはり妥当だろう。
その余波でバスルームが全壊し、この寒い中あと一週間は銭湯でやりくりせざるを得ない私が擁護する理由だってないわけだし。
とはいうものの、その潔さには見習うべきところもあるだろう。
「流石は理事長秘書さんですね。この学園のことをよく見ていらっしゃる………それはそうと」
振り返り、乱闘のもう一方の当事者の顔を睨みつけてやる。
先程から限界までこちらに首を伸ばし、その鼻面を背中に押し付けてきていた鹿毛のウマ娘は、私と目があった瞬間居心地悪そうに顔を逸らしてしまった。
その頭を両手で鷲掴みにしてやり、無理やり元の方向へ戻してやる。潤んだアメジストの瞳が一瞬大きく揺らぎ、やがて諦めたように私の視線を捉えた。そのミミはしんなりと、生気の抜けきったように垂れて下を向いている。
「ルドルフ。生徒会長ともあろう君が、どうしてトレーナー室を壊したりなんてするんだ。私はまだ寒さを我慢すればいいだけだけどね………修繕費も学園から下りるし。まぁ、だからと言って許される話でもないけどね」
「ほへんひゃひゃい………」
猿轡を噛まされた口で、たどたどしい謝罪の言葉を口にするルドルフ。
彼女に科せられた拘束は、たづなさんのそれよりもさらに一段と厳しいものだった。上半身こそ同じようなミイラ状だが、それに加えてやたらと太い鎖で壁と繋げられている。口は猿轡で戒められており、なにか言葉を発する度にその端からよだれが溢れてしまっていた。下半身を見るとその両足もまた、やたらとぶっとい鎖で床に繋げられている。
たづなさんが介入した際、バスルームで最も大暴れしたのがルドルフであった。故に、この拘束もやむを得ないのかもしれないが………あんまりといえばあんまりな姿ではないだろうか。
ここまでしなければ繋ぎ止められない彼女と、正面から互角に渡り合ったたづなさんも大概どうにかしている。とりあえず、汚れた彼女の口元は拭っておいた。
「はぁ……………………………」
結局、私達は四人とも揃って朝までここに抑留か。
………どうしてこうなった?
事の発端は、ルドルフとシービーの所属する美浦寮の大浴場が故障したことだった。
それでシービーとルドルフが私の風呂場に侵入して勝手に湯浴みを行い、挙げ句に私を連れ込んで服を脱がさせた。………そこで間が悪く、生徒の所在を点検中のたづなさんが乱入したのだったな。
遺憾ながら、当時は酷く焦燥していたこともあって記憶が上手く引っ張りだせない。
再び顔を寄せてくるルドルフの鼻息にうなじを撫でられながらうんうんと頭を絞っていると、引っ込んでいたシービーが再びひょっこりと顔を覗かせてきた。
「ねぇ、トレーナー。アタシはトレーナー守るために結構頑張ったと思うんだけど。褒めてくれるよね?」
「ん。あぁ、勿論………よく頑張ってくれたね。私が今のところは五体満足なのは間違いなく君のお陰だ。ありがとうシービー」
「えへへ………」
嬉しそうに照れ笑いするシービー。事実、彼女がいなければ私の収容先はこの監獄ではなく学園の医務室だっただろう………そちらの方がマシなんじゃないかとは言うまい。
たづなさんの乱入で肝を冷やしたのか、寸前で冷静さを取り戻したシービーはそのまま私を回収して浴室の隅で丸まっていた。
出来ればそのまま逃げて欲しかったところではあるものの、生憎その時の我々はお互い全裸であったし、そうでなくとも爪に難を抱えた今の彼女があの二人を振り切るのは極めて困難だっただろう。
そういう意味では、あの場で即座にとりえる最善の行動を為したと言える。
「それに比べてルドルフはすぐに暴れちゃうんだから。アタシ達がこうして籠の鳥になってるのも、大半がキミのせいだからね?」
「ひ、ひーびー………ひゃからほへんははいっへ……」
「あーあー。なに言ってるのかよく分からないかな。ルドルフ、もう少しはっきりと声に出してくれる?」
「ほ、ほめんなはいっ………ううぅ」
反対にすぐさまかかってしまったのがルドルフだった。
一体なにが彼女の逆鱗に触れたのかは知らないが、たづなさんを見た瞬間ミミを倒していきり立ってしまった彼女。極めて性質の悪いことに、ルドルフは感情と行動をある程度切り離してしまえるウマ娘だった。
