シンボリルドルフに逆らえないトレーナー君の話   作:くまも

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ルナちゃんのなつやすみ『2日目:夕方』

◆◇

 

昼に降り始めた雨は日が暮れても一向に収まる様子を見せず、それどころかますます勢いを強くしているようだった。

このぶんでは、どのみち明日は庭のターフは使い物にならなかっただろう。

 

夕食を済ませた僕とルドルフは、今は二人揃って屋敷の地下室にいる。

どうせ部屋の中に籠るなら、こんな土の下よりも上階に戻った方が快適だと思うのだが、彼女はなにがなんでもここから動くつもりはないらしい。

あれだけ意地を張っていた手前、もう引き返すことすら出来なくなっているのかもしれない。難儀なものだ。

 

ソファの上で横になりながら、テレビの映像をただぼうっと眺めていく。

地方の祭りが盛況だの、海開きで今年も大勢の観光客で賑わっているだの、雨でも幼児とお年寄りは熱中症に注意だの、たいして目ぼしい情報もないニュースコーナーが終わったと思ったら、今度は天気予報の時間。

全くも面白くもないが、とはいえチャンネルを変えることすら億劫なので好きに喋らせておこう。

 

「明日は………晴れか。止むんだな、ちゃんと」

 

雨天だからといって、恐らく僕たちの並走が中止になるわけではないだろう。ルドルフがそれを許さないと思う。

そもそも実際のレースからして、雨の日でも雪の日でも当たり前のように行われるものだ。台風でも直撃したならともかく、この程度の雨で練習は切り上げられない。せいぜい時間が短くなる程度だろうか。

そんな無茶が通用するのも、ひとえに彼女らウマ娘の体温の高さのによるものである。彼女たちの体表では、雨水もその体温により蒸発し靄となって全身を覆う程である。少し激しい程度の雨なら、むしろ涼しくて大歓迎だとこの時期なら言うかもしれない。

それもまたウマ娘という存在が、極めてヒトに酷似しながらも、その根底において決定的に異なる生物であることの証左だろうか。

 

そんなことをつらつらと頭の中で思い浮かべながら寝っ転がっていると、ソファの後ろにある扉が音を立てて開かれる。

 

「お待たせ。お風呂空いたよ」

 

「いや、僕は使わないからね?ここに来る前に大浴場を借りてきたところだし」

 

「せっかくお湯張っておいたのに。まぁルナが使った後だけど……もう一回入ってきたら?」

 

「やだよ。一時間に二回もなんて」

 

この家の主人たっての勧めということもあり、お言葉に甘えて久しぶりに長い時間浸かってきたところだったのだ。

そうでなくとも日中あれだけ激しく体を動かしたことだし、これ以上汗をかくようなつもりはない。

 

「お風呂なんて入れば入るだけいいものじゃないの」

 

「肌が荒れるだろ。人間にとってはわりと一大事なんだよ。まぁ、君たちには縁のない話かもしれないけども」

 

「まさか。ウマ娘だって肌荒れぐらいするよ普通に。じゃなきゃウマ娘専用の化粧水なんて売ってるわけないでしょ」

 

呆れたようにその形の良い眉を下げるルドルフを前に、僕は少しだけ感慨深いものを覚えていた。

彼女たちにもそういう悩みがあるとは知らなかった。なにせ日頃、あれだけ不摂生している母には微塵もそういった兆候が見られない。単純に、彼女だけが異常なウマ娘だったということなのだろうか。

 

ぶかぶかのタンクトップに袖を通し、タオルを首から提げたルドルフは、冷蔵庫から水を取り出すと軽快な動きでソファを飛び越えてくる。

そのまま僕の隣に着地すると、スリッパを履いた足でどいてとこちらを軽く小突いてきた。

 

「仮にも人の部屋だというのに、よくもまぁそこまでふてぶてしくくつろげるね」

 

気楽にしろと言ったのは彼女の方だろうに。

横たえていた身を起こすと、そこに埋まれた空間にルドルフはすっぽりと収まる。タオルで水気を拭うたび、爽やかなシャンプーの香りが鼻を貫いた。

 

「ちゃんとドライヤーで乾かしたのか?水気が残ったままだと寝癖が酷くなるぞ。特に君は毛量が多いから」

 

「えー面倒くさい……じゃあ、お前がルナの髪の面倒を見てよ。せっかくここにいるんだから」

 

なにが折角なのかは分からないが、どうやら彼女は僕のことをとことんまでこき使うつもりらしい。

 

