シンボリルドルフに逆らえないトレーナー君の話   作:くまも

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木漏れ日の中で

 

医務室のベッドは簡素なものだ。

まぁ、病院でもないのだから当然と言えば当然だが。

とりあえず、側にあるデスクの上に水を溜めた桶を乗せる。

私の身長からすれば、そこよりも床の上に置いた方がなにかと都合がいいのだが、しかしこれから体を拭く水をそんな風に扱うのは少しだけ拒否感があった。

 

ベッドの反対側まで移動して、カーテンも全開にする。木々の間から降り注ぐ朝陽が、医務室の雰囲気を一気に和らげるかのようだった。

折角の良い天気なのだから窓も開けておきたいところだが、今が夏の真っ盛りだということを思

い出して止めておく。

一見春の陽気のごとき穏やかさだが、ひとたび窓を開ければとたんに熱せられた空気が空調の効いたこの部屋へと流れ込んでくるに違いない。

いくら夜が明けた直後といえども、到底快適からはほど遠いのだろう。

 

再びデスクの横にまで戻ってきた私は、縁に乗っけていたタオルを桶に沈める。そのまましばらく馴染ませた後、たっぷり水を含んだそれを力一杯に絞る。

そうして、ベッドに横たわる彼のシャツを脱がしにかかった。

既に歩くどころか立つことすら困難な彼にとって、排泄はまだしも風呂場での入浴は望めなかった。片足だけの不自由ならまだどうにかなっただろうが、流石に両足ともとなると勝手も違ってくる。

 

故に、こうして濡らしたタオルで体を清めるのが精々なのだ。

幸いこの部屋は冷房も効いているし、彼自身ほとんどベッドの上から動かないのでこれでも十分らしい。

その負傷もまた不可逆的なものではなく、時間さえ経てば自力で立つことぐらいは出来るそうなので、それまでの我慢ということだろう。

その間、彼の身の回りの世話をするのは専ら私の役割である。地下室でシリウスの相手をしてやる以外の全ての時間をここにあてていた。

別に誰に言われたわけでもなく、私が自ら望んでやっていることだ。この家には介助の技術を持つ者もいるし、なんなら母さんでも私よりは上手く出来るだろうが。

それでも私は、この役目を譲るつもりにはなれなかった。

 

ボタンを一つ一つ外していく。

どうせなら、もっと脱がしやすい服を着させておくべきだったと今さらながらに思う。

ただ厄介なことに、すぐに取り替えられるほど男物の服はここにはないのだ。ウマ娘が大半を占める珍しい家系故に、そもそも男の絶対数からして少ないのである。

父さんや兄さんの普段着を持ってきたところで、とてもじゃないが彼にはサイズが合わないだろう。

 

最後まで外し終えると、肌蹴たシャツの間から露になった上半身を拭いていく。

そっと胸の辺りに手の平をあててみると、ひんやりと冷たい感覚がした。水に浸けたタオルで触れたせいかと思ったが、どうやら彼の体温そのものらしい。

ヒトはウマ娘よりも体温が低い。なのでこうして直に触れると大抵このように感じるものだが、それを差し引いても彼は一段と冷たい気がする。

かといって無機質な感覚もない。その瑞々しい肌もあいまって、どことなく清流を閉じ込めているような印象がする。

この時期ならいつまでも擦りついていられそうだ。彼にとっては暑苦しくて堪らないだろうが。

 

名残惜しくも胸の張りつけていた手を離すと、代わりにふと目についたその下を指の腹でなぞる。

程よく浮き出た腹筋に沿って、胸郭から臍の横、腰の辺りまで。

 

「綺麗……」

 

白く、透き通るような肌だった。

その体温とあわせて、やはり冷たい印象がある。氷のようなとまで言うつもりはないが、それでも放っておけばいつの間にか消えて失くなってしまいそうな儚さがあった。

もう少しだけこのまま観察してみたい気持ちもあったが、しかしいつまでも裸のままでは風邪を引いてしまうだろう。

渋々ながら、その上半身を丁寧に拭き進めていく。

 

それにしても、今日の彼は中々目を覚まさない。

いつもならカーテンを開けるか、遅くともシャツのボタンを外しきった段階で瞼を上げるものなのに。

 

かといって無理やり叩き起こすものでもないので、とりあえずそっとしておく。

むしろ寝ていてもらった方が、気恥ずかしさもなくてやりやすいのだ。

こういうのは一人で黙々とやるに限る。マンハッタンカフェに出ていってもらいたかったのもそれが理由だ。誰かに見られていると、なんだかいけないことをしている気分になるから。

 

「終わった……」

 

とりあえず、上半身は拭き終わった。

脱がしたシャツは……まぁ、このままでいいだろう。私たちの体格差を考えると、脱がすのはともかく、着させるのは中々に大変だ。少なくとも起こさずに作業するのは不可能だろうし。

