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天気予報の通り、夜も明けるとすっかり夏の晴れ空が戻ってきた。
あの時と同じ茹だるような灼熱の中、セミの大合唱に背を押されて僕たちはグラウンドのゲートを潜る。
入り際、やはり一悶着こそあったが最後は向こうが折れてくれた。
元々の後ろめたさもあったのだろうが、それ以上に僕が付き添って走るということが決定打となったらしい。
ルドルフとの並走に対する忌避感が事の発端なのだから、最初からその相手がいるなら妥協できる範囲内だったのだろう。もっとも、その結果次に潰されるのは僕自身かもしれないのだが、それはこちらが負うべきリスクである。
……とはいうものの、実はそのリスクについてはさほど気にしてはいなかった。少なくとも、今のところは。
「ねぇ、パーフェクト。足は大丈夫なの?一晩寝れば元通りとか言ってたけど……」
「ああ、問題ない。それどころか、前よりもずっと足が軽くなったような感覚さえする」
今の僕はすこぶる調子がいい。
足どころか、全身が羽の生えたかのように軽い。
一昨年と同様かそれ以上の猛暑日であるにも関わらず、屋敷からここへ来る最中も全く息が上がらなかった。疲れていないわけではないのだが、それ以上に体力の上限が大幅に上がった感じだ。
肉体だけでなく、頭も午睡の後のように澄み渡っている。朝から高揚が止まらなかった。まるで生まれ変わったかのような気分。
まさに絶好調そのままであり、今ならなにをやっても上手くいきそうにすら思えてしまうほど。
「昨日の並走が効いたのかな。久々に体の感覚を取り戻せたのかもしれない」
「ふぅん。てっきり冗談か誇張してるものだと思ってたんだけど」
彼女の言葉は正しく、昨日は多少見栄を張ってしまっていた。
後に引くことがないのは確かだが、流石に元通りというわけにはいかないだろうと。あくまで今日の走りに影響しない程度の治癒を見込んでいた。
しかし現実に起きたのはそれすら上回る、いっそ異常とすら思える再生。不気味と言えば不気味だが、しかし今の僕は抵抗なくそれを受け入れていた。
とにかく朝から気分が良いのだ。本当に。
ルドルフに手を引かれながら、ようやくスタジアムへ繋がる通路を抜ける。
観客席の合間を縫うように階段を降りていくと、ターフの青々とした芝が視界一杯に広がっていた。
大雨で荒れたバ場のリカバリーのためか、何人かグラウンドキーパーの姿も見える。その脇を駆け抜けていく、幾つかのウマ娘の集団。
まだ太陽が顔を見せたばかりの時刻にも関わらず、随分と熱心なものだ。
「見ての通り、あそこがコース。あとはゴール脇に泥落とし用の簡易シャワーと、さらにその先を進んで屋内に入るとちゃんとした流し場もある。ついでに自販機と、この時期だと扇風機も」
「ちょっとしたレース場ぐらいはあるな。私設のグラウンドとしては申し分ない」
「さて、さっさと始めちゃおうか。基本的に早い者勝ちだからね。あまりぼさっとしてると中々やりたいこと出来ないし」
尻尾をふりふりとさせながら、跳ねるようにルドルフは僕を先導する。
最後の一段を終えてコースまで続く通路へと降り立ち、そして大きく踏み出す一歩。
たった一歩。
ルドルフが舞台へと上がり、辺りを睥睨した瞬間。
スタジアムにおける全ての視線が、一斉にこちらへと向けられた。
観客席から練習を見守っていた者、ついさっき泥を流し終えてターフに戻ろうとしていた者、柵に腰掛けてドリンクを片手に談笑に興じていた者、ベンチでラップトップにデータを入力していた者、そしてたった今コースを駆けている最中の者に至るまで、全て。
ほんの一瞬、ルドルフがその姿を現しただけで動揺する彼女たち。
驚愕、焦燥、困惑、警戒……その視線に籠められた様々な想い。各々に違いはあれど、全てが彼女の存在を拒んでいることには変わりない。
限界まで膨らませた風船のような張り詰めた空気。ほんの些細なきっかけ一つで、拒絶は排斥へと変わるだろう。
突き刺さるような敵意に晒されながら、しかしルドルフは微塵も歩みを止めない。
降り注ぐ視線をまるでスポットライトかなにかに見立てて。ランウェイを渡るモデルのごとく堂々と、迷いなくコンクリートの道を進んでいく。
