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名門の……というよりシンボリ家の勢力、その精到さについてやはり僕は考えが甘かったらしい。
その敷地の広大さについてはよくよく理解していたつもりだったが、まさか芝のコースが丸ごと完備されているとは思わなかった。
それともレース競技界の重鎮ともなれば、この程度の設備は自前で用意できて当たり前なのだろうか。それこそメジロでも同様なのか、将来そちらの関係者と繋がりを持てた際には是非確認をとりたいと思う。
彼女の並走やレースに付き合うといったところで、所詮家の庭で収まる程度だろうと楽観していた。
その庭の認識がおよそ現実と乖離していたことについて、今更悔やんだところでもう遅い。
「ほら、あともう一本いくよ!!」
「ぐ……はぁ……あ、あい……」
気持ちよく汗をかいたといわんばかりの清々しい表情のまま、僕の隣で足の腱を伸ばすルドルフ。
その姿を横目に見ながら、ただただ必死で息を整えていた。こうして膝に手をついたのは、一体どれ程ぶりになるだろうか。
「大丈夫?無理ならもう一回休憩挟もうか?」
「いや、大丈夫……ただ、ちょっと自分が情けなくなって」
「情けない?」
「ああ。井の中の蛙だったんだな……と」
これでも一応、自分の体力と脚力にはそれなりに自信があるつもりだったのだ。
走りという分野において、僕がこれまで全く手も足も出なかったのは母だけだった。とはいえそれも、相手が成熟したウマ娘であり、さらには米国二冠バという実績も鑑みればいくらでも言い訳は立つ。
それ以外の、もっと僕と近しい立場の人間……それこそ同じ学年の生徒なんかは、たとえば陸上部の主将であろうと下してきたし、同じくウマ娘を母に持つ兄との並走でも互角に食い下がっていけた。
故に、心のどこかで慢心していたのだろう。いくら天才とはいえ、この歳のウマ娘相手ならなんとかなるだろう、と。
もはや体面を取り繕う余裕もなく、大口を開けて全力で酸素を肺の中へと送り込む。
二、三度か地面を蹴るように足で掻くことで、ようやく失われかけていた感覚も戻ってきた。
そんな僕の様子を見かねたのか、ルドルフがやや悩ましげに眉を下げる。
「………やっぱり休もっか?」
「いや………ああ、そうだな。次の一本が終わったらそうしようか」
ルドルフに倣って僕も準備運動を済ませると、再びスタートポジションにつく。
隣に並んだルドルフが靴紐の点検を済ませたところで、先程から考えていたことを提案してみる。
「なぁ、ルドルフ。最後の一周についてなんだが……今度は3000メートルでやってみないかな?」
「え………ルナはいいけど、お前は大丈夫なの?せっかく2000メートルに慣れてきたところだったのに、いきなり1.5倍にするなんて」
並走を行うにあたって、僕たちは2000メートルを一セットとしていた。
そこに特に深い理由はなく、せいぜい最もスタンダードな中距離であるからとか、クラシック初戦の皐月賞と同じ距離だからとかいう程度のものである。
結局のところ、今日の並走の目標は僕とルドルフがそれぞれ自身の勘を取り戻すというところにあった。
そもそも普段レースに向けて運動しているわけではない僕は言わずもがな、一人でのトレーニングに傾倒していたルドルフにとっても大切なプロセスである。
ランニングマシンで走ることと、ターフで他人と走ることとではやってる行為は同じでも必要とされる感覚がまるで異なるためだ。
こんな状態ではレースどころの話ではないため、とにかく最初は並走で感覚を取り戻すことが優先だった。僕としてもようやく、体力の配分や足の使い方を思い出せてきた所である。
そんな最中にいきなり1000メートルにも及ぶ延長。
ルドルフが驚くのも無理のない話だろう。
