私は昔から、走ることが大好きだった。
昔から……という言葉を、まだ幼い私が使うのはおかしな話かもしれない。
でも、そう表現するしかなかった。少し大人っぽく言ってしまえば、最も適切な名状というものだろうか。
私にとっての昔。
もはや省みることすら出来ない過去。
この衝動の原点が一体なんなのか、果たしてどこから生まれたのか思い出すことすら叶わない。
もしかしたらそれは、初めて自らの両足で大地を踏みしめた直後だろうか。
それとも、ようやく母親の腹から這い出てきた瞬間だろうか。
あるいは、そこに宿ると同時の事だったのかもしれない。
ひょっとすれば、さらにそこから遡って……私にとっての、前世と呼ばれる時代の残滓なのかもしれないだろう。
走りに対する渇望は、それほど昔から我が身と共にあったのだ。
その欲求に手足が生え、口が開いて喋り出したのがこの私……シンボリルドルフなのではないかと、そんな滑稽な妄想を抱くぐらいには。
あるいは、それを本能と呼ぶのだろうか。
だから、私はこの家に生まれて幸せだった。
ここには私の求める全てがあった。
金も、知識も、技術も、人脈も……最速を極めるためならば、どんな資本だって降って湧いてくる環境だった。
家族は惜しげもなく私に全てを与えてくれたし、求めればどんな願いにも応えてくれた。
きっと、私は彼らにとってそれ程までに価値のある存在だったのだろう。
この名に託された悲願については勿論知っている。
それを重荷であると人々は私を憐れむけれど、私はそうは思わなかった。どうでも良かった。
この渇望を満たすついでに果たせる程度の些事だったから。むしろそんなもの、いくらでも気の済むまで積んでしまえばいいと思う。
それが私の役目であり、生まれ育った家の礎となるならいくらでも引き受けてみせる。
そのぐらいの覚悟はとうの昔に決めていた。
たぶん、私は満ち足りていたのだろう。
そこで満足出来なければ、きっと罰が当たってしまう。
……だけど、やっぱり私は強欲なもので。
それ以上を求めてしまった。
一人は嫌だ。隣で走る仲間が欲しいと。
あまりにも傲慢で、能天気で、身の程知らずな我が儘。
それでも欲望は叶えられた。
ちょうど私の肉体が成長を一段落終えた後、近所に新しく作られた大規模な私設グラウンド。ウマ娘の子供たちはこぞってそこに詰めかけた。
彼女たちもまた、私と同じく中央を視野にいれているウマ娘。故に、その輪に入れてもらうのは簡単だった。
私たちはライバルだったが、同時に同じ道を志す同士として仲間意識のようなものがあったのだろう。
それぞれの持つ技術や知識、ノウハウを惜しみなく分かち合って、ターフの上でお互いを高め合う。
競争相手でありながら、誰よりも大切な仲間たち。それこそまさしく、チームと呼ぶべき集団なのだと思った。
まぁ、私の一方的な勘違いだったのだけれど。
それが変わったのは、私のバ生において初めてとなるレースでのこと。
どういう内容のものだったかは、正直なところもう覚えていない。私が出走者の中で一番歳が小さくて、人気も一番下だったことだけは記憶している。
それでも私は勝ってしまった。
劇的とは程遠い、泥臭い競り合いの果ての辛勝だったが、それでも勝ちは勝ちだ。私が初めて経験する勝利の味。
母は大層喜んでくれた。以前から私がねだっていた耳飾りをお祝いに手作りまでしてくれて、それは今でも最高の宝物だ。
それと同じぐらい嬉しかったのは、二着につけたウマ娘も褒めてくれたことだった。
その子はたしか、あの時いたメンバーの中でも最年長で、皆のリーダーみたいな存在。歳の離れた私のことを一番に気に掛けてくれて、私にとって二人目の姉さんみたいな存在だった。
だから一緒に走ってくれて、褒めてもらえて本当に嬉しかったのに。
レースの翌日から、その子はぱったり姿を消してしまった。
視野が広くて、面倒見が良くて、誰からも頼られ好かれていたあの子。
そんな彼女を酷い目に会わせる奴はみんなの敵だ。敵は退治されなければならない。
そいつは先日、最年少でレースを勝利し、あの子の自信に不可逆な傷を負わせたウマ娘。
かくして、私はみんなの敵になった。
共に競い合う仲間ではなく、打ち倒すべきウマ娘。
それを得たことで、彼女たちの団結はますます強固になった。
中央トレセン学園という私たちの目標は、いつの間にかシンボリルドルフの打倒へと成り代わっていた。当然、そこに私の居場所はない。
今にしてみれば、彼女たちの根底にあったのは恐怖だったのだろう。
私への憎しみでも、あの子に対する弔いの情でもなく、ただシンボリルドルフというウマ娘の存在そのものを忌み嫌い恐れた。
実際に隣で競ったあの子だけじゃない。それを見ていた大勢のウマ娘たちもまた、自らの努力と才能を否定された気分になったのか。
そんな挫折は、私を打倒することでしか覆されない。思うに、あの勝利はたまたまであるという確証が欲しかったのだろう。
あの時の私は、そんなことすら理解出来ず。
愚かにも、その解決手段をレースに見出だした。
もっともっと強くなって勝利を重ね続ければ、いずれ彼女たちも私を認めてくれるだろうと。
彼女たちは私に挑み続け、私はそれを下していく。
どれほど頂に立ったところで、既に私を褒めてくれる者は誰一人としていなかった。