たづなさんと相対しておきながら、一瞬たりとも私からマークを外さず牽制されていたため、争いの隙をついて逃げ出すことすらできなかったのだ。結果として、目の前で繰り広げられる破壊活動をただただ眺めているのが精一杯だった。
なにしろ本人に浴室を破壊するつもりが微塵もなく、有り余った力の余波としてそうなってしまっている以上説得も通用しない。
「駄目ですよシービーさん。そんなにルドルフさんを虐めては………一応彼女自身も深く反省していらっしゃるようですから」
二人のウマ娘のやり取りを傍で見ながら、どこかのほほんとした様子でそう諭すたづなさん。
ルドルフのヘイトを一身に稼いでいたという点では、彼女もある意味で私の救世主と見なしてもいいかもしれない。
元はといえば彼女が私にあんな約束を取りつけたことが全ての原因だった気もするが、なんにしてもかかったルドルフと単騎で拮抗したその剛腕は流石と言うほかないだろう。
それでも不満を挙げるとするなら、その行動の全てが見切り発車だったという所に尽きる。
「しかしたづなさん。貴女が予め他の職員に報連相を回してくれていればこうはならなかったのでは……?」
「近くの部屋にいる別のトレーナーさんが通報してくれるだろうと思いまして。結果的にその通りにはなりましたが………私まで乱闘と破壊行為の容疑者にされるのは誤算でした」
「それを言ったらアタシ達だってこんな所に放り込まれる理由が分からないけど。たづなさんは容疑者というか、器物損壊はともかく乱闘の当事者ではあるから納得できるけど、アタシとトレーナーは隅っこで大人しく震えてただけじゃない?」
「勝手に納得しないで下さい。えぇ、貴女達につきましては裸で抱き合っていたことが理由でしょうね。………男女七歳にして席を同じうせず。なにやら勘違いしておられるみたいですが、世間では成人男性と女子高生が入浴を共にするのは一般的に受け入れられ難いことなのですよ。ねぇトレーナーさん?」
「それは誤解です。私は私の部屋の浴室に本来あるべき姿で立ち入っていたものであり、今日はたまたまそこにルドルフとシービーがいただけなのです。それに同じチームの仲間として、時には裸の付き合いも悪くないとは思いませんか?」
「個人の主義主張を一概に否定するつもりはありませんが、そのような思想の持ち主を世間一般的になんと称するのかご存知でしょうか?」
「なんでしょう」
「…………………変態、と」
酷く冷たい視線が突き刺さる。
なるほど、それが私が今このような辱しめを受けている理由というわけか。しかしそうだとすると、一つだけ納得のいかない部分が出てくるのではないか。
「しかしたづなさん。貴女はつい先程、この施設が学園における弱者………すなわちトレーナーを筆頭とした人間を保護するためにあると言いましたよね。にも関わらず、どうして私はルドルフの牢に一緒に入れられているのでしょうか。他にも牢はいくつかありますが………まさか、いざという時は私がルドルフを取り押さえろとでも?」
「当たらずとも遠からずと言ったところでしょうか。本来であればトレーナーさんは、ここに収容される謂れはありませんからね。故に、その目的は万が一のための備えということになります。もっとも、貴方の役割は看守ではありませんが。強いて言うなら………」
「生け贄、あるいは人身御供といったところかな。そうでしょたづなさん?」
「………ええ、おそらくそのような理解で問題はないかと。つまりトレーナーさん、万が一ルドルフさんが脱走しかけた時にはその身を捧げて時間を稼ぐのが貴方の役割であり、そうして同じ檻に閉じ込められている理由となります」
「……………嘘でしょう」
どうやら私には人権というものが適用されないらしい。これでは飢えたライオンの檻に放り込まれた羊そのものではないか。ここに連れてこられた時、警備のウマ娘がやけに優しかった裏にはそんな事情があったなんて。
こうしてはいられない。明日の朝に理事長がここに来るまでの辛抱だと思って耐えていたが、いよいよそんな悠長なことは言ってられなくなった。