「折角だから、長距離でのルドルフの実力も見ておきたい。無理そうだったら途中で切り上げるから、君は気にせず前だけ見て走ってくれればいい」
「ふーん……ん。分かった」
一つ頷くと、スタートライン手前でやや前傾気味に構えるルドルフ。僕もまたそれに倣う。
既に半日もこれを繰り返していたためか、最早僕たちの間にかけ声は必要ない。合図すら出さないまま、全く同時にコースへと飛び出した。
「ふっ………!!」
細く息を吐き出しながら、ルドルフはまるで泳ぐように芝の上を駆け抜けていく。
その飛び出しに迷いはない。構えた際に溜め込んだ力を筋肉に乗せて、まるで銃弾が発射されるように一切の無駄なく真っ直ぐに飛び出した。
それは最早、天性のセンスによって成し遂げられる領域だろう。
とはいえ、これはあくまでも並走。まだお互いに技術をこらして競い合うような場面でもない。事実、今のところは僕でもまだ食らいつけている。
ルドルフの脚色は衰えない。
何度かコーナーを曲がり、2000メートルへ至る最後の直線。先程までならここで終わりだが、今回はさらにその先がある。
レースにおいて、距離とは走りに最も大きく作用する要素だと言っても過言ではない。
根幹距離と非根幹距離の得意不得意はまさにその顕著な例だろうか。たとえば根幹距離である秋天2000メートルと非根幹距離であるエリザベス女王杯2200メートルでは、距離の差異はたったの200メートルしかないものの、その影響は数字以上に大きい。
たった200メートル違うだけで、走法や呼吸法も大幅に勝手が違ってくるからだ。故に、根幹距離で実績を残しても非根幹距離では全く振るわないウマ娘も多いし、その逆も同様である。
当たり前だが、突然の1000メートルの追加はそれの比ではない。
そもそも長距離へと区分すら変わるのだから、中距離で慣らしたばかりの体では普通は満足に走れまい。
今はそれでも良かった。そんな状況の中で、一体ルドルフがどのような走りを見せるかにこそ興味がある。
「っ!!…………ぐっ……」
……言うまでなく、それはそっくりそのまま僕にも当てはまることではあるが。
膝から下、特に地面と接する足の裏が痛む。繰り返された並走の末に、両足に馴染んだ距離の感覚から逸脱した結果、重い負荷となって僕の体を苛んでくる。
最終コーナーを曲がる際も、その遠心力にほんの一瞬だけ足元がふらついてしまった。
そんなこちらの様子にチラリと目線をくれるものの、しかしルドルフは一向にスピードを緩める様子はない。バテる気配もなく、淡々と最後の直線を駆け抜けていく。
そのまま僕を背中で見つつ、鋭いスパートをかけながら彼女は3000メートルの距離を踏破した。
「はぁ………う、ふぅ………」
それでも疲れるものは疲れるのだろう、乱れた呼吸を整えながらルドルフは遅れてゴールした僕の方に寄ってくる。
萎んだ肺を必死に膨らまそうと天を仰ぐ僕の手を引いて、近くにある木陰へと導いた。
「ほら、やっぱりいきなり長距離は無理があるって……はい、タオルとお水」
頷いて礼を返し、手渡されたタオルで首筋に流れる汗を拭う。ペットボトルの温いミネラルウォーターを勢いよく胃の中に叩き込むと、ようやく幾らか調子が戻ってきた。
いくら直射日光のない曇り空とはいえ、それでも夏の盛りであることには変わりない。次からはもう少し環境を整えてみようと、頭の中で今日の振り返りと反省を行う。
「それで、どうだった?ルナとの並走」
「どう……というと?」
「もう……なにかないの?走ってて楽しかったとか、私の並走相手として感想の一つぐらいあるでしょ?」
尻尾をブンブンと振り回しながら、膨らませた頬を僕へと近づけてくるルドルフ。
普段は好き勝手動くくせに、こういう時ばかりすり寄ってくるのはまるで猫みたいだなと、不意にそんなことを思った。
「感想か。当然、僕としても思ったことはある」
