◇
ガコン、と大きな音で目を覚ました。
突風が顔に突き刺さる中、ゆっくりと瞼を持ち上げていく。
肺が伸縮を繰り返し、心臓がやかましく鼓動を張り上げた。つんざくような歓声と、重く鳴り響く足音の数々。地面が揺れる。
……ああ、それにしても本当に風が強い。
荒磯にたたずむ岸壁といえども、ここまでの猛威は知るよしもないだろう。
匂いも違う。塩気を孕んだ海の香りではなく、土と、芝と、そして人の匂い。
ようやく完全に開いた視界で、私はその正体に気がついた。
…そうか、私は駆けているのか。
脚を振り上げる。
前へ前へと、狂ったようにその先へ。
私の眼前に広がるのは、なにも遮るもののない茫洋とした緑の大海。
それは先頭の景色。両手の指ほど目にしたそれは、しかしこれっぽっちも飽きることなどなくて。
当然だろう。そのためだけに、私たちは全てを賭けたのだから。
集中の果てに、まるで世界の全てが溶けて混ざり合っていくように感じた。
極限まで研ぎ澄まされた五感が、全身を叩きつける風を、今にも崩れ落ちてきそうな青空を、鳴動のごとき声援を鮮明に受け止める。
それらが、どうしようもなく不快だった。
激痛と化して久しい脚の痛みに顔をしかめ、それでも私は前へと走る。
割れるような膝の痛み。裂けるような爪の痛み。
今更、それを省みるようなことはしない。慣れたものだった。生まれてこのかた、これらは私の脚と常に共にあった。
それと騙し騙し付き合って、思うように練習をこなせたことすら一度たりともない。
私はまだ本気を出していない。
世代最強を争うこの舞台において、その在り方が全く相応しくないことは理解している。
限界のさらにその先、自身も知らない豪脚。
時代を作るウマ娘は皆それに至るというが、未だに私はその領域を知らない。それを知るべきなのは今ではないのだ。
とどのつまり、この瞬間すら私にとっては過程だった。いつの日かふと思い出し、束の間の感慨に浸る程度の轍でしかない。
本当に、なんと傲慢なのだろう。
風を不快と詰り、空を不気味と見上げ、歓声に耳を逆立て、痛みに歯を食いしばり。
私は一体、なにを望んでターフを駆けるというのか。
決まっている。他の誰でもない、私のために、私たちのために、この命と魂の半分である彼のためだけに私は走るのだ。
拳を付き合わし、笑みを交わして、私たちは見果てぬ夢を見た。
それを託された今、私に折れることなど許されない。
瑕疵なき三つ目の冠を戴くまで、私は負けるわけにはいかない。
勝ち続けなければならないのだ。
ただそれだけが、私に残された唯一の正義だった。
……だから、こんなところで終わるわけにはいかないのだ、私は。
不意の衝動に背中を押されて、とっさに私は前へと手を伸ばす。
今度こそ、その先を知る必要がある。ウマ娘としての本領、限界を超えた先の自分を。
見なければならない。今度こそ私は、この夢の続きを――――
◆◇
目を開けると、私は見知らぬ場所を歩いていた。
ざりざりと、びっこを引きながら坂を上る。
視線を少し下ろせば、そこには砂の混じったアスファルトが続いていた。
ガードレールで仕切られた歩道は幅が狭く、所々に乾いた泥が飛び散っている。
隅で根を張るタンポポはとっくに枯れ果て、水分の抜けきった葉っぱが茶色く萎びていた。その隣で、足をたたんで仰向けに干からびたセミの亡骸。
どれもこれも、夢で見たあのターフからは程遠い。
いや、それともこれが夢なのだろうか。
現実の私は今も芝の上を駆けているのかもしれない。
夢と現実を判別するには、よく頬をつねって痛むか確かめると聞くが、幸い今の私にはその手間もいらなかった。
ミシリミシリと、足が音を立てて痛む。
それはあたかも骨と肉が共に喰い合って自壊しているかのようであって、同時に私にとって歓迎すべき痛みでもあった。
神経の麻痺していた足が感覚を取り戻している。
すなわち寛解に向かっている証であり、そう遠からず再び全力で走れるようになるはずだ。もう一度……あの走りをもう一度。
坂の上から、一陣の風が吹き込む。
それが膝を撫でた瞬間、まるで肉を削ぎ落とされ、つられて骨がパラパラと剥離していくような錯覚。
思わず顔を上げると、ガードレールの向こうに青い道が平行して続いてるのに気づいた。
ウマ娘専用レーン。
全身の力を振り絞ってなんとかガードレールを乗り越え、そこに進路を取ることにする。
ペンキで適当に区切られたものではない、しっかりと整備されているあたり、ここは都心なのだろうか。
のたのたと、おぼつかない足取りで坂を上り終える。
目の前に掲げられた看板。デフォルメされたウマ娘のイラストが描かれており、その隣に大きな矢印。