なにかないかとジャケットの内ポケットを探ると、都合のいいことにミーティングルームの補修に使うはずだった針金が一本入ったままだった。それを取り出して適当に曲げてみる。
「ふーん。トレーナーってピッキングも出来るんだね」
「昔とった杵柄でね。といってもあまり難しいことは無理だけど、ここの牢の鍵ぐらいならたぶんいけるだろう」
見たところ、頑丈さこそ非常に気を遣っているようだが、一方で施錠関連についてはそこまで重視していないらしく見張りの姿すらない。単純に人手が足りないのか、あるいはそこまでやる気がないかのどちらかだろう。
鉄格子に巻ついた鎖を手繰り寄せ、その先にある南京錠の穴に針金を差し込む。手探りで解錠を試みること数分、ごとんと物々しい音を響かせて錠前が地面に落ちた。
封印の解かれた鉄の扉を押してみると、その見た目の重厚感に反して案外簡単に外側へと開く。
「出られたな」
「やったね。その調子でアタシ達の檻も開けてちょうだい。いい加減寮に帰って寝たいから。あ、その前にご飯も食べたい。トレーニングの後すぐお風呂入ってここに来たから、昼からなにも食べてなくてお腹空いてるんだよね」
「はいはい…………あっ、しまった」
針金がその中程でぽっきりと折れてしまっている。
錠前が想像以上に頑丈だったか、それとも解錠の際に力を入れすぎてしまったか。なんにしても、この短さでは二度とピッキングには使えないだろう。
やむを得ず針金を放り捨てる。
悲しみに膝から崩れ落ちるシービーを横目で見ながら、今度はたづなさんが指示を飛ばしてきた。
「…………そこの、通路の床から少し上の部分に小さい扉があります。中にレバーが収まっているので、それを右に引いてください」
「こうですか」
言われた通りレバーを引くと、ガコンと一斉に全ての牢の扉が解錠される。
数秒前の意気消沈はどこへいったのやら、シービーが喜色満面に牢から飛び出してくるのが見えた。その後ろで、役目を果たせなかった南京錠が虚しく鎖にぶら下がって揺れている。
それに続いて、ギィと目の前の扉も開く。
いつの間に拘束を解いたのやら、緩く伸びをしながらたづなさんがこちらへ歩み出てきた。
数時間監禁されていたとは思えない、どこか余裕のある彼女の立ち姿。ひょっとしたら、これ以外にも奥の手を用意していたのかもしれない。
「あれは火災発生等の非常事態において、一斉に牢と拘束具を開放するための安全装置です。いちいちそれぞれの鍵を開けて回っていては時間が足りませんから」
「なるほど。しかしよくあれの存在に気づきましたね」
「当然です。そもそも、この施設の作成を指示したのは私ですから。昔はやんちゃな生徒も多くて手を焼いたものです」
………だからここの存在意義にも理解が深かったのだな。だからと言って、設計した本人が閉じ込められるというのも間抜けな話だ。
「そのわりには、まだルドルフが出てこれないみたいだけど。というよりあれ、拘束具が外れていないんじゃないかな」
「本当ですね。大暴れしていたこともあって、彼女には特別な措置がとられているようですが……どうしましょうかトレーナーさん。ルドルフさんも解放して差し上げますか?」
「やるとしてもどうやってですか?見たところ恐ろしく強固な拘束のようですが、どのようにして外すのです?」
「それは、私達全員が力を合わせれば………あるいは、上にいる人達から鍵をとってくるのも一つの手です。どちらも相応のリスクが伴いますけど」
「ひゃふへへ!!ほへーはーふん!!!」
「そうですね………」
改めて、牢の中に収まっているルドルフの全体像を眺める。
ベルトにより全身を戒められ、無理やり膝まずかせられながら涙目でこちらを見上げる少女。呂律が回らないながらも必死に哀願を繰り返すその姿は、否応なしに私の中にある庇護欲のようなものを駆り立ててくる。
そんな愛バを目の前にして、私が導きだした結論は…………
「………放っておきましょう」
「ほへーはーふん!!??」
「よろしいのですか?」
「えぇ。私の経験上、一度かかってしまったルドルフはその闘争心を抑えきれない傾向にあります。これまでは私がその発散に付き合ってきましたが、もしかしたら拘束という別のアプローチがあるかもしれません。ルドルフをここまで抑え込む手段がなかったので、無理やり大人しくさせて寛解を待つという対処をとることが出来なかったのです」