今度はこちらがソファから立ち上がり、その後ろへとまわる。

つい先程彼女が出てきたその扉を開き、脱衣場へと続く途中にある洗面台を覗いた。

すぐにボックスの上にぽつんと寂しく横たえられたドライヤーを見つけたので、ケーブルをコンセントから引っこ抜いてぶら下げたまま居間へと戻ると、その隙にルドルフはだらしなくソファの上に寝っ転がっていた。

 

頬杖をつき、ちびちびとペットボトルに口をつけながらテレビを眺めるその姿には、およそ少女らしい可憐さや純朴さは欠片も見受けられない。

僕とは比べものにならないぐらいのふてぶてしさというか、いっそ貫禄じみたものすら感じられた。要するに親父臭い。

 

「……これは将来が心配だな」

 

「なに?なんか言った?」

 

「お付き合いで苦労しそうだと言ったんだ。別に女の子らしくおしとやかにしろなんて時代錯誤なことを言うつもりはないけどね……君と懇ろになる殿方はさぞ大変だろうよ」

 

「もしそうなってもお前が貰ってくれるんでしょ?なら、今の内に慣れておきなさいよ。一生幸せにして頂戴な」

 

頬杖を崩し、頭の後ろで手を組んでごろんと仰向けになると、ルドルフはにやにやとした笑みを浮かべながら楽しそうな口振りで僕をからかう。

その尻尾がゆらゆらと揺れたかと思うと、まるで蛇のように片足へと巻きつけてきた。

 

相変わらず弁が立つというかなんというか、どうも口のやり取りでは彼女には敵わないらしい。

それでも黙って引き下がるのは癪なので、手にしたドライヤーの持ち手でその頭を小突く。

 

「このっ」

 

 

「ぎゃおおん!!!!」

 

 

効果覿面。

まるで尻尾を踏まれた猫のような鳴き声を上げながら頭を抱えてしまった。

体を丸めたついでに尻尾の戒めも解かれたので、これ幸いとばかりにルドルフの小さな体を抱き上げる。

 

「ちょっと、なにするの!!お父さんにもぶたれたことないのに!!」

 

「なにって、髪の手入れをしろと命じたのは君の方だろうが。ならちゃんと大人しくしていろ」

 

「だからって、こんなペットサロンのカットみたいに雑に扱わないで!!」

 

「ペットサロンのペットの方が、今の君よか何倍も聞き分けがいいだろうよっ……!!」

 

涙目でこちらへ振り向きながら、その細い手足をじたばたとさせるルドルフ。

たかが九歳と侮るなかれ。これまでの人生で抱え上げてきたどんな生物にも勝る強敵に違いない。幼く華奢な肢体にこれほどまでの力が詰まっているとは、それもある種の生命の神秘だろうか。

 

抵抗するルドルフをなんとか拘束し、生まれたソファの隙間へとすかさず身を滑り込ませる。

どうにか膝の上に彼女をのっけることに成功すると、近くにあったコンセントにドライヤーのケーブルを突っ込んだ。

ついでにウマ娘用のブラシも用意する。両方とも手の届く範囲にあったのは幸運だった。

 

「ほら、今度こそちゃんと大人しくしててよ。じゃないと引っこ抜けるからな」

 

「……はーい」

 

むくれた様子で頬を膨らませながら、僕の膝の上で両足をプラプラとさせている。

二人の間に挟まった尻尾だけが、せめてもの反抗の意を示すかのように手首へと巻きついてきた。

 

それを振りほどきながら、温風で水気を飛ばしつつ丁寧にその鹿毛をブラシで鋤いていく。

ドライヤーの出力を徐々に強めてみると、その風が当たってくすぐったいのかパタパタと両耳を上げ下げしている。

ウマ娘の耳はヒトのそれよりもデリケートだ。さらに側頭部ではなく頭の頂上に並んでいる構造上、水滴が中に入りやすく乾きにくい。かといって、放っておけば最悪炎症にも繋がりかねない。

ヒトよりも耳の位置が脳に近いウマ娘にとって、炎症を始めたとした耳の病はそのまま命に関わりやすい。菌が容易く脳へと到達してしまうからだ。故に、手入れはことさら入念にしておく必要がある。

 

基本的にヒトより優れるウマ娘といえど、決して良いことばかりではないのだ。

その頑丈さに胡座をかいていると、後から手痛いしっぺ返しを食らうことにもなりかねない。

 

「あっ………やめて。そこ、くすぐったい……」

 

「我慢してくれ。ちゃんと乾かさないと駄目なんだから」

 

「う………うぅん……」

 

暴れまわるウマ耳を摘まんで固定すると、その表面をタオルで拭っていく。

流石に奥深くまで指を突っ込むわけにはいかないので、優しく息を吹き掛けてやるとルドルフの体が小刻みに震えた。

 

