シンボリルドルフに逆らえないトレーナー君の話   作:くまも

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私は未だその名を知らず

屋敷の厨房にある蛇口の位置は、私には少し高い。

蛇口だけでなく、オーブンの取っ手からコンロのスイッチまで全てがそうだった。

 

子供がうっかり手を触れないようにという配慮だろうか。

実際、この家に住む私ぐらいの年齢の子供が、大人の付き添いなしで調理を行うことなどあり得ないので妥当な設計かもしれないが。

とは言うものの、こういう時になると不便で仕方がない。ただ水を汲むという仕事一つとっても苦労する。

 

「んしょ」

 

隣の部屋から手頃な椅子を引いてきて、桶を抱えつつその上に立つ。

シンクの底に桶を置いて、やっと胸の位置まできた蛇口の栓を目一杯解放した。

バシャバシャと、飛沫を飛ばしながらあっという間に八分目まで満たされていく。

勢いの止まらない水流に慌てて栓をして、私は随分と重くなった桶を抱えて慎重に椅子から降りる。

 

いくら子供が両手で抱えられる程度の大きさとはいえ、水をたっぷり含めばやはりそれなりの重さにはなる。

ヒトの女児ならあっという間に体勢を崩してしまうであろうそれも、ウマ娘である私の膂力にかかればどうということはない。

元来成長の早い種族なのだ。

生後一年で立ち上がり、言葉を解するようになる。九年も生きれば、体格はともかく単純な力では成人男性に匹敵し、あるいは上回っていた。

 

両手で桶に一杯に入った水のバランスを取りながら、ゆっくりとした足取りで厨房の出口を目指す。

その途中、キャビネットから清潔なタオルを確保していくことも忘れない。

これまただいぶ高い位置にある扉の取っ手をどうにか引いて、私は朝陽の射し込む廊下へと踏み出す。

目指すはここから反対側、お屋敷の一回にある医務室だ。

 

早朝の心地よい静寂に包まれた一本道は、私の見知った屋敷とはどこかかけ離れた印象がある。

もっとも、この屋敷はいつも通りで変わったのは私の方なのだろうが。

寝起きの悪い私がこんな時間に廊下を出歩くこと自体がおかしいのだ。勿論朝練となればもっと早い時刻に外に出ることもあるが、そんな時に周囲の景色を観察している余裕などない。

思えば外と部屋をひたすら往復するような毎日だった。

 

別に今とて、あんな不便な厨房を使わずとも水ぐらい自分の部屋で汲んでくれば良かったのかもしれないが。

とはいえ、水に満たされた桶を抱えてあの長い階段を昇る気にはなれなかったので、結局こういう形に落ち着いた。

それに、あの地下室のベッドには今も腹を出して眠りこけているシリウスがいる。無駄に野性味溢れるというか、感覚の鋭い彼女は水の音であっという間に目を覚まして邪魔してくるに違いなかった。

ベッドの主導権争いで私に全敗しているものだから、今のシリウスは気が立っている。

 

えっちらおっちらと廊下を渡りきると、医務室は既目の前。

ゆっくりとノブを引いて、彼を起こさないよう静かに身を滑り込ませる。

慎重に扉を閉めてから振り向くと、いつも主治医が腰かけている椅子にちょこんと腰かけている女の子が見えた。

 

「誰?」

 

この時間に医務室を訪れるのは自分ぐらいの筈だ。

緊急時でもなければ、主治医がここに来るのももう少し先になる。

医師不在時にも応急手当なら自分で出来るよう、基本的に鍵は開けられているので人がいること自体は不思議ではないのだが。

 

「……おはようございます。そして初めまして」

 

私と目が合うと、椅子に腰かけたままペコリと頭を下げて挨拶してくれる女の子。

 