「故にこの折角の機会で試してみたいと。………他には?」
「………ここは折檻も目的の一つなのでしょう?ルドルフに鞭が与えられるのは珍しいので、これもいい経験になるかと。精々、一晩空腹に冒される程度でしょうからね」
「つまり日頃の仕返しだと」
「ひょんな………ひほい……ほへーはー……」
私の宣告を受けて、がっくりと項垂れるルドルフ。
その小さい背中に罪悪感が込み上げてくるが、必死の思いでそれに蓋をした。思えば、私が彼女に主導権を握れる数少ないシチュエーションなのだ。ここで甘えを見せてしまえば、今後二度とルドルフに逆らえなくなる予感がしてならない。
「…………わはった」
「ん?」
「ほへーはーふんがほのつもりなら、わらひにもはんはえがあるはらな!!!」
バッと彼女の顔が私を見据える。
その瞳の奥に揺らいでいるのは業火。気づけば先程まで萎びていたウマミミはピンと立ち上がり、次第に後ろへと倒れていった。
ふーっふーっとうってかわって荒い呼吸が口から漏れだしている。バチンバチンと、鞭のように地面を叩きつける尻尾の音が牢に反響した。
ペキペキパキパキと、巻ついたベルトの間から軋むように漏れだしてくる断末魔。壁と床まで繋がっていた四本の鎖は錆びた悲鳴をたてながら擦れ合い、ゆっくりとねじ曲げられていった。
パリパリと、電気の走るような衝撃音が空気を震わせる。心なしか、彼女の姿が光を放ちつつあるようにも見える。
「…………ねぇ、トレーナー。ちょっと不味くないこれ」
「不味いどころじゃない………ルドルフがかかった!!!」
見覚えがある。あれは、重賞を制した直後のシンボリルドルフだ。その有り余る闘争心を開放させ、自らを律することすら敵わなくなった状態。
ああなってしまったルドルフは容赦がなく、体面を取り繕うことすらしなくなる。ましてやここは秘められた地下牢。およそ助けなんて期待できない場所だ。
「逃げるぞシービー、それからたづなさん!!ここももう長くはもたない!!」
「ふふ、あんな姿を見せられてしまうとワクワクしてしまいますね………私も久し振りに走りたくなってきちゃいました」
「言ってる場合ですか!!」
「シービーもたづなさんもどこへなりとも行けばいい。だがトレーナー君は駄目だ。君が誰のものなのか、もう一度しっかりと骨の髄まで分からせてやらねばな……」
ゴムの張り裂けるような破裂音と共に、とうとうルドルフがその猿轡を噛み千切る。
そのままぺっと床へ吐き出し、ゆっくりと長い犬歯を剥き出しにさせた。バチンバチンと、強靭な顎がトラバサミのように開閉する。
「ちょっと予想外の展開ではあるけど、そもそもトレーナーの判断が直接的な原因だと思うからね。ここはやっぱり、キミに本来の役割を演じてもらった方がいいんじゃないかな。ねぇ、たづなさん」
「猛り狂う獅子へ捧げる生け贄、人柱、人身御供といったところですね。それでは」
「はっ?」
後ろから背中を押され、私は元いた牢の中……ルドルフの眼前へと放り出される。
鉄の扉が閉められた直後、ガシャガシャと鎖が格子に巻き付けられる音。抗議をしてやりたいが、振り返るのはおろか声を出すことすら出来ない。私という存在の全てが、目の前の怒れる獣へ釘付けにされてしまっている。
「ふふ…………もう逃げられないぞ?」
叫び続けていた四肢の鎖がついに限界を迎える。最初に右足の鎖が、次いで左足の鎖が根本から崩壊し、束縛されていた両足が自由となった。
徐々に遠くなっていく二人の足音。対照的にこちらへとにじり迫ってくるルドルフ。
「知っているかいトレーナー君。儀式における生け贄というのはね、往々にして対象の渇望を満たすためにあるんだ。食欲、情欲、支配欲…………飢えを満たす供物に目をとられている隙に、生け贄ごと一つの空間に閉じ込めるんだよ。ちょうど、彼女達が君にそうしたようにね」
「…………それで?」
「私は今、とてもお腹が空いているんだ」
ばきんと、残った二本の鎖も勢いよく弾けとぶ。
ついに自由を得たライオンが、ぬうっとその両腕を伸ばしてきた。