指し示す先には、大きなスタジアムが構えていた。それは、あの日ルドルフと訪れたグラウンド。そうか、私は帰ってきたのか。
いや、違う。
帰ってきたのではなく、帰っている最中なのだ。目的地はここではない。グラウンドを素通りして、さらにその先の道を進む。
ああ、ようやく見覚えのある景色だ。彼女に腕を引かれて二回も歩いたのだったな。
行く手に阻むものはなにもない。
歩く人間も、走るウマ娘も、自転車も、車も、バイクもなにもなかった。道端をつつくカラスも、うろうろと彷徨うドバトの一羽すらいない。
ああ、これだけはあの夢で見た光景と一緒だな。
沸き上がる衝動に駆られて走り出すも、しかしほんのニ、三歩進んだところで激痛に白旗を上げた。
骨肉から脂肪に腱に神経まであまさずミキサーにかけられている感覚。
頭の中で、潰れたトマトのイメージが鮮烈に浮かぶ。拳で叩き潰される熟れた野菜。
そっと手をどけると、じゅくじゅくした残骸との間に真っ赤な糸が引く。
「う……ぐ、ぉ……え"ェ……」
胃からせり上がるものを必死に押し留める。
口一杯に広がるすえた臭いと不快な酸味。それを寸でのところで飲み下した。
胸がむかつき、消化液が食道を焼く。ほとんど中身が無くなっていたのは幸いだった。母は、これを見越して夕食に粥を作ったのだろうか。
いくら衆目がないとはいえ、こんな場所で吐き捨てていくのはあまりにも申し訳ない。
しばらく目を瞑って空を仰ぐと、なんとか気持ちも落ち着いてきた。
頃合いを見計らって、ようやく行進を再開する。
先程までは下向きだった視線を、今度は宙に浮かして固定した。
いくら収まったとはいえ、また下を向いては再び喉元からせり上がってきそうな予感があるから。
道のりについては問題ない。一度でも通った道ならどれだけ複雑でも正確になぞることが出来る。記憶力には自信があった。
それにしても、どうして私は外を歩いているのだろう。
たしか昨日は家に帰った後、自分の部屋に籠ってそのままベッドの上で過ごした筈だ。ルドルフから預かった耳飾りを弄りつつ眠りに落ちたのではなかったか。
それがどうしてこんなところに。そもそも今の時刻すら判然としない。
熱に冒されたような視界では、たとえ空を見上げたところで大した情報も拾えなかった。
昼間のように明るい気もするし、逆に夜明け前のようにも思える。太陽が覗いているのか、それとも雲に覆われているのかすら分からない。
夢で見た、青々と不気味に広がる空だけが目蓋の裏に焼きついている。
「あっ………」
そんな風に空を仰ぎながら歩いていると、不意に硬いなにかにぶつかってしまった。
とっさに身構えつつ視線を戻すと、目の前にそびえ立つのは鉄柵が絢爛に編まれた両開きの門。
ああ、これも見覚えがある。とうとう目的地についたようだ。
両腕で柵を掴み、上半身の力で思い切り押してやる。勢いよく内向きに開放され、私は転がるように中へと飛び込んだ。
その際たたらを踏んでしまうが、もう痛みに立ち止まるような真似はしない。
眼前いっぱいに広がる芝の海。それだけに心を奪われていた。
一歩、また一歩と慎重に全速力で歩みを進める。
足裏の感触はなく、ただ肉体に染み込んだ基礎的な動きを頼りに前へと突き進む。両足は震え、腿から下の感覚もまたとっくに失われていた。
言うことを聞かない足に、それでも懸命に鞭を入れて歩く。
綺麗に整えられた芝を横切って、屋敷の角を曲がったところ、庭のターフで戯れる二人のウマ娘の姿が目に入った。
やっと、やっと辿り着いた。
私は帰ってきたよルドルフ。さぁ、レースを始めようか。
彼女たちに手を伸ばしながら、最初の一歩を大きく踏み出し―――――
「行かせねェよ」
―――――誰かが、その行く手を阻んだ。
私の前に立ち塞がるそいつは、真っ黒なスーツを着込んでいて。
青鹿毛の長髪が尻尾の付け根まで伸ばされ、前髪も同様に長く垂れ下がっている。
宵闇のような漆黒の隙間から、満月のように爛々と輝く黄金の瞳が覗いている。縦長の瞳孔はチラチラと揺らめきながら、足を引きずる私を見下ろしていた。
「……母さん」
「言ったよな、俺は。許しが出るまで部屋のベッドから降りるなって。俺がいつお前に外出を許可した?」
「退いてください」
そう突き飛ばそうと試みるも、しかし目の前の矮躯はぴくりとも動かない。鍛え上げられた体幹の賜物か、大地の奥深くまで根を下ろしているかのようにすら思える。
あっさりと腕を払われ、逆にこちらの襟首を掴まれ捻り上げられてしまう。
「退かして、それでどうすんだよ?あいつらとレースでもしようってのか?」
「いけませんか?」
「駄目に決まってんだろ!!昨日の話をもう忘れたのか!?お前は二度と走れねェんだよ!!この先一生、死ぬまでずっと」