「本当!?……なに、なんなの」
最後の3000メートルも含めて、今日ルドルフとこなした並走の記憶を全て洗っていく。
トレーナーでもなんでもない、あくまでアマチュアとしての見解に過ぎないが……彼女の走りの特徴というものが、朧気にでも掴めてきたような気がした。
「君はかなり万能だが……強いていうなら長距離向きだな。最後のレースでも、伸びた距離を見越した上で的確にスタミナを配分していた」
恐らくだが、最初から完璧に体力の割り振りを構築していたわけではないだろう。
スタミナの消耗度合いと残されている体力について、実際に走っていく中で想定との違いを把握し折り合いをつけて完成させた。
ポジション争いに前後の動きの予測、作戦の実行と修正を同時並行で絶えず繰り返すことが求められるレースにおいて、スタミナ管理の巧みさはまさしく長距離に必須の能力である。
その点において、ルドルフには確かな素養があった。
「…………………………」
ルドルフは何も言わない。
無表情のまま、僕の感想に耳を傾ける。
「脚質は……分かり辛いけど、一番適正があるのはたぶん差しだ。レース中、周囲にも目を向けられる冷静さと、それに引き摺られない図太さ。特に末脚には目を見張るものがあるから、それを生かすためには先行よりももっと後ろに陣取った方がいい」
「…………………………………」
「ただ、かといって先行自体が苦手というわけでもなく、むしろそれも適正になり得るかもしれない。逃げや追い込みも同様に……だとすると、君の脚質は自在というのが一番適切かも………」
「……あの、さ」
現時点において僕の持つ知識と照らした並走の感想。
しかしそれは、ルドルフの欲しかったものとは全くかけ離れたものだったようで。
「私は、
「いや………そういう、つもりでは」
「だってそうじゃん。みんなの代わりにルナとの並走に付き合ってくれるって言ってた癖に……結局お前は、私の隣では走っていなかった!!ただの一度も!!」
無表情だった顔をみるみる歪ませ、ルドルフは両腕で僕の体を突き飛ばす。
幼いとはいえ、ウマ娘の全力に抗えるはずもなく……僕はたまらず地面に仰向けへと押し倒されてしまった。
手元から弾き飛ばされたペットボトルが、その中身をぶちまけながら彼方へと転がっていく。
「つまりお前は、ルナのことをただの……ちょっとかけっこが得意なウマ娘程度にしか見ていなかったんだ。良かったね?トレーナー試験のいい勉強になったでしょ?」
「ルドルフ………」
「それとも、最初からこれが目的だったのかな?お前はそんな、無償で引きこもりの社会進出を手伝ってやる程お人好しには見えないもの。お母さんから聞いてるよ………一体いくら掴まされたの?」
仰向けに空を見上げる僕の腹へとウマ乗りになり、ずいと顔を寄せて睨め上げるルドルフ。
開かれた瞳孔に、唇の間から鋭い犬歯の覗くその姿は最早ウマ娘ですらなく、伝説に出てくる化生かなにかのように思えた。
「ねぇ………教えてよ。答えて……答えろ!!!」
「ぐ、くぅ………」
僕は………見誤ったのか。
ルドルフのことを、優れた能力を備えながらもそれ故に厭世的な……どちらかといえば大人しいウマ娘だと踏んでいた。妙に大人っぽいというか、声を荒げるようなことはしないだろうと。
隠していただけだったのだ。
己の獣性、狂暴な本性に蓋をして仮面をつけて。ルドルフは断じて穏やかなウマ娘などではない……その攻撃性は比類ないものだろう。
あるいはそれを闘争心というのだろうか。事ここに至って、ようやく気づいた僕も間抜けという他ない。
「さぁ……よく、覚えていないな……」
「そう。やっぱりお金のやり取りしてたのは事実だったんだ。ちょっとカマをかけてみただけなんだけど」
「今年の契約更新もかかっていたからな」
「ああ、確かそっちの施設への援助だっけ。そのためにここまでする?ルナなら絶対にごめんだけど……そんなにお金が欲しいわけ?」