腰まで伸ばされた青鹿毛の長髪と、これまた長く垂れ下がった一房の前髪。頭頂部から跳ねた流星がくるりと後ろを向いている。

金色の瞳に、ふさふさとした尻尾。そして一対の長い耳。私と同じウマ娘の子供。

不審者ということもないだろうが、しかし私にとっては見覚えのないウマ娘だ。この近辺に暮らしているわけではないのだろう。

 

「マンハッタンカフェ……です。兄さんの……お見舞いで来ました」

 

兄さん、とは彼のことだろうか。

そう言えば、この子についての話も聞いたような覚えがある。

そしてそれは彼女も同じなのだろう。お互い初対面にも関わらず、どうやら私のことをある程度知っているようであった。

 

それにしても、どこか不思議なウマ娘だ。

静かでゆっくりとした喋り方。大人しいといえば大人しいのだろうが、それは内向きというよりむしろ落ち着いているように思える。

歳はシリウスと同じぐらいか、やや下といったところだろうか。あの喧しいウマ娘と数日も寝食を共にしてきたぶん、なおさら彼女の静謐さが際立っていた。

草木いう程の存在感もなく、かといって道端の石という程には無機質ではない。そのどこか儚げな存在感は、柳の下に佇む幽霊かなにかを彷彿とさせる。

 

「……貴女の名前は伺っています。シンボリルドルフさん……ですよね?」

 

「うん、そうだけど……でも、大丈夫なの?こんな朝早くから一人でこんなところにいて。お家の方は?」

 

ここは病院ではない。

もっとも下手な病院よりも安全な場所かもしれないが、しかし彼女にとってはあくまで他人の家であることに変わりはない。

こんな小さな子供が、いくら見舞いとはいえ一人で来ていい場所には思えないが。

 

そんな私の懸念に、しかしどこか彼女は呆れたように首を振る。

 

「……問題ありません。母さんも私も、一昨日からずっとここにいますから。お客さんという扱いで……知りませんでしたか?」

 

「……知らなかった」

 

「まぁ……私も普段は自分の部屋にいましたし……ここに来るのは真夜中だけだったので仕方ありません。……貴女も、ずっと下の部屋にいたようですから」

 

「………」

 

彼女の言うとおり、私はここ数日間ずっと地下室に閉じ籠りっぱなしだった。

走ろう走ろうとぶうたれるシリウスをランニングマシンで適当に走らせておいて、そんな姿を見ても全く気力が湧かない。

 

昔みたいに意地を張っているわけでもなく。この前みたいに精魂尽き果てたわけでもなく。

純粋にやる気が出てこなかった。それを燃やすための燃料が枯渇しているかのようだった。

まるで心の中にぽっかりと、取り返しのつかない穴が開いてしまったかのようで。

それを不快に思う気持ちすらなかった。あるいは単純に、それを受容する機能すら麻痺してしまっただけなのかもしれない。

 

「……恐れているだけなのでは」

 

そんな私の内心を見抜いたのか。

マンハッタンカフェはやや上目遣いに、覗き込むかのように前髪の隙間から見つめてくる。

ゆらりと、椅子から垂れた尻尾が柳の枝のように揺らめいた。

 

「自分からなにかをして……その結果、またしてもそれが裏目に出ることに怯えている。失敗をしないためには……なにもしないことが一番だから」

 

「……」

 

初対面の相手に投げ掛けるには、あまりにも不躾なマンハッタンカフェの分析。

それでも怒りは込み上げてこなかった。それすらも麻痺してしまったか、あるいは心のどこかでその言葉の正しさを認めてしまっているのか。

 

「ここに来るのは真夜中だけって。貴女、ここでなにをしているの?医者でもないのに」

 

それでもなんとか舌を動かす。意図せず詰問するようになってしまったのは、私の余裕のなさの現れか。

その無理やりな話題転換に、しかし彼女は嫌な顔一つせずベッドの方に向き直る。

 

「……私がここにいるのは、兄さんの症状を押さえるためです。また勝手に出ていかれては困りますから」

 

「そんなことが貴女に出来るの?」

 