「はぁっ………」

 

それでも諦めず世話をしていると、ついに耐えきれなくなったのかルドルフは前のめりにその上半身を丸めてしまう。

 

その瞬間、サイズの合っていないタンクトップの隙間から、彼女の白い背中が露になった。首筋から肩へ、さらにその先の腕へ流れる曲線も外界へと晒される。

美しい、彫刻のようなという表現すら陳腐に思える程の見事な肉体美。まだ未成熟な、少女独特の危うさを醸し出す一方で、その性能を極限まで突き詰め昇華させたがごとき機能美も垣間見える。

未熟と完成、矛盾するそれらの要素を同時に兼ね備えた……いっそ非現実的とすら思える肉体。

 

だが、僕が目を奪われたのはそれではない。

その表層に刻まれた無数の傷痕、数多の瑕疵がどうしようもなく気になって……思わず、指先でつうとなぞってしまう。

 

「や………はぁっ、うんっ……」

 

「おい……さっきから変な声を出すな。大人しくしていろと言っただろう」

 

「お前が変な所ばかり触るからでしょ!!それでも大人しくしてたじゃん!!おかしいのはそっちの方でしょ!?」

 

確かに。そう言われればその通りだ。

今のは僕が悪かっただろう。

 

僕の手からドライヤーとブラシを取り上げ、威嚇するように毛を逆立てるルドルフ。

口元を吊り上げ牙を剥き出しにしたその姿は、やはり幼くとも皇帝というべき確かな威厳がある。

こうして見ても、やはり数秒前まで彼女はきちんと自制していたに違いない。

 

「ああ……そう、その通りだな。ごめんルドルフ、僕が悪かったな」

 

「で?なんでルナの背中をなぞったりしたの?そういう悪戯は私好きじゃないんだけど」

 

「いや、悪戯していたわけじゃなくて。ただその、傷痕が気になったんだよ。見たところだいぶ前のものだろう」

 

「ああ……これ?」

 

ルドルフは限界まで首をひねり、自らの肩や腕周りを確かめる。さらにはタンクトップの裾を引き上げ、その腹も外に出して見せた。

腹直筋のほか、脇腹の周辺にも所々傷痕が見える。痕にならない程度に完治したものも含めれば、彼女の負ったであろう傷は相当な数に昇るだろう。

 

その経緯を想像し冷や汗をかく僕の顔を見たのか否か、少し恥ずかしげにルドルフは笑いながら頬を掻く。

まるで、若気の至りを思い返すかのように。

 

「ちっちゃい頃、ちょっとね。喧嘩とか色々しちゃったことがあって……。でも、今はもう大丈夫だよ!!お母さんもルナのこと『丸くなった』って言ってたし」

 

「今は……なんだって?」

 

「丸くなったって」

 

なるほど、これでもだいぶ落ち着いた方だというわけか。

ぶたれたことにあれだこれだと言っていたが、明らかにぶたれる以上の経験を積んできただろう。真に恐ろしいのは、喧嘩でここまでやり合う人物が他にもまだいるということだ。

恐らく両親ではなく、かといって使用人もあり得ないとなるとそれはつまり。

 

「ちなみに、そんな喧嘩の相手は一体誰なんだ」

 

「姉さん。母さんは構ってくれなかったから」

 

「そんなことだろうと思った」

 

スイートルナがあれだけ恥も外聞もなくすがりついてきた意味が分かったような気がする。

実の母親ですら十分に制御できず、あまつさえ威嚇されているようでは全くお話にならない。

 

成長環境によって、あるいは急激な本格化に伴うストレスによって気性が荒くなるウマ娘は多い。

しかしルドルフのそれは、間違いなく生まれ持った気質によるものだろう。彼女はこの世に生を享けたその瞬間から、勝つことに憑かれているのかもしれない。

 

「君のことは猫みたいだと思ってたけど、これではまるでライオンだな」

 

「ライオン……ふふ、いいね。そう呼ばれたのは初めてかも。二つ名としては悪くないんじゃないの」

 

「二つ名?」

 

「そう。歴史に名を残したウマ娘にはよくあるでしょ?三本足、老雄、天バ、神の子……まぁ、ルナにはもう皇帝があるけど」

 

シンボリルドルフ。

その名は神聖ローマ帝国の初代皇帝、ルドルフ一世にあやかったものだろうか。

かの皇帝によりハプスブルク家は初めて歴史の表舞台に姿を表し、やがて空前の大貴族として中欧を支配するに至った。

彼女もまたシンボリ家の皇帝として、その名と家名を中央の歴史に刻むのだろうか。

 

