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数日ぶりに踏みしめる我が家の廊下は、やはりギシギシと床板がやかましい。
それよりも耐え難いのは暑さだった。体感で倍近く気温が跳ね上がっているような気さえする。
別にこの家とて特別みすぼらしい造りをしているわけでもないのだが、やはりシンボリのお屋敷の完璧に整えられた環境には敵わない。
一度その恵みを知ってしまった以上、そこから生活のクオリティを下げるのは大変難儀なことだ。
角をいくつか曲がり、足早に廊下を抜けて、目的地である居間にたどり着く。
「ただいま戻りました」
帰還の挨拶と同時に、その襖を静かに開けた。
居間の中心には大きなちゃぶ台。
その上にはこれまた大きなボウルが載せられ、中には真っ白な素麺が盛られている。
それを四つの人影が囲んで箸をつけていた。
「おー、お疲れさん」
「お疲れ様です……兄さん」
そのうち入り口から見て左右に座る二人が返事をくれる。
向かって右では、合宿から帰ってきたのであろう兄が畳の上に胡座をかいており、左ではこれまた遠征から戻ってきたカフェが、座布団に正座になりつつこちらに会釈を寄越す。
さらにその間、つまり私のちょうど真ん前で胡座をかく母もまた、無言のまま手を上げて返事をした。
相変わらず、肌着に短パンとラフな格好。
その後ろで全開にされた窓の先には庭が広がり、そこから吹き込む風がチリンと縁側に提げられた風鈴を鳴らす。
片手に箸を持ち、もう片方の手で団扇を扇ぐその姿は、見ているだけでこちらも涼しくなるようだった。
たびたび外国育ちをアピールしているわりには、もうすっかりこの国の文化に適応しているらしい。
「ンで、どうだった?シンボリ童貞卒業の感想を言ってみろ」
「お金持ちって凄いなと思いました。あとこれお土産です」
脇に抱えていたぬいぐるみをちゃぶ台越しに投げ渡す。
母は不運にも自身に背中を向ける形で……すなわち周りの全員に見せびらかす形で抱き止めてしまう。
結果としてサンデーサイレンスのぱかプチは、その愛くるしい笑顔をここにいる全員に惜しげもなく振り撒いた。
「うわ、可愛すぎかよ」
「………気味が悪いです。あの子も、嫌がっています」
子供たちにも中々に好評な様子。
裏返してそれを確かめた母は、心底不愉快そうに顔をしかめると、不意にその鼻先を近づけて匂いをかぎとる。
そのままぎろりと、黄金の瞳がぱかプチ越しに私を睨み付ける。
「……なンか、お前の匂いがすげェんだけど」
「そりゃ、三回も抱いて寝ましたから」
「…………………………」
母はひっくり返してスカートの中身を確認し、ついでに先程から口を押さえて震えたままの兄をぱかプチでぶん殴るとそのまま投げ返してきた。
とりあえず彼女の中ではギリギリ許容範囲だったらしい。
ならこれからも目覚ましとして末永く活躍してもらおう。もう少し面白い反応が見られると思ったのだが、この狂犬も丸くなったのだろうか。
……それとも、客人の前だからある程度は自制しているのか。
「冗談は程々にして……賓客としてもてなして頂きましたよ。それはもう快適でした」
「そうかい。俺もガキの頃はああいうでっかい屋敷に住んでたんだがな。そんなに気に入ったならお前も向こうの子になっちまうか?」
「結構です。客人と関係者ではまた扱いも違うでしょうし……その辺、ウチはあまり大差ないように見えますけどね」
自分に水を向けられていると察したのだろう。
私に背を向ける最後の一人が、僅かにその肩を震わせた。
腰まで流れるような鹿毛の長髪。
他三人が毛色どころか容姿まで瓜二つなのも相まって、その姿は背中だけでも確かな存在感があった。
畳に敷かれた座布団の上で綺麗に正座している。
尻尾がズボンから垂れ下がっているところを見るにウマ娘なのだろう。
カフェとのクラブ仲間だろうか。それにしては、あまりにも歳が違いすぎるような気がする。
恐らく私よりもさらに歳上だろう。
それに彼女の纏う雰囲気は、どことなく昨日まで一緒にいたあのウマ娘を想起させる。
今まで会話に混ざらなかったのは、私たちのやり取りに水を差さぬよう配慮していてくれたのだろうか。
振り向きざまに、ようやくその口を開く。
「……そんなことはありません。ここもしっかりともてなしてくれていますよ。確かに、我が家よりも多少質が劣ることは否めませんが」