幼くともウマ娘である私にとって、この程度の仕事で肉体的な疲労を感じることはない。

とはいえそれなりの重労働であることに違いはなく、私はどこかやりきった満足感と共に一歩引いて彼の姿を眺める。

 

男性としては小柄で、線の細いという感想は初対面の頃から変わらない。

上背のある兄さんとは比べるべくもなく、母さんより少しだけ背丈がある程度だろう。170を僅かに上回る程度だろうか。

それでもとりたてて小さいわけではないだろうから、そのイメージに大きな割合を占めているのはやはり顔立ちと輪郭だろうか。それらが実態以上に華奢な印象を植え付けているということか。

ただし、こうして脱がしてみるとその印象もまた変わってくる。想像以上に筋肉質というか、限界まで引き絞られている。

なにかを抑え込んでいるようだなと、まるで補強ではなく拘束具のように思える肉体。着痩せするタイプだったのだろう。

 

まぁ、鑑賞会はこれくらいにしておいて。

いい加減続きをしなければ。といっても、いつもならとっくに起きている段階なので、この先なにをしたらいいのかいまいち分からない。

そろそろ起こせばいいのだろうか……いや、折角だから下の方もやってしまおう。どうせ寝てるんなら同じことだ。

そういえば、男性は寝起きに下を覗かれると困ると聞いたこともあるが。だけどそんなの、上を剥いた時点で今さらだろうし。

 

そう思ってズボンに指をかけた瞬間、伸びてきた腕を掴まれて制止される。

見上げると、いつの間にか身を起こしていた彼が呆れ顔で私を見下ろしていた。

 

「油断も隙もないな」

 

「知らない。いつまでたっても起きない方が悪いんでしょ。お寝坊さん」

 

挨拶代わりにタオルを放り投げてやる。

彼は難なくキャッチすると、それで顔を拭いて桶のなかに沈めてしまった。

そのまま慣れた様子で脱がされたシャツを着直している。どうやら私の役目はこれにておしまいらしい。

 

だからといって、このまま大人しく引き下がるつもりもなかった。別に私は侍女でもなければ看護師でもないのだし。

彼の腰の上に跨がる格好のまま、ぼすんとその胴の上に倒れ込む。しばらくそうして胸に顔を埋めていると、なにやら頭のてっぺんをあれこれと弄られてしまう。

 

「なに」

 

「いや、この流星どうなってるのかなって。いまいち生え際がよく分からないな。黒い部分と白い部分の境目はどうなっているんだが」

 

「なんでもいいでしょ。放っておいて」

 

ぶんぶんと頭を振って、彼の指を追い払う。

私の流星の生え際はちょうど両耳の付け根にも近い。その為か、そこで遊ばれるとくすぐったくて仕方がないのだ。

彼もそのことを分かっている筈なのに、それでも私のつむじに対する探求心を手放すつもりはないようだった。

 

「そんなに流星が気になるならシリウスで遊べばいいじゃん。あれも大概不思議な構造でしょ」

 

「まぁ、不思議といえば不思議だろうが。だけどあんまりここに来ないからな」

 

「私の部屋から出ようとしないからね。ずっとあそこで五月蝿くしてる」

 

そう言えば、シリウスはマンハッタンカフェたちに会ったことはあるのだろうか。

お互い一つ屋根の下にいるにも関わらず、彼女らの行動範囲はほとんどどころか全く被っていない。

大人しそうなマンハッタンカフェはともかくとして、シリウスはそのもて余した元気を必然的に同居人である私で発散することになるから、とにかく騒々しくて仕方がなかった。

 

「ルナが外で走ってやれば、シリウスもついてくるとは思うんだけどね」

 

「………」

 

「何故そうしない?」

 

胸からわずかに顔を離し、少しだけできた隙間からその表情を確かめる。

 

問い質すような口調に反して、彼は穏やかに微笑みながら私の頭を撫でてきた。

その手の邪魔にならないよう耳を寝かせ、心地よい感触に目を細目ながら、私は意を決して胸のつっかえを口から漏らす。

 

「怖いの。これ以上、私のやることが逆目に出るのが」

 

"全てが私の理解の範疇にあるとは限らない"……以前、彼が諭した言葉だ。

だけど、ここまで思いもよらないことがあることは知らなかった。なにもかも私の行動に起因し、その全てが裏返ってしまった。

 

最早、なにをする気にもなれなかった。

能動的に物事を為すのが怖い。暗闇の中、奈落へ踏み外す可能性に怯えて歩くぐらいなら、この場で蹲って震えている方がまだマシに思えた。

さっき誰かが言った通り、失敗しないためにはなにもしないのが一番だと分かったから。

その失敗の代償を支払うのが、自分だけとは限らないことを知ってしまったから。

 