シンボリは名門ながら、その戦績はいま一つ物足りないとも言われているらしい。

その停滞に終止符を打つ鬼札として、シンボリルドルフの背負わされた重圧は想像するに余りある。

その上でなお、自らを"皇帝"と臆することなく称して見せる彼女の器は……やはり僕ごときには、到底図りかねるものだった。

名は体を表すとは、まさにこういうことを言うのだろう。

 

「……そういえば、二つ名といえば思い出したことがあるんだけど。さっきお風呂で考えてたこと」

 

膝の上で冷房の風を仰いでいたルドルフが、不意に床の上へと降り立つ。

そのまま身を翻してこちらを向くと、満面の笑みでびしりと人差し指を突きつけてきた。

 

「お前にも名前が必要よね!!いつまでも"お前"呼ばわりじゃ可哀想だもの」

 

「………いや、なら普通に呼んでくれればいいじゃないか。というか名前が必要だと言われたところで、僕にはれっきとした名前が既にあるんだけど……」

 

「違う違う。人間としての名前じゃなくて、ウマ娘としての名前。お前は今日からウマ娘になるの」

 

「はぁ……でもどうしてそんなことを」

 

なれと言われてなれるものでもあるまいに。

ウマ娘らしい名前を名乗ったからと言って、ヒト耳が取れて代わりにウマ耳と尻尾が生えてくるわけでもないのだから。

そもそもウマ娘と人間の名前では全く違うが、一人一つであることには変わりない。

 

しかしルドルフはそんなの知ったことかとばかりに、自信満々でその薄い胸を大きく張る。

 

「私と一緒に並走するんだから、やっぱりウマ娘『らしさ』は必要だからね。耳と尻尾がないぶん他の部分で取り繕わないと」

 

「それが、名前の変更だと?」

 

「名前だけじゃなくて。そうだね……例えば一人称。これからは『僕』じゃなくて『私』って名乗ること。分かった?」

 

「まぁ、それぐらいなら別に」

 

それはウマ娘らしさというより、女らしさだと思うが。

とはいえこれまでだって、畏まる時はそれで通していたのだから、別にそれほど拒否感はない。そのぐらいでルドルフが満足するなら安いものだ。

 

……しかし、ウマ娘らしさとは本当に一体なんなのだろう。

 

「ただ一つ言わせてもらうなら、ウマ娘でも一人称がボクの子はそれなりにいると思うんだけど」

 

「キャラ付けでしょそんなの。もし素でやってるとしたら、相当へんな奴だよソイツ」

 

「……また随分と酷い言い種だな。もし将来、君の子供がそう名乗っていたらどうする?」

 

「その時はその時。それよりも、肝心の名前を考えないとね」

 

腕を組み、うんうんとうなり出すルドルフ。

風呂場で考えたとか言っておきながら、実際の名前についてはなにも用意していなかったのか。

 

コンコンと、スリッパの爪先で床を叩きつつ黙考する彼女をただただ見守る。

ルドルフのネーミングセンスは未知数だ。ただ先程"ライオン"でご満悦だったあたり、あまりそのクオリティについては期待できない。

良く言えば年相応、悪く言えば安直といったところだろうか。願わくは、極力無難なものを寄越して欲しい。

 

目も当てられないものを出された場合に備えて、僕も必死で対案を頭の中から捻り出していると、ふとなにかを思い付いた様子でこちらを見上げるルドルフ。

おっかなびっくりそれを尋ねてみる。

 

「……なにが出てきた?」

 

「ん。お前はウマ耳もない。尻尾もない。なのに目と髪の色と、あと顔立ちがウマ娘とそっくり。どこまでも中途半端なんだよね」

 

「いや、滅茶苦茶言ってくれるね君」

 

「でも、だからこそ、名前だけは立派なものをつけるべきでしょ?そんな半端さを打ち消すぐらい」

 

再びあの満面の笑みを浮かべる。

同じように人差し指をこちらに向けながら、ようやく彼女はその名前を口にした。

 

 

「パーフェクト!!お前の名前はパーフェクトだよ!!」

 

 

完璧(パーフェクト)か………」

 

なんとまあ、けったいな名前を付けてくれたものだ。

なにもかも不完全なウマ娘(人間)が、その名を冠すること自体が滑稽極まりないのだが……とはいえ、僕としても妥協できる範疇だろう。

いい意味で安直というか、変に奇をてらったものでもなく……それはまるで、僕の心の土壌にするりと染み込むかのようで。

 

 

……それは私にとって、狂おしい程に懐かしい名前だった。

 

 

「どう!?気に入ってくれた!?」

 