彼女は前髪が触れあうぐらいまで私に顔を寄せ、刻みつけるように一語一句、はっきりとそう告げる。
「……でも」
それでも、私は大人しく引き下がるつもりにはなれなかった。
足が痛むからといって、傷ついたからといってそれがなんだというのか。彼女もあのボロボロの脚で走っていたんだ。なら、私だってきっと。
「……駄目だこりゃ。全くお話にならない。まるでレミングだな」
そんな思考を読み取ったのか、母は顔を離すと諦めた様子で首を振った。
一瞬そのまま解放されるかと期待したものの、かえってますます締め上げる力は強くなる。
「自分から水に突っ込んでいく。寄生されたカマキリみてェなモンか。脳ミソからしてまともじゃない」
「そんな、人を病人みたいに……!!」
「病気だろ。医者じゃ治せないぶんさらに悪質だがなァ。こういう、内側に巣食う奴は決まってタチが悪い。ウィルスとか寄生虫みたいなもんでな」
襟首を拘束していた彼女の手は、いつの間にか私の首そのものをひっ掴んでいた。
辛うじて息の通る程度にまで気道を圧迫されたことで、呼吸に追われ言葉を繋げる余裕すらなくなる。
どうにか振りほどこうと全力で抵抗を試みるが、両手を駆使しても指の一本すら剥がすことが出来ない。
こんな痩せ細った肉体のどこにこれ程までの力が秘められているのだろうか。
「……本当に、物分かりの悪い。カフェよかさらに重症だなこれは」
そんな無意味な足掻きにいい加減嫌気が差したのか、母は力ずくで私をその場に跪かせた。
並んでいた目線の均衡が崩れる。
「なら、最後に一つ。諦めがつくように教えてやる」
「なに、を」
「お前が理解していない、あるいは理解していながら尚……目を背けていたであろう事実。その一片について」
押さえつける力はそのままに、彼女は腰を折って私を見下ろすように視線を合わせた。
瞬きすらしない、見開いた瞳孔のまま淡々と宣告する。
「もしもの話。お前の足が完治して、アイツらとレースしたとする……それでも、お前は万が一にも勝てねェよ」
「どう……して」
「足が脆すぎるのさ、お前は。それでもヒトとしちゃ十分すぎるだろうが、ウマ娘としちゃ全くお話にならない。並走ならともかく、ガチのレースで通用するわけがねェ」
そう言いながら、彼女はもう片方の手で自分の脚を叩いてみせる。
「血の宿命なんだ。お前の母親だってそうだった。もし将来お前がガキを作って、そいつがウマ娘だったとしたら……そいつもきっと、ガラスの脚を持って生まれてくることだろうよ」
「母……親?」
今、母はなんと言った?
私の母親……ウマ娘であろうその人物について、彼女はなにも知らないと言っていた筈。
きっと、夢の中で見た競争バについて、その正体を知っているということか。
そう察した瞬間、私を押さえつける力がまたしても強くなる。
結果、彼女に真偽を問い質すことすら叶わず、ただその言葉に耳を傾けるしかない。
「……俺もそうだった。生まれつき脚が曲がってて、まァ、それでも現役の頃はトレーニングでカバーしてきたが……今となってはとうとう骨盤まで歪んじまった」
ざり、と芝を掻く彼女の脚。
その両膝と爪先は大きく内を向いており、何よりも雄弁に今の言葉を証明していた。
脚部に不安を抱えるウマ娘は少なくない。
たとえ、それがG1で戦う一流競争バであったとしても。
重要なのは、その不足をどう補うかということだった。それは専用のトレーニングだったり、あるいは幼少期のマッサージであったり。レースにおいても、独自の走法や作戦が求められる。
当然、ヒトとして生きてきた私にそんなものがある筈もなく――――
「そういえば昔、お前にも見せてやったことがあったな。俺の今の走り」
「……は、い」
今でも鮮明に思い出せる。
私がトレーナーを志すきっかけだったか。
酸素の欠乏した頭でその記憶を振り返る私に、母は決定的な事実を突きつける。
「ターフを去って数年間。肉が落ち骨は歪み、スタミナも衰えた。そんな"終わった"ウマ娘の出涸らしみてェな走りに魅せられる……それがお前の"限界"なんだよ」
「………………」
「だからもう眠れ。お前のいるべき場所は
首を掴む手に一気に力が込められた。
血管が閉塞し、脳への血流が完全に遮断される。
「ガッ……ァ……」
「……ガキ共には俺から説明しといてやる」
息が止まり、目の前に飛び散る火花。
力が抜けそのまま崩れ落ちる四肢。視界は急速に靄がかって狭まっていく。
意識を手放す直前、閉じかかった目蓋の隙間から、こちらへ駆け寄る二人の姿が見えた気がした。
【日づけ】
【てんき】
【今日のできごと】
【かんそう】
私のせいだ