一匹狼。
という言葉には、まるで他人を必要とせず己の力のみで生き抜く強者の風格があるが、実際のところ彼らは負け組らしい。
オオカミの社会において馴染めず、あるいは闘争に敗れて追い出され淘汰された個体だという。
一匹でも生きていけるというより、一匹で生きていかざるをえなくなった者だということ。
だとしたら、今の私を表すにはこれ以上なくぴったりの言葉だと思える。
ヒトもウマ娘も、その本質において群れる生き物だという。
その群れに馴染めず、どこにも居場所を作れなかった私はまさしく一匹狼なのだ。
好むと好まざるとにかかわらず、きっとこれからも一人で膝を抱えながら生きていくのだろう。
「……」
ごろり、とソファで寝返りをうつ。
背もたれにくっついていた顔がテーブルへと向き、その上に放られたリモコンがふと目についた。
それに手を伸ばそうとして、しかし体が反応しない。精の尽きた肉体は最早私の支配下になく、動作はいつまでも思考の中で完結するのみだった。
まぁ、別に観たい番組があるわけでもないのですぐに諦める。ほんの少しでも、自分を慰めるなにかが欲しかっただけのことだ。
電池の切れたように動かない私の体。
その中で唯一稼働する眼球をのたりと動かし、部屋の奥に鎮座するランニングマシンを捉える。
こういう気持ちの沈んだ時は、決まってあそこで体を動かしたものだった。走りに没頭している最中、私はどんな悩みからも解放される。
もっとも、今はそんなつもりにはなれなかった。
リモコン一つ持ち上げられないこの体たらくでは、そもそもマシンまで辿り着くことすら出来ないだろうが。
なにもしない……本当になにもしない一日というのは、これが初めてだった。
いや、一日かも分からない。
今は何時だろうか。眼球の稼働範囲内に時計はなく、ウマホも手の届く場所にはない。
ひょっとしたら、まだ太陽が真上に来たばかりかもしれないし、あるいはもう地平線の彼方に沈んでしまったのかもしれない。
この穴蔵に逃げ込んで数分しか経っていないような気がすると同時に、とっくに何日も経過していたところでおかしくない気分もある。
日の当たらないこの地下室において、時間の経過を把握するのは至難の業だ。
飢えや渇きは、あるいは一つの指針になるかもしれないが……生憎そんなものこれっぽっちも感じられなかった。
朝に目が覚めたとき、あんなにもいがついていた喉の渇きすら、今では嘘のように引いている。
あるいは引いたのではなく、最早感じられない程に消耗が激しい故かもしれないが。
なにせ起きてからパンの一欠片、水の一滴も口に含めていないのだから。
一歩も動かず、ずっとソファの上で寝転がっていれば当然だと思う者もいるかもしれない。
だがそれは人間における場合の話だ。
それより遥かに燃費が悪く、息をするだけでも膨大なエネルギーを消費するウマ娘という生き物においては通用しない。
人間とて、寝たきりであっても食事を必要とするのだ。たとえそれが病に冒され、衰弱した老人であっても同様に。
肉体を維持し、ただ生き長らえるためだけに食べなければならない。
ましてやそれが、健康で育ち盛りのウマ娘であるなら尚更。もとより生物としての規格が違うのだから当たり前の話だろう。
それすら求めない私の姿は、既に死んだも同然だと言える。
私は、死んでしまうのだろうか。
このまま誰にも看取られず、気付かれもせず、省みられないまま地の底で朽ち果てていくのがお似合いなのかもしれない。
そういえば、今日は食事の差し入れも一度だって無かったわけだし、とうとう見棄てられたのだろうか。
「…………ふぅ」
いけないいけない。
少し自虐的になりすぎたか。
みっともないと体を起こしかけて……やっぱり思い止まる。
みっともないからなんだというのだろう。
どのみちこの部屋には私しかいないのだから、どんな醜態を晒そうがどうでもいいじゃないか。
それに情けないのは今に始まったことじゃない。
一人でなんでも出来ると思っていたあの頃。
なんにでもなれると思っていたあの頃。
初めてパーフェクトに会ったあの時。
この部屋で、私は彼になんと言った?
そういえば、私にはトレーナーなんて必要ないとかそんなことをふかした気がする。メニューの構築から作戦の立案まで、全て私一人で賄えるからと。
その言葉に嘘はない。今は無理でも、トレセンに入学する頃にはきっと可能だろうという確信はある。
それだけの能力が私にはあったし、そしてそのための知識も技術もまた習得してきたつもりだった。
でも、それは一体なんのために?
