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昨日ルドルフの部屋へ案内された時は、さぞ贅沢なものだと感じたものだった。
だが、その認識はどうも甘かったらしい。よく考えれば、防空壕を改造したというあの地下室なんかよりも、屋敷のちゃんとした部屋の方が優れているのは当たり前の話だったか。
そして僕は今、そんな数ある部屋の中でもとりわけ上等な客室で朝を迎えた。
カーテン越しに鳥の鳴き声が鼓膜を揺らし、徐々に意識が水面へと浮上していく。
どうにも首の座りが悪く感じて、仕方なく重い瞼をこじ開ける。
「………うわ」
その瞬間、視界いっぱいに広がるサンデーサイレンスの満面の笑顔。
思わず心臓が跳ね上がり、異常事態を察知した脳みそが凄まじい勢いで冴え渡っていく。なるほど、目覚ましとして期待以上の性能だということか。
完全に目を醒ました僕は、指を組み両腕を限界まで持ち上げて伸びをした。
昨日まではしつこく残っていた肩の重みも、この客室で一晩過ごしただけで嘘のように消えてなくなっている。
正直、ルドルフよりも扱いがいいことに若干の居心地の悪さを感じなくもないが、とはいえ彼女は自分の意思であの環境を選んだのだから気にしても仕方がないか。
「お目覚めでしょうか」
体をほぐし終えた直後、丁度いいタイミングで部屋の扉がノックされる。
慌てて着崩れていた寝巻きを直しながら返事をする。
「……どうぞ」
「失礼します」
顔を見せたのは、昨日僕を案内してくれたあの警備隊長。
朝からきっちりとスーツを着こなし、腕には着替えを一式抱えている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ええ、それはもう。それはそうと、貴女は警備隊長の他に侍女も兼ねてるんですか?」
「いえ、ちゃんと侍女なら他にいますよ。私の仕事はあくまで警護と治安維持なので。ただ、奥様が見知った顔に側仕えさせた方が気疲れしないだろう、と」
「つい昨日顔見知りになったばかりですけどね。そもそも私は貴女の名前すらまだ知りませんし」
「シンボリカストルと言います。以後お見知りおきを……ああ、貴方の自己紹介は結構ですよ。既に奥様から伺っていますから」
「そうですか」
「あ、着替えここ置いておきますね。どうぞごゆっくり」
「ええ、ありがとうございます」
彼女が退室したのを見計らって、新しい服に袖を通す。
用意されたのは昨日までのシャツとズボンではなく、ジャージとランニングシューズだった。恐らく、昨日ルドルフと交わした約束が既に他の者にも知られているのだろう。
カーテンを開き、窓から外を覗くと空には薄く雲がかかっている。
今日はあの直射日光に晒されずに済みそうで少し安心した。晴でも雨でもなく、太陽だけが隠されたこの曇り模様は、外で走り込みをするには絶好の天候に違いない。
靴を履きかえ、スマホをジャージのポケットに突っ込んで僕も部屋の扉を開ける。
「おはよ」
「わっ」
その瞬間、横から思いきり抱きつかれる感覚。
見ると、僕と同じくジャージに着替えたルドルフが腰のあたりにしがみついていた。
初対面の時と全く同じ格好だ。
「あっ、ここウチで一番いい部屋じゃん」
「やっぱりか。だとしてもどうしてそんなものを僕に」
「お客様だからじゃない?丁重にもてなされてるんだからありがたく受け取ってよ」
「ありがたいにはありがたいんだけど若干重いんだよな」
「わがままだなぁ」
彼女は腰に抱きついたまま横から前へと回り込むと、今度は僕の腹に顔を埋めてぐりぐりと押し付けてくる。
傍から見れば小さい子が甘えている可愛らしい光景だが、しかしそこは幼くともウマ娘であるルドルフのこと。臓腑にかかる圧迫感がとんでもない。
まだ朝食前の、胃の中になにも入ってない状態でつくづく助かった。
ぽんぽんと、タップアウトのように彼女の背中を叩く。しかしその手はあえなく尻尾で払い除けられてしまった。
「ぐ……ちょっと、ルドルフ。苦しいから離れてくれるかな」
「や!!」
「わっ……!?」
ルドルフはそのまま目一杯突進し、僕を力ずくで部屋の中まで押し戻す。
二人の体が完全に扉を潜ってもその勢いは止まらず、しまいにはベッドの上にまで押し倒されてしまった。
若干えづきながら上半身を起こすと、抗議する間もなく彼女は再び部屋を出ていってしまう。
なにがしたいのかと訝しみながら見守っていると、すぐにキッチンワゴンを牽きながら再びこちらに戻ってきた。通りすがらに手早く扉を閉めて鍵をかける。
「感心しないな。仮にも男女が鍵のかかった部屋で二人きりなんて」
「襲うような度胸お前にはないでしょ。もしあったところでヒトの男なんか返り討ちにしてやるから」