「それでも、前に進まなければなにも得られないだろう。初めて会った時の君がそうだったように」

 

「それで、あの部屋からルナを外に出して。それで貴方はどうなったの」

 

なにを得られたというのだろう。ただ失っただけじゃないのか。

それでもなお、貴方は私に歩き続けろと言うのだろうか。

 

彼は小さくため息を溢すと、私の頭から手を離して代わりに両肩に手を置いた。

そのまま少しだけ背中を曲げて、ベッドの上で膝立ちになる私の顔を、視線を合わせるように覗き込んでくる。

 

「一昨日からずっと、ルナは私の身の回りの世話をしてくれていたけれど」

 

「うん……」

 

「それは贖罪のつもりか?罪滅ぼしのためだったのか。だとしたら、そんなものは必要ない。アレは事故だった」

 

「そんな、簡単に割り切れるとでも」

 

「割り切らなくちゃいけないんだよ。将来、ルナが目指す道の先には、きっとこれ以上のことが待ち受けている。君は他ならぬ君自身の脚によって、他の誰かの夢を汚すんだ」

 

勝負の世界において、それは決して覆すことの出来ない理である。

私が頂点を目指すというなら、その後ろに積み上がる夢の屍はいったいどれ程になるだろう。

 

「君に足りないのは"非情さ"だった。かつてあのスタジアムで潰したウマ娘に対しても、そして今の私に対しても。あれは勝負の結果だったと、事故の結果だったと割り切らなければならなかった」

 

あるいは、それは覚悟と呼ばれるものなのかもしれない。

それはきっと、私が皇帝として勝ち続けるために絶対に欠かせないもので。

 

「だから、君は歩き続けなければならない。潰してきた彼女たちのぶんまで、そして私のぶんまで……それが、勝者としての義務だろう」

 

「……」

 

「だからもう振り向くな。君には他者を蹂躙する覚悟を知る必要がある……それが今だ」

 

でなければ、きっと私は潰れてしまう。

他ならぬ自分自身のためだけに、たとえ親友ですら地獄に叩き落とす覚悟がなければ、きっと。

奪うことを恐れていたシンボリルドルフから、今こそ決別しなければならない。だけど、そんなのどうやって。

 

彼は私をベッドから抱き下ろすと、離れた場所に畳んで置いてある車椅子を指差した。

 

「そろそろ外に出るから、そこの車椅子を使いたい。悪いけど、手を貸してくれないか」

 

「あ……うん」

 

慌ててそれを展開し、転がして側まで寄せる。

とはいえ、上半身だけでベッドから乗り移るのは無理だろう。

仕方なく彼の腕を肩にまわし、慎重に膝へ私の腕を差し込んで持ち上げる。重さは問題ないとして、体格の違いからバランスを崩さないかと肝を冷やしたが、思いの外あっさりと動かすことが出来た。まるで、誰かが支えてくれているかのように。

 

しっかりと奥深くまで腰かけたことを確認すると、私は車椅子のハンドルを握る。

彼自身でタイヤを回すことも可能だが、これもやはり私自身の手で行いたかった。

それもまた、さっき彼が言った通り贖罪のためか。あるいは単純に独占欲の発露だったのかもしれない。

 

「どこまで行けばいい」

 

「とりあえず廊下まで。扉を開ければすぐに分かるだろう」

 

分かった、と返事をして私は車椅子を押していく。

しかし、いきなり外に出たいとはどういうことだろう。これまでベッドから降りたのはトイレに行く時だけだったが、だとするとそれに私を付き添わせるのはおかしい。

そろそろとか言っていたから、この外出は予め決められた予定だったのだろうか。

 

ドアを引き、車椅子を先に部屋から出す。

それに続いて、私も廊下へ出た先には――――

 

「おう。ようやく起きたか寝坊助」

 

「えっ……」

 

両手をポケットに突っ込んで、アメを口の中で遊ばせているサンデーサイレンスの姿。

それだけじゃない。彼女の背中に隠れるように立っているマンハッタンカフェと、それに絡んでいるシリウスの姿。さらにその後ろには、壁にもたれてウマホを弄る姉さんの姿もある。

朝っぱらから、こんなに大勢が顔を揃えて一体なにを。

 

「っし。んじゃ行くかァ。ちゃあんと椅子引っ張ってこいよシンボリのチビ」

 

コキコキと首を鳴らしながら、彼女は気だるげに私たちへと背中を向けて歩き始めた。

後ろの集団もそれに続く。呆けていた私も慌てて彼女たちへと従った。

 

「行くって……どこに?」

 

「俺ん家に決まってンだろ。あァ……なら帰るっつった方が正しかったかもな」

 

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