「私ではありません。……私の『お友達』がずっと見張っていてくれています」

 

「お友達?」

 

彼女の視線の先を辿る。

そこにはこちらに背向けて、ベッド横の丸椅子に腰掛ける一人の女性の姿があった。

 

長い髪を二つに分けて背中へと流している。

緑を基調としたアウターにフレアスカート。室内にも関わらず、ハンチング帽を目深に被っている。

頭頂部はすっぽりと隠れてしまっているが、かといって伸ばされた髪からはヒト耳の有無も判別出来ない。

これではヒトなのかウマ娘なのかよく分からないが、スカートから尻尾が覗いていないところを見るにきっと前者なのだろう。

 

私とマンハッタンカフェ、二人ぶんの視線を受けてその肩が僅かに震える。

女性は丸椅子に腰かけたまま、緩慢な動きでこちらの方を振り向いた。

 

「貴女がシンボリルドルフさんですね。お噂はかねがね承っておりました」

 

良く通る声に、遅すぎず速すぎず絶妙な加減の口調。

日頃から話し慣れているのが分かる。

 

暗い茶色の前髪の下で揺れる、深い緑色の瞳。

それは彼にそっくりだった。目深に下げられた帽子の鍔が顔に影を落としているせいで、その目元までははっきりと確認出来なかったが。

口元には微笑を浮かべているが、これは作り笑いだろう。彼女にとっての、よそ行きの表情というものかもしれない。

 

「貴女の名前は?」

 

「ああ、まず名乗り上げるべきでしたね。これは失礼致しました」

 

頭を下げる女性。

あわよくば帽子が落ちないかと一瞬期待したが、流石にそこまで抜けてはいないらしい。

 

それにしても、慇懃というかなんというか。

尚且つ無礼には受け止められない、紙一重の塩梅を心得ているように思える。

その発声術しかり、やはり体面が重要な仕事に就いているのだろう。アナウンサーかなにかだろうか。

 

「私、日本ウマ娘トレーニングセンター学園で理事長秘書を勤めさせて頂いております、駿川たづなと申します」

 

「トレセン学園の……」

 

彼女の名前よりも、その名に私は反応してしまう。

トゥインクル・シリーズへの出場と、そこでの勝利を目指すウマ娘にとっては無視できない単語だ。

そして、それはマンハッタンカフェにも同じことであったらしい。そわそわと、ウマ耳と尻尾を落ち着かなさげに揺れ動かしている。

 

そんな私たちの様子を見て、どこか楽しげに駿川たづなはその笑みを深くする。

 

「もしかしたら、数年後に皆さんとまたお会い出来るかもしれませんね」

 

「出来るよ。それまでに貴女が学園を辞めていなければ、の話だけど」

 

「ええ、本当に楽しみです。とはいえ、我が校の選抜試験はそう簡単ではありませんよ」

 

口では諌めるようなことを言いながら、しかしその目は私ではなくどこか遠いところを見ているかのようだった。

彼女自身、思い入れのようなものがあるのだろうか。生徒にせよトレーナーにせよそれ以外の職員にせよ、皆なにかしらの試験を突破して中央に籍を置いているわけだから。

 

それにしても、理事長秘書か。

それも理事長の側近というからには、かなり高位の職員ということになる。

学園には理事会こそあるが、その長たる理事長以外の役員の任期はせいぜい三年程で、URAからの出向が大半である……らしい。

故に、短期間の理事長不在時に代行を勤めるのは役員ではなく秘書なのだそうだ。そちらの方がよっぽど理事長の業務と学園について精通していることが理由だそうだが。

 

そんなトレセン学園の重鎮が、いったいどうして朝早くからこんな所に。

いや、用件は見れば分かる。彼の見舞いだろう。だけどその理由が分からない。

 

「なんでトレセンの理事長秘書が、あの人のお見舞いに……?」

 