本来トレーナーがやるべき仕事なら、ただ任せておけばいいのだ。彼らはそのためだけに知識を詰め込み、技術を磨き、経験を積んだ果てに中央に至るのだから。
その領域にかかずらう暇など、本来私には無い筈だった。
限られた時間で少しでも研鑽を重ね、競技者としての力を伸ばすべきだ。私の目指す勝負の世界は、そんな無駄を楽しめるほど甘くはないというのに。
だけど私はそうしなかった。
それはたぶん、私がトレーナーという自分以外の存在を、その能力について、心の底から信じることが出来なかったからで。
そしてそれ以上に確証が欲しかったから。
私は他人を必要とせず、自分自身の力だけで勝ち続けることが出来るのだと。
それはまさしく、群れを追われた狼の在り方に他ならない。
ああ……ずうっとこうだったなぁ、私は。
そんな思考に浸っていると、どこからか軽い音が聞こえてきた。
視線をそちらに向けるが、生憎ソファの背もたれに遮られてよく見えない。
機能を閉じた脳みそを叩き起こし、必死に回転させる。
記憶が正しければ、たしかそこにはつい三日前に付け替えられたばかりの新しい扉があった筈。
だとすれば、それはノックの音か。
新調がてらちょっとお高い木材を使ったお陰か、前と比べて少しだけ上品に聞こえる。
どうでもいいことだが。
「……………誰?」
「おや、おはようございますお嬢様。お体に変わりはございませんか?」
ああ、なんだカストルか。
いつかと全く同じ挨拶をこちらに寄越してくれる。
毎度毎度、私の引き出しに付き合わされてご苦労なことだ。
一度は上手く運んだそれがあっさり振り出しに戻って、いくら彼女でも流石に辟易していることだろう。
あるいは特別な役職と手当てでも貰っているのかもしれない。"ルナちゃん係"みたいな。
「なに、カストル。今度はいったい誰を連れてきてくれたのかしら」
「おや、よくお分かりになりましたね。今日は扉のすぐ手前にはいないようですが」
「別に………」
なんらかの確信があったわけではない。
ただ単純に、今さら彼女一人でここに来ることはないだろうと思っていただけだ。
食事なら黙って差し入れ口から投入していくだけだろうし。
「そう言うわけで、早速ですがこの扉を開けて頂けませんか?こうなると思ったから新調するのは止めようって、散々私が申し述べたのに聞き入れてもらえなかったこの扉を」
「………やだ。面倒くさい。動きたくない。開けるなら勝手に開けて頂戴」
コチコチに固まった体を、どうにか腹筋の力で上半身だけ持ち上げる。
頭の血が一気に下まで流れていき、代わりに襲いかかる不快な目眩と全身を包み込む倦怠感。
腰をひねり、扉の方を向いた瞬間、パキパキと背中の凝った筋肉がほぐれていく音。のっそりと肩を回し腕を伸ばしてみれば、これまた不穏な解凍音が鳴り響く。
もうそれだけで、辛うじて残されていた体力がカラカラに干上がっていくのを感じた。
こうして話をするだけでも苦痛なのに、どうして自ら鍵を開けなくちゃならない。
振り返ったことで、私たちの間……扉とソファのちょうど真ん中にぱかプチが落ちているのが目に入る。
シンザンのぱかプチ。朝この部屋を飛び出た際に床に落としてしまったのだろうか。
大切な宝物であるが、しかしそれすら拾いにいく気にはなれなかった。
「私がまた引きこもると思ってたんでしょ。なら、合鍵の一つぐらい用意してるんじゃないの?」
「ありませんよそんなもの。それでは扉の意味が無くなってしまうじゃありませんか」
「へぇ。それは……迂闊だったね」
頼むから帰って欲しい。
私に話しかけてこないで欲しい。
おおかた母さんが直談判にでも来たのだろう。
あるいは姉さんが戻ってきたのかもしれない。そういえば、昨日合宿を終えて今日帰ってくるなんてことを言っていた。
だけど、今はその二人とも話をする気にはなれなかった。
せっかく起き上がったことだし、最後の力を振り絞ってベッドに向かおう。それで今日は終わりだ。
「お嬢様」
「………なに」
本当にしつこいな、カストル。
別れの挨拶ならいらないからもう放っておいてくれないかな。
