当たり前の話だが、中央レースはなにも東京だけで行われるわけではない。
北は北海道から南は福岡まで、日本全国津々浦々におよそ10箇所のレース場が設けられており、各々の日程に合わせて府中から現地入りすることとなる。
その移動手段についても様々だ。
交通費に関しては学園側から補助金が貰えるため、基本的に費用の大小よりも担当ウマ娘に合うか否かで選択することになる。
とりわけレース直前のウマ娘は精神的に張り詰めているため、いらぬ負担をかけないように移動一つとっても細心の注意を払うのがトレーナーとしての役目なのだ。
とはいうものの、大抵の場合はそこまで悩むようなものでもない。数時間で向かえる程度なら電車や高速バス、あるいは自家用車。それ以外では新幹線やフェリー等を使うのがセオリーとなる。
いくら補助が降りるとはいえ、コンパクトに済ませられるなら済ましたいというのが正直な気持ちというもの。それに使い慣れた移動手段の方が、本番を控えたウマ娘としても緊張せずに済むだろうから。
もっとも、あまりにも遠く離れた場所だとそうもいかない。
とりわけ北海道ともなると、用いる交通機関は専ら飛行機となる。たとえ、ウマ娘自身がそれを拒絶しようとも。
「ねぇ、トレーナー。ねぇって………やっぱり止めない?新幹線で行こうよ。それかフェリーでも」
「駄目だ。余りにも遠すぎるし時間もかかる。目的地に着いたらゴールの旅行じゃないんだ。むしろ到着してからがスタートなのに、行きだけで体力を使ってどうする」
「うぅ~」
イヤイヤと頭を振りながら、必死で私の腕にしがみついてくるのは、私の担当である三冠ウマ娘ミスターシービー。
トレセンを出発してからここ羽田空港に着いた後までずっとこの調子だ。運転中も助手席からひたすら私のスーツの裾を摘まんでいたし、下車して歩き始めてからはタコみたいにしつこく引っ付いてくる。
だからといって引き返すわけにもいかないので、私はズルズルと彼女を引き摺りながらエントランスを進んでいった。
シービーがその気になれば私を引き留めることなんて訳ないので、彼女とて本気で抵抗しているけではないのだろう。
現実を受け入れつつも、最低限反抗の意を示さなくては気が済まないといった所だろうか。
「ならバスとかさ………ほら、あそこにたくさんバス停あるじゃん。ね、待ってればすぐに来るよ」
「来るだろうけど、その中に札幌行きのものは一つもないと思うぞ。それに尚更時間もかかるだろうに」
「じゃ、じゃあ駐車場まで戻ろっか。トレーナーの車で札幌まで」
「駄目だ。長期休暇の一人旅じゃあるまいし。そもそも君の場合、ようやく爪の具合も良くなった所なのにあんな狭い席に長時間押し込むわけにはいかないだろう。下手したらまた走れなくなるぞ」
「そ、それは………そうだけど……でも」
その後に続く言葉はなく、シービーはただ力なく項垂れて黙り込んでしまった。
菊花賞の後からどうにも彼女は爪の具合が悪かったらしい。少なくとも私のチームへと移籍した時点においては、レースパフォーマンスにかなりの影響が生じる程度にまで達していた。
かなりしつこく根を張っていたその故障も、懸命な治療の甲斐あってようやく寛解へと至ったところ。再びレースに挑むことが出来るのは大変喜ばしいものだが、ここで再度悪化してしまえば元も子もない。
故に今回の遠征では慎重に慎重を期して、移動時間の少ない上に余裕をもって足を伸ばせる飛行機の席を買っていた。それに伴う心理的負荷と衡量した上で、なおこちらの方がマシという判断である。
自分の体のことだ。そんなことは他ならぬシービー自身が一番よく理解している筈だ。
それでもこうして駄々をこねるのは、ひとえに彼女の苦手意識によるものである。
「ほら、アナウンスもかかっているから……さっさと行くよ。ここ搭乗口から結構離れてるんだから、いつまでもひっつかれていると間に合わないかもしれないでしょ」
「!!……つまり、ずっとこうしてひっついたままなら飛行機乗らずにすむってことなの?なんだトレーナー、それならそうと早く言ってくれればいいのに」
「そしたらレースにも出走出来ないけどね。ほら、いい加減諦めるんだ。折角の君の復帰試合なんだから」
「むぅ~~!!」
シービーは、飛行機が苦手だ。