そして芝へと上がると、柵に刻まれた目印に従って立ち止まった。僕もまたそれに続く。
「ほら、ここ。ここがスタートだから、パーフェクトは内に並んで」
「今日はバ馬が荒れてる。特に内側はかなり芝が悪いから、出来るだけ膨らむように曲がった方がいいだろう。まぁ、そのあたりは私が上手くやるから……ルナはそれに合わせてくれればいい」
「ん、分かった。距離はどうしようか?2000か3000か」
「3000で」
「……了解」
軽めに屈伸し、足の筋肉を解すルドルフ。
僕もまた腕を伸ばし、肩を回して二度三度その場でジャンプする。やはり、嘘みたいに体が軽い。
スタートについても相変わらず、僕たちは注目の的だった。
ただし、その中身は大きく変わってきている。先程までは専らルドルフに向けられていた関心の矛先が、今度は僕の方にも突きつけられていた。
……もっとも、それらは決して心地の良いものではなかったが。
単純にこちらの意図を探ろうとする好奇の視線から、同情、憐憫、そして嘲笑の類いのものまで。
不愉快とはいえ、仕方のない話ではある。いくら幼いとはいえ、普通ヒトはウマ娘と競わないものだ。
勝負云々以前に、生き物としての規格が違う。ちょっとしたじゃれ合いや戯れなら兎も角、ターフでお互いジャージを着込んで並んだ姿は端から見てさぞ滑稽なことだろう。
「気にしないの。別にどうでもいいでしょ、外野がなにしてようが……今のパーフェクトが見なくちゃいけない相手は私だけ。違う?」
「ああ。君の言う通りだな……さて、それじゃあ始めようか。芝長距離3000、天候は晴れ、バ馬状態は重バ場。私の調子は絶好調で、そちらは?」
「同じく。ならいくよ………用意」
スタートのかけ声と共に、僕たちは全く同時に足を踏み出した。
これ以上ない完璧な出走。歩幅は僕の方が大きいが、しかし相手はウマ娘だ。そんな差はアドバンテージにすらならない。
ターフは重くぬかるんでいる。
強く地面に踏み込むたび、吐き出された水がシューズと足首を濡らした。このぶんでは、恐らく水しぶきのようになってしまっているだろう。
技術の蓄積と幾度もの改良の結果、現在の芝は排水能力がかなり高い。多少の雨では水は溜まらない。
それでもなお、ここまで荒れまくっているバ場が、昨晩の豪雨の凄まじさを端的に表していた。
泥が跳ね、滑りやすく足を取られやすい危険なコース。
競り合うには極めて酷な環境であり、相応の技量とセンスが求められる場面であるが。
「ふっ……ふふ、はは……!!」
楽しい!!
それでも、私は堪らなく楽しいと感じていた。
心臓が暴れ狂い、脳漿が沸騰しているかのようで……高揚などという言葉では到底収まらないぐらい。
笑いが、勝手に口から溢れる。
はしたないから抑えようとして、直後に思い止まる。そんなことより目の前のレースに集中したい。
景色が回り、色が流れて消えていった。まるで、世界が私のスピードについてこれていないかのように。
音が失われ、代わりに聞こえてくるのは騒々しい自らの鼓動。不意に全方位を見渡してみたい衝動に駆られる。なんとなく、幼い頃に訪れた遊園地のジェットコースターを思い出した。
思考すら追いつかない、影すら振り千切るような速さ。芝で編まれたレールの上を疾走するのは、機械仕掛けのゴンドラではなく私自身だった。その動力源は位置エネルギーではなく、自分自身の二本足。
足が軽い。絡みつくような重バ場の芝ですら、かえって私の靴裏を持ち上げてくれているかのように思う。顔面に飛び散るはずの水飛沫も、全身に巻き散らかされるはずの泥の粒も、今の私にはなんの障害にもなりやしない。
否、そもそも飛んですら来なかった。気がつけば、ルドルフは私よりだいぶ後ろにいるらしい。
直接を終えて、最初のコーナーを曲がる。
……それはもしかしたら二回目かもしれない。それとも三回目か、あるいは最後のカーブだったのかも。
距離はなんだったか。たしか長距離だった気がする……3000だろうか。
どうでも良かった。それが許されるのなら、地面の続く限りどこまでも走っていける気がする。走りたい。
コーナーの内側が荒れているのが見える。
柵には泥が飛び散り、芝は掘り返されたかのように乱れている。その隙間から顔を覗かせるぬかるんだ土壌。あたかもダートのごとき様相だった。
