スライド式の扉を後ろ手に閉めたオグリは、かつかつと靴音を鳴らしながら私の枕元に立つ。
安っぽい、金属製のスツールを引き寄せて腰かけると、きょときょとと不思議そうに部屋の中を眺め出した。
「どうした?」
「いや……さっきまで、キミの話す声が聞こえていたから、てっきり他にも誰かいるのかと思った。私一人だけなのか?」
「ああ。さっきまで電話してたんだ。担当とね、来週からのメニューについて少し」
「そうか」
決して大きな声を出していたわけではない。それにしっかり扉も閉めていたし、オグリは廊下の奥から向かってきていたのだから、聞きつけられていたのは意外だった。
もっとも、彼女にとってそのあたりは別にどうでも良いことだったのか、ふんふんと頷くと私の顔を覗き込んでくる。
そのまま、しばしの間お互い無言で見つめ合う。話題がないわけではないのだが、彼女の方からここに訪れた以上、私が勝手に話を広げるのはなんとなく憚られた。
一応、オグリも私の正体については知っている。経緯については教えた覚えはないものの、ひょっとしたらルドルフを経由してなにか聞いているのかもしれない。
そのことで彼女からなにかしらのリアクションも無かったので、あくまで他所のチームの問題だと受け流しているのだろう。
「身体の方は大丈夫なのか。そもそも、キミはどうして医務室にいるんだ」
「故障したとか、そういうわけじゃない。ただ、あれだけの加速を試したのは初めてだったから……今後を見据えて、念のためね」
我ながら無理をしたと反省している部分はある。彼女の末脚に真っ向勝負を仕掛けたこと自体、今にして思えばかなりハイリスクな賭けだった。
仮に自分の担当がその意向を伝えてきたとしたら、私ならまず間違いなく賛成しなかっただろう。だというのに、肝心の自分自身がこんな無茶を通しているのだから救えない。
シービーの爪の不調に悩まされ、ルドルフにしても、その体調を優先して海外挑戦を回避したという苦い思い出がある。
そういった経験を抜きにしても、格上のウマ娘に強引に競りに挑んだ結果、競技者として取り返しのつかない事態を招いたというケースは多く耳にしている。
己の実力を弁えて、全力を出しつつも無理はしないという自制心が、私には欠けているのかもしれない。
大勝負でも掛かりきらず、頭の片隅で"次"を考えられる自制心こそが、一流の競技ウマ娘として必要不可欠な要素である。まぁ、そうだとするなら、競技者として未熟もいいところな自分が至らないのも当たり前か。
「トレーナーのトレーナーは……トレーナーか。なら、キミは自分でここに来たのか?」
「いいや。たづなさんに連れてこられた」
まだまだ若輩ではあるが、私とてトレーナーの端くれ。
無茶を言わせたとはいえ、それでも足や膝に余計な負担をかけることはなく、技を借りられたルドルフ本人をして、完璧なフォームだったとお墨付きまで貰っている。少なくとも試合後数時間の経過を見る限り、疲労以外の異常は見られなかった。
……なんてことをいくらか説明しても聞く耳持たず、半ば強制的にここに収容したのがあの理事長秘書である。おまけに勝手に動いた場合、学園内における私の身分は保証し得ないとまで言い添えて。
何気に厄介なのが、ルドルフまでもがそれに同調したことだ。
それどころか、私の疲労回復というお題目で、とっておきの治療まで用意してくれた。自称パーフェクト笹針師による、世界一安心な針治療だとかなんとか……親切を装いつつも、どこからどう見てもかつて彼女に全く同じ治療を施した事への意趣返しだろう。
当時は形振り構っていられなかったとはいえ、ただでさえ注射嫌いのルドルフに無断で、それもよりにもよってあのような不審人物を手配したことについては確かに申し訳なく思っている。
しかし、いまだにこうも根に持たれていたとは流石に思わなかった。一応、あの時は上手くいったのに。
ちなみに今回も成功はしたようで、あと三日は引き摺るかと思っていた筋肉の痛みは嘘のように霧散していた。もしかすると、レース前よりさらに快調かもしれない。
ひょっとすると、長年に渡る学園内での活動が功を奏して、あの笹針師の腕前も磨かれたのだろうか。
「……まぁ、しばらくは安静にしておくよ。見ての通り、私の問題はいまだに解決していない。悪戯に走ったところで、どうにかなるとも思えない」