正確には飛行機に限らず、地面から浮くもの全般が怖いらしい。パラグライダーは言わずもがな、ロープウェイや遊園地のジェットコースターに観覧車、果ては学園のエレベーターに至るまで。さらに飛行機程ではなくとも、地面ではなく海上を走る船舶もまた苦手としている。
基本なんでもそつなくこなせる彼女において、およそ唯一と言ってもいい弱点がこれだった。
その点ルドルフは図太いというかなんというか、飛行機でも狭苦しいバスの席でも涼しい顔で長距離移動に耐えられるので全く手を焼かないのだが。シービーの場合は遠征においても一定の配慮が求められる。
もっとも、逆にルドルフが散々駄々をこねる注射についてはシービーは全く抵抗しないので、別に彼女だけが特別手のかかるウマ娘というわけではないのだけれども。
「こっちにはマスコミが張り込んでなくて助かったな。危うく君の情けない姿が週刊紙の三面を飾るところだった」
「ふん。別に撮りたきゃ撮らせておけばいいのに。そうすればトレーナーの鬼畜な正体が全国に暴かれたのかもしれないのにね?」
「どこが鬼畜だ。どこが」
ゲートが見えてきたので、ジャケットから搭乗券を取り出し一枚をシービーに押しつける。のろのろとした動きで彼女はそれを受け取り、何度もじっくりとそれを眺めた後そっとため息をついた。
この飛行機で向かう先は新千歳空港。そこにはスポーツ関係のメディアが顔を揃えて待ち構えているのだろう。府中から乗り込んでくるウマ娘が目的だが、中でもシービーは最大の獲物に違いない。
少なくともそこに着くまでには、いつものシービーに戻ってもらわなければならない。
もっともそのために私が出来ることなど、精々隣の席にいてやることぐらいしかないのだが………。
◆
「当機はもう間もなく離陸致します。座席の上のランプが点灯している間は席を立たず、しっかりとシートベルトを締めて頂きますようお願い申し上げます」
無機質なアナウンスが機内を包み、それと同時に吊り下げられたテレビが一斉に起動する。
流れているのは緊急時の対処方法。天井から酸素マスクが降下するので、それをつけてどうのこうのという説明が流れ続ける。学生時代に修学旅行で初めて搭乗した時から全く変わり映えのしない映像。
今となってはなんの感慨も湧かないものだが。しかし当時はそれを見てやんやと囃し立てたものだ。丁度、隣に座っている彼女のように。
「緊急時の対応だって。でもあんな高いところから落ちちゃったらさ、もうマスクがどうのっていうより完全に運だよね」
ケロッとした様子で適当なことをのたまう隣のシービー。もう完全に引き返せない所まで来てしまったため、一周回って吹っ切れたらしい。
気持ちとしてはマルゼンスキーの車に乗せられ、シートベルトを締めた直後といったところだろうか。どうせ逃れらぬ現実ならいっそのこと楽しもうという心持ちは大変よく分かる。確実にその後になって後悔するところも含めて。
期待と興奮故にはしゃいでいた学生時代の私とは異なり、彼女のそれは無理やり自らを活気づけるためのものだ。
その奮闘を汲み取って、こちらからも気持ちの紛れるような話題を提供してみることにした。
「そういえばシービー、君もたしか北海道出身だったな」
「そうだよ~。といっても、南の方だからあまりトレーナーには馴染みもない場所だと思うけど」
「そうか。なんにしても一度は顔を見せておきたいものだな。折角札幌まで行くんだから、レースのついでに寄ってみるのもいいかもしれない」
そう告げた瞬間、シービーが呆れた様子で私の顔を覗き込んできた。
探るような目でこちらをしばらく観察した後、どうやら本気らしいことを悟って信じられないとばかりに首を振る。
「………前にもね、アタシが自宅療養していた時のことなんだけど。ルドルフも似たようなこと言っていたよ。結局あの子は数日がかりでこっちまで来てくれたけどね。いずれにしても"ついで"で寄れるような場所じゃないようちは」
「あぁ、やっぱり距離が………。でも裏を返せば、時間さえかければ君の実家までは行けるというわけか」
「なにトレーナー、そんなにアタシの実家に行きたいの?お父様もお母様も一度会いたいって行ってたから、きっと歓迎してもらえると思うよ。でも、わざわざ数日かけてやるのが実家帰りというのも………他に行きたい所とかない?案内するよ?」