「低レベルで悪かったな。せっかくこの国の伝統料理で迎えてやったってのに」
「素麺で張り合うのはやめて下さい……お母さん」
奥で騒いでいる母とカフェには目もくれず、そのウマ娘はただ私だけを見つめている。
前髪には一筋の流星がなびき、その下に暗く揺らめく紫の瞳。
口元には笑みを湛えているが、しかしどこか歪だった。世の全てを嫉み、それ以上に自分自身を嘲笑うかのような。引き攣った、へなりとした微笑。
それはまるで、生きながらにして地獄を見ているかのようで。
……彼女に似ていると、一瞬でも感じたのは気のせいだったのだろうか。
少なくとも私の知るルドルフの笑顔は、こんな濁った表情には程遠い。
訝しげに自らを凝視する私の姿に、嫌悪感を示すどころかいっそう笑みを深くしつつ……少女はその勘違いを肯定した。
「向こうでは随分、妹が世話になったらしいですね。あの子に代わってお礼申し上げます」
「やはり、貴女はルドルフのお姉さんの」
「ええ。シンボリフレンドです。昔は中央で走っていましたが、今は引退してトレーナーを目指しています……以後お見知りおきを」
そう言い終えると、彼女はくるりと私に背を向けてしまった。
それと交代するようにして、黙って見守っていた兄がおもむろに言葉を繋ぐ。
「フレンドも俺と同じ合宿に参加してたんだ。まぁ、それ以前から顔見知りではあったけど」
「ああ。たしか、トレーナー試験を対象にした勉強会……でしたよね」
「そう。いずれお前の先輩になるかもしれないからな。今のうちに顔を売っておいた方がいい」
ルドルフからそんな話を聞いたとき、もしかしたらと思ってはいたが。
まさか本当に同じ場所にいたとは……思っていた以上に世界は狭いらしい。
それに我が家とシンボリの繋がりも、思っていた以上に深いようだった。
たんなる出資者の一つに過ぎないと思っていたので意外である。
「なら大先輩の俺にはもっと顔を売るべきじゃねェのか?なァ、そもそも俺に助けを乞いにきた分際で……」
「別に助けを求めてるわけじゃありません。アドバイスを貰いに来ただけです」
「……同じことだろうが。ホント、最近のウマ娘ときたらどいつもこいつも揃いも揃って」
そんな母の小言には欠片も耳を貸さず、一人黙々と素麺を啜るシンボリフレンド。
あまりにも肝が座っているというか、ふてぶてしいというか、心臓に毛が生えているというか。
そういうところはルドルフそっくりだと言えなくもないが、しかし彼女の図太さは自信に基づくものである一方、フレンドのそれはどこか投げやりだ。
それはあたかも、その結果なにが起きても構わないといった様子で。
そして母もまた、そんなフレンドの姿に口では不満を垂れつつどこか面白がっているようだった。
もっとも、サンデーサイレンスに気に入られることが果たして幸運か否かは定かではないが。
「いい加減……兄さんもこちらに座ったらどうですか?昼食は……これからですよね?」
先程から入り口で立ったままの私を見かねたのか、カフェが自分の座布団をずらして誘ってくれた。
「ん。ああ……ありがとう」
襖を閉め、ちゃぶ台の横を通り抜けて彼女と母の間に作られた空間に足を運ぶ。
そこに腰を下ろした瞬間、ふと怪訝な表情でカフェが私の顔を覗き込んできた。
「………気のせいかもしれませんが。どこか……体調が優れませんか」
「別にそんな……いや。そうだな、朝から少し頭が重い。風邪でも引いたかな」
それに鈍く痛む。
倦怠感や吐き気、寒気、発熱や下痢といった症状は全くないため、とりたてて気にすることもなかったが。
こうも暑いと体調の一つぐらい狂ったところでおかしくないわけだから。
しかしカフェはそれで納得せず、長く垂れた前髪越しに私の顔を睨み付けるように観察する。
しばらくそのまま固まった後、やがて小首を傾げながら元の位置へと戻っていく。
「どうだ。やっぱりおかしいか?ソイツ」
母が手にもった器と箸をちゃぶ台に置き、私の頭越しにカフェに尋ねる。
カフェもまた、胡乱な瞳で首をひねりつつ答えを出した。
「おかしい……です。具体的なことは全く分かりませんけれど、なにか……ヒトじゃないモノが、ヒトの振りをしているみたいで」
「そりゃなんだ、ゴーストかナニかか?お前が普段見えてるアレ」
「どうでしょう……お友達にも、少し近いかもしれません。でも、外には出ていなくて……」
