身体で払ってもらおうか
「さて、そろそろ返済してもらおうか。トレーナー君」
秋めいた風が身に染みるある日のこと。
生徒会室でぬるめの茶を楽しんでいた私の昼下がりは、ルドルフのあまりにも唐突な一声で幕を閉じた。
返済。
私の認識が正しければ、他者から借りたもの......特にお金を、貸主に返却するという意味の言葉。
つまり私は、どうやらルドルフに借りたお金を返さなければならないらしい。
少なくとも、彼女はそう主張している。
「いや、意味が分からないんだけど」
「おや。これ以上の説明は、恐らく国語の先生でも難しいのではないかな?」
やれやれと、呆れた様子で首を横に振るルドルフ。
一応は配慮してくれたつもりなのか、人払いがされてがらんとした生徒会室の真ん中で。
緩く腕組みしながら私を見下ろしている。
「いいかいトレーナー君。返済というのはね。主に借りたお金を返すという意味で使われる言葉だ」
「いや知ってるけども。知ってるけど、私が君からなにをどれだけ借りたかまでは記憶にない」
購買で立て替えてもらったりとか、実際は全く無いわけでもない。
もっとも、そういった話でないことは、目の前のルドルフの様子からして明らかだった。
「.....ふむ」
一応、私の態度に嘘がないことは理解してもらえたのだろう。
ルドルフはさして怒った様子もなく、ひょいっと片方の眉だけ上げてみせる。二度三度、立ち尽くしたまま目をしばたたかせて。
やがて一枚の用紙をそっと、テーブルの上に差し出してきた。
「これは.......契約書、か?」
「まずは目を通してみるといい。それで思い出せるだろう」
促されるまま、手に取り目を走らせる。
それ自体は特に変わったところもない、恐らく文章作成ソフトで文字を打ち込み、A4用紙にプリントアウトしたもので、唯一署名欄のみインクが滲んでいる。
私は法律の専門家ではないものの、少なくとも契約書としての体裁は整っているように見えた。
だとすれば問題となるは、一体いつどこで誰と、どういった内容で交わした約束かということで。
二箇所ある署名欄のうち、片方は私。
そして相手方の名前はルドルフではなく、彼女の母親のもの。筆跡からして本人であることは明らかだった。
「......」
全く別人のものである筆跡と、確かに年季の入った用紙。
それでも器量人であるルドルフなら、その程度の偽造はやろうと思えば可能だろう。
たちの悪い悪戯だと、一笑に伏すべきなのかもしれないが。
しかしそうもいかなかった。
なんとなく、そのサインを見た瞬間から、なにか怖気じみた、腹の奥底からこみ上げてくるものがあって。
気のせいだろうという楽観は、早くもそうであってほしいと願う祈りへと移ろい、そんな私を嘲笑うかのごとく、その悪寒はみるみると膨れ上がっていく。
例えるなら、終電も無くなった深夜の玄関の前で、鞄の中から鍵が消えてることを察した瞬間のような。そんな足元が瓦解するかのような絶望感。
「どうした?文面に目がいっていないようだが」
「いや、そっちを見たら、いよいよ現実を見ないといけなくなりそうだから」
「なるほど。頭を地面に突っ込んで、目に入らなければないも同じだと。私はダチョウをトレーナーにしたつもりはないのだが」
「............」
「十年前。君がシンボリ家との間で締結した、金銭消費貸借契約書だよ。それは」
「......はい」
「特約として、無利息かつ、君が中央トレーナーとして採用されるまでその返済を猶予する。出世払いに近いが、生憎我々は債権を放棄したつもりはない」
ようするに立派な借金だということだ。
こうして彼女の担当をしている時点で、その停止条件を満たしていることは言うまでもない。
観念して、署名欄の上に記載された本文と、肝心の借用金額の方に目を通す。
小さくはないが、中央トレーナーとして一定の実績と評価を得た今の私なら、決して今すぐ払えない額ではない。
......が、その数字の右端にルドルフのペン先が伸びて、0をいくつも付け足していく。
「利息はつかないが、遅延損害金は発生するからな。参考までに、計算式は次の通りになる」
綺麗な字で、正面の彼女から見て逆さまの数式をさらさらと書き上げていく。
提示された数字が私のキャパシティを超えていることは、もはや誰の目にも明らかだった。