「そうだな………やっぱり北海道といえば、ばんえいレースも見ておきたいかな。帯広には空港もあったはずだし」
「あるにはあるけど、これまた一大遠征になるね。アタシとしては二回目だから別にいいけど……」
「二回目?」
「さっき言った、ルドルフが家に来たときもね。同じこと聞いたらやっぱりばんえい見に行きたいって。ホント二人とも似た者同士だね」
「ああ~そうか。そういえば、ルドルフもそんな感じのこと言っていた気がする」
そうだ、思い出した。
以前二人で地方レースについて議論を交えていた時、参考までに実際のばんえいレースの様子を教えてくれたことがあったんだった。
二人ともお忍びなので、そこまで近くでは観ることが出来なかったらしいが。まぁ、中央の三冠ウマ娘二人が揃って訪れたと分かれば間違いなく大騒動になるので仕方ないだろう。
「きゃっ!!」
そう記憶を漁っていると、不意にシービーが小さく悲鳴を溢した。
ハッとした様子で口元を両手で押さえつけ、横目でこちらを確かめる。聞かれていたと分かった瞬間、頬を赤くして廊下側に顔を背けてしまった。
そんな彼女の姿など意にも介さず、ゆっくりと飛行機は滑走路を進んでいく。
空港の建物を正面に捉え、そのまま横を向いて通過し、一度だけ管制塔を視界に納めた後………翼を揺り動かしながら、ついに地面から脚を離した。
そのことを確認して、窓の日除けをしっかりと下ろす。これで、少なくとも私達の席からは外の様子は目に入らない。
「ほらシービー。窓からはもうなにも見えないから……こっちを向いた方がいい。その方向だと反対側の窓から空が見えるぞ」
「うん、分かった。そうする。ありがと」
くるりと反転し、そのまま彼女の淡い青色の瞳がこちらを向いた。水面のせせらぎのように、不規則に細かく揺れてその不安に満ちた内心を露にしている。
「そういえば、詳しく聞いたことはなかったな。シービー、どうして君はそこまで飛行機を怖がるんだ?昔事故に遭ったわけでもないんだろう?」
そういった、いわゆるトラウマになり得る事故や事件の有無は担当契約時にトレーナーへと伝達がなされるものである。
しかし私の知る限りにおいて、彼女には乗り物に関連した遭難の記録はなかった筈だ。彼女自身が隠している場合であればまた話は別だが。
「うん………別に嫌なことがあったわけじゃない。ただ落ち着かないんだ。なんというか、こう、地に足の着いていない感覚が堪らなく怖い」
「それは、君がウマ娘だからかな?」
「たぶん。足はアタシ達にとって最大の武器だから、それが使えなくなったら本当に怖いんだよ。丸裸で戦場に放り出される気分。なにか起きても、逃げることすら出来ないから………それにほら、トレーナーだって守れないし」
「別に、自分の身ぐらい自分で守れるよ……。私だってほら、大人だから」
「どうだか。トレーナーは目を離すとすぐどこかに行っちゃいそうだもの」
クスクス、とからかうように笑うシービー。しかしその顔色はどうにも優れない。
あくまで彼女の爪次第ではあるが、次からは陸路での移動方法をしっかりと模索しておこう。時間や費用についてもまぁ、学園側に一度話を通せば問題にもなるまい。その程度の発言力は、この数年間でしっかりと獲得しているつもりだった。
そっと、彼女の膝からその手をとり、少し強めの力でぎゅうっと握りしめてやる。
人間にとっては少々痛いぐらいの力加減であっても、ウマ娘である彼女にとってはなんでもないようだった。
それでも全くの無関心とはいかないようで、ほんのりと彼女の顔に色が戻っていく。
「なら、君のトレーナーがいなくなってしまわないように。しっかりと手を繋いでおいてくれるかな、ミスターシービー?」
「……ふふ。うん、もちろん。勝手にどこかに消えちゃうなんて許さないから。アタシ達の足がもう一度土を踏むまで、ずっとこうしておいてあげる」
そう笑いながら、シービーもまたその手を力強く握り返す。そのままこてんと、隣に座る私の肩に頭をもたれてきた。
ゆっくりとこちらの頭に押し当たる、ミスターシービーのアイデンティティたる白い帽子。
その隙間を縫うようにして、ピシャリと彼女のウマ耳が私の頬を叩いた。