「そうかいそうかい。それでいい……十分だ。オイ、お前ちょっと付き合え」
いきなり立ち上がり、横で見上げる私の頭をむんずと鷲掴みにするサンデーサイレンス。
呆気にとられる三人を残して、そのまま私を引き摺りながら悠々と居間を後にした。
足で襖を開け、廊下に出ても尚その歩みは止まらない。
やがて私の部屋まで辿り着くと、突き飛ばされるように放り込まれて無理やりベッドの端に座らせられる。
「もう、いきなりなんなんですか。連行するにしても、もう少し手心というものがあるでしょうに」
「いや、なんだ。まだお前の口からなんも報告が上がってねェことを思い出してな」
私をベッドに座らせたまま、正面まで椅子を持ってきて前後を逆に腰かける彼女。
背もたれに両腕をかけて、そこに顎を乗せながら……らしくもない真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。
「さてさて、ながーい思い出話を聞かせてくれよ……お前とルナちゃんのなつやすみについて、な」
◆◆◆◆
あの三日間に起こった出来事、始まりからその顛末までをまるごと全て聞き取った母は、そのまま黙ったまま俯いてしまった。
その長い前髪の先端を指先で弄りながら、なにやらずっと考え込んでいる。
その様はなにかを企んでいるというものでもなく、ただ得られた情報を頭の中で整頓しているようだった。
お互い一言も発さず、静寂が場を支配する。
緊張と不安が加速度的に高まっていく。
母は頭の回転が早い。
とりわけ情報の処理と取捨選択の速さには目を見張るものがある。これはレースに強いウマ娘全般に当てはまる特徴ではあるが。
いずれにしてもそんな彼女が、こうして思考に時間を割いているという事実そのものが異常に思えた。
なにか、気づかぬ間に致命的な間違いを犯してしまったのだろうか、私は。
そうやきもきしながら見守っていると、ようやく結論が出たのか母が重々しく口を開く。
「いや……すまん。悪かったな。お前を向かわせたのは完全に俺のミスだった」
そこから飛び出したのは謝罪の言葉。
思わず頭が真っ白になる。
このウマ娘が自ら非を認め、詫び言を口にするなどそうそうあったものではない。
ましてやその原因が、自分では全く理解出来ていないものであれば尚更。
「いや、謝られてもなんのことか……」
「お前はもう、あの家には行くな。いや、行ってもいいが……シンボリルドルフとはもう顔を合わせるな」
「そんなことを言われても、まだ別れの挨拶だって済ませてないのに。そう指示したのはそっちでしょう!?」
「ああ、そうだ。それで正解だったよ……もし挨拶でもしていたら、お前はきっとこっちに戻ってはこられなかっただろうからな」
「なにを…………」
訳の分からないことを。
「それに、私はまだルドルフやシリウスとの約束を果たしていない」
レースをしなければ。
レースで、彼女たちに勝たなければ。
そうして初めて、私はこの世に生まれ落ちることが出来る。
私は勝たなければならない。
勝ち続けなければ。
「無理だ。諦めろ。走る走らないの問題じゃねェ……"走れない"んだよ。お前は、もう」
母は椅子から降りて、私の前に跪く。
そのままズボンの裾を上げて、露になった両足を指でなぞってきた。
「8800メートルを時速70km越えで走って、それでヒトがただで済むとでも思ったか?オマエの足はとっくに限界を越えている。折れてないのは奇跡に過ぎない」
「でも、もう痛みは引いて……」
「それすら感じなくなってるだけだ。そこまで消耗が酷い……さっきも歩き方が微妙におかしかった」
強くふくらはぎの辺りをつねられる。
痛みはない。
否、あるにはあるが……あまりにも小さすぎる。
本来受けとるべき、正常な感覚が脳へと伝わってこない。
彼女の言葉がそのまま現実のモノとして突きつけられる。
「走るなんてもってのほかだ。歩くのもな。もしお前が俺の担当だったら、半年は寮に軟禁してただろうぜ」
強く胸を押される。
抵抗する間もなく両足ごとベッドの上に寝かせられ、頭にぱかプチを投げ込まれた。
「俺が良いと言うまで大人しくしてろ。トイレと風呂以外、そのベッドから降りるんじゃねェ。この先の人生、車椅子で過ごしたくないならな」
絶対に否定を許さない、威圧的な母の言葉。
しかしその命令もまた、彼女の知識と経験に基づくものであり………
僕はただ、それに頷くしかなかった。