「私が予測していたのは、お嬢様が再び部屋に籠られることではありません。いえ、それも予測していましたが、その上で危惧していたのは……」
「なッ………!!?」
ミシミシと扉が揺れ、取っ手が外れてネジが飛ぶ。
歪んだ隙間から次々に走る亀裂。脱落する蝶番。
一際、ドア板が大きくたわみ ――――
「……もう一度、この扉が壊されるだろうということです」
―――― 凄まじい音を立ててこちらへ飛んできた。
「ぎゃん!!」
まるで手裏剣かなにかのごとく、横に回転しながら風切り音と共に突っ込んでくるドア板。
慌ててソファに伏せた瞬間、背もたれを掠めるように飛来したそれはそのまま地下室の最奥へとぶち当たり、木っ端微塵に砕け散る。
ドア板だったものは木片と金属片の集合体と化して床へと崩れ落ち、三日間という短い生涯にあっけなく幕を下ろした。
つい数秒前まで私と私の部屋を守ってくれていた相棒。
その無惨な亡骸をただ茫然と眺める。
やがて事態を把握し、恐る恐るソファから身を出して入り口の様子を窺ってみると、既にカストルの姿はそこにはなく、代わりに一人のウマ娘が立っていた。
短パンのポケットに両腕を突っ込み、その足を大きく振りかぶっている。
私と同じぐらいの歳で、同じ毛色の長髪。
前髪には一筋の流星が踊り、右耳には独特の飾りをあしらっている。
燃えるような紅い瞳が印象的なウマ娘。
「よぉ、ルナちゃん。こんばんは……ハハッ、こんな洞穴が本家のお嬢様の私室かよ。私以下じゃねぇか」
「シ、シリウス………」
見間違いようもない。
そいつはシリウスシンボリ………もとい、今まさに私を殺しかけた張本人。
まるで蛇のように、その目を細めて薄く笑っている。
にやにやと、にたにたと。それは私という存在を丸ごと絡めとろうと狙っているかのようで。
「カストル!!カストル!!……どこにいったの!?早く……早くこいつをつまみ出しなさい!!」
あの警備隊長は一体なにをしているのか。
今まさに不審者が目の前にいるではないか。はやくその職務の本懐を果たせ。
生存本能を刺激された脳みそが凄まじい勢いで回転し、私の思考から離れて舌を動かす。
かつてない程の敏捷さでソファから飛び跳ね、素足で床に降り立った。最早スリッパを探す時間すらもったいない。
死体のようだったこの肉体は、今や完全に活気を取り戻していた。
「チッ。ピーピーうるせぇ奴だな……あんな木の板一枚ぐらいどうでもいいだろうが。あん?」
取り乱す私の姿に悪態を吐きながら、シリウスはポケットに手を突っ込んだままこちらへと近づいてくる。
視線は真っ直ぐ私を捉えたまま離さない。
にやにやと笑みを浮かべながら、足元も見ずに大股で突っ込んでくるシリウス。
「ぶっ!!」
……ちょうど中頃まできた瞬間、派手にずっこけて顔から床に転がった。
「あっ……!!」
それと同時に、宙へと跳ね上がるシンザンのぱかプチ。
派手にきりもみしながら彼女の後ろ、地下室の手前に広がるホールの隅へと飛んでいく。
ぽすん、と虚しい残響だけが、遮るもののなくなった入り口越しにウマ耳へと流れてきた。
それが、まるであのぱかプチの悲鳴のように思えて。
ぎり、と私は強く拳を握り込み、歯が下唇を鋭く噛み締める。
「シリウス……また蹴った。私のモノを。パーフェクトが私にくれたぬいぐるみを。謝りなさい……ルナに。頭を擦り付けて」
うつ伏せに転がるシリウスに向かって、舌が勝手に呪詛を紡ぐ。
道端でトラックに轢かれたカエルのような、なんとも惨めで無様な格好を晒しているが、それだけでこちらの気持ちの昂りは収まらない。
なんなんだコイツは。
昨日もいきなり絡んできて、散々こてんぱんにしてやったにも関わらずまた絡んできて。
挙げ句私の部屋にまで押し掛けてきたかと思えば好き勝手やり放題。
「はぁ!?あんなとこに放ったらかしておく方が悪いんだろうが。オマエのせいで転んだんだから、むしろオマエが私に謝れ」
しかしシリウスは微塵も懲りた様子を見せず、鼻を押さえながら逆に私を責め立ててくる。
両手が塞がっていたぶん、顔面から諸にぶち当たったのだろう。
涙を湛えたルビーの瞳は哀しそうに揺らいでおり、形のいい眉もハの字に垂れてしまっている。
なまじ口先の威勢がいいぶん、いっそ憐れみすら覚えてしまうその姿。