ペンにキャップをキュッと嵌めながら、一つ息をつくルドルフ。
「借りたものは返さないとな。さて、なにか弁明があるなら聞いておくよ。トレーナー君」
「そうだな。そういえばこの期限、いまいち判然としていないだろ。トレーナーとして採用というのが、果たしてどの時点を指すのか」
資格試験と採用面接に合格し、中央トレーナーとしての国家資格を取得した時点を言うのか。
それとも修習過程を卒業して、サブトレーナーとして学園と労働契約を結んだ時点を言うのか。
修習過程における素行不良のために、卒業出来なくなる例もないわけではない。そういう意味では、後者が適当だと言えるだろう。
しかし世間一般でいう「トレーナーになった」が資格試験を突破した瞬間を指すことを鑑みれば、前者のように解する余地もないわけではない。
ちなみに私が資格試験に合格してから、現時点で五年と数ヶ月が経過している。
確か金銭の貸し借りの場合、弁済期の到来から五年なんら債務履行の請求がなければ、時効の援用が認められると記憶しているが。
私の悪足掻きを聞いて、ルドルフは落ち着き払った様子で大きく頷く。
「なるほど。ならそういったことを、私の実家に来てもらって、母の前で説明してもらうことになるが」
「............一人で?」
「無論。シンボリの一族である私が君の肩を持つわけにはいくまい。まぁ、そもそも君にその度胸があれば、の話だけどね」
「............」
悲しいかな、ないものはない。
なにしろ相手は名門で、その気になればURAの意思決定にすら干渉し得る特権階級。
その財力、人脈、格式からして、その威光がレース競技界にすら留まらないことは明白であり、さらに都合の悪いことに、こうして借金を都合してもらえる程度には、昔から浅からぬ付き合いでもある。
ルドルフの母親についてもよく知っていた。仮にこの借金を踏み倒せたところで、はいそうですかと潔く引き下がるような人物ではないのだから。
「で、払えるのかい」
「ぶ、分割なら......」
「すまないが、母は一括での返済を希望していてね。可能か不可能かのどちらか片方の返事しか受け取るつもりはないとのことだ」
「ぐ......」
合理的に考えるなら、貸したもの自体は返ってくるぶん、貸す方にとっても悪くはない提案の筈だ。少なくとも、一銭も回収が実らないよりはマシだろうに。
思い出したかのような督促にしてもそうだが、本気で取り立てるつもりがあるのかさえ疑わしい。
「ただし、だ」
万事休す。
言葉を詰まらせる私をどこか楽しそうに見下ろしながら、さもいいことを思いついたといった様子で、その人差し指を立てるルドルフ。
思えばこのウマ娘、最初からどこか一歩引いているというか、まるっきり当事者意識が感じられない。取り立てる側なりの必死さだとか、そういうものが一切。
だいたいこれは、あくまで私とシンボリ本家との問題に過ぎないのだから、いくらそこに属する彼女といえども、結果がどう転んだところで個人的にはなにも痛まないのだろう。
そういう賭けるもののない第三者がよこす提案というのは、大抵ろくなものではない。
果たして、そんな私の予感は的中する。
「ただしトレーナー君。君が私の言うことを聞いてくれるなら..........そうだな。母に口添えしてやらんこともない。どの程度肩を持つかは、君の態度次第だが」
「......結局いつもと変わりないんじゃないか、それ」
むしろこれまで、ルドルフのお願いを私が断ってきたことがあるだろうか。
いや、ないわけではないのだが、しかし片手の指で数えられる程度だろうに。もっともそれは、生徒会長としての立場やチームの仲間の手前、ルドルフ自身が自制していたことも大きいが.....
......ああ、なるほど。そういうことか。
「そう。同じじゃないさ。私は我慢はしないし、君を気遣うこともない。勿論、君は絶対服従。今のうちに私が喜ぶ言葉を考えておいたほうがいいぞ」
「......期間は?」
「そうだな。うん。私が実家を誤魔化しきれなくなるまで、としよう」
それは、始めるも終わるも全てルドルフの胸先三寸で決まるということ。
ともすれば、無期限よりもいっそうたちが悪い。
だとしても、他に選べる道なんてないわけで。
やむなく頷いた私を前に、ルドルフは笑いながら大きく頷いた。
「さて、取引成立だな」