駿川たづなにとって、彼はそこまで価値のある人物なのだろうか。

全くつながりが見えてこなかった。

 

私の問いかけに、駿川たづなはほんの一瞬、動揺したかのように目を細める。

とはいえそれもすぐさま取り直した。ベッドに横たわる彼の頬をそっと撫で上げる。

 

「この子の母親とは……昔から関わりがございまして。関係といえばそんなものです」

 

「ふぅん」

 

横目でマンハッタンカフェの様子を伺うが、やはり釈然としていない様子。

 

彼女の母親であるサンデーサイレンスは、同時に彼の育ての親でもある筈。

その繋がりと考えれば、見舞いに来るのも分からなくもないが……だとしてもこの時間帯はおかしいだろう。いくら今日が休日とはいえ、その立場を考えれば暇ではない筈だ。

そもそも見舞いというなら、彼が起きている昼間に訪れれば良いものを。それをこんな、人目を忍ぶかのように。

だいたい、サンデーサイレンスへの義理立てにしては、その娘であるマンハッタンカフェへの絡みも少なすぎる。

 

となると、駿川たづなの言う母親とは育ての親ではなく産みの親。血の繋がった生物学上の母親ということだろうか。

十中八九ウマ娘だろうし、仮にそれがかつて中央に所属していた競争バだったとすれば、たしかに彼女と繋がりがあってもおかしくない。

 

それにしても、昔からの関わり、か。

まるで今も生きているかのような口振りだな。

この状況を彼女が知っていて、母親が知らないというわけもあるまい。

 

「なら、ソイツにも見舞いに来るよう伝えといてよ。母親なら当然でしょ?だったら」

 

「……ええ、承りました」

 

駿川たづなはただ一言そう頷くと、最後にもう一度だけ彼の頬を撫でる。

そしてそのまま席を立ち、医務室の出口へと歩いていった。

 

「もう行っちゃうの?」

 

「はい、本日も仕事があるので。……あの子には、よろしくお伝えして下さらなくても結構ですから」

 

「変なの」

 

折角ここまで来たのに、自己紹介もなしに帰っちゃうなんて。

今さらながら、実は怪しい人物ではないかという懸念が頭をよぎる。後で母さんに報告しておこう。

 

奇妙な別れの挨拶を最後に、駿川たづなは部屋から出ていってしまった。

後に残されたのは私とマンハッタンカフェと、未だベッドで目を覚まさない彼の三人のみ。

椅子に腰かけたまま、ぶらぶらと脚を泳がせている彼女にも声をかける。

 

「貴女も帰らなくていいの?お友達、出ていっちゃったけど」

 

「……まるで、早くこの部屋からいなくなって欲しいような口振りですね」

 

マンハッタンカフェはゆらりと私に視線を戻し、やや不満げな声でそう呟くと、軽やかに床に降り立った。

実際、この後の作業を考えれば彼女にはあまりこの場にいて欲しくないので、出ていって欲しいことは事実なのだが。

 

「……まぁいいでしょう。貴女も、いつまでも桶を抱えたままでは辛いでしょうから……念のため、お友達はここに置いていきます」

 

「??」

 

置いていくといわれても、ここには私たち三人しかいないじゃないか。彼女が出ていけば二人きりだろうに。

 

話が飲み込めていない私を無視して、マンハッタンカフェもまた足早に扉へと向かっていく。

途中、医務室の隅に格納されていた車椅子を引っ張り出すと、それをこちらまで転がして寄越した。

 

「……もし、兄さんを移動させる場合にはそれを使って下さい。ベッドからの介助は……お友達がやってくれます」

 

そう言い残して、さっさと医務室を後にするマンハッタンカフェ。

扉の隙間から漆黒の尻尾がするりと抜けて、そのまま音を立てずに閉められた。

そうして彼女出ていった部屋は、とうとう私と彼の二人きり。

 

「……よし」

 

発憤興起。

私も私の仕事に取りかかかるとしよう。

 

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