同時に私より一つ年下のくせして大した精神力だと内心舌を巻くが、しかしそれでもやはりこちらの気は晴れない。
「ふん」
飛んでいったぱかプチを回収するため、私はずかずかとホールへ向かう。
途中、倒れたままのシリウスの背を踏んづけてやることも忘れない。
ぐぇ、とこれまた轢かれたカエルそのものな悲鳴を聞くと、少しだけ溜飲の下がったような気がした。
螺旋階段の脇に転がったシンザンを見つけ、そっと優しく拾い上げる。
流石綺麗に掃除されているだけあって、埃の一つもついていないが、念のため何度か手の平で払ってやった。
軽さが幸いしたのか、こちらは扉と違って悲惨な最期を遂げずに済んだようだ。鹿毛の前髪の下で、私を見上げる綺麗な青色の瞳。
「ハッ……そんな大事なら、床の上に転がしておくんじゃねぇっての」
「うるさい。今転がってるのはお前でしょうに……って、あれ?」
「?」
愛しいぱかプチとの再会に、水を差すシリウスの嘲笑。
それに思わず反応して顔を上げた瞬間、ぽっかりと開いたドア枠のすぐ隣に、バスケットが一つ置かれているのが目に映る。
蓋を開けてみると、その中には二人ぶんのサンドイッチ。
……くぅ、と朝からなにも入れてない胃が高らかに鳴った。
◆◆◆◆◆
「へぇ。帰ったんだアイツ。なんだ、つまんねえの」
タオルでわしゃわしゃと水気を払いながら、あっけらかんとした口調で相づちを返すシリウス。
腰まで届く長い髪では乾かすのも苦労するのだろう。慌ただしくドライヤーのコードをコンセントに差し込むと、全体を膨らませるように温風を当てていく。
こいつは本当に遠慮というものがない。
当たり前のように用意されたサンドイッチを平らげ、そのまま断りもなく部屋の風呂に入ってしまった。
順番など省みない、家主を差し置いて堂々の一番風呂である。ゆっくりと長風呂に浸かり、ようやく上がったと思えば全裸で部屋を闊歩している。
それを止めない私も私だが。
単純にシリウスの行動は新鮮というか、見ていて飽きないものがある。
こうして誰かに好き勝手やられるのは初めてだった。自分で言うのもなんだが、普段こうして自由奔放に振る舞うのは私の方だったから。
「……まぁ、勝手にお風呂に入ったのは許すけど。せめてシリウス、服を着なさい」
「いいだろ女同士なんだしこれぐらい。今日も外はかんかん照りでクソ暑いんだよ。地下籠りのアンタにゃ分からんだろうが」
「シリウス」
「チッ……はいはい」
なんとか髪と尻尾も整え終わって、やっと彼女は寝巻きに袖を通す。
言うまでもなく、それも私のクローゼットから持ち出した私物だ。流石に下着までは許さなかったが。
「そんで、アイツがいなくなって寂しいルナちゃんは部屋で一人泣いてたわけだ」
「別に、泣いてなんかないし。やることないから部屋にいただけだもん」
「よく言うぜ。そんなガラッガラの声してる癖に。聞いてるこっちまで喉が痛くなりそうだ」
そう指摘されて、思わず自分の喉を上から指でなぞる。
朝のあの不快感をずっとほったらかしにしてきたのは確かだが。
「……そんなに酷い?」
「ケツひっぱたかれた雌ウシみたいな声」
踏んづけたことへの仕返しだろうか。
とんでもない評価を私にくれると、シリウスはごそごそとベッドの中へと滑り込む。
やはりこいつ、このままこの部屋に居座るつもりらしい。
そもそも分家である彼女がこちらまで出てきたいきさつは知らないが、ここに足を運んだということは元々屋敷に泊まる予定だったのだろう。
彼女とてシンボリのウマ娘である。どの部屋で寝ようが基本は自由なのだ。
たとえそれが私の部屋であったとしても。
「……なにぼさっとしてんだぁ?アンタも風呂入ってさっさと寝ろよ。明日に響くだろ」
「………明日?明日って、なにを」
「なにって、走るに決まってんだろうが。なんのために私がわざわざこの部屋まで来たと思ってんだ」
「だけど、パーフェクトはもう………」
「パーフェクト?ああ、アイツのことか。そういえばアンタはそんな名前で呼んでたな」
一つ眠たげに欠伸を溢すと、シリウスはごろんと寝返りをうって私に背を向ける。