「だが、聖蹄祭はあと一ヶ月もしたら本番だろう?ルドルフ達も、昨日からとても忙しそうにしているぞ」
「聖蹄祭……が、どうかしたのか?」
「……ああ、すまない。そうだったな。私はその事をキミに伝えに来たんだ。これも、ルドルフから頼まれたんだ」
オグリはポケットから四つ折にした一枚の用紙を取り出し、丁寧に広げてから寄越す。
受け取って見てみれば、それはレース出走依頼と、その承諾書だった。
このような手続きは、主にグランプリで取られることが多いが、勿論私はそんなレースに出られるような立場のウマ娘ではない。
これもまた、非公式の試合である。聖蹄祭……通称秋のファン大感謝祭において催される、エキシビションレース。その出走者はファンの希望が反映されることとなり、また有馬記念程の要件も求められないぶん、本来であればG1にすら届かないようなウマ娘であっても、時として指名が回ってくることがある。
それが私だというのか。
「昨日のレースで、キミは私に勝っただろう。そして、沢山の人がそれを見ていた。だから、ファンの間でも、キミの知名度が上がっている……らしい」
律儀にも、その理由について解説してくれるオグリ。
彼女もほんの一時、生徒会の事務の手伝いをしていた事があったので、その辺りの仕組みについては一通り頭に入っているらしい。あるいは、ルドルフ本人から説明を受けていたのかもしれないが。
「なら、オグリも出るのか」
「私は……出られない。すまない。その一週間後に別の大会があるから、そちらに合わせて調整が必要なんだ」
「そうか。まぁ、君が忙しいのは今に始まったことでもないからな」
「ああ。ただその代わり……ルドルフが同じレースに出る。あとはシリウスも、たぶん」
「ルドルフと、シリウスか」
トゥインクルを卒業した今、ルドルフが有馬記念に出走することはない。そのぶん年末のスケジュールにも余裕があるため、エキシビションレースへの参加も無理なくこなせる範囲だ。一応、今夜あたりにでもこちらに確認は来るだろうが。
シリウスについては、そのマネジメントは一切母の担当なのでなんとも言えないものの、その人気と実力に不足はない。
「あの二人は分かるが……なんだって私に」
「キミは確か、シンボリ出身の研修生だって……そうルドルフから聞いているぞ」
「ああ、まぁ、そういう建前にはなってる」
「その繋がりだろうって、シリウスが言っていた。シンボリの新しいウマ娘が、筆頭のルドルフ相手にどこまで戦えるのか、ファンは興味があるらしい」
「ああ、成る程ね」
そうなると、たぶん、ここで私を担いでいるのは彼女達のファン……もっと言うなら、シンボリ家に対するファンだろう。
等しく名門とはいえ、ここ最近はメジロ家の勢いに圧されている部分もあるものだから、ここで新しい風を吹かして欲しいという期待があるのかもしれない。なまじ、先日のレースでメジロマックイーンがトウカイテイオー並びにマンハッタンカフェと激闘を繰り広げたものだから、尚更。
なんともお気楽というか、お祭り気分というか……実際お祭りか。なんにしても、その名前が示す通り日頃のファン活動に対する感謝の企画である以上、そこに指摘を挟むこと自体野暮だろう。
「それに、これはトレーナーにとっても良い機会なんじゃないか」
「私にとっても?」
「キミは、昨日のレースで本当に満足出来たのか?まだそんな姿のままなのは、キミ自身に心残りがあるからじゃないのか。ウマ娘としての、自分に」
「私自身に……」
ポスト・レースで勝ちを狙ったのは、あくまでお友達を満足させるためで、そこに私の欲求は勘定に入れられていない。
だが、そういえば……タキオンはこの変異について、その原因は複合的だと言っていた。
つまり、きっかけであるお友達はあくまで要素の一つに過ぎず、彼女だけをどうにかしても意味がないということか。なら、私が解決すべき、私自身の問題とは一体。
言葉を詰まらせる私の顔を、オグリはそっと覗き込んでくる。
どうやら彼女は、それについて答えを持っているようだった。そのようなことを、ついさっきお友達も言っていた気がする。
「私と走っている時、キミは気が散っているようだった……私のことを、見ていないような気がしていた。これは、私の勘違いだろうか」
「いや。たぶん、正しい」
「なら、あの時のキミは一体、誰を見ていたんだ?なぁ、トレーナー」
「……