ワゴンの上でポットから茶を注ぎ、朝食の乗ったプレートと共にこちらへと渡される。
ベッドの上で手をつけるわけにもいかず、とりあえず近くのテーブルまで移動して座ると、ルドルフもまた自分の分を用意して対面に腰かけた。
揃って手を合わせ、朝食にありつく。
二人きりで食事をとるのは少々居心地が悪かったので、それを誤魔化すためにテレビを点けると、丁度今日の天気予報の真っ最中だった。
「夕方からは雨か。まぁそれまではずっと曇りだから別にいいけど……あんまり湿気ているのもそれはそれでキツいな」
「昨日の夜も降ってたみたいだからね。だから昨日よりはもうちょっと涼しいと思うよ」
「そもそも夏自体、あまりレースやトレーニングには向いてないと思うんだけどね」
「だからといってサボってるわけにはいかないでしょ。そういえば、トレセン学園だとこの時期はどうしてるの?」
「あー……たしか、夏合宿があるとか聞いたことがあるな。各自トレーナーの引率で学園管轄の合宿所に遠征するらしい。その近くには海もあるんだとか」
「へぇ……海か。ルナも行きたいな」
「意外だな。海に行ったことがないのか君は」
「違う違う。海水浴なら何回も行ったことはあるよ。そうじゃなくて、今年の話。まだ一回も行ってないから」
ニンジンを頬張りながら、どこか思い出に浸る様子でそんなことをぼやくルドルフ。
先日から薄々感づいてはいたが、やはり彼女の本質はかなり活発で外向的だ。引き籠るという行動自体が、少なからず精神的ダメージを与えてはいないかと心配になってくる。
「お前は海には行ったことがあるの?」
「何回かね。ただ日本よりもアメリカで見たことの方が多かったかな。まぁどちらも太平洋だったから、見てるものは同じだけど」
「ふぅん。ルナも西海岸なら何度も行ったことがあるよ。お祖父ちゃんが連れてってくれたの」
「僕の場合は母さんだったけど」
「母さん……って誰なの?やっぱりウマ娘?」
その疑問に、僕は無言でベッドの上にあるぱかプチを示してみせる。
ルドルフの提案通りに抱き枕となったそれは、相変わらず陽気な笑顔を湛えながら枕の隣で横たわっていた。
「ほんと?それにしては目の色が全然違うけど。髪だって青鹿毛じゃないし」
「血の繋がりがあるわけじゃないからね。あくまで育ての親ってだけだよ」
「へぇ……なら、本当のお母さんはどうだったの?その人もやっぱりウマ娘だったのかな?」
「顔も名前も知らないからなんとも言えないけど……まぁ僕としては十中八九そうなんじゃないかと思う。隔世遺伝という可能性も、なくはないかもしれないけれど」
「会いたい?」
「いや………特には。僕には母さんがいるから、別に」
「ふぅん」
よく分からないといった様子で頷くルドルフ。
血の繋がった家族に囲まれて成長してきた彼女には、理解の及ばない話なのかもしれない。
とはいうものの、別に僕自身とて愛情に飢えながら生きてきたわけではない。
母もあれでいて彼女なりに愛情は注いでくれているし、カフェや兄さん、他にも孤児院やレース教室の生徒たちだっている。それら全てをひっくるめて一つの大家族のようなものだから、むしろ他者との交流は人並み以上のものがあった。
そう考えると、使用人含め大勢の者が生活するこの屋敷もまた一つの大家族といえるのではないだろうか。その意味では、僕とルドルフは実のところ似た者同士なのかもしれない。
「そういえば一つ、今の話で引っかかったところがあるんだけど」
「なに?」
「よく僕と母さんの瞳の色が違うって分かったな」
ベッドの上にあるぱかプチは両目を閉じているから、毛色と違ってその瞳の色までは分からないはずだ。
たまたま昨日、別の表情のぱかプチを見つけていたか……それとも、本物を写真や映像で見たことがあるのだろうか。
あれでも有名人だから、そんなことがあっても全く不思議ではないが、少し気になる。
「数年前に一度だけ、本物を見たことがあるから。遠くから一瞬だったけど……目の色はたしか、金色だった」
「正解。それにしても数年前か、よく覚えてるな」
「私は一度見た顔は絶対に忘れないの。そういえばその後、お母さんが約束してくれたっけ。ルナがもう少し大きくなったら、今度はちゃんと会わせてあげるって」
「会ってどうするんだ。そんな楽しいものじゃないぞ」
「楽しいよ。一緒に走ってもらうの……昔アメリカで随分活躍してたんでしょ、そのウマ娘」
「………ひょっとして、その今度が昨日のことだったりする?」
「そうかもね」
思い返せば、スイートルナは最終交渉の場に母がいないことがかなり不服そうな様子だった。
しかしあんな、母の言ったとおり形式的にただサインを貰うだけの場面において、果たして本当に本人が必要だったかについてはいささか疑問が残る。