……関係ない。それが芝だろうが土だろうが、私にとってなんの違いも在りはしない。躱すために膨らむ手間すら煩わしくて、速度を緩めることなく踏破していく。
懐かしい、土と砂の感触。蹴るようにそれを足で握り、湾曲で衰えた推進力を補う。
コーナーを曲がりきり、再び直線へと突入。
「はぁっ………ぅぐ、はぁ……………ッ!!!」
目の前には緑の大海。
それに覆い被さるように広がる青空と、そこで煙を吐く大きな入道雲が妙に近く見える。もう少し近くに寄って手を伸ばしたら届きそうな気がして、試してみようとさらにスピードを速くした。
熱風が顔を叩き、直射日光が剥き出しになった首筋を焼く。それでも私の足は止まらない。
思考が、鈍い。
狂奔だけが脳髄を支配し、まともにものを考えることが出来ない。否、考えることは出来るが、より全力で、より速く走るという結論に帰結するだけだった。
私は酒を飲んだことはないが、しかし酩酊というものを理解出来た気がする。成る程、世の大人がそれを求めるのも無理のない話だろう。
聞こえない。
風の音も、足音も、そう言えば隣にいた誰かの喘鳴も、もうなに一つ届かない。
この世界に私一人になったような気分。しかしそれがもたらすのは孤独ではなく、骨の髄まで染み渡るような途方もない全能感と支配欲だった。
先程とはうって変わって、視界だけが鮮明になる。
高速で回転していた景色はいつの間にか停滞し、世界はその色を取り戻す。
私に釘付けになる人々の顔。その一つ一つを私の目は捉えていた。驚愕、期待、興奮……懐かしい、そして忌まわしいそれら。私たちをずっと苦しめてきたものたち。
そう言えば、奴らは私のことを嘲笑っていたな。
走りに対する評判は、走りによって覆されるべきだ。なら、私がやるべきことは一つだけ。
「………ップ!!……」
もっと私を見せつけてやろうと、さらに軸足に力を込めて上体を前へと傾ける。
限界まで引き絞ったところで、溜め込んだ力を一気に解放し――――
「……トップ……ストップ!!終わ、り!!も、もう……終わりだ、から……」
「なっ………!?」
急に袖を引かれる。
こちらを停止させるのではなく、徐々に減速させるような力具合。お陰でバランスを崩すこともなく、なんとか勢いを殺すことが出来た。
そこまで疲労感はないが、暑さのせいで吹き出た汗を手の甲で拭いながら後ろを振り向いた。
「はぁ………やっと、止まってくれた……。私の負けでいいから……もう終わりにして」
「ルナ………?」
彼女は両手を腿に置きつつ、掠れた息を吐き出しながら苦しそうに喘いでいる。
額が溢れ落ち、濡れた芝に受け止められる滝のような汗。飛び散った水飛沫と泥を全身で被ったのか、ウマ耳のてっぺんからシューズの先までドロドロに汚れてしまっている。
およそ僕が初めて目にするルドルフの満身創痍な姿だった。
そうだ、これはあくまで彼女との並走だった。
並走相手の存在すら忘れるほどに、自分の走りだけに熱中するとは度しがたい失敗だ。久々の本格的なコースを前に舞い上がってしまったのか。
「その、悪かった……ルナ。とりあえず、泥を落としにいこうか。続きは一体休憩した後で」
「続き……まだ走るつもりなの?というより、ルナはともかくパーフェクトは走れるわけ?」
「いや、だってまだ3000一本しかやってないだろう。ようやくウォーミングアップが終わったところじゃないか」
「ウォーミングアップね………」
ようやく一段落収まったのか、ルドルフは伏せていた顔を上げる。
いつまでもゴール付近にいては邪魔になると考えたのか、こちらの手を引いてターフ外のシャワーを目指し歩きだした。
ぜえぜえと乱れた呼吸を整え、少しばかり肩を震わせたかと思うと、泥だらけの顔で僕を見上げながら苦笑する。
そのまま皮肉げな口調で、とんでもない事実を告げて見せた。
「重バ場、長距離芝
◆◆◆◆
外のシャワー室の構造は極めて単純だ。
シャワーのノズルが壁にずらりと並べられ、間を板で仕切られた程度のもの。服は脱がず、上から直接水をかけて汚れを落とすものだった。
実に豪快というか、割り切ったやり方というか。体温が高く、頑丈で抵抗力の強いウマ娘なら効率的なのかもしれないが、ヒトの場合このまま放っておくと風邪を引かないかと心配になってしまう。