そのままもぞもぞとブランケットの中で蠢いたあと、するりと尻尾を外に垂らしてみせた。
「別に、この先二度と会えなくなるわけじゃないんだろ。てか報告に戻っただけじゃねぇ?自分は使いだって言ってたぞアイツ」
「でも、私になにも言わないまま出ていっちゃったし」
「なら、戻ってくるよう三女神様にでも祈っとけよ。アイツも半分はウマ娘だから、ひょっとしたら効果あるかもな」
「シリウス………」
「それに戻ってこなくても私がいればいいだろ別に。確かにアイツは凄いっちゃ凄いが……それでも所詮はヒトだ。私には敵いっこない。違うか?」
違わない。
一緒に競う相手と見るなら、彼女の方がよっぽど上等だろう。
それでも、割り切るつもりにはなれなかった。
たった三日間とはいえ私の初めての親友だったし、それに自ら名前を贈った愛着もある。
……なにより、私はまだ彼に約束を果たしてもらっていない。
塞ぎ込む私に居心地が悪くなったのか、はみ出した尻尾をせわしなく揺らすシリウス。
「……そんなに来て欲しいなら、来るって信じていてやればいい。そうやってウジウジされているのが一番気に障る。アイツも、それに私もな」
「……うん。そう、だね」
そうだ。
ここで一人膝を抱えていてもなにも始まらない。
所詮は大人同士の都合で始まったことなのだ。
なら、子供の私がどれだけいじけて喚いたところでなにも変わらないのだろう。
それはきっと、時間の無駄だ。
シリウスの言うとおり、もう少しだけ待ってみよう。
それでも来ないなら、今は諦めよう。
将来、私がもう少し大きくなったその時に、今度はこちらから迎えにいくことにしよう。
そう考えると、嘘みたいに心が軽くなったような気がした。
そうだ、私たちにはまだ先があるんだ。
ならいつか、彼と再び出会うその日まで、私は前に進み続けるしかない。
こんな歳で止まった私など、きっと彼は目もくれないだろうから。
「……ありがとう。シリウス」
「黙れ。さっさと風呂入って寝ろ。あと電気は消しとけ」
ぶら下げていた尻尾をするりと引っ込め、シリウス
は腹にかかっていたブランケットを胸まで引き上げる。
そうしてすぐに、微かな寝息を立て始めてしまった。
そんな彼女を見届けたあと、私も自分の寝巻きとバスタオル、それからドライヤーを抱えて脱衣場へと向かう。
さて、まずはゆっくりとお湯に浸かりながら、一つしかない枕をシリウスからどう取り戻すか考えることとしよう。
【日づけ】7月29日(木)
【てんき】はれ
【今日のできごと】
今朝、起きたらあの人がやしきからいなくなっていました。
たぶん自分のいえにかえったのでしょう。彼は別のいえの人なのでしかたないかもしれませんが、せめてあいさつとか、手がみの一つぐらいはほしかったです。
これではいつもどってくるのかも、それとももどってこないのかさえ分かりません。
それから、夜になるときのうあそんだウマむすめの子がやってきました。
これまで走ってきたどんなウマむすめともちがって、その子はなんど私にまけても全然へこたれません。ずっと生いきなままです。
いっしょにいてたのしいけれど少しだけはらが立ちます。それにすぐモノをこわしたりもします。
やっぱり私があの子のたづなをにぎらないといけないみたいです。私の方がおねえさんだし。
【かんそう】
あの人がいなくなってしまったことはやっぱりかなしいし、さびしいです。
でも、いつまでもなやんでいたところでしょうがないとおもいます。ちゃんと前をむいていきたいです。
ただ、それでもやっぱりもどってきてほしいので、ベッドに入るまえに三女神さまにおいのりをささげました。
あの人もはんぶんはウマむすめなので、ひょっとしたらウマむすめのたましいをつかさどるという三女神さまのごかごがあるかもしれませんし。
はんぶんはウマむすめといえば、昔からひとつ気になっていたことがあります。
ウマむすめが男の子を生んだとき、その子が母おやのとくちょうをうけつぐことはよくありますが、なのにどうしてその子たちにはウマむすめらしい名まえがつけられないのでしょうか。
前に私の母にそれをたずねてみたところ、『きんき』だからといっていましたが、『きんき』ってどういういみだろう……?