みんなの喝采を、称賛を、労いを一身に受けるのは常に二着や三着のウマ娘たち。一歩及ばずとも、あのシンボリルドルフに肉薄した健闘を人は誉め称える。
もっとも、その子たちもすぐに姿を消してしまったけれど。その度に、より一層強くなっていく残されたみんなの団結。
一人は嫌だった。
ただ隣で走る仲間だけが欲しかった。
それでも最初から与えられなければ、こんなに苦しまずに済んだのに。
一度知ってしまった私は、それを取り戻すためだけに走り続けた。走り続けて、勝ち続けて……本当に欲しかったのはそれではないのに。
……だけどどれだけ足掻いたところで、私の居場所はとっくに失われていて。
そしてついに今日、私は楽園を追われてしまった。
使い古した運動着と、代えのランニングシューズと、ロッカーに預けっぱなしだった小物を抱えてグラウンドを後にする。
みんなの並走するかけ声を背中で聞きながら、一人歩く夕焼けの帰り道。
振り返ったところで、フェンスに遮られた中の様子は見えないから。
グラウンドの前に走る道は大きい。
それに地方にしては珍しく、ウマ娘専用の柵で区切られたレーンがある。
贅沢だな。そういえば、ここの整備もシンボリが援助したのだったか。
あの家は、私の望むもの全てを与えてくれた。
私はかつて、一緒に走る仲間を求めて……たしか、あのグラウンドもシンボリが金を出したと聞いている。
それも、私のためだろうか。
だとすれば、この結末も当然の結果だと言える。
過ぎたる願いを乞うたが故に報いを受けたのだ。
なにもかも満たされたあの家で、ただ一人玉座に腰かけているのが分相応というものなのだろう。
身の丈というものを思い知った。
これは、そんなとある夏の終わりのお話。
◆◆◆◆
目を開けると、目の前には見慣れたコンクリートの天井。
腹にかけていたブランケットをどかすと、私はゆっくりと頭を振る。
この地下室は居心地はいいが、朝になっても陽の光が射さないのが玉に瑕だ。鳥の鳴き声も聞こえない。
ただでさえ朝が弱い私だが、さらに寝起きが悪くなってしまう。
懐かしい、夢を見ていた。
もう久しく見ることもなかった夢。
それが今になって。
私はそれを覆した。願いを叶えたんだ。
シリウス、それにパーフェクト。私が諦めた後になって、ようやくこの手に転がりこんできた者たち。
……ああ、それだからかもしれない。
浮かれた私の姿を見咎めて、身の程を弁えろと説教でもくれているつもりなのだろうか。
苛立ち紛れに、ベッドに拳を振り下ろす。
ぼすんと、手応えの薄い反動と共になにやら湿った感触。見ると、マットが寝汗で濡れてしまっている。
寝間着も取り返しのつかない様子だった。
不快だが、しかしシャワーを浴びる気にはなれない。着替える気力もない。
喉がいがいがして堪らないが、冷蔵庫から水を取り出すつもりにすらなれなかった。
ベッドから飛び降り、乱暴にスリッパを履くと一直線に扉を目指す。
ホールを抜けて、昇り階段を上がって屋敷の廊下に出る。カーペットの上を早足で通り過ぎると風で寝間着が体に引っ付いて気持ち悪いが、それも無視して先を急ぐ。
最上階まで階段を駆け抜ける。目指すはこの屋敷で最も上等な客室。
そうだ、私にはもう仲間がいるんだ。
突き当たりの扉、あれを開けた先には彼がいて、きっと私のことを困り顔で迎えてくれるはず―――――
突き破るようにして扉を開く。
絨毯の端につまづいて、思わず顔から転んでしまう。
こんな姿見られたら一生笑い者にされてしまうと、慌てて鼻を押さえつつ立ち上がり部屋を見渡した。
ソファ、デスク、ベッドの上、シーツの中、トイレ、個室風呂……クローゼットの裏、ベッドの下、タンスの中、部屋の扉の裏側。
誰もいない。
隅々まで整えられ、埃一つない清潔な部屋。
ウマ娘の聴力に嗅覚を以てしても人の気配はなく、微かに漂う彼の匂いだけが、決して部屋を間違えたわけではないことを示している。
「…………ああ、そっか。そうだよね」
そうだ。
きっと、彼は自分の家に帰ったのだろう。
当たり前だ。
彼はあくまで来客。帰るべき場所は別のところにあるのだから。
ずっと側にいることなんて叶わない。いつか来るはずだった別離……それが今朝だったということに過ぎない。
だけど、挨拶ぐらい残してくれたって良かったのに。
未練がましく、部屋の全てに目を凝らす。
滲んだ視界では、書き置きの一つも見当たらなかった。
「………帰ろう」
私も帰ろう。
本来、自分がいるべきであるあの穴蔵へ。
なにを悲しむことがある。
ただ全てが元通りに戻っただけじゃないか。
廊下に出て、扉を閉めた瞬間、耳元でなにかが揺れた。
触ると、そこにあるのはいつもの耳飾り。
いや……違う。これは一昨昨日、街で彼に買ってもらったものだ。
その前まで身に付けていたものはあの時壊れてしまった。
私が初めてレースで勝った時、母が贈ってくれた一番の宝物。
唯一の温かい思い出だが、失なってしまった。
なんだ、全く元通りではないじゃないか。
与えられたものは、次々と私の手の平から零れ落ちてしまった。
最初から知らなければ苦しまずに済んだのに。
だけど、知ってしまった今となってはもう。
「ぐ……うぅ………ぐす…………うえぇ……」
……ああ、私はどこまで愚かなのだろう。
過ぎた我儘には相応しい天罰が下ると、身に沁みて理解していた筈だったのに。