……もっとも、今の僕はそんな風邪ごときに心を砕いている余裕はないわけだが。
「あ"ぁ"………痛い"………これ、ヤバいかも……」
「だろうね……ヒトの足で、あの距離をあんなスピードで走ったらそうなるよね……」
人目のないベンチに腰掛け、両足のズボンを捲り外気に晒す。
少しでも冷やしたいという一心だったが、生憎肌に当たるのは生ぬるい夏の風だった。
僕の前に膝まづいたルドルフが、自販機で買ってきた冷たい水のペットボトルを二本当ててくれる。その顔は若干ひきつっているが、その視線の先を確かめる気にもなれなかった。
とにかく痛い。地獄の責め苦が僕を苛む。
昨日の並走後も痛いのは痛かったが、それは爪の出血や足首の擦り傷に因るものであった。単純かつ表層的で、根性で耐えられる部類のもの。
この痛みはそれとは異なり、もっと深層……筋肉や骨から響いてくるような痛みだった。内側から熱した金槌でぶん殴られているような熱さと衝撃が直に脳へと響き渡る。
逆にルドルフには疲弊以外、まるで消耗した様子が見られない。やはり僕と彼女とでは、生物としての規格が異なるのだろう。
「ごめん、ルナ。やっぱり今日の練習はもう終わりにして……」
「今日っていうか、せめて一週間は止めた方がいいんじゃない?家の主治医に聞けばちゃんとスケジュール立ててくれると思うけど、今は学会への出席とかで海外だし……」
「まぁ、暫くは大人しくする。それに今日、だいぶ感覚が掴めた気がするし。並走はあともう一回で十分かもしれない」
地を駆けるというよりも、まるで空を飛ぶに近いあのレースの感覚。異常な昂りと解放感。
もう一度、せめてあともう一度だけでもあれを経験出来れば……僕は、なにか決定的に変わることが出来る気がする。
拘束が解けたような、あるいは欠けた部分が埋まっていくような感覚。
それはまるで、僕の魂が在るべき形に戻るかのようで。
「そうすれば、ルナとも本当に……ちゃんとしたレースが出来るかもね。出走者、二人しかいないけど」
「それは、ちょっと寂しいかもね。せっかく走るなら、いっぱいで走った方が楽しいもの」
「確かに、二人だけでレースというのも無理があるかもしれないが。ぶっちゃけそれ、ただの並走な気もするし…………」
「なら、そこに私も混ぜてくれよ。アンタら相手なら多少はマシなレースが出来そうだ」
……不意に、横から誰かが割り込んできた。
甲高い、まだ幼い少女の声。
遠くから僕たちの会話を拾う聴力と、そもそもここにいることからしてきっとウマ娘なのだろう。
ざりざりと、コンクリートの隙間に挟まった砂利を踏み散らしながらこちらへ近づいてくる。
「アンタらの並走、見させてもらったよ。面白かったぜ。特に男の方……ハハッ、人間の癖して中々やるもんだな」
「僕のことはどうでもいい。君は、ルドルフと一緒に走るつもりか?」
「だからそう言ってんだろうが。なんだ、足だけじゃなくて耳までぶっ壊れたか?」
「そうか」
……しかし、一体何故?
ルドルフは、ここに通うウマ娘から敬遠されているのではなかったか。
彼女のことを全く知らないというならまだしも、その走りを実際に見た上でなお勝負を挑みに来るとは。
僕たちにとってここはアウェイだ。故に絡まれることは覚悟していたが、こういった絡み方をされるのは予想外だった。
振り返り、声の主の正体を確かめる。
ルドルフと同じ鹿毛に、前髪に浮かぶ一筋の流星。
右耳に独特の飾りをつけ、燃えるような赤い瞳が印象的なウマ娘。
声色の通りやはり幼く、ルドルフと同じか若干下回るぐらいだろうか。
ジャージ姿で腕を組みながら、不敵な笑みを浮かべて私たちを見つめていた。
その発言と、口調と、ややつり目気味の双眸が相成って……彼女の姿はとても強気で、自信に満ち満ちている。
それが気に障ったのか、耳を倒し牙を剥き出しにしながら大きく唸るルドルフ。
そんな様子を見て、少女は嘲笑うようにフンと鼻を鳴らしてみせる。
「……君、名前は?」
そう問いかけた瞬間。
目の前のウマ娘はこれでもかと胸を張りながら、自らの全存在を誇示せんと高らかに名乗りを上げた。
「シリウスシンボリ。よく覚えとけよ……いずれ世界の頂点に立つウマ娘の名前だからな」