「ん?ああ………うん。とても気に入ったよ。ありがとうルドルフ」

 

「えへへ……」

 

その頭を撫でてやると、心の底から嬉しそうにルドルフは笑う。

そのままふと思い付いたように僕の右手をとると、そのまま少し下げて自分の胸へと押し当ててきた。

 

「……ルドルフ?」

 

「そういえば、パーフェクトにはまだ教えていなかったね。私の幼名……といっても、もう知ってるとは思うけど」

 

「ああ、(ルナ)……で合ってるよね?」

 

「そう。私の両親と、兄さんと姉さんにしか呼ばせない名前。でも、パーフェクトにはそう呼んで欲しいと思う。ね、ルナって呼んでくれる?」

 

「ああ、勿論。これからもよろしくね、ルナ」

 

「うん。私からもよろしく。パーフェクト」

 

自らの胸に当てていた手を再び上げて、ルドルフは僕の右手の平に頬を擦り寄せる。

 

しばらくそうしたまま抱き合っていたところ、唐突に部屋中に鳴り響いたチャイムの音が二人の空間を塗り潰した。

否、この地下室だけでなく、外のホールやそこに繋がる階段でも反響している。恐らく地上でも同様だろう。

 

「ルナ……これは?」

 

「使用人のシフト交代のチャイム。あと、私にとってはもう寝る時間だってこと」

 

「そうか。なら僕……私はもう自分の部屋に戻らないとね」

 

流石にルドルフと一晩寝床を共にするわけにはいかない。

そもそも僕は言うまでもなく、ルドルフだって今日の並走でかなり体力を消耗しているはずだ。明日もまた走ることを考えれば、今夜十分に休息をとってもらわなければならない。

僕にとって最悪な事態とは、自分ではなくルドルフが潰れてしまうことだった。それだけは絶対に避けなくてはならない。

 

「じゃあ、私はもう帰るからね。ルドルフも、あまり遅くまで起きてちゃいけないよ。まだ明日もあるわけだし」

 

「分かってる。言われなくても、今日はもうあとこれを書くだけだから」

 

ルドルフはベッド横のデスクから一冊を取り出して見せてくる。

それは夏休みの日記。ああそういえば、今の彼女には既に書けることがあるのだったな。この先も出来るだけ、その思い出を増やしていきたいものだ。

欲を言えば、彼女一人でもそれを埋められれば最高なのだが。僕とていつまでもこの家にいるわけにはいかないのだから。

 

ルドルフはさっそくソファへと腰掛け、目の前のテーブルに日記帳を広げる。

右手にシャープペンシルを持ち、今まさに課題に取りかかるところだろう。なら僕はその邪魔をしてはならない。

さっさと退散してしまおう。

 

「おやすみ、ルナ。いい夢を」

 

「うん。おやすみ」

 

背中越しに彼女が手を振るのを見届けて、僕は地下室から退出し扉を閉める。

 

夜だからか、雨だからか、それとも深く地面の底だからか……地下室前のホールは、季節に似合わずどこかひんやりしっとりとしている。

いつの間にかチャイムも止まっており、再び静寂を取り戻した長い階段を踏みしめながら昇っていく。

一歩一歩進むたび、周りの空気が徐々に湿っぽく、熱の籠っていくように感じる。やはり、地上は蒸し暑いのだろうか。

 

 

 

ずきりと、私の脳みそに割れるような痛みが走った。

 

 




【日づけ】7月27日(火)

【てんき】くもり のち あめ

【今日のできごと】

今日は、昨日あそんだ人といっしょに走りました。
そのヒトはやっぱりふつうのヒトではないみたいで、私よりも足はおそいけれど最後まで走ってくれました。
でも、その人の足は私とちがってもうボロボロです。それに気づかないで、私がひどいことを言ったので怒られてしまいました。私には、相手の気持ちをかんがえる力がたりないみたいです。
前みたいにみんながあそんでくれなくなってしまったことについて、私はなにがわるいのかずっとかんがえてきました。

でもやっぱり、私がわるいのだと思います。

【かんそう】

ゲームであそぶのもたのしいけれど、やっぱり走るのが一番たのしいです。
今日はとてもいい一日だったので、お礼にその人にあたらしい名前をおくってみました。私は相手の気持ちをかんがえる力がたりないので、その人が本当によろこんでくれたかは分からないけれど、それでもあたまをなでてもらえました。

わたしにはその人がどうして家にきたのかも、なんで私とここまであそんでくれるのかも分かりません。なにがほしいのかも分かりません。だから、今の私にできることはこれぐらいしかありませんでした。

私からのはじめてのおくりもの。よろこんでくれていたらいいな。
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