つまり彼女の真の目的は、他ならぬサンデーサイレンスにルドルフの引き出しを任せることだったのではないか。
そしてそれを予め察知していた母が、無理やり僕を身代わりとして交渉の場に向かわせた……と。
契約の更新はしたいものの、かといってそんな面倒は真っ平ごめんな彼女にとっては都合のいい人選。そういえば、ルドルフの写真を寄越してきた時に、屋敷で会うことがあるかもしれないとかなんとか言っていた記憶がある。
「嵌められた………」
「なに、どうしたの?」
「いや……ところでルドルフ。やっぱり昨日は僕よりサンデーサイレンスが来た方がよかったのかな?」
「え?うーん……どうだろ。でも、優しそうだからお前の方がいい気がする。あの人はなんか猫背だし、目つき悪いし、いつも機嫌悪そうだし」
「でも僕と違って足が速いし、いっぱい走れるぞ?」
「お前だって走れるでしょ。なんのためにジャージに着替えたと思ってるの?」
それは、僕にサンデーサイレンスと同じ程度の走りを期待しているということだろうか。
ニワトリに空を飛べと命じるに等しい所業だと言わざるを得ない。しかしルドルフは平気でそんなことをしそうな印象もある。とりあえず、足だけは絶対に壊さないように気をつけよう。
彼女には悪いが、こんなことのために体を潰す気まではさらさらない。
ヒトはウマ娘と違って走りたがりな本能もないわけだし。
「まぁ、それは食事の後ということで……。折角だから、ルドルフの家族のことも聞かせてよ。たびたび話に出てくる兄姉のこととか」
「姉さん達のこと?いいよ」
デザートのリンゴを頬張りながらルドルフは縦に首を振る。
昨日買ったばかりのアクセサリーが、それにつられて耳元で揺れた。
「といっても、兄さんの話はあまり面白くはないと思う。いずれ家のお仕事を継ぐから、別にトレーナー目指してるわけでもないし」
「ならお姉さんは?ウマ娘なのか?やっぱり中央で走ってたりするのかな」
「少しだけね。全然結果が出ないからすぐに辞めちゃったけど……代わりに今は中央トレーナー目指してるんだって」
「まぁ、よくある話だな。競技者として芽が出なくても、指導する側に回れば花開くウマ娘は多い」
「その逆も多いけどね。姉さんは今、友達と勉強会の合宿中」
「トレーナー試験に向けた対策かな?僕の兄さんもそういえば泊まりがけの勉強会だったな」
彼も中央のトレーナーを目指しているわけだが、まさか同じ合宿に参加しているのだろうか。
……流石にそれはないか。いくらなんでも世界が狭すぎる。
「そのお兄さんとは血は繋がってるの?」
「いや、兄さんと………その妹もいるけど両方血は繋がってないよ。どっちも母さんの実の子供」
「へぇ、あの人に娘がいるの。その子はウマ娘なの?」
「うん。母さんと同じ金色の目と青鹿毛のウマ娘。名前はマンハッタンカフェと言って……彼女も中央を目指してるよ」
「ふぅん……なら、あと数年したら会えるかもね。トレセン学園で」
「その時は仲良くしてあげてよ」
「それは向こう次第だけど……どうせあの人に似て変わったウマ娘なんでしょ。なら付き合うのもきっとおかしなウマ娘だけだよ。類は友を呼ぶって言うでしょ?」
初めて名前を知った相手に、これまた随分な言い様だ。
少なくとも現時点において、ルドルフには友人すらいないわけだが。
「その言葉、そっくりそのまま返ってこないといいけどね。学園に入れば君も変わった友人に振り回されるかも」
「冗談。ルナをからかえるウマ娘なんて存在するわけないでしょ。将来の姉さんのトレーナーバッジを賭けてもいい」
「実の妹に勝手に担保にされるとは……お姉さんが知ったらなんと思うか」
「知らない。ルナに妹はいないから」
「なら、君にも妹が出来れば少しは落ち着いた性格になるのかな。想像つかないけど」
「いいねそれ。お母さんにクリスマスプレゼントに頼んでみるよ。『ルナは妹が欲しいです』って」
最後のリンゴを口の中に放り込むと、数回咀嚼して胃の中へと流し込んでいく。
少々欠片が大きすぎたのか苦しげに顔をしかめた後、何度か胸を叩いてルドルフは椅子から立ち上がる。
既に食べ終わっていた僕もまたそれに続き、彼女のプレートと重ねてワゴンの上に置いておく。
あとはこの家の使用人に任せておけばいい。
「んじゃ、行こっか。雨になる前に、一秒でも長く走り込まないと」
「はいはい………お手柔らかに頼むよ」
「はいは一回!!」
「はい」
落ち着いて食事をしているように振る舞いながらも、本当は今すぐにでも走り出したくて堪らなかったのだろう。
軽快なステップで僕の背後に回り込んだルドルフが、今度は逆に部屋の外へと押し出してくる。
背中側で助かったとその凄まじい圧迫感に八分目の自分の胃を省みながら、僕は突き飛ばされるように部屋の外へと躍り出た。