「欲しいね。それがなくちゃ生きていけないからな……僕がこの歳で、働きもせずのうのうと学校に通うためには、ね」
「………そのために、こんな茶番に付き合わされたルナの気持ちがお前には分かるの?私が昨日まで、どんな気持ちであの地下室に一人でいたのか!!」
「知らないね。分かるはずがないだろう、そんなこと」
目の前のルドルフに額をくっつけて、そのまま力ずくで上体を起こす。
地面に座り込む僕と、その腿の上に跨がるルドルフとで正面から睨み合うような格好になった。
「君だって分からないだろうさ。絶対にごめんなんて言葉が許されないものの立場が。僕だって、出会って一日のウマ娘の気持ちなんか分かるはずもない。だから、それでいいんだよ。なにもかもが君の理解の範疇にあるとでも思っているのか」
「なに、を………」
「それに、茶番とさっき言ったな?少なくとも僕は、ただの小遣い稼ぎのために君に付き合っているつもりはなかったんだが」
靴と血の滲んだ靴下を脱ぎ、ジャージのズボンを捲ってその下にあるものを露出させる。
足の裏は皮がふやけ、完全に下の肉から剥離してしまっていた。とりわけ負荷の大きかった親指の爪は内出血でどす黒く変色し、見るに耐えない様相を呈している。
シューズと擦れ合う足首の部分は赤く皮が剥け、うっすらと血も滲んでいた。
たんなる小遣い稼ぎ、あるいは興味本意の物見遊山……最初はそのつもりだった。
それがまぁ、よくもここまで入れ込んだものだ。
「え……なに、それ。大丈夫なの……?」
露になった惨状に息を呑むルドルフ。
若干腰が引けたところをすかさず横に押し出し、彼女を腿の上から退ける。
「見た目だけだよ。どうせ明日にでもなれば元通りだ。僕は人より体が丈夫だからな……まぁ、それでも君が余裕で走るこの距離で、ここまで消耗するのが現実だけど」
「………………………っ」
「だから、分かるはずがないと言っただろう。僕だけじゃない……過去の並走で潰された子やその親の気持ちだって、君には理解できないだろうが」
「それは………そうだけど」
「そして、彼女達もまた君の気持ちを分かっちゃいない。だからこそ、お互いに歩み寄るしかないんだ」
おもむろに立ち上がり、脱ぎ捨てた靴下を拾い上げる。
血と汗で汚れたそれらにもう一度足を通すのも躊躇われたので、仕方なく素足のまま靴に指先を突っ込んだ。
もう今日の並走は切り上げだろうし、これで妥協しよう。
「ルドルフ。明日もう一度、あのグラウンドに行ってみないか?いい加減ここも走り尽くしたし、そろそろ環境を変えてみたい」
「でも、ルナは入っちゃ駄目だって」
「あんな一方的な出禁に効力なんてあるものか。それにズルいかもしれないが、あの係員ならやり方次第で幾らでも絆されてくれそうだし」
「……行ったところで、どうせ私は誰からも相手されないよ。一緒にいるお前だって」
「分からないぞ。もしかしたら一人ぐらい、僕たちに絡んでくる輩がいるかもしれない」
木陰から一歩踏み出した瞬間、不意に強く鼻先を叩かれる。
見上げると、空は分厚い鉛色の雲で覆い隠されていた。そこからぽつぽつと、大粒の雨が溢れ落ちて顔を突き刺す。
それはみるみる内に勢いを増し、すぐにバケツをひっくり返したような凄まじい豪雨と化し世界から僕たちの姿を覆い隠した。
「いこっ。早くお屋敷の中に戻らないと」
「こら、そんなに腕を引っ張るんじゃない。こっちは怪我してるんだから、もう少しゆっくり……」
「濡れたくないもん。それに見た目だけなんでしょ?ほら、染み込むと傷に障るから早く」
強すぎる雨はまるで靄のように視界を遮る。
それでも、遠く屋敷の窓からカストルが手を振っているのは見えた。
彼女を目印に、僕たちは二人並んで屋敷の玄関を目指し走る。
正真正銘、本日最後